「彼は私を東向きの門に連れて行った。すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。その音は大水のとどろきのようで、地は栄光で輝いた。」(エゼキエル43:1,2新改訳)
エゼキエルが見ていると、栄光の主が新しい神殿に東の門から入城された。その聖なる威容(いよう)の輝きを仰いだエゼキエルは思わずひれ伏す。▼かつてはろばの子に乗り、やさしく柔和な救い主として同じ門から入られた主だが、ユダヤ人たちは拒否し、これを十字架に殺した。なんと大きなまちがいを犯したことか。だがそのことを涙ながらに悔い改め、回心したイスラエルが今度は大いなる歓喜(かんき)のうちに栄光のキリストを迎える。そして主は約束される、「ここはわたしの玉座(ぎょくざ)のある場所、わたしの足の踏む場所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む場所である」(7)と。▼その昔、ダビデがエブス人アラウナの麦打ち場を買い取り、ここに神殿を造ろうと思い立った同じ場所が、永遠にキリストの住まわれる所として定まる。主は明けの明星、ダビデの子孫だからである。しかし私たち異邦人キリスト者にとっては、もっと喜びに満ちた約束がすでに実現している。それはペンテコステにより、三位一体の神御自身が今キリスト者ひとりひとりに内住しておられる、という事実である。もはや主は永遠に私たちから去ることはないのだ。このすばらしさはどのようなことばでも完全には言い表せない。だからパウロは叫んだのである。「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27同)