「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」(ピリピ2:12新改訳)
救いを達成するとは、キリストがふたたび来られるとき、復活栄化して、永遠の世界に入れられることである。▼その日には、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、つまり存在するすべてのものが御父と御子に大礼拝、大感謝をささげるであろう。そこに向かって私たちは地上の信仰生涯を送っている。ただしそれは未来に属しているから、油断してはならない。誘惑者が常にねらっており、救いの恵みを奪おうと隙をうかがっている。敵の攻撃を防ぎ、最後まで純真な心と全き信仰を持ち続けるには、心から神をおそれる生き方、敬虔な姿勢を保つことが求められる。▼かつて神はイスラエルに直接お語りになろうと、シナイ山に降りて来られた。その日、山は雷鳴がとどろき、稲妻が走り、角笛の音が高く鳴り響いた(出エジプト記19章)ので、イスラエル人たちは震え上がった。全山が煙りにおおわれ、激しく震え、まるで白熱の太陽が降りて来たように見えた。そのため彼らはモーセに願った。「あなたが私たちに語ってください。・・・さもないと、私たちは死んでしまいます」(出エジプト記20:19同)と。▼人となって地上に来られたナザレのイエスは、本質的にはこの神であられることを、心に深くおぼえるべきである。このお方が私たちと共におられ、親しく交わられるとは、人知では決して理解できない奇蹟であり、計り知れない恵みであることを肝に銘じるべきで、まかりまちがっても安易に思うべきではない、それが恐れおののくということの真意である。ヘブル書も恵みの御霊をあなどるなかれ、と厳粛に警告している。▼使徒はピリピ教会の霊性を喜び、主に感謝しながらも、警戒と激励を与えるのを忘れなかった。これが現代に生きる私たちへの戒めでもあることは、いうまでもない。