しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ミディアン人>

2024-07-02 | 民数記
「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」(民数記31:2新改訳)

ミディアン人はアブラハムが後妻にしたケトラから生まれた民である(創世記25:1)。彼らはアラビアの東方一帯に広がったが、宗教的には偶像礼拝者で、預言者バラムに指導され、イスラエル民族を誘惑した。そのため、ここで神にさばかれ、戦いに敗北して町々は滅ぼされたわけである。▼たとえアブラハムの血統でも、その信仰にならわず、汚れた宗教と淫蕩(いんとう)な生活に歩めば滅びる。これはキリスト者についてもあてはまることをおぼえなければならない。一代目、二代目が敬虔な信仰家庭を築いていたのに、世代が下るに従い、信仰をなくし、この世に戻ってしまった例を私も見た、残念である。さて、滅ぼされたかに見えたミディアン人はしぶとく生き残り、後代、ギデオンの頃ふたたびイスラエルを苦しめる存在になった(士師記六~八章)。歴史の皮肉というべきか。▼「けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを頑なに守っている者たちがいる。だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」(黙示録2:14~17・ペルガモン教会への御霊による警告)


朝の露 <誓願>

2024-07-01 | 民数記
「しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。」(民数記30:5新改訳)

この章は誓願をする場合の規定である。イスラエル人は何かのことについて、主に真剣に求めるとき誓願というかたちで願うことができた。たとえばハンナが子供を与えたまえと祈ったとき、それが容れられて生まれたのがサムエルである(Ⅰサムエル1章)。しかし悲劇も起きた(士師記11章)。そこで人間の本質的弱さを知っておられた主イエスは「人は一切誓ってはならない」と命じられたのである。▼神に完全な誓願をなさったのは、人となられたお方、イエス・キリストだけである。じつに主の御生涯は、御父に対し、「わたしが完全なあがないの供え物になります」と誓われた誓願の実行だったといってよい。そこで私たちはキリストにあって完全な誓願の完成に入れられているので、自分で誓いをする必要がないのである。▼「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基(もとい)が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。」(ヨハネ17:24同)

さすろう身の頼りとするは 救い主の誓いの言葉
時満ちなば、ふたたび来たり 天つ家に迎えたまわん
流したまいし血潮によりて 罪は洗われ、涙は消され
待ち焦がれし贖い主に 見(まみ)えまつる備えなりぬ
            <新聖歌150-2 詞:Mary L Demarest,1860(UN)>

朝の露 <聖なる祭り>

2024-06-27 | 民数記
「あなたがたは、主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げよ。それらはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。」(民数記29:8新改訳)

ここには、イスラエル人の守るべき大切な祭り、ラッパ祭(1)、あがないの日(7)、仮庵祭(12)に関する規定が記されている。▼こうして見て来ると、前章に記された過ぎ越し祭七週の祭(いわゆるペンテコステ)と合わせ、イスラエル民族は年間を通じて聖なる祭りを続け、そのたびに多くの牛、羊、山羊および穀物などをささげなければならなかったことがわかる。新約の光で見ると、これら諸儀式はイエス・キリストの生涯をあらわしていることがあきらか。▼選民は千年以上、この儀式を守ってきたが、キリストはただ一度だけ御自身を宥(なだ)めの供え物としてささげることによって、この旧約の祭りを永遠に成就し、終了された。信仰によりキリストにつながることができたのは、測り知れない恩寵(おんちょう)である。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3同)


朝の露 <芳ばしい香り>

2024-06-26 | 民数記
「もう一方の子羊は夕暮れに献げなければならない。朝の穀物のささげ物、および、それに添える注ぎのささげ物と同じものを、これに添えて献げなければならない。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」(民数記28;8新改訳)

ここは年間を通じ、神に献げる芳ばしい献げ物についての規定を改めて示した章である。まず、毎朝毎夕、子羊を一匹ずつ。またそれに加えて穀物と酒。続いて安息日にはそのほかに全焼のささげ物。月の最初の日には新月祭のささげ物。一月十四日には過ぎ越しのささげ物と後に続く七日間の種なしパンの祭り。それから五十日を数えて行われる七週の祭り。本章にはここまでが記される。▼これらを見て思わされるのは、子羊や牛、穀物などがすべて十字架にご自身をお献げになったイエス・キリストを表していることで、それがどれほど大切にされているか、という事実である。地上における歴史はイエス・キリストの出現とそのあがないの死が中心である。そして天における礼拝と賛美の中心もまた、罪のためにほふられた子羊イエスなのである。私たちキリスト者の信仰生活は、これらの祭りの霊的再現となっているであろうか。(黙示録5:9~14同)

朝の露 <祭司エルアザル>

2024-06-25 | 民数記
「彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、ウリムによるさばきを自分のために伺わなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルの子らのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって入らなければならない。」(民数記27:21新改訳)

イスラエルの民はモーセと別れる時を迎えた。それはこの上なくさびしい別れであったが、新しい世代が生まれるため、避けては通れない道でもあった。▼こうしてアロンの子エルアザルが大祭司となり、モーセの後継者ヨシュアといえど、彼の命令に従わなければならないと定められた。つまり神→エルアザル→ヨシュア→全会衆という順序に命令が伝えられ、民はそれに従うことにより、主の栄光を現すことができたのである。▼いうまでもなく、これは教会があらゆる時代を通して、天の大祭司キリストの命令によって地上を生きなければならない事実を示す模型である。エルアザルにまさる大祭司キリストこそ、私たちが従うただひとりのお方なのだから。