アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

番外 皆さん! 冷静になろう。「日大アメフト部の問題、記者会見は良かったのか??」

2018-05-23 07:47:55 | 日記

日大のアメリカフットボール選手の会見を、どう見るべきか?世間の同情は完全に同選手に集まり、一方日大のアメフト部の監督は大学の要職やすべての権限を剥奪されることはまぬかれない。場合によっては刑事責任を問われる事になるかも知れない。

「日大 アメフト」の画像検索結果

しかし問題の本質を見逃してはならない。二十歳になった青年をあのような大々的な会見で顔を晒させる世の中が正しいのか?マスコミによる集団リンチになりかねないのだ。これを前例に悪事と償いの関係が一致しない時代が来るのかもしれない。法律に基づいて裁かれる以外に我々は人を裁いてはならないのではないか?政治家や有名人でも常軌を逸したマスコミによる集団リンチはエスカレートするばかりだ。この傾向はSNSの炎上が後押ししているものと思われる。むしろ記者会見の態度や言い回しの上手い下手が評判となり、当該人間の評価を左右する。

「日大 アメフト」の画像検索結果「会見」の画像検索結果「会見」の画像検索結果

それで良いのか?

我々は事件であれば真相究明は裁判に委ねるし、第三者機関の活用もあり得る。あのようなマスコミリンチでその時の印象に左右されるのは本当に良いのか?

「会見」の画像検索結果この人は論外。

声を大にして言いたい!

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367 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 68代 後一条天皇 藤原氏の謀略の数々?

2018-05-22 15:22:15 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

68代 後一条天皇 藤原氏全盛へ

「後一条天皇」の画像検索結果

第68代天皇

在位期間
1016年3月18日 - 1036年5月15日

元号

長和寛仁治安万寿長元

先代

三条天皇

次代

後朱雀天皇


誕生

1008年10月12日  土御門殿

崩御

1036年5月15日   清涼殿

陵所

菩提樹院陵

敦成

父親

一条天皇

母親

藤原彰子

中宮

藤原威子

子女

章子内親王  馨子内親王

 クリックすると新しいウィンドウで開きます

上記ご覧の通り後一条天皇は、生まれながらにして藤原摂関家に囲まれている。

父一条天皇の皇后(即ち実母)は、道長の長女である。28歳上の父、20歳上の母は現代でも違和感はない。しかし、皇后は、道長の三女威子、叔母との結婚であり、8歳上の相手との結婚である。因みに弟の後朱雀天皇の皇后も、同じく道長の6女の嬉子でありやはり叔母と甥の結婚である。政略結婚そのものであるが、この時点で、道長の絶頂を迎える。

「冷泉天皇」の画像検索結果「円融天皇」の画像検索結果

ここで一つの悲劇を紹介する。ここまで天皇の継承は、63代冷泉天皇と64代円融天皇の両系統の交互即位を守って来た。後の大覚寺統と持明院統の両統交互継承と同じだ。従って、円融天皇直系の後一条天皇の皇太子には、冷泉天皇系の三条天皇の皇子敦明親王が立太子することになった。

しかし道長との血縁関係が薄い敦明親王には一向にその手続きがなされない。

 「小一条院」の画像検索結果敦明親王

これは、62代の村上天皇の第一皇子の広平親王が天皇になれず、弟君の冷泉天皇が即位した。これは、広平親王の父藤原元方と、冷泉天皇の父藤原師輔との政治的対立の結果であるが、その後の冷泉、花山、三条と心身の異常や病弱の天皇が続き、それは定方の怨霊の仕業と言われた。勿論、道長の政権独占の為の謀略だが、敦明親王は身の保全のため自ら引退し小一条院と申した。結果、今後の皇統は円融帝の血統に限られる事になる。

道長の思惑通りすぐに後一条天皇の皇太子に弟の後朱雀天皇に決定した。このように道長とその子頼通に翻弄されただけの人生であった。

この時代には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬまま、29歳で崩御した。『栄花物語』によると飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられている。これも何かの怨霊の仕業か?

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366 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 69代 後朱雀天皇 付録 日大監督事件

2018-05-21 08:57:00 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち    の前に・・・。

「日大 アメフト ...」の画像検索結果ピンクのネクタイも問題?「日大 アメフト ...」の画像検索結果

関学を(かんさい学院)と、言ってはならない。(かんせい学院)と、言わなければならない。まして、名門日本大学の常務理事の要職の立場にある方であれば重罪だ。しかも、すでにアメフト暴力タックル事件での当事者責任も問われている最中だった。

自らは、すでに人生の成功者であるにも関わらず、これから人生の門出に向かう学生を擁護しない人格の欠陥性はどのように考えれば良いのか。アメフトという一競技の問題だったが、昨日を境に学生スポーツ全体と「日本大学(にほん大学か、にっぽん大学か間違ってはならない。)」 の、存続を危うくしている。

筆者も決して善人ではないが、彼のような性根の腐った悪党はすでに極道の世界にもいない。その世界では、子分の不祥事は親が、指を(ツメル)落とす。

さて、

69代 後朱雀天皇 道長と頼通に翻弄された。

「後朱雀天皇」の画像検索結果

第69代天皇

在位期間
1036年5月15日 - 1045年2月5日

元号

長元長暦長久寛徳

先代

後一条天皇

次代

後冷泉天皇


誕生

1009年12月14日土御門殿

崩御

1045年2月7日東三条殿

陵所

圓乘寺陵

敦良

別称

精進行(法名)長暦帝

父親

一条天皇

母親

藤原彰子

皇后

禎子内親王

中宮

藤原嫄子

女御

藤原生子藤原延子

夫人

藤原嬉子

子女

後冷泉天皇後三条天皇良子内親王娟子内親王祐子内親王禖子内親王正子内親王

皇居

東三条殿

上記、皇居の欄に注目したい。この時代平安宮はすでにない。しかも現在の御所もまだ出来ていない。では、皇居とはどこだ?

答えは、天皇がいるところが皇居だ。

後朱雀天皇の皇居は、東三条殿となっている。次の後冷泉天皇は高陽院(かやいん)であった。

「寝殿」の画像検索結果神殿造りの里内裏

東三条殿とは、藤原道長の邸宅だ。元は兼家の邸宅として建てたものを道長が相続した。藤原氏など有力者の女子を中宮にした場合その皇子が天皇になった場合その住まいが皇居となる。それを「里内裏」という。このように当時は、天皇の時代によって里内裏が点々とする。室町時代に光厳天皇が現在の御所に定着するまで、このような状態が続く。

さて、後朱雀天皇は、前回に続き書きにくい。

 クリックすると新しいウィンドウで開きます

この系図を見るとすぐ分かる。道長の子女の彰子が太皇太后、姸子が皇太后、威子が後一条の中宮、その妹の嬉子が後朱雀の中宮だ。このお二人の天皇は、叔母と甥の関係で結婚している。(現代で言えば おばさんと 結婚さされた御曹司)

かなりの無理があった訳だが、「この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けたることも なしと思えば 」と謳った絶頂期の事だ。

天皇自身の功績はどの書籍にも特に記載がない。

次回は、さらに書きにくい 後一条天皇。

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365 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 70代 後冷泉天皇

2018-05-19 12:54:07 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

70代 後冷泉天皇 藤原道長・頼通全盛期の帝

「後冷泉天皇」の画像検索結果

遂に、70代の節目に達した。50代桓武天皇まであと20人。6月中に終了することになる。その後は本来の観光日誌に戻りたいが、ネタが尽きて来た。

さて、後冷泉天皇。 誠に書きにくい天皇だ。

第70代天皇

在位期間
1045年4月27日 - 1068年5月22日

元号

寛徳永承天喜康平治暦

先代

後朱雀天皇

次代

後三条天皇


誕生

1025年8月28日

崩御

1068年5月22日 高陽院

陵所

圓教寺陵

親仁

父親

後朱雀天皇

母親

藤原嬉子

皇后

藤原寛子藤原歓子

中宮

章子内親王

子女

皇子 高階為行

皇居

高陽院

母が、藤原嬉子(道長の娘)、皇后は藤原寛子(頼通の娘)。ここまで書いてその後を書く気にならない。想像頂けると思うが、実権はこの天皇にはなかった。まさに藤原家が、「望月」の絶頂の時代だ。

藤原氏が「荘園」を独占し続ける中で、皇室の財政は困窮していた。即位後すぐ荘園整理令を発布するが、藤原家に骨抜きにされる。

Fujiwaranomichinaga.jpg道長

この天皇の最大の功績は、皇后寛子との間に皇子を作らなかった(出来なかった)事だ。生殖が最大の義務である天皇が、男子誕生がなかった事が功績とは?

結果、藤原摂関家から外祖父の地位を奪った。天皇家親政が始まる。

それ以外に特筆すべきことが無い。冷泉天皇という猟奇?の天皇の贈名をもらっている事も気の毒に思う。

以上、今回はこの程度でご勘弁を頂く。

陵は、龍安寺内にある圓教寺陵に治定されている。次回は、69代 後朱雀天皇。

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364 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 71代 後三条天皇 摂関家に姻戚関係ない天皇

2018-05-18 10:13:34 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

71代 後三条天皇 摂関家から離れて親政を行った

在位期間
1068年5月22日 - 1073年1月18日

元号

治暦延久

先代

後冷泉天皇

次代

白河天皇


誕生

1034年9月3日

崩御

1073年6月15日 大炊御門殿

陵所

圓宗寺陵

尊仁

別称

金剛行(法名)・延久帝

父親

後朱雀天皇

母親

禎子内親王

中宮

馨子内親王

女御

源基子藤原昭子

夫人

藤原茂子

子女

聡子内親王白河天皇俊子内親王佳子内親王篤子内親王実仁親王輔仁親王

後三条天皇を語る時、その頃の藤原摂関家の状況を書かねばならない。長く摂政・関白・太政大臣を藤原道長・頼通親子が就き、藤原北家の全盛期であった。しかし、頼道の政権の時代が長く勤務懈怠が目立ち始める。加えて、父道長の死後、弟の教通との確執が摂関家の弱体化につながる。決定的なのは二人とも天皇の祖父の地位にはなれなかった事だ。入内した娘に男子が恵まれなかったのだ。

「頼通」の画像検索結果頼通

三条天皇を祖父に持ち、道長を曾祖父に持つ後三条天皇は、長期政権に飽きた朝廷の政治の実権を取り戻す絶好の環境にあったのだ。そして遂に、 83歳の頼道が死に、80歳の教通が死ぬ。その前年、残念ながら40歳で後三条天皇は崩御しているのだが、その環境は後三条天皇が構築した。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

後三条天皇は、姻戚関係のない頼通との確執の為、皇太子時代が20年間と長く苦労をしたが即位後、報復的な人事は一切せず善政を行った。延久の荘園整理令や、延久宣旨枡の制定など画期的な施策を断行し、皇室の経済基盤の拡大に努めた。

これは、摂関家にとっては大打撃であり、一方農民からは高く評価された。「延久の善政」と言われる政治体制に摂関家は完全に無力化にされたのだ。

神皇正統記にも、「有徳の君」とか、「延喜・天暦の治以来の業績」と称えている。白河天皇に譲位後、半年で崩御するが、これは院政を狙ったものではなく、病状の悪化が原因であった。

次回は、70代 後冷泉天皇。

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