しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ピリピ2章 <救いの達成>

2019-08-17 | ピリピ

ニゲラ「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」(ピリピ2:12新改訳)

救いを達成するとは、キリストがふたたび来られるとき、復活栄化して、永遠の世界に入れられることである。▼その日には、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、つまり存在するすべてのものが御父と御子に大礼拝、大感謝をささげるであろう。そこに向かって私たちは地上の信仰生涯を送っている。ただしそれは未来に属しているから、油断してはならない。誘惑者が常にねらっており、救いの恵みを奪おうと隙をうかがっている。敵の攻撃を防ぎ、最後まで純真な心と全き信仰を持ち続けるには、心から神をおそれる生き方、敬虔な姿勢を保つことが求められる。▼かつて神はイスラエルに直接お語りになろうと、シナイ山に降りて来られた。その日、山は雷鳴がとどろき、稲妻が走り、角笛の音が高く鳴り響いた(出エジプト記19章)ので、イスラエル人たちは震え上がった。全山が煙りにおおわれ、激しく震え、まるで白熱の太陽が降りて来たように見えた。そのため彼らはモーセに願った。「あなたが私たちに語ってください。・・・さもないと、私たちは死んでしまいます」(出エジプト記20:19同)と。▼人となって地上に来られたナザレのイエスは、本質的にはこの神であられることを、心に深くおぼえるべきである。このお方が私たちと共におられ、親しく交わられるとは、人知では決して理解できない奇蹟であり、計り知れない恵みであることを肝に銘じるべきで、まかりまちがっても安易に思うべきではない、それが恐れおののくということの真意である。ヘブル書も恵みの御霊をあなどるなかれ、と厳粛に警告している。▼使徒はピリピ教会の霊性を喜び、主に感謝しながらも、警戒と激励を与えるのを忘れなかった。これが現代に生きる私たちへの戒めでもあることは、いうまでもない。

 


朝の露 ピリピ1章 <キリスト・イエスの日>

2019-08-16 | ピリピ

成層圏「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(ピリピ1:6新改訳)

パウロは一章で「キリストの日」という言葉を二度用いていることに注意(6、10)。彼の伝道生涯はキリストの再臨を意識しながらなされたものである。そのことは三章にもはっきり記されている。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:20同)▼もちろんパウロだけでなく、初代教会の人々はみな、再び主がお出でになるのを待望しながら生きていた。それは、日常の挨拶がマラナ・タ(主はお出でになります)だったことからも明らかだ。思えばキリストは大勢の人たちが見守るなか、オリーブ山から昇天して行かれ、そのとき「主は同じありさまで再び来られます」とハッキリ約束されたことが、その目撃者たちにより、鮮烈な印象をもって語られていたのである。21世紀に生きる私たちも、聖霊によってこの生々しさを深く意識する者でありたい。▼主がまもなく再臨されるとの使信は、救われていない人にとっては強迫観念でしかない。今日の教会でもキリスト者が何となく再臨信仰を避け、当たり障りのない距離をおくのは、真に生まれ変わり、キリストに向かう愛を抱くという体験をしていないためである。また「伝道が大切だ。今再臨があったら多くがほろびるではないか」と怒る者もいる。しかしそれは、一種の詭弁ではないか、と私は思う。使徒ヨハネは言う、「しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします」(Ⅰヨハネ3:2,3同)と。▼愛する花婿が、花嫁を復活にあずからせ、共に結ばれるために来られる、いったいそのことを一日千秋の思いで待ち焦がれない花嫁がどこにいるだろうか。聖霊により、神の愛を抱いた人からは恐れが取り除かれる。全き愛は恐れを締め出すからだ。だからもし私たちがキリストの再臨に恐れをおぼえ、刑罰を意識するなら、「愛において全きものとなっていない」のであり、何をさておいても聖霊の満たしを求めるべきである。

 

 


朝の露 ピリピ4章 <ピリピ教会の赤心>

2017-02-18 | ピリピ

紅梅 大阪城「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。」(ピリピ4:15新改訳)

「私が福音を宣べ伝え始めたころ」とは、初めてヨーロッパに渡り、ピリピ、テサロニケ、ベレヤといった町々に宣教した頃(第二次伝道旅行、使徒16,17章)で、ピリピ書を記したときから10年以上前になる。マケドニヤ(今のギリシャ北部)に大勢のクリスチャンたちが誕生したが、パウロたちの生活のため献金した教会は意外に少なく、ピリピ教会だけであった。彼らがいかに救いの喜びにあふれ、また使徒たちのことを生活までふくめて心配していたか、その愛と感謝の心がよくわかる。▼それから10数年、今や使徒はローマで収監される身となった。パウロのローマ生活は、囚人ではあったが一軒家に軟禁されるというもので、比較的自由だった。つまり、そのようにして皇帝の裁判を待ったのだろう(使徒28章)。とはいえ、家賃も生活費も自己負担だったし、何人もの付き人がいたから、経済的に楽ではなかったはずだ。それらの必要は、個人的な献金や各地の教会から送られる義援金によっていた。もちろんパウロのほうから援助を要請することはなく、全くの自由献金だったから生活に窮したことも度々だったにちがいない。ピリピの人々は恩師の困難さを思い、自分たちも決して豊かではなかったろうに、献金や支援物資をエパフロデトに託して遠いローマまで届けたのであった。▼ただ天を仰ぎ、供給者なる神に信頼し、福音の喜びを無代価で提供することに徹した生涯、パウロの潔(いさぎよ)さに感動する。かくして最初の裁判では無罪となり、しばらく伝道した後、再逮捕、投獄となり、二度目は死刑判決を受け、殉教していった、と言い伝えられている。時のローマ皇帝は、あの悪名高きネロだったそうだ。


朝の露 ピリピ3章 <ただキリスト・イエスを誇る>

2017-02-17 | ピリピ

梅とインコ「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3新改訳)

短いこの一節に、キリスト者の理想的姿が、自然なかたちであらわされている。▼豪華できらびやかな礼拝施設、名誉や地位、格式や伝統を誇る宗教の在り方は、たとえキリスト教と名がついても本物とはいえない。そのようなあり方を喜び求める信仰者は、パウロに言わせれば霊的盲目で、何もわかっていないのである。▼私たち21世紀のキリスト者は、ローマの獄で鎖につながれ、痩せこけ、目も手も不自由で口述筆記してもらわなければ手紙すら書けなかった老人のうちに存在した、抑えきれぬ喜びと圧倒的な確信、天地を自由に行巡る御使いのごときつばさの飛翔音、御子に対する燃える感謝の息遣いが聞こえてくるまで、獄屋の格子前に佇(たたず)むべきだろう。それが本当にできたとき、私や貴方は人間的なものを頼みながら生きるという鉄格子と鎖から解き放たれる。割礼など空しい勲章を胸にぶら下げて喜ぶ戯言(ざれごと)から自由になれる。


朝の露 ピリピ2章 <ご自分を無にして>

2017-02-11 | ピリピ

網走監獄「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7a)

罪の本質は高ぶりで、その源(みなもと)はもと天使長だったといわれるサタンである。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、・・・いと高き方のようになろう。』」(イザヤ14:13,14同)▼彼は被造物なのに自分を神と等しくし、神に仕えるどころか、神と人に「自分に仕えよ」と要求している。▼イエス・キリストは受肉されたとき、完全にその逆を行かれた。ご自分の存在を無にし、仕える人として十字架にまで行かれた、いわばサタンの生き方を破壊し、人の心に巣食う高ぶりという生命を根絶やしにされたのである。キリストが罪なきお方ということは、その本質が全き謙遜から成ることを意味する。罪とは限りない高ぶりだからだ。▼恐ろしいことに、サタンは被造物であるにもかかわらず、神の上に出ようとした。有限な者が無限者の上に行こうとした。そこに底知れぬ罪深さがある。それを打ち消すかのように、神の子は無限の謙遜をもって人の心を満たされ、私たちを罪の力と性質から解放してくださったのだ。 

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18同)とあるように、聖書は旧約も新約も、謙遜の必要と高ぶりへの警戒に満ちている。なぜここまでそれを強調しなければならないのかといえば、謙遜こそ主イエスの本質であり、高ぶりは悪魔の本質、罪の生命だからである。▼生まれながらにして罪の支配下にある私たちは、自分の力で全き謙遜を持つことはできない。私たちの傲慢のため十字架に砕かれ、御父に従順であられた主を心に迎えることによって、はじめて謙遜が生命として宿る。すなわち神と人への従順が心からの喜びとなり、高ぶりに対し、この上ない嫌悪感を抱く者へと変えられるのである。▼ピリピ書は、人となられた神、イエス・キリストから燦然(さんぜん)と輝き出している従順と謙遜の栄光を驚嘆のまなざしで見つめ、おどろき、ほめたたえている一囚人の記した書にほかならない。彼はこの世でもっとも劣悪な獄という空間に閉じ込められ、鎖につながれながら、天の喜びにあふれている人物だ。その彼が私たちに語りかけている、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(ピリピ2:5文語)と。