アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

324 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 100代 後小松天皇 南朝を欺いた南北朝統一 

2018-03-26 13:30:39 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

100代 後小松天皇 南北朝統一

とうとう、南北朝時代にまでさかのぼって来た。これより北朝の天皇をたどるか、正統の南朝をたどるか悩ましい。

さて、後小松天皇。

以前から小松天皇はいないのになぜ、後小松?って思っていたが、小松は、光孝天皇の異称であると分かった。光孝天皇はその子の宇多天皇そして醍醐天皇と続き、その追号は、自らの血統を長く続けたことでその尊敬と憧れの気持ちが込められていると推察する。

後円融天皇  母 三条厳子(因みに義満正室と姉妹)

l  在位中元号

l  永徳・至徳・嘉慶・康応・明徳・応永・

l  生年・崩御

l  1377年8月1日 ~ 1433年12月1日

l  在位

1382年 5月24日~1392年11月19日(北朝)

1392年11月19日 ~1412年10月5日(合一後)

l  朝廷

l  京都御所 土御門高倉殿 土御門殿 土御門東洞院

 後宮

日野西資子

l  皇女・皇子

l  5名

l  先代

l  後円融天皇

l  次代

l  称光天皇

l  陵墓

l  深草北陵

即位は異例な事で、義満の室町御所(幕府)で行われた。すべての事が三代将軍義満の掌(たなごころ)のままであった。この天皇から「即位灌頂」という儀式が慣例となっている。「灌頂」というからには真言密教の儀式だ。決められた印を結びその後登極する(高御座に上がる)儀式で、神式の天皇家には異例だが、三種の神器が揃わないという異例なこの時期にそれに代わる天皇の権威付けをするためのものと言われる。

当時6歳の後小松は、院政の父後円融上皇の意のままで、その後円融上皇は義満の意のままであった。残念ながら南北朝統一も天皇の業績ではなく、義満の最後の政治課題であった為だ。

南朝に示した統一の条件は、①三種の神器を譲る事(国譲り)②大覚寺統、持明院統の交互即位、であった。①で明らかなのは南朝を正統としたことで、その事は大きい意味を持つ。南朝の後亀山天皇はそれを認めて天龍寺に入った。しかし、年号は、南朝の「元中」を廃止し、北朝の「明徳」が継続したので事実上の南朝滅亡である。しかも再び大覚寺統の天皇が即位する事は今日に至るまでない。

要は、騙されたのである。

時代は室町幕府の絶頂期と重なる。有名な、「明」の使者が日本国王としたのは足利義満だった。この事から義満が皇位簒奪を企てたと後世の歴史家は見ている。いずれにしても弓削道鏡以来の皇統の危機であった時代だ。

Portrait of Ikkyū by Bokusai.jpg一休宗純

因みに、大徳寺住職一休宗純は、その御落胤とされている。その所縁のお寺「酬恩庵」には、菊の御紋章のついた御廟がある。

私は、晩年の、一休さんの性欲の強さから天皇家の血筋と確信している。

一休さんは70歳を超えてから「森女」という盲目の若い女性を愛した。その時の淫靡な漢詩を以前紹介したが、現代語訳するのもはばかれるほどすさまじい。

 

それは狂雲集という書物に書き残している。狂雲は、一休の号。とんち話は死後、「群書類従」で話題になったものである。




次は、南朝に行くか?北朝に行くか?一晩考える。


 

 

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323 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 101代 称光天皇 薄幸の天皇 

2018-03-26 13:30:39 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

101代  称光天皇 病弱?

 「称光天皇」の画像検索結果「絶倫天皇」の画像検索結果左が、称光天皇。右は絶倫天皇(桓武天皇)。

後小松天皇  母 藤原資子

l  在位中元号

l  応永・正長・

l  生年・崩御

l  1401年 5月12日 ~1428年8月30日

l  在位

l  1412年10月15日 ~1428年8月30日

l  朝廷

l  京都御所 土御門高倉殿 土御門殿 土御門東洞院

 

記載なし

l  皇女

l  2名

l  先代

l  後小松天皇

l  次代

l  後花園天皇

l  陵墓

l  深草北陵

 

自らの血統を残せなった天皇は、病弱で奇行多い天皇とされることが多い。兄弟姉妹に皇位を譲る事が出来ればまだ良いが、いとこやそれ以上さかのぼっての皇統に引き継ぐ場合は、新血統の正当性を主張したい余り、前天皇を貶める事が多い。

神代では、武烈天皇がその例だが、平安以降でも冷泉や陽成などいくつかその疑いがある。

歴史は、今目の前にいる権力者の為に書かれるものである。

今回の、称光天皇は後光厳天皇の直系だが、その父光厳帝まで遡り8親等離れた伏見宮に引き継がざるを得なかった。

 「義持」の画像検索結果足利義持

後小松天皇の第一皇子であったが、生来の病弱ですぐに第二皇子の小川宮を後継者に決めていた。その事で父後小松上皇とはずっと不仲だったようだ。

その間、朝廷内部を調停したのは室町第4代将軍義持である。まだ幕府や将軍がしっかり権力と信頼を得ていた時代であった。残念ながら称光天皇に業績的な記録はなく、以下の話が伝わるのみだ。

太刀や弓を好んでいた為、金のムチで女官や近習をしばしば打ち据えた。17歳の時、愛した内侍が妊娠した時、自分の子ではないと言い張った。いずれも大罪ではないが天皇の奇行としては残念な話だ。

いずれにしても、後継者を生ませることを唯一の目的に生殖活動を求められる天皇が、さほど性欲の強くない場合どれほどのストレスか?凡人で性欲ありながら配偶者以外の女性に恵まれない我々凡人男性には理解できない。

「性交不能」の画像検索結果

なお、追号は、48代称徳天皇 49代仁光天皇から一文字ずつ取っている。

次は、一休さんの父? 後小松天皇

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322 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史  箸休めの雑感 加後号

2018-03-24 09:40:05 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇

ここで、箸休め。加後号。

天皇と後〇〇天皇というのを並べて見た。実に26例ある。52名の天皇だから、平安以降75名中52名の天皇が加後号に関わる。

 

50 桓武天皇かんむ104 後柏原天皇ごかしわばら
51 平城天皇へいぜい105 後奈良天皇ごなら
52 嵯峨天皇さが88 後嵯峨天皇ごさが
53 淳和天皇じゅんな111 後西天皇ごさい
54 仁明天皇にんみょう89 後深草天皇ごふかくさ
55 文德天皇もんとく
56 清和天皇せいわ108 後水尾天皇ごみずのお

後水尾(左)清和(右)
57 陽成天皇ようぜい107 後陽成天皇ごようぜい
58 光孝天皇こうこう北朝6(100) 後小松天皇ごこまつ
59 宇多天皇うだ
60 醍醐天皇だいご96 後醍醐天皇ごだいご

「後醍醐」の画像検索結果後醍醐(左)醍醐(右)
61 朱雀天皇すざく69 後朱雀天皇ごすざく
62 村上天皇むらかみ97 後村上天皇ごむらかみ
63 冷泉天皇れいぜい70 後冷泉天皇ごれいぜい
64 圓融天皇えんゆう北朝5 後圓融天皇ごえんゆう
65 花山天皇かざん
66 一條天皇いちじょう68 後一條天皇ごいちじょう
67 三條天皇さんじょう71 後三條天皇ごさんじょう
72 白河天皇しらかわ77 後白河天皇ごしらかわ
73 堀河天皇ほりかわ86 後堀河天皇ごほりかわ
74 鳥羽天皇とば82 後鳥羽天皇ごとば
75 崇德天皇すとく
76 近衞天皇このえ
78 二條天皇にじょう94 後二條天皇ごにじょう
79 六條天皇ろくじょう
80 高倉天皇たかくら
81 安德天皇あんとく
83 土御門天皇つちみかど103 後土御門天皇ごつちみかど
84 順德天皇じゅんとく
85 仲恭天皇ちゅうきょう
87 四條天皇しじょう
90 龜山天皇かめやま99 後龜山天皇ごかめやま
91 後宇多天皇ごうだ
92 伏見天皇ふしみ93 後伏見天皇ごふしみ
95 花園天皇はなぞの102 後花園天皇ごはなぞの
98 長慶天皇ちょうけい
北朝1 光嚴天皇こうごん
北朝2 光明天皇こうみょう110 後光明天皇ごこうみょう
北朝3 崇光天皇すこう
北朝4 後光嚴天皇ごこうごん
101 稱光天皇しょうこう
106 正親町天皇おおぎまち
109 明正天皇めいしょう
112 靈元天皇れいげん
113 東山天皇ひがしやま
114 中御門天皇なかみかど
115 櫻町天皇さくらまち117 後櫻町天皇ごさくらまち
116 桃園天皇ももぞの118 後桃園天皇ごももぞの
119 光格天皇こうかく
120 仁孝天皇にんこう
121 孝明天皇こうめい
122 明治天皇めいじ
123 大正天皇たいしょう
124 昭和天皇しょうわ
125 今上天皇

 

 

先日天皇の名前、追号について書いたが、追号には他に加後号がある。後〇〇天皇という場合だ。

 このような追号を付ける場合、大きく三つのケースがありそうだ。

親子・祖父の場合尊敬を込めてつけると皇統の正当性をアピールできる。桜町・後桜町、桃園・後桃園が直近で分かりやすいケースだ。

右、後桜町は女帝。

次に多いのが、業績への憧れである。後醍醐天皇は、延喜・天暦の治(藤原氏の摂政を置かない天皇親政)の醍醐・村上天皇に憧れて生前から追号を決めていた。後白河天皇も長期にわたる院政を敷いた白河天皇に憧れたと思う。

そして、離宮やゆかりの場所が同じケースで、後水尾天皇(水尾は清和の別称)は、右京の地、水尾を好んでいた。

すべてにわたり解説する知見は筆者にはないが、平城・後奈良や陽成・後陽成など理解不能のものもある。

また、桓武・後柏原や、仁明・後深草、淳和・後西など異称(別名)が分からないと加後号と分からないものもある。

それにしても加後号の多い事。このようにして皇統の継続についての強い思いと、先人の苦労がうかがえる。

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321 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 102代 後花園天皇 中興の英主 

2018-03-23 08:34:53 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

102代 後花園天皇  中興の英主

 

伏見宮貞成親王  母 庭田幸子

l  在位中元号

l  正長・永享・嘉吉・文安・宝徳・享徳・康生・長禄・寛正

l  生年・崩御

l  1419年7日10日~1471年1月18日

l  在位

l  1428年9月7日 ~1464年8月21日

l  朝廷

l  京都御所 土御門高倉殿 土御門殿 土御門東洞院

 

記載なし

l  皇子・皇女

l  計4名

l  先代

l  称光天皇

l  次代

l  後土御門天皇

l  陵墓

l  後山國陵

 

南北朝時代は、100代後小松天皇の時に、北朝(持明院統)に統合することで解決されたが、その後、101代称光天皇から102代後花園天皇までは、旧南朝方(大覚寺統)が、まだその皇位奪還を目論んでいた時代だ。

しかしその後、南朝方の動きが歴史上なくなる。後深草天皇から始まる持明院統の正嫡に戻ったこの天皇は、中興の英主と称えられている。

先代称光天皇からは、八親等離れた親王の登場だったが、この血統が現在の今上陛下につながる。

中興の英主に称えられるその理由は、南北朝の騒乱の中で混乱を極めた三種の神器が、この時も、嘉吉3年に禁闕の変で南朝方に奪われる。しかし2年後南朝方から奪い返し、ここに完全に三種の神器が揃いその後現在の今上陛下まで伝えられている。

さらに、この時期から世情怪しく、土一揆や〇〇の変、〇〇の乱などが頻発する。それに対して治罰綸旨をしばしば発する。幕府に鎮圧するように命じる天皇の命令書のようなもので、結果天皇の権威高揚につながった。

Ashikaga Yoshinori cropped.jpg嘉吉の政変で殺害される義教

そして、晩年自らの不徳(帝王不徳の責)を理由に出家をした。世間は、幕府(足利義政)の無責任さに対してこの天皇を称えたという。

しかしその後も、奢侈に明け暮れる義政に対して漢詩をもって諷刺したエピソードが残る。文化的な功績も多く残し薨去後、京都京北の常照皇寺(山國陵)に葬られる。

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320 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 103代 後土御門天皇  避難先で密通??

2018-03-22 08:08:20 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

103代 後土御門天皇 享楽から悲惨への激変天皇

 「後土御門」の画像検索結果

後花園天皇 母 大炊御門信子

l  在位中元号

l  寛正・文正・応仁・文明・長享・延徳・明徳

l  生年・崩御

l  1442年7日 3日~1500年10月21日

l  在位

l  1461年8月21日~1500年10月21日

l  朝廷

l  京都御所 土御門東洞院

 

記載なし

l  皇子・皇女

l  計12名

l  先代

l  後花園天皇

l  次代

l  後柏原天皇

l  陵墓

l  深草北御陵

 

まさに応仁の乱のさなかに在位していた天皇だ。前半生は、足利将軍家との関係も良い。

天皇―義政―日野富子の蜜月ラインが、記録に残っている。戦乱の前半は、京都御所から避難し義政の室町御所に長く一緒に過ごしていた。ただ、その間義政とはしばしば酒宴を共にして、避難生活とは程遠い楽しそうな日々であった事が記録に残っている。

「義政」の画像検索結果「日野富子」の画像検索結果義政(左)日野富子(右)

さらに、この天皇飛んでもない事件を起こしている。室町御所で、いわば居候の身でありながら、日野富子付きの女房(花山院兼子)と密通をし皇女を生ませている。

通常、館の主人の女官・女房との密通は、厳罰に処されるのが通例だが、身分の違いが甚だしく不問にされた。

そもそも天皇を処罰する「法」などあるのか?生殖能力を最も望まれるお立場の方は、どこにいても「お種」をばらまくのである。

 

そして、晩年は悲惨である。晩年ではなく「崩御後」、である。享年58歳は当時では平均的な年齢で不自然なところはないが、何と、ご遺体がそのまま40日間放置されている。理由は、葬儀の費用がない事である。さらに、次期天皇の践祚式もその後22年間出来なかった事は前回書いた。

応仁の乱前半頃と、その後の急激な荒廃ぶりがうかがえる。

当時、天皇の崩御はタブーで、生前譲位が慣例であった(譲位した後に亡くなった事にする為、すぐには崩御を発表しないことも多かった。)が、このケースは異常事態だ。

「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉(霊柩黒戸にあること四十余日、玉体腐損し、虫湧出し、古来未曾有)」

と、ある古文書に残っている。ただ玉体の損傷状況を記録にするのは不自然であろう。

水銀による防腐処置技術はあったが、使われることはなかった。因みに、現在天皇は土葬が原則だが、仏教信仰が深い天皇については火葬の時代もあったようだ。明治以降国家神道を進めるに当たり天皇は土葬とされた。

「応仁の」の画像検索結果

このように、前半の幸せと死後の御不幸が明暗はっきりした天皇であり、応仁の乱が皇室や天皇に如何に大きな影響を及ぼしたか、ここ数回でよくわかった。

未だに、京都市民が「先の大戦」の事は、「応仁の乱」の事だと言うのは冗談でもない。

次は、102代 後花園天皇。

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