Guapa

❉I Love Czech,trip,movie and Peace❉

「こんな夜更けにバナナかよ」 素敵なラブストーリー 

2019-01-15 10:30:11 | 映画

およそ映画のタイトルとは思えない映画が話題になっているとうかがいました。

大泉洋さん主演、筋ジストロフィーの男性の自立の物語

と思って観たら大間違い(というのも大げさですが…)

患者と向き合う医師になりたいと望む地方病院の御曹司と、

夢よりも現実と割り切って合コンくりかえすフリーター女子の

青春物語

あるあるエピソードで定型な展開になっている感がありますが

自身の青春時代を思い出す、清涼剤のような映画

主役の大泉洋さんの演技が、辛いとか厳しいとか苦しいとか…

難病にある青年をとりまく困難を

「当たり前の暮らしをしたい」というひとりの人間の想いに寄り添える作品にしていると思いました。

肩のちからをぬいて、目の前の自分と向き合える

それもありきたりな感想かもしれませんね。

 

 


ハイドリヒ暗殺の英雄たちを偲ぶ国民的記念碑

2017-11-01 23:12:53 | チェコ

何年も温めていたパンフレットの和約に挑戦してみました(英文パンフは先月アップしました)

以下、目次とは順序を入れ替え、事件の経過からアップします。

*********************

聖キリルとメソディウス東方正教会  プラハ

 ハイドリヒ暗殺の英雄たちを偲ぶ国民的記念碑

 

目次

新たな国民的記念碑   4

小さな教会による偉大な行動  6

東方正教 大聖堂の歴史    14

 

小さな教会による偉大な行動

 

1941年9月27日、チェコの国土がファシストドイツに占領されてから2年が経過していた。親衛隊大将で警察庁長官のラインハルト・ハイドリヒはナチスドイツ帝国で最も恐れられた男の一人だった。ハイドリヒはボヘミアとモラビア保護領の護民官に任命された。

 

彼がプラハに来た理由は、ファシストドイツに対する抵抗運動のわずかな気配さえ鎮圧するとともに、チェコ国民を、ドイツ化、再定住、虐殺というもっとも激しい方法で粛清するというヒトラーの計画を開始することだった。彼の残忍な手法は、非共産主義者の抵抗運動にも妥協を許さず、ロンドンの亡命政府による軍事的な行動を支援する具体的な手段をとらせた。1941年にスコットランドで重要な使命が準備されて以降、英国空軍の支援をうけて、多くのチェコスロヴァキアのパラシュート隊員たちがチェコスロヴァキアに降下した。最初の成功がかなったのは、“アンソロポイド:類人猿(ヤン・クビシュ軍曹とヨゼフ・ガブチーク軍曹による)”と“シルバーA:銀A(アルフレッド・バロス中尉とヨゼフ・ヴァルイック軍曹、イリ・ポトウジェック伍長)”が1941年12月28日の夜から29日にかけて降下した時だった。“類人猿“の任務はハイドリヒを暗殺することであり、“銀A”は諜報集団だった。クビシュとガブチークは多くの抵抗運動のメンバーの援助を受けて彼らの任務遂行のための準備をした。

ハイドリヒ暗殺の企ての軍事作戦は、1942年5月27日、水曜日、午前10時30分に実行された。プラハのリーベン地域のⅤホレショビッツ通りの曲がり角だった。ヴァルイック軍曹の援助で(彼は鏡で合図を送った)、ハイドリヒの車への攻撃はガブチーク軍曹(彼はトミーガンを撃とうとしたが故障していた)とクビシュ軍曹(手榴弾を車に投げ入れた)によって実行された。ハイドリヒは手榴弾が爆発した破片で背中を負傷し、その傷がもとで1942年6月4日に死亡した。

 

Kurt Daluegeは、今や臨時の帝国護民官となり、チェコ人に対する空前の規模のテロを爆発させた。国民的な抵抗運動が広がることを止め、深刻な損害を国民に負わせ、そして物質的にも道徳的にも破壊することを企図していた。1000万クローネ(コルネ)の報償が加害者の居場所や行方を告げることに対して申し出られた。ハイドリヒの追悼式―6月7日、プラハ―に続いて、ベルリンで6月9日に葬儀が執り行われた後、ナチの激怒は最高潮に達し、リディツェ村の破壊が行われた。1942年6月10日、リディツェは完全に破壊された。リディツェの惨劇は340人の命を犠牲にした。173人の男性たちはその場で撃たれた、さらに26人のリディツェの住民は後にプラハで処刑された。88人の子どもたちは、ポーランドで殺され、53人の女性たちは強制収容所で死んだ。プラハにおけるハイドリヒ暗殺は、ヨーロッパでドイツファシズムに征服された国による抵抗運動の最初の軍事行動であり、戦勝者ヒトラーに対する最初の一撃だった。

 

軍事作戦が実行される前にパラシュート隊員たちのもっとも親しい仲間たちは彼らがどこに隠れることができるかについて考えた。隠れ場所を見つける仕事を委ねられた人たちの一人、ペト・ファフェクは結核協会で働いていた。同じ事務所で働いていたヤン・ソネヴェンドは、プラハのレソロヴァ通りにある聖キリルとメソディウス教会の長老評議会の監督官だった。ファフェクはヤン・ソネヴェンドに、警察に登録されていない人たちをかくまうために助けてほしい、それは祖国のためなのだと訴えた。ソネヴェンドがその問題をチェコ東方正教会の司祭、ウラジミール・ぺトレック師にうちあけ、議論しているときに、パラシュート隊員たちを一時的に教会の地下聖堂にかくまうことを思いついた。ハイドリヒへの軍事作成が行われた後、もう一人のパラシュート隊員、ヤン・ゼレンカ‐ハイスキーという名の同志がソネヴェンド同志とぺトレック師を訪れ、計画の遂行とパラシュート隊員たちが到着することを伝えた。両人は計画に同意した。1942年5月30日、ヤン・クビシュ軍曹が最初に隠れ家に到着した。続いてヨゼフ・ガブチーク軍曹、アドルフ・オパルカ中尉、ヨゼフ・ヴァルチク軍曹、ヤロスラブ・シュヴァルク軍曹、ヨゼフ・ブブリーク軍曹、そしてヤン・ハルビィ軍曹が着いた。ぺトレック司祭は一人ひとりのパラシュート隊員たちを迎え入れ、食べ物と新聞を彼らのために手に入れた。そして多くの時間を彼らとの会話に費やした。そして暗殺未遂に関係した人々や友人たちと連絡をとる仲介者として行動した。彼はまたクビシュをメガネ屋のミラダ・フラントーヴァに検査を受けるために隠れ家から外へ連れ出した。東方正教会の司教、ヴァーツラフ・チクルと聖具室係のヴァーツラフ・オルネストはかくまわれているパラシュート隊員について、後になるまで知らなかった。ゴザード主教(マチェィ・パヴリク)は、チェコ東方正教会を復活させた人だが、彼はパラシュート隊員たちが地下聖堂にかくまわれていることを1942年6月11日に知らされた。個人も、抵抗運動のグループも双方がパラシュート隊員たちを支援した。最終的に、毎日のように行われた処刑と恐怖政治の抑圧のもとで、一人のパラシュート隊員、カレル・チュルダが同志たちを裏切った。彼は暗殺計画に関与していなかったし、仲間がどこにかくまわれているかについて知らなかったが、膨大な量の情報をドイツに密告した。

 

6月18日、午前2時、聖キリルとメソディウス東方正教会を包囲するよう、命令が下った。ゲシュタポは800人の兵士を7人のパラシュート隊員たちにむけて配置した。360人はプラハSS(親衛隊)の護衛大隊だった。作戦は午前4時15分から始まった。命令は、パラシュート隊員たちを生きたまま捕虜にすることだった。3人の隊員(オパルカ、クビシュ、ブブリーク)は、午前7時まで教会の身廊で防衛した。彼らは倒れ、地下聖堂がいったん発見されると激しい攻撃が行われた。残った4人の隊員たち(ヴァルチーク、ガブチーク、シュヴァルク、そしてハルビィ)は、最後までたたかい続けた。4発の銃弾を自分たちのために残して。

 

聖堂の激しいたたかいの間、ウラジミール・ぺトリック司祭とヴァ―ツラフ・チクル司祭、長老会の議長であるヤン・ソネヴェンド、そして聖具室係のヴァ―ツラフ・オルネストらは家族とともに逮捕された。ゴザド主教はすぐに逮捕者と聖堂への激しい攻撃について知らされた。翌日、1942年6月19日、彼はすぐに3通の手紙を書いた。ヤロスラブ・クレイーチ首相、エマニュエル・モラヴェック・教育・国民文化大臣、そして護民官事務所宛てに。教会を守り、逮捕者の生命を守るために、そしてテロによる犠牲を終わらせるために。彼は書いた。“私の人々が証言をしたことについて認め、私はいかなる処罰も受ける覚悟をしています。たとえ死であろうとも”。彼は自己犠牲の道を選んだ。それは我々にはなじみのある、イエス・キリストへの信仰のために自らの命を他の人々のために捧げた聖なる殉教者の伝記として。しかし、返事を受け取ることはなかった。6月25日、金曜日、午前5時、彼は逮捕され、数か月に渡って拷問をうけた。

 

ゴザド主教の逮捕の前日、6月24日、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、ナチはレジャッキー村の成人33人を銃殺し、14人の子どもたちをドイツに強制的に連れ去った。村はあとかたもなく壊滅した。

 

1942年9月3日、チェコ東方正教会の代表者たちの審理がプラハで行われた。翌、1942年9月4日、ゴザド主教、ヴァ―ツラフ・チクル司祭、長老会の議長であるヤン・ソネヴェンドはプラハのコビリッシィ地区の処刑場で午後2時35分、射撃分隊によって処刑された。第2司祭、ウラジミール・ぺトリック司祭は、翌日、1942根9月5日、正午に処刑された。ドイツのゲシュタポ(秘密警察)はテレジンの小要塞にさらに263人のチェコ国籍で、パラシュート隊員たちを支援したと逮捕された人たちを集めた。1942年10月22日、彼らはマウスハウゼン強制収容所へ移送され、10月24日、1日で全員が射殺された。その中には我々の教会の信徒会、プラハ2区、レソロヴァ9、の9人も含まれていた。

マリー・シクローヴァ:聖堂の首席司祭の妻

マリー・グルジノーヴァ:ゴザド主教の秘書であり、聖歌隊のメンバー

マリー・ソネヴァンドーヴァ:長老会の議長の妻

ルドミラ・リソーヴァ:旧姓ソネヴァンドーヴァ、聖歌隊のメンバー

ヴァーツラフ・オルネスト:聖堂の聖具室係

フランチスカ・オルネストーヴァ:聖堂の聖具室係の妻

ミルゼ・オルネストーヴァ:聖具室係の娘、聖歌隊・青年グループメンバー

カレル・ロウダ:聖歌隊のメンバー

マリー:ロウドーヴァ:聖歌隊と青年グループのメンバー

 

 1942年9月27日、ボヘミアとモラビアの保護領総督は命令を下した。それによって、チェコ東方正教会は閉鎖され、財産はドイツに没収された。東方正教会の司祭たちはゲシュタポに連れ去られ、ドイツで強制労働をさせられた。そして信者たちは彼らの司祭たちを奪われた。東方正教会は13人の最愛の息子と娘を失った。

 

 ゴザドはモラビア、シレジアの最初の東方正教会の主教であり、その殉教は、この地域での彼の21年に渡る聖職を乱暴に終結させた。我々の教会の信者と司祭たちは、主教とともに、彼らの人々と国家のために、その未来を信じて自らを犠牲にしたのだ。1987年、ゴザド主教は地方東方正教会によって聖者としてたたえられた。

 

 戦後直ちに、チェコの世論は、これらすべてのハイドリヒ暗殺の犠牲に対して、すぐさま偉大な畏敬と感謝を与えた。そのときに書かれたものだが、“チェコ人が畏敬の念を持って接しなくてはならない2つの記念すべき場所がある:リディツェ村と聖キリルとメソジウス教会である”。訴えは次のようなものであった“東方正教は、完全に解放されたチェコの人々のための巡礼の場になっているという功績によって、この場所こそが、最初のすさまじい一撃が、我々の国民的抵抗運動に与えられた場所であった”。(“人々の権利”NO.33、1945年6月19日、と“小さな教会による偉大な行動”プラハ、1945年27頁)

 

 やがて、多くのことは忘れられていく。もしくは多くのことを忘れるべきだともくろまれてきた。しかし今日、我々は大きな声で、また誇りを持って宣言することができる。それはまさに小さな教会による偉大な行動である。ギリシアの宣教師として我々の国家、民主主義、そして文化をもたらした聖キリルとメソジウスの伝説を1000年後に再びよみがえらせたのだ。聖キリルとメソジウスの仕事が、その時代のモラヴィア王国に偉大な貢献をしたように、小さな東方正教会の行動は我々の共和国にファシズムの暴力に対して精神的な勝利をもたらしたのだ。

 

 スラブ民族、チェコ、そしてギリシアの旧教会の祈り、―それは人間の勇気、悪に対する葛藤、犠牲と高潔を後世に伝える現場で持たれた礼拝の間に行われていた―は聞き届けられた。こうして今日の行為は、象徴的かつ精神的に、遠く、そして近い過去の両方を結合、関係づけられる。人々は毎日、記念の飾り額に花を飾り、過去に対する畏敬の念を記憶し続けるだろう。

 

 

 


ハイドリヒ暗殺の英雄たちの国民的記念碑―聖キリルとメソジウス教会 プラハ

2017-09-27 22:26:25 | チェコ

2002年、ハイドリヒ暗殺というチェコスロヴァキアのレジスタンス行動の60周年記念行事として

新しい国民的記念碑―和解の場として

聖キリルとメソジウス教会と関連施設が整備されました。

A Place of Reconciliation とは 「和解の場」という日本語のなるのでしょうか

どういった和解なのか、何を、そして誰とだれが和解するのかという疑問をぬぐいさることができなまま

年月だけが過ぎ去って行きましたが、

改めて歴史的できごとをどう理解するのかということだと思わされます。

教会を見学した際に、タイトルのパンフレットがあり、英語版をいただいてきました。

日本語で紹介されたものは某週刊誌の旅レポート者のコピーだったのとても残念に思いました。

そのパンフに掲載されていた資料や写真などは

プレートとなって展示室でみることができるようになっているようです。

プラハ城からみたブルタヴァ川とプラハ市街

この美しい街を守るための苦しく悲しいたたかいがあったことを

胸にきざみたい

 

                     〈表紙 p1〉

〈p2〉                  〈p3〉Table of Contents/ 目次  

 

〈p4〉A NEW NATIOAL MEMORIAL ーA PLACE OF RECONCILIATION

〈P6〉A GREAT ACT BY A SMALL CHURCH

〈P8〉                    〈P9〉

 

〈P10〉               〈P11〉

〈P12〉                         〈P13〉

 

*****************************************

 〈P14〉A HISTORY OF THE ORTHODOX CATHEDRAL    〈P15〉

〈P16〉                          〈P17〉

 

〈P18〉 THANKS TO ALL THE FOLLOWING・・・・・・

 

to be continued


ハイドリヒの暗殺 リディッツェ村の惨劇をおとずれる

2017-09-25 21:57:03 | チェコ

2004年夏 プラハからバスに乗り リディッツェ村へ

バスはガラガラ 降りたのは友人と2人

運転手のおじさんが、バスを降りたらあっちだよ

といってくれたらしい

その方向に歩いていくと

なだらかな丘の下からさわさわと風が上がってきて

なぜだか突然、全身に鳥肌がたちました

そしてその当時から村の再建・再現が試みられ

アウシュビッツに送られた子どもたちを偲ぶモニュメントが創られていました

 

一人ひとりの表情まで再現したいと時間をかけた製作が続きます。

Hiroshima City 大量殺戮の悲劇にみまわれた町として広島市と姉妹都市になっています。

                       帰りのバス停の傍には実りを迎えた麦畑が広がっていました。

                     友人と私は無言でその麦畑の前にたたずんでいたのです。

                                                 リディッツェ村

                                                                 to be continued


聖キリルとメソジウス教会 プラハ

2017-09-24 23:45:55 | チェコ

「ハイドリヒを撃て」を観た興奮から覚めることのできない自分がいます

私が友人とはじめてプラハを訪れたのはなんと2004年夏

すでに13年が経過しています。

しかし、その時に聖キリルとメソジウス教会をおとずれた衝撃は忘れ難く、

今を生きる私たちができること―平和な日本が平和であり続け、平和のリーダーとして世界で尊敬される地位を持つために頑張ります―みたいなメッセージを書いておいてきました。

  

 

2年後の冬に行ったときには、プラハはEUに加盟し、観光案内も整備されて街もきれいで明るくなっていました。

 

教会はクリスマスの礼拝が厳かに行われていました。

こうした年月を、監督はこの映画をつくるために専心していたのですね。

今ではツアーの観光地として大勢の人が訪れ、多くの写真がサイトにアップされています。

この出会いを今の私なりに向き合って考えを整理したいと考えます。

 

National Memorial to the Heroes of the Heydrich Terror

NATIONAL MEMORIAL TO THE HEROES OF THE hEYDRICH TERROR

 


「ハイドリヒを撃て」 ― Anthropoid  

2017-09-03 14:49:29 | 映画

ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦(邦題)

チェコ・イギリス・フランスの共同制作

原題「Anthropoid」(類人猿)はナチスの高官、プラハ総督(代理)であったハイドリヒ暗殺計画の作戦名

☆映画のストーリーにふれています(ご容赦ください)

チェコスロヴァキア(当時)は1938 年「ミュンヘン会談」でイギリス・フランスが

ナチスドイツの領土要求に譲歩したことによって事実上、解体された。

チェコは「ボヘミア・モラヴィア保護領」としてドイツの支配下におかれ

(スロヴァキアには傀儡政権が樹立された)

政府はイギリス・ロンドンに亡命した。

※チェコ空軍の闘いを描いた「ダーク・ブルー」ではヨーロッパ有数の空軍はたたかわずして翼をもがれた…とあります。

ナチスの高官、ラインハルト・ハイドリヒは、「ユダヤ人問題の最終的解決」=絶滅政策の主要な計画遂行者だった。

保護領監督代理としてプラハに赴任して以降、徹底的な弾圧による支配で「金髪の野獣」と呼ばれていた。

亡命政府からの指示でラインハルト・ハイドリヒの暗殺の使命をおび、

パラシュート部隊のメンバー(キリアン・マーフィー演じるヨゼフ・ガプチ―クとジェイミー・ドーナン演じるヤン・クビシュ)は国内にのこるレジスタンスのメンバーと連絡をとるべく、プラハ郊外に降り立った。

その壮絶なたたかいをショーン・エリス監督(脚本・撮影)がスクリーンに再生した。

15年間の歳月をかけて資料を読みこみ、当時の空気や息遣いまでも伝わってくる。

暗殺計画は失敗したが、ハイドリヒは重傷を負い1942年6月4日に死亡する。

そしてプラハ市民・レジスタンスへの徹底的な弾圧と拷問により、

隠れ家としていた聖キリルとメソジスト教会で最後を迎える。

ハインドリヒの死に怒り狂ったヒトラーはパラシュート部隊員の出身者を生んだ

プラハ郊外のリディッツエ村を絶滅させる。

16歳以上の男性は全員射殺され、女性と子どもたちは全員アウシュビッツに送り込まれた。

そして・・・・・・

ミュンヘン会談の協定は破棄され、イギリスは連合国として参戦する。

第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアはヨーロッパに国を取り戻すが、

東西冷戦によりソ連の介入、プラハの春事件へと

チェコの人々の苦難は続いた。

暗殺事件、そしてリディッツエ村の悲劇から75年

この悲劇を生み出した背景について

深く考えざるをえなかった。

聖キリルとメソジスト教会、リディッツエ村に行った者として

改めて哀悼と敬意を表したい。

主人公を演じたキリアン・マーフィーがすばらしい。

「麦の穂をゆらす風」でアイルランド独立のたたかいに身を投じる青年を演じた。

ストイックな役柄に、透き通った瞳が意思の強さを表わしていて

今後も大いに活躍してほしい

ここまで読んでくださった方へ「ダーク・ブル―」も是非ご覧ください。

こちらは宮崎駿さんも推薦しており、ジブリからDVDが出ています。

 


スラブの魂を描く~ミュシャ展@新國立美術館

2017-04-13 23:40:19 | チェコ

 世界初の海外展示

ミュシャの描いた大作「スラブ叙事詩」が国立新美術館で開催されています。

それにしてもきれいな青です

スラブ民族が乗り越えてきた闘いの歴史を

血みどろで描くのではなく、怒りと不安をひとりひとりの農民や市民の

表情や情景いを丁寧に描いています

  

それにしても大作

入場前からすごい人の列で混雑していました

写真が許可されている部屋があって

驚きました

いっせいにスマホやデジカメの灯りがついて

絵をみるのもちょっと苦労しました

プラハのミュシャ博物館ではパリ時代の

アールヌーボー作品が中心に展示されていました。

入口で支配人が

「こんにちは」と出迎えてくださいました

いかに日本人観光客が多いかですよね

プラハ・ミュシャ博物館のHP ↓

http://www.mucha.cz/index3.phtml?S=home&Lang=JP

国立新美術館のミュシャ展の紹介 ↓

http://www.mucha2017.jp/slav/index.html#link

スラブ叙事詩の作品などを口実に

民族主義者だとナチ・ゲシュタポに逮捕され、命を縮めたミュシャ

今の時代は彼の眼にはどのように映るでしょうか


Criminal -- evLove Kevin Costner

2017-03-13 23:08:23 | 映画

久しぶりにKevin Costnerをスクリーンで見ることができる

嬉しくなってしまいました。

主役とはいえ

Criminal(犯罪者)

しかも

愛されて育てらなかったために

人に対する感情を持つことができない

怒りと憎しみ以外には

という特異な性格の犯罪者

彼にしては珍しい汚れ役です

それでもやっぱりKevin Cは素敵でした

 

東西冷戦後も戦争と言う狂気から逃れられない世界

抑止政策はさらなる狂気を呼び起こし

スイッチひとつで核ミサイルを発射できるシステムは

それ自体、地獄の門への扉なのだ

そのソフトを戦略に組み込もうとするテロリスト

それは果たして正義なのか

疑問をかかえて自由になろうとする若者を救うため

CIAエージェントは闘い、命を落とす

そのエージェントの脳の記憶をKevin演じる犯罪者ジェリコにコピーする

彼は幼い頃、父親に車から放り出され前頭葉の一部が破壊されているのだ

そこにコピーされた記憶が彼の人格に影響を及ぼしていく

****

Criminal

犯罪者とは……

狂気を生みだしている者たちのことではないのか

そして愛情に満ちた温かな記憶は

新しい人生を導いていく

そこに希望があるのだ

****

脳に他人の記憶をコピーするなんてあり得ない話でも

KCなら必ずハッピーエンド

ですよね

トミー・リー・ジョーンズとの共演ですから

必見と勢い込んでおりましたが

上映映画館が少なく、客入りも今一つでした。

CMも予告編もなく、??

配給会社に今後も頑張ってほしいと思います

****

I'm crazy about Kevin Costner.

I'll try to get a qualification of Toeic score and Eiken.

dreaming of talking with him someday!!

 


ダメだしの連続でも「おいしい!」バタートップ

2017-03-12 22:29:20 | おいしいものづくり

ぱんづくりは先週から「中級」になり、あんぱんの生地づくりから「たたく」ことを教わりました。

見よう見まねでやってみたものの、先生の音とは全く違う音

先生がトン・トン

私はパサッ・ピタッ

って感じでした

丁寧に何度も「コツ」をおしえていただきましたが

一向においしそうな音にはならず

「突然できるようになったりするのよね」っと優しくなぐさめていただきました

そして今回はバターを上にのせた「バタートップ」

計量した生地を混ぜる時は大きな塊にならないように切るようにして混ぜる

こねてバターを入れたら巻いてこする

発酵が終わったららガス抜きはパンパンと

…などなど…工程ごとにダメだし

必死にやってるんもかかわらず前に進んでいませんでしたのね

そう言えば先週も「間違ったまま、うちで何度もやると間違ったまま身に着いちゃうんですよ」

先生がいってたのは私のことだったのね

わかることと、できることは違うのね

そして250グラムの生地をこねあげて

やきあがりました「バタートップ」

ちょっと写真と違いますが大きく膨らんでいます

そして翌日トーストにしました

「おいしい!」カリッとしてバターの香りがふわっと広がります

 

 


パンづくりンの修行 クルミパンと葡萄の食パン

2017-02-14 22:37:01 | おいしいものづくり

笹塚のブーランジェリー「コンビビアリテ」でパンづくりの修行中

ポイントはこすること、こねること、そして低温発酵で1時間

基礎コースは9種類のパンを作ります

2回目はチーズツイストとクルミパン

ツイストはゴーダチーズをたっぷり練りこんで、「うまい!」

クルミパンにはたっぷりのくるみ 手で砕いていれます。刻むと脂がでてしまうので…なるほど

5か所の切り込みがあっちこっちむいて、やんちゃな風車みたいになりました

 

そして葡萄食パンは大きくくるんで型に入れ、焼きました

外の皮はパリっと中はふんわり

これぞ食パン!!

自画自賛ではございますが

たいへんおいしくできあがりました

コンビビアリテの教室はこちらから

http://www17.tok2.com/home/convivialite/index.htm