何年も温めていたパンフレットの和約に挑戦してみました(英文パンフは先月アップしました)
以下、目次とは順序を入れ替え、事件の経過からアップします。
*********************
聖キリルとメソディウス東方正教会 プラハ
ハイドリヒ暗殺の英雄たちを偲ぶ国民的記念碑
目次
新たな国民的記念碑 4
小さな教会による偉大な行動 6
東方正教 大聖堂の歴史 14
小さな教会による偉大な行動
1941年9月27日、チェコの国土がファシストドイツに占領されてから2年が経過していた。親衛隊大将で警察庁長官のラインハルト・ハイドリヒはナチスドイツ帝国で最も恐れられた男の一人だった。ハイドリヒはボヘミアとモラビア保護領の護民官に任命された。
彼がプラハに来た理由は、ファシストドイツに対する抵抗運動のわずかな気配さえ鎮圧するとともに、チェコ国民を、ドイツ化、再定住、虐殺というもっとも激しい方法で粛清するというヒトラーの計画を開始することだった。彼の残忍な手法は、非共産主義者の抵抗運動にも妥協を許さず、ロンドンの亡命政府による軍事的な行動を支援する具体的な手段をとらせた。1941年にスコットランドで重要な使命が準備されて以降、英国空軍の支援をうけて、多くのチェコスロヴァキアのパラシュート隊員たちがチェコスロヴァキアに降下した。最初の成功がかなったのは、“アンソロポイド:類人猿(ヤン・クビシュ軍曹とヨゼフ・ガブチーク軍曹による)”と“シルバーA:銀A(アルフレッド・バロス中尉とヨゼフ・ヴァルイック軍曹、イリ・ポトウジェック伍長)”が1941年12月28日の夜から29日にかけて降下した時だった。“類人猿“の任務はハイドリヒを暗殺することであり、“銀A”は諜報集団だった。クビシュとガブチークは多くの抵抗運動のメンバーの援助を受けて彼らの任務遂行のための準備をした。
ハイドリヒ暗殺の企ての軍事作戦は、1942年5月27日、水曜日、午前10時30分に実行された。プラハのリーベン地域のⅤホレショビッツ通りの曲がり角だった。ヴァルイック軍曹の援助で(彼は鏡で合図を送った)、ハイドリヒの車への攻撃はガブチーク軍曹(彼はトミーガンを撃とうとしたが故障していた)とクビシュ軍曹(手榴弾を車に投げ入れた)によって実行された。ハイドリヒは手榴弾が爆発した破片で背中を負傷し、その傷がもとで1942年6月4日に死亡した。
Kurt Daluegeは、今や臨時の帝国護民官となり、チェコ人に対する空前の規模のテロを爆発させた。国民的な抵抗運動が広がることを止め、深刻な損害を国民に負わせ、そして物質的にも道徳的にも破壊することを企図していた。1000万クローネ(コルネ)の報償が加害者の居場所や行方を告げることに対して申し出られた。ハイドリヒの追悼式―6月7日、プラハ―に続いて、ベルリンで6月9日に葬儀が執り行われた後、ナチの激怒は最高潮に達し、リディツェ村の破壊が行われた。1942年6月10日、リディツェは完全に破壊された。リディツェの惨劇は340人の命を犠牲にした。173人の男性たちはその場で撃たれた、さらに26人のリディツェの住民は後にプラハで処刑された。88人の子どもたちは、ポーランドで殺され、53人の女性たちは強制収容所で死んだ。プラハにおけるハイドリヒ暗殺は、ヨーロッパでドイツファシズムに征服された国による抵抗運動の最初の軍事行動であり、戦勝者ヒトラーに対する最初の一撃だった。
軍事作戦が実行される前にパラシュート隊員たちのもっとも親しい仲間たちは彼らがどこに隠れることができるかについて考えた。隠れ場所を見つける仕事を委ねられた人たちの一人、ペト・ファフェクは結核協会で働いていた。同じ事務所で働いていたヤン・ソネヴェンドは、プラハのレソロヴァ通りにある聖キリルとメソディウス教会の長老評議会の監督官だった。ファフェクはヤン・ソネヴェンドに、警察に登録されていない人たちをかくまうために助けてほしい、それは祖国のためなのだと訴えた。ソネヴェンドがその問題をチェコ東方正教会の司祭、ウラジミール・ぺトレック師にうちあけ、議論しているときに、パラシュート隊員たちを一時的に教会の地下聖堂にかくまうことを思いついた。ハイドリヒへの軍事作成が行われた後、もう一人のパラシュート隊員、ヤン・ゼレンカ‐ハイスキーという名の同志がソネヴェンド同志とぺトレック師を訪れ、計画の遂行とパラシュート隊員たちが到着することを伝えた。両人は計画に同意した。1942年5月30日、ヤン・クビシュ軍曹が最初に隠れ家に到着した。続いてヨゼフ・ガブチーク軍曹、アドルフ・オパルカ中尉、ヨゼフ・ヴァルチク軍曹、ヤロスラブ・シュヴァルク軍曹、ヨゼフ・ブブリーク軍曹、そしてヤン・ハルビィ軍曹が着いた。ぺトレック司祭は一人ひとりのパラシュート隊員たちを迎え入れ、食べ物と新聞を彼らのために手に入れた。そして多くの時間を彼らとの会話に費やした。そして暗殺未遂に関係した人々や友人たちと連絡をとる仲介者として行動した。彼はまたクビシュをメガネ屋のミラダ・フラントーヴァに検査を受けるために隠れ家から外へ連れ出した。東方正教会の司教、ヴァーツラフ・チクルと聖具室係のヴァーツラフ・オルネストはかくまわれているパラシュート隊員について、後になるまで知らなかった。ゴザード主教(マチェィ・パヴリク)は、チェコ東方正教会を復活させた人だが、彼はパラシュート隊員たちが地下聖堂にかくまわれていることを1942年6月11日に知らされた。個人も、抵抗運動のグループも双方がパラシュート隊員たちを支援した。最終的に、毎日のように行われた処刑と恐怖政治の抑圧のもとで、一人のパラシュート隊員、カレル・チュルダが同志たちを裏切った。彼は暗殺計画に関与していなかったし、仲間がどこにかくまわれているかについて知らなかったが、膨大な量の情報をドイツに密告した。
6月18日、午前2時、聖キリルとメソディウス東方正教会を包囲するよう、命令が下った。ゲシュタポは800人の兵士を7人のパラシュート隊員たちにむけて配置した。360人はプラハSS(親衛隊)の護衛大隊だった。作戦は午前4時15分から始まった。命令は、パラシュート隊員たちを生きたまま捕虜にすることだった。3人の隊員(オパルカ、クビシュ、ブブリーク)は、午前7時まで教会の身廊で防衛した。彼らは倒れ、地下聖堂がいったん発見されると激しい攻撃が行われた。残った4人の隊員たち(ヴァルチーク、ガブチーク、シュヴァルク、そしてハルビィ)は、最後までたたかい続けた。4発の銃弾を自分たちのために残して。
聖堂の激しいたたかいの間、ウラジミール・ぺトリック司祭とヴァ―ツラフ・チクル司祭、長老会の議長であるヤン・ソネヴェンド、そして聖具室係のヴァ―ツラフ・オルネストらは家族とともに逮捕された。ゴザド主教はすぐに逮捕者と聖堂への激しい攻撃について知らされた。翌日、1942年6月19日、彼はすぐに3通の手紙を書いた。ヤロスラブ・クレイーチ首相、エマニュエル・モラヴェック・教育・国民文化大臣、そして護民官事務所宛てに。教会を守り、逮捕者の生命を守るために、そしてテロによる犠牲を終わらせるために。彼は書いた。“私の人々が証言をしたことについて認め、私はいかなる処罰も受ける覚悟をしています。たとえ死であろうとも”。彼は自己犠牲の道を選んだ。それは我々にはなじみのある、イエス・キリストへの信仰のために自らの命を他の人々のために捧げた聖なる殉教者の伝記として。しかし、返事を受け取ることはなかった。6月25日、金曜日、午前5時、彼は逮捕され、数か月に渡って拷問をうけた。
ゴザド主教の逮捕の前日、6月24日、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、ナチはレジャッキー村の成人33人を銃殺し、14人の子どもたちをドイツに強制的に連れ去った。村はあとかたもなく壊滅した。
1942年9月3日、チェコ東方正教会の代表者たちの審理がプラハで行われた。翌、1942年9月4日、ゴザド主教、ヴァ―ツラフ・チクル司祭、長老会の議長であるヤン・ソネヴェンドはプラハのコビリッシィ地区の処刑場で午後2時35分、射撃分隊によって処刑された。第2司祭、ウラジミール・ぺトリック司祭は、翌日、1942根9月5日、正午に処刑された。ドイツのゲシュタポ(秘密警察)はテレジンの小要塞にさらに263人のチェコ国籍で、パラシュート隊員たちを支援したと逮捕された人たちを集めた。1942年10月22日、彼らはマウスハウゼン強制収容所へ移送され、10月24日、1日で全員が射殺された。その中には我々の教会の信徒会、プラハ2区、レソロヴァ9、の9人も含まれていた。
マリー・シクローヴァ:聖堂の首席司祭の妻
マリー・グルジノーヴァ:ゴザド主教の秘書であり、聖歌隊のメンバー
マリー・ソネヴァンドーヴァ:長老会の議長の妻
ルドミラ・リソーヴァ:旧姓ソネヴァンドーヴァ、聖歌隊のメンバー
ヴァーツラフ・オルネスト:聖堂の聖具室係
フランチスカ・オルネストーヴァ:聖堂の聖具室係の妻
ミルゼ・オルネストーヴァ:聖具室係の娘、聖歌隊・青年グループメンバー
カレル・ロウダ:聖歌隊のメンバー
マリー:ロウドーヴァ:聖歌隊と青年グループのメンバー
1942年9月27日、ボヘミアとモラビアの保護領総督は命令を下した。それによって、チェコ東方正教会は閉鎖され、財産はドイツに没収された。東方正教会の司祭たちはゲシュタポに連れ去られ、ドイツで強制労働をさせられた。そして信者たちは彼らの司祭たちを奪われた。東方正教会は13人の最愛の息子と娘を失った。
ゴザドはモラビア、シレジアの最初の東方正教会の主教であり、その殉教は、この地域での彼の21年に渡る聖職を乱暴に終結させた。我々の教会の信者と司祭たちは、主教とともに、彼らの人々と国家のために、その未来を信じて自らを犠牲にしたのだ。1987年、ゴザド主教は地方東方正教会によって聖者としてたたえられた。
戦後直ちに、チェコの世論は、これらすべてのハイドリヒ暗殺の犠牲に対して、すぐさま偉大な畏敬と感謝を与えた。そのときに書かれたものだが、“チェコ人が畏敬の念を持って接しなくてはならない2つの記念すべき場所がある:リディツェ村と聖キリルとメソジウス教会である”。訴えは次のようなものであった“東方正教は、完全に解放されたチェコの人々のための巡礼の場になっているという功績によって、この場所こそが、最初のすさまじい一撃が、我々の国民的抵抗運動に与えられた場所であった”。(“人々の権利”NO.33、1945年6月19日、と“小さな教会による偉大な行動”プラハ、1945年27頁)
やがて、多くのことは忘れられていく。もしくは多くのことを忘れるべきだともくろまれてきた。しかし今日、我々は大きな声で、また誇りを持って宣言することができる。それはまさに小さな教会による偉大な行動である。ギリシアの宣教師として我々の国家、民主主義、そして文化をもたらした聖キリルとメソジウスの伝説を1000年後に再びよみがえらせたのだ。聖キリルとメソジウスの仕事が、その時代のモラヴィア王国に偉大な貢献をしたように、小さな東方正教会の行動は我々の共和国にファシズムの暴力に対して精神的な勝利をもたらしたのだ。
スラブ民族、チェコ、そしてギリシアの旧教会の祈り、―それは人間の勇気、悪に対する葛藤、犠牲と高潔を後世に伝える現場で持たれた礼拝の間に行われていた―は聞き届けられた。こうして今日の行為は、象徴的かつ精神的に、遠く、そして近い過去の両方を結合、関係づけられる。人々は毎日、記念の飾り額に花を飾り、過去に対する畏敬の念を記憶し続けるだろう。