逆順でたどる平安京の天皇たち
77代 後白河天皇 希代の策士
後白河天皇の文化的功績は、「梁塵秘抄」の著作に見られるように、「今様」の第1人者である事だ。8代勅撰集に見られるような「歌(和歌)」よりも数段低い位置づけの「今様」をメジャーに押し上げた。
親王時代、皇位継承の可能性が全くなかった後白河は、「遊びをせんとや生まれけん」とNHK大河ドラマに何度も出て来たが、遊びまくった。今様とは現代で言う「歌謡曲」である。庶民の中で流行ったものを、宮中で流行らせた。五木ひろしや郷ひろみの歌を、秋篠宮が日夜カラオケで歌うようなものだ。現に後白河は、『「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」(梁塵秘抄口伝集)現代訳』と、自ら語っている。もはや中毒状態だ。それを見て、父後鳥羽は、「即位の器量ではない」(愚管抄)と酷評している。平治物語でも、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と、兄の崇徳天皇からも蔑まれている。
NHK大河ドラマより(崇徳上皇横死の場面)
その遊び相手は、貴族にとどまらず遊女や傀儡など庶民の底辺にまで及んだ。(案外、世間の情報に詳しかったのはこのような情報源があったからか?)
また、因みに、後白河は「片頭痛」持ちであった。法住寺殿に建てられた蓮華王院(三十三間堂)で毎年行われる「柳枝のお加持」は、特別な秘法を行った柳の枝に水を浸し、患者の(信者)の頭上に振りかざす秘法だ。これは、後白河の頭痛平癒の祈祷が原点となっている。また、近くの今熊野観音寺でも「頭痛封じ」を行っている。
後白河は、今様を徹夜で歌う日々を送りながらも頭痛に悩んでいた。「遊びをせんとや生まれけん」と、能天気に過ごす時にも政局を考え、自らの政権の維持に悩み次の一手を考えていたのかも知れない。
なお、皇女・皇子は記録上は、18名ほどだが庶民レベルの女性を相手に「鬱憤」と「お種」を振り撒いたと思う。
(最後は妄想です。)
次回は、76代 近衛天皇 へ