しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <ダタンとアビラム>

2024-06-24 | 民数記
「エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラム。このダタンとアビラムは会衆から召し出された者であったが、コラの仲間としてモーセとアロンに逆らい、主に逆らった。」(民数記26:9新改訳)

出エジプトから四〇年がたち、カナン占領戦に入る直前の人口調査を記録した章である。これは主の守りとともに、厳粛(げんしゅく)な審判をもそのまま記したもので、読む人にとって大きな警告となっている。▼ルベンはヤコブの長子で、本来なら最も祝福される立場にあったが、父の寝床(ねどこ)を汚したために長子の権利を失った。またダタンとアビラムという有力な指導者が出たが、二人はレビ族のコラと組んでモーセに反逆、結果として神に逆らった。その最後は悲惨で、生きたまま地中に飲み込まれ、滅びたのである。このときはイスラエル最大の危機で、あわや全滅かもしれない、という事態におちいった。ルベン族は自分たちがヤコブの長子であるという自負心を捨てきれなかったため、それがわざわいの原因となった。どこまでも謙遜に歩めば祝福されたのに、残念である。▼この章では、コラ一族が全滅したような印象を受けるが、実はコラの子どもたちは残った者もおり、後に神殿で聖歌隊や賛美詩篇を作る役に当たったと思われる(民数記26:11)。たぶんダビデ王がそのように編成したのであろう。神のあわれみと恵みの深いことに感動をおぼえる。


朝の露 <ミディアン人の女>

2024-06-20 | 民数記
「ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。」(民数記25:6新改訳)

モアブ人とミディアン人たちは偶像の祭りを開き、そこにイスラエル人たちを招待した。お互いに仲良くしようというわけで、たぶん指導者たちの間で友好関係を結ぶ話し合いがなされたのであろう。この背後に預言者バラムがいたのはまちがいない。▼偶像の祭りは現代でいう乱交パーティーとおなじで、淫乱と酒食をともなう卑猥(ひわい)なものであった。律法による生活を禁欲的として苦痛に感じていたイスラエル人も大勢いたろうから、たちまち肉欲の奴隷となってしまったことは想像にかたくない。すると神の怒りは現れ、イスラエル人たちは撃たれて次々と死に始めた。これを見た祭司の子ピネハスは断固、偶像礼拝を拒否し、指導者のひとりを槍で殺したのであった。こうして神の怒りが止み、イスラエルは助かった。▼今から三千年以上前の事件は、現代教会が直面している霊的戦いと無関係ではなく、その続きであることを肝に命じたい。パウロは厳粛な口調でわたしたちに警告している。「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」(エペソ5:5~7同)


朝の露 <終わりの日に>

2024-06-19 | 民数記
「今、私は自分の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が終わりの日にあなたの民に行おうとしていることについて、あなたに助言を与えます。」(民数記24:14新改訳)

バラムは最後にモアブ王バラクに「終わりの日」に起きることについて預言した。それはメシア、キリストの出現についてであった。ヤコブから一つの星が進み出る、イスラエルから一本の杖が起こる(17)とは救い主イエス・キリストの出現を指している。▼主が世界の王として地上再臨されるとき、すべての王国はその前にひれ伏さなければならない。もしそうしなければ、たとえモアブといえども滅ぼされてしまう。「モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天(のうてん)を打ち砕く」とはそれである(17)。▼本章を見る限り、バラムは神に従った預言をした。しかしその後、彼はバラクと相談して、イスラエルの堕落(だらく)を図(はか)ったらしい。「バラムはバラクに教えて・・淫らなことを行うように、彼ら(イスラエルの子ら)の前につまずきを置かせた」(黙示録2:14同)と記されている。結局、彼は最後まで貪欲(どんよく)と狡猾(こうかつ)さから抜けきれなかったにせ預言者であり、イスラエルに討たれて死んだ。キリストの十字架によって、本質が変えられない限り、人はほろびの道から引き返すことはできないことがわかる。

朝の露 <祝福せよ>

2024-06-18 | 民数記
「見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。」(民数記23:20新改訳)

モアブ王バラクの確信は、名高い預言者バラムがイスラエルを呪えば、かならずそのとおりになる、というものであった。これが偶像教徒の信仰である。彼らにとり、神は人の願い通りに行動してくれるもの、言うならば使い走りとおなじである。▼つまり、ここでは、莫大(ばくだい)な礼金を預言者バラムに支払えば、神は自分の思い通りに動いてくれ、結果としてイスラエルは呪われ自滅していくにちがいない、そう踏んだのだ。ところが、預言者バラムは「イスラエルの神はそのような神ではなく、人の思いに従って動かれるお方ではない。そのみこころは絶対であり、いかなる人間も神を自由に動かすことなどできない」とモアブ王に断言したのであった。▼偶像は神ではない。「彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです」(ピリピ3:19同)。偶像礼拝の果てにあるのは永遠の滅亡だけである。

朝の露 <預言者バラム>

2024-06-17 | 民数記
「しかし、彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった。バラムはろばに乗っていて、二人の若者がそばにいた。」(民数記22:22新改訳)

バラムは神が許可したので、モアブに行こうと出かけた。しかしその途中で「神の怒りが燃え上がった」とある、なぜか?それは神がバラムの心をじっと見ておられ、罪と欲望への執着(しゅうちゃく)を見たからにちがいない。▼そもそも預言者の使命は、神が告げる事だけを語り、その命令に忠実に従うことである。しかし、バラムの眼前にはモアブ王が約束した莫大(ばくだい)な占い料がちらつき、我を忘れていたのだろう。富と報酬金(ほうしゅうきん)に対する飽くことなき欲望、それから離れようとしないバラムの心をごらんになり、神ははげしく怒られたのであった。▼どんなに神の御言葉を聞き、語ることができても、富への強い執着を断ち切らなかったバラムは、動物のろばにも劣る心の持ち主であった。愚鈍(ぐどん)の象徴である家畜のろばからいさめられるとは、なんたる恥辱(ちじょく)であろう。二心をもつ愚かな信仰者になってはいけない(詩49:20)。なぜなら、キリスト教会は今もバラム的誘惑にさらされており、それとの決別が求められているからだ。「けれども、あなた(ペルガモン教会のこと)には少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまづきを置かせた。」(黙示録2:14同)