しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <栄光が東の方から>

2023-03-29 | エゼキエル
「彼は私を東向きの門に連れて行った。すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。その音は大水のとどろきのようで、地は栄光で輝いた。」(エゼキエル43:1,2新改訳)

エゼキエルが見ていると、栄光の主が新しい神殿に東の門から入城された。その聖なる威容(いよう)の輝きを仰いだエゼキエルは思わずひれ伏す。▼かつてはろばの子に乗り、やさしく柔和な救い主として同じ門から入られた主だが、ユダヤ人たちは拒否し、これを十字架に殺した。なんと大きなまちがいを犯したことか。だがそのことを涙ながらに悔い改め、回心したイスラエルが今度は大いなる歓喜(かんき)のうちに栄光のキリストを迎える。そして主は約束される、「ここはわたしの玉座(ぎょくざ)のある場所、わたしの足の踏む場所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む場所である」(7)と。▼その昔、ダビデがエブス人アラウナの麦打ち場を買い取り、ここに神殿を造ろうと思い立った同じ場所が、永遠にキリストの住まわれる所として定まる。主は明けの明星、ダビデの子孫だからである。しかし私たち異邦人キリスト者にとっては、もっと喜びに満ちた約束がすでに実現している。それはペンテコステにより、三位一体の神御自身が今キリスト者ひとりひとりに内住しておられる、という事実である。もはや主は永遠に私たちから去ることはないのだ。このすばらしさはどのようなことばでも完全には言い表せない。だからパウロは叫んだのである。「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27同)


朝の露 <エゼキエルの見た神殿>

2023-03-28 | エゼキエル
「彼は私を北の方の外庭に連れ出し、聖域に面し、北方の建物に面している部屋へ連れて行った。」(エゼキエル42:1新改訳)

エゼキエルは御使いにより、まぼろしのうちに神殿の外庭と内庭の境(さかい)にある部屋に連れて行かれた。たぶん、より具体的に新しい神殿の間取りや配置(はいち)を見るためであろう。▼千年王国の神殿がソロモン神殿とあきらかにちがう点は、復活されたイエス・キリストがそこにいつまでも臨在される、ということだ。すなわち全世界の礼拝中心地として、エルサレムと神殿は固く立ち、二度と破壊されず、戦いとも一切無縁の平和な場所になるのである。だからこの神殿は純金の諸聖具や黄金の聖櫃もない。栄光の主イエスが臨在されるので、それらは必要がなくなるのだ。ただ、次章でもわかるように、千年期は悪魔が地上からいなくなるとはいえ、罪が存在すると思われる。つまり地上の民は復活した天の民のように完全ではないのであろう。それゆえ、犠牲動物がささげられるのである。▼それでも人類は戦争と武器作りをやめ、民族や国家の争いも姿を消し、動植物の世界にまで平和が満ちるのだから、もじどおり祝福が地球をおおうことになる。考えてみれば、夢のようだが、聖書はその到来を約束している。そこで現在の世界がいかに暗黒に見えても、私たちは少しもあわてることなく、主のお出でを待ち望んでよいのである。

朝の露 <エゼキエルの見た神殿>

2023-03-27 | エゼキエル
「彼は私を本殿へ連れて行った。その壁柱を測ると、その幅は両側とも六キュビトであった。これが壁柱の幅であった。」(エゼキエル41:1新改訳)

エゼキエルがまぼろしのうちに見せられた神殿は、千年王国時代にエルサレムに建てられる神殿の姿と見取り図と思われる。たぶんここに世界中から礼拝の民がやって来るのであろう。地上で祭司となったイスラエル民族がエルサレムを中心に住み、諸族諸民(しょぞくしょみん)はその指導の下に神を礼拝する。▼モーセの時代に昼は雲の柱、夜は火の柱が幕屋の上にとどまったように、イエス・キリストはエルサレムに輝く臨在を現わし、はなよめたちもそれと共にあるのだろう。いわば天と地が合体(がったい)したようなすばらしい神の都が現出(げんしゅつ)するにちがいない。ミカはその様子(ようす)を預言している。「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。・・・それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。」(ミカ書4:1~3同)▼しかし何といっても幸いなのは、今の福音時代、救いにあずかり、キリストを内にお迎えした私たちキリスト者である。千年王国時代がすばらしいといっても、有限な時代で地上の王国であることに変わりはない。だが私たちは限りある今の時代でも、すでに心に永遠の神の国を宿しているのである。身体は地上にあるが、キリスト者の本質はすでに第三の天に移され、キリストと共に御父のそばに置かれている。「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ3:3同)


朝の露 <なつめ椰子(やし)の木>

2023-03-23 | エゼキエル
「門の内側にある控室(ひかえしつ)と壁柱(かべばしら)には格子窓(こうしまど)が取り付けられ、玄関の間もそうであった。内側の周りには窓があり、壁柱には、なつめ椰子の木が彫刻してあった。」(エゼキエル40:16新改訳)

ここから四六章までは、いわゆるエゼキエルの神殿と言われる建物の見取り図で、おそらく千年王国時代にできるエルサレム神殿と思われる。艱難時代にエルサレム神殿は再建される(現在はイスラム教の黄金ドームといわれるモスクがある)が、そこに反キリストが座り、世界の軍隊による攻撃を受け、たぶん破壊されるだろう。したがって、エゼキエルの神殿はもういちど作りなおされるものかもしれない。▼神域(しんいき)は上空からながめるとみごとな正方形をしている。いたる所になつめ椰子の木が彫刻されているが、これはソロモン神殿とおなじである。主イエスがエルサレムに世界の王として着座され、そこから川が東西に流れ出る。その両岸には多くの果樹が生い茂る(エゼキエル47章)とあるから、千年王国時の聖地はエデンの園のように緑の木々が茂り、くだものがたわわに実ると想像される。▼そのあとに出現する新天新地には、いのちの木がいのちの川の両岸に生い茂っている様子が黙示録に記されているが、なつめ椰子はそれを表しているのだろう。今でも中近東にはなつめ椰子が繁茂(はんも)し、人々の食べ物になっているという。世界が呪いから解放され、悪魔が幽閉される千年期、地上はエデンの園のように豊かな園になるが、なつめ椰子はその中でも神の宮を飾る植物としてもちいられるにちがいない。栄化された主のはなよめたちは、キリストとともにこのエルサレムに天の民として住まうことになる。


朝の露 <ゴグの最後>

2023-03-22 | エゼキエル
「おまえと、おまえのすべての部隊、おまえとともにいる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはおまえをあらゆる種類の猛禽(もうきん)や野獣(やじゅう)の餌食(えじき)とする。」(エゼキエル39:4新改訳)

患難時代の終わりに世界の国々がイスラエルに攻め寄せることは、エゼキエル以外の預言者も語っている。たとえばゼカリヤは「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる」(ゼカリヤ14:2同)と述べ、ヨエルは「諸国の民は立ち上がり、ヨシャファテの谷に上って来い。わたしがそこで、周辺のすべての国々をさばくために、座に着くからだ」(ヨエル3:12同)と述べている。▼日本の四国ほどしかないイスラエルにふりかかる苦難は、ひじょうに大きなものであろう。しかしイエス・キリストは選民を救うため、天から来られ、ウンカのような地上軍は全滅してしまう。この章はその後始末(あとしまつ)も記している。イスラエルは敵の武器を七年間も燃料にし、死体処理(したいしょり)に七カ月もかかるとあるから、いかにものすごい戦いだったかわかる。こうして地上に戦いが止み、世界平和がおとずれるのである。