しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <子ろばに乗られたイエス>

2023-04-21 | マルコ
「それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。」(マルコ11:7新改訳)

ろばは荒々(あらあら)しいところがなく、みるからにやさしい雰囲気(ふんいき)をもった動物である。まして子ろばといえば、子どもでも近づいてなでたりできる。▼天地の創造者にして本源(ほんげん)であられるイエス・キリストが、罪をさばくお方ではなく、すべての人を御国に招(まね)こうとしてエルサレムに入られた。祭司長や指導者たちは、柔和(にゅうわ)なろばの子に乗られたイエスを見て、このすばらしい事実に気がつくべきであった。そうすればメシア王国が出現したし、ローマ軍によるエルサレム滅亡(めつぼう)も避けられただろう。だが彼らは主イエスを拒否(きょひ)し、かえって十字架につけて殺した。「エルサレムに近づいて、都をご覧(らん)になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。『もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらー。しかし今、それはおまえの目から隠(かく)されている。』」(ルカ19:41,42同)▼やがて主は再臨の日、栄光の審判者(しんぱんしゃ)として天の白馬に乗り、エルサレムに来られるであろう。「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は『確かで真実な方』と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。その方は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた。天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣(つるぎ)が出ていた。鉄の杖(つえ)で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。その衣と、もものところには、『王の王、主の主』という名が記されていた。」(黙示録19:11~16同)


朝の露 <子どものように>

2023-04-15 | マルコ
「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(マルコ10:15新改訳)

主イエスに手をおいてもらおうと、子どもたちがみもとに連れて来られたが、弟子たちは親を叱った。だが、きびしく注意されたのは弟子たちだった。「イエスはそれを見て、憤(いきどお)って弟子たちに言われた」(14)。▼子どもの素直(すなお)さ、純真(じゅんしん)さを主がいかに喜んでおられたかがわかる。そして「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と弟子たちを諭(さと)されたのであった。決して入れない、との強い否定は読む人をおどろかせる。▼私たちは大人になればなるほど、蛇のような(かしこさならいいが、そうではなく)ずるさ、狡猾(こうかつ)さを備えがちだ。そして鳩(はと)のような(ありのままの)素直さを軽蔑(けいべつ)し、そんな人を見かけると、幼稚(ようち)な者といってあなどる。しかし主イエスは子どもと同じ心根(こころね)を持っていなければ、決して神の国に入れないとハッキリ仰せられた。契約(けいやく)の箱の前で、飛び跳(は)ねておどり喜んだダビデ王を思い出すではないか。「主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」(Ⅱサムエル5:12,13同)▼自分のところへ主をお迎えできる、うれしくてしかたがない。40代のおじさんが、真っ白な衣(ころも、ここではエポデのこと)をまとい、飛んだりはねたりしている。人々は歓声をあげて神をほめたたえた。子どもになって主を喜ぶイスラエルの王、それゆえ主イエスは永遠に宣言されたのである。「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である」(黙示録22:16同)と。私たちも永遠を主と共に過ごしたく願うなら、「子どものように神の国を受け入れる者」となる必要がある。



朝の露 <塩気を保つ>

2023-04-14 | マルコ
「塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょう。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50新改訳)

塩気とは、キリストが心に住んでくださった結果、私たちから自然に出て来る霊的味わいのようなものだと思う。▼キリスト者どうしで話していると、なんともいえない謙遜を感じることがある。それは目に見えないが、たしかに存在がわかるものだ。もちろん謙遜といっても、むやみに優しいのではなく、おかしがたい敬虔さがあり、話していると、こちらも襟(えり)を糾(ただ)される。とにかく塩気を持ったキリスト者と話していると、いつのまにか主イエスの臨在が明瞭になるので喜びが湧き、お互いに時間の経つのも忘れて話してしまうから不思議だ。▼御霊の塩気を持った兄姉にめぐり合うことほど幸せなことはない。財産や名誉などに囲まれても、キリストの臨在が伴わなければ、心が貧困のまま生涯を終えることになるのだから。


朝の露 <天からのしるし>

2023-04-08 | マルコ
「すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。」(マルコ8:11新改訳)

主はパリサイ人のパン種(だね)に警戒(けいかい)するようにと言われたが、彼らの心に抱(いだ)いていた信仰とは一口で言えば「おしるし信仰」であった。▼しるしや奇蹟(きせき)に土台を置く信仰は、信仰ではない。たとえば主が石をパンに変えたら、次は山を海に移してみよと言い、それをしたら、次は太陽を暗くしてみよと言うようなものだろう。どこまでいっても際限(さいげん)のない要求が続く。これは罪深い人間の性質から生じたいつわりの要求で、信仰とよべるものではない。▼主が十字架につけられたとき、彼らは「キリストなら十字架から下りて見ろ、そうしたら信じてやろう」とののしった。イエスは一言もお答えにならず、一切(いっさい)を父の御手(みて)にゆだね、死の苦しみを味わわれたのであった。ここにこそ、主が持たれた信仰が燦然(さんぜん)と輝いている。なぜならこれによって天地をおおっていた罪の呪(のろ)いがとりのぞかれ、神のゆるしと愛がすべてを満たすこととなったからである。

朝の露 <人から出て来るもの>

2023-04-07 | マルコ
「イエスはまた言われた。『人から出て来るもの、それが人を汚すのです。』」(マルコ7:20新改訳)

パリサイ人たちは、律法を字句通り守ることが自分を汚さないことだと信じ、ひじょうに多くの規則を作ってそれを守っていた。▼しかし実際は、律法を自分勝手に作った解釈(ひじょうに多くの規則とはそのこと)により、「変形して」守っていたのである。その解釈こそパリサイ人たちの内的欲望から出たもので、じつは律法を汚していた、主イエスはそれを指摘されたのであった。主は「人を汚すものはそのような行為ではなく、心の中から出て来る思い」そのものであると言われた。外側の行為をどれだけ忠実に守ったところで、心の中に悪い考えを抱いたままでいるなら、その人はきよいどころか神の前に、とんでもない罪を犯している、主はそう言われたのだ。▼私たちはいつも十字架を仰ぎ、自分の心に御子のあがないによる罪の赦しをいただきつつ、日々の生活をすべきであり、それがきよく歩むということ、御霊によって生きるということである。聖書のみことばを自分に都合(つごう)のよいよう解釈して、「言い逃れ的信仰」生活をすべきではない。とても実行できないなら、できないと、正直に神の前に出て、祈るべきではないだろうか。主のあわれみにすがっていけば、御霊の実としての愛、喜び、平安(→ガラテヤ5:22,23)などが、心の内側から自然の発露(はつろ)として出て来るであろう。それがきよいということだ。パリサイ人のあやまりを犯さないよう心して歩ませていただこう。