「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20新改訳)
パウロの信仰生涯における最高・最大の目標は復活と栄化にあった。▼そもそも彼はダマスコへ向かう途中で、復活して天におられる主イエスに会った人である。また宣教旅行の中で第三の天に引き上げられ、誰も見たことがない世界を目撃し、人が語ることのゆるされない言葉を聞いた人物でもある。だから彼にとって復活栄化にあずかることは観念や空論ではなく、生きた現実の希望であった。言葉をどんなに尽くしても、そのすばらしさを分かってもらえないもどかしさを常日頃感じていたパウロは、愛するピリピ教会の兄姉たちに、最後の訴えをする。▼私はキリストのゆえにすべてを失ったが、それを塵芥(ちりあくた)と考えている。かつては自分を高めるためにあらゆることを目的にして励んでいたが、今はそのすべてを損と思っている。ピリピの人たちよ、再臨の主に会い、復活の栄光にあずかることは、それほどに素晴らしく、何物をもっても代えられないことなのだと。
同時にパウロは、この章で厳粛きわまりない事実を告げる、「その人たちの最後は滅びです」(19)と・・。その人たちとは、どんな人たちか?「キリストの十字架を敵視する人たち」、「自分の欲望を神とし、汚れた考えや行いを嫌悪するどころか逆に自慢し」、「地上のことだけを考えて生きる人たち」、「キリスト者であると言いながら、内側は犬(偶像礼拝者)のような本質を持ち、純朴な信仰者をだまして最後は破滅させようとする人たち」を指すのである。ピリピの兄弟たちよ、気をつけなさい。あなたがたの周囲にこれらがうようよしており、たえず教会をねらっているのだから。▼喜びの書簡といわれるピリピ書で、使徒がこんなにもきびしい表現を用いて、十字架の敵たちを名指しで非難していることにおどろく。だが、私たちが輝かしい復活の世界に入るというのは、一面、それをさせまいとする闇の勢力との熾烈な戦い(むろん信仰的霊的な)が避けられないのだ、という証明でもある。パウロはそう述べているのである。▼21世紀の今、われわれの周囲は「地上のことだけを考えて生きる人たち」であふれかえっている。パウロのことばを借りれば、「その人たちの最後は滅びです」と言うことになろう。天にいます御父と御子の痛みはどれほどであろう。主はたぶん私たちに呼びかけておられる、「子どもたちよ、滅び行こうとしている者たちのため涙を流しなさい。そしてあなたにできることをしなさい」と。