白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコックBillecocq神父様の説教
2021年5月31日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日、パリ教区では、ノートルダム大聖堂の聖別式(献堂式)を祝う日なのです。毎年、お祝いする献堂式の記念日というのは人に例えるとちょうど洗礼を受けた日を祝うことと似ています。教会あるいは大聖堂の献堂式というのは、天主に奉献された日であり、天主のために聖別された日となります。そして、聖別されたら、毎年この献堂式の日を祝い、そうすることによって、最初の聖別を想いだして祝うのです。
さて、天主のために教会を聖別して奉献する理由とは何です?教会の献堂式とは非常に古い儀式なのです。旧約聖書において既にありました。というのも、神殿は聖別されるようにと天主は命じたからです。そして、ソロモン王は神殿を造ると荘厳に献堂式がささげられました。そして、そのあと、毎年、この献堂式を祝う習慣もありました。
バビロンへの追放の間、神殿は破壊されました。そして、Zorobabelゾロバベルの時代、ヘブライ人はパレスチナに帰れた暁に、新しい神殿が造られましたが、もう一度天主のために聖別されて、献堂式が挙げられました。このように前例に従って、カトリック教会は天主のための建物であるすべての教会を聖別すべきだと決定しました。
そのため、司教は教会を聖別しますが、かなり荘厳な長い典礼となります。献堂式の時、教会を聖別するだけではなくて、祭壇をも聖別します。それから、教会の壁へ聖水を投げて、また教会の柱に聖油を塗るのです。ここの教会においてもすぐ見られます。それぞれの柱には十字架のしるしがあるかと思います、塗油された場所です。柱は12本あります。12人の使徒を象徴する柱です。
教会の柱である使徒たちを象徴します。また、聖別の日、それぞれの柱の十字架しるしの前に、特別な蝋燭が点されます。また、教会の中の地面には、灰に書かれた十字架に、司教がラテンとギリシャの文字を書いて、この教会は天主の物だよということを示す式などもあります。
要するに献堂式というのはとても荘厳で壮麗な祝いであり、その記念日はずっと重視されて大切にされました。なぜでしょうか?
教会は神殿だからです。そして神殿は宝石箱なのです。言いかえると安置するための場所なのです。つまり、宝石箱よりも偉大な立派な大切な物を安置するための場所だということです。聖別された宝石箱であり、聖なる宝石箱となります。つまり、いとも貴重な宝石箱となります。
なぜなら、それ(宝石)よりもいとも貴重な物を納まっているからです。二つの貴重なものが教会に安置されています。王の王であるイエズス・キリストです。ご聖体におけるご現存によってです。そして、さらにいうと、ご現存によってイエズス・キリストは体現されておられるすべての玄義も入れられてあります。それは、至上の玄義であるミサ聖祭も含めてです。祭壇上に再現される十字架上の聖なる生贄というミサ聖祭です。
この世において、地上では、我々と一緒にましまし給うイエズス・キリストより偉大なものは存在しません。また、この世において、地上では、イエズス・キリストのご現存に伴う聖なる生贄より偉大なものは存在しません。イエズス・キリストと十字架上の生贄は一体化しています。また、ご現存(ご聖体)と十字上の生贄の再現、ひいてはミサ聖祭は教会においていとも聖なるように行われているわけです。
ですから、ご聖体もミサ聖祭もあらゆるものごとより神聖で、何よりもいとも聖なる事柄なので、それを行うために、安置するために、いとも聖なる宝石箱が必要となります。聖別された宝石箱が必要となります。このように、叙階式の時、ミサ聖祭ひいてはイエズスご自身を捧げるために特別に聖別されて奉献される司祭と同じように、ご現存であるご聖体を安置するために、そしてミサ聖祭が行われるために、教会も聖別されます。
ですから、いと愛する兄弟の皆様、教会は天主の神殿です。神殿に入ったら天主を畏怖すべきです。ですから、教会に入るためには畏敬を抱かなければならないのです。そうするために、カトリック教会は教会への入堂のためにいくつかの規定を制定しました。態度と服装に関する規定です。聖別された神殿なので、聖なる場所だからです。我々は天主に対して畏敬を示さなければなりません。
こういった畏敬は内面的であるのです。しかしながら、われわれは霊魂と肉体の一体なので、外面的にも示すために、具体的な仕業や行為で体現します。ですから、教会内ではたべてはいけない、しゃべってはいけない、躾よく礼儀正しく振舞うべき所以です。また、典礼において、座り、跪き、立ち上がりなどの動きも義務化されているのはそのためです。聖なる神殿であるからです。また聖なる神殿において、いとも聖なる行いとご現存があるからです。
いと愛する兄弟の皆様、献堂式を祝ったりするのは、それよりも大事な玄義を理解するために存在します。本日の福音(献堂式の記念ミサ)において語られている玄義です。お分かりのように、本日の福音は神殿の献堂式についてではありませんでした。普通に考えたら、なにか旧約聖書の献堂などといった朗読があるだろうと期待してもいいですね。献堂式の記念日ですから。
しかしながら、そうなっていないのです。本日の福音(ルカ、19)は、ザアカイの家へのイエズス・キリストの訪問となります。カトリック教会はなぜこの福音を今日置いたでしょうか?我々に何を思い起こさせるためでしょうか?
簡単です。岩から建てられた神殿が存在すれば、それよりも貴重な大事な神殿があるよということを思い起こさせるためです。肉体からなる神殿です。我々の身体のことです。聖寵によって、我々の身体は聖霊の神殿となっています。我々も、洗礼を受けた日に、聖霊のために聖別され奉献された神殿となりました。洗礼の時、水は注がれたことによって、聖なる三位一体がわれわれの霊魂において入りましたが、我々は天主の物となりました。
しかしながら、思い出しましょう。洗礼の儀礼の時、司祭は他に何をやるでしょうか?司祭は受洗者の身体に聖油を塗ったのです。教会の柱に聖油を塗る司教と全く同じ意味です。このように、我々は身体においても霊魂においても天主の物となりました。身体も霊魂も奉献されました。またこのように、霊魂に対しても身体に対しても、我々は身体と霊魂に値する畏敬を払われなければなりません。ですから、質素で慎み深い態度で振舞い、つつましく上品な服装を全うする義務はそこから生じます。我々は聖霊の神殿だからです。
教会内での規定は、我々がどこでもいつでも守らなければならないのです。聖霊の神殿であることを忘れてはいけません。カトリック信徒ならだれでも、どこにいようとも、天主の神殿であるので、その分の尊厳と畏敬が必要です。ほら、考えてください。教会などの聖なる場所に対し、力を尽くして大切にしているのと同様に、我々一人一人も聖霊の神殿としてそのように力を尽くして大切にしなければならないのです。我々の身体をも尊厳に全うして畏敬して精華させるべきです。
いと愛する兄弟の皆様、現代のカトリック教会の不幸はそこにあります。特に、典礼の改革の最も大きな弊害は天主への畏敬、畏怖、それから天主に値する荘厳、尊厳を表すようなすべてのことごとを排除したことはもっとも不幸なことです。
それ以降、建てられた神殿はもはや何の神聖さを発揮しなくなったし、聖職者ですら神聖や聖なることを体現しなくなったわけです。残念ながら司祭服などを排除することによって行われた非神聖化が進められました。そして、次はどうなったでしょうか?当然と言ったら当然ですが、平信徒も司祭の模範に従ってどんどん下品にだらだらとなっていきました。それは当然です。天主への畏怖も、教会への畏敬も、自分自身への畏敬もなくなったからです。
いと愛する兄弟の皆様、本日、パリの大聖堂、ノートルダム大聖堂の聖別記念日を祝います。大聖堂は焼かれたことがみ摂理の御業であるかもしれません。少なくとも天主の御手にある出来事であったことに違いありません。
ノートルダム大聖堂の破壊という悲劇は、我々に何が思い起こさせるでしょうか?はい、ノートルダム大聖堂の火災は悲劇です。惨事です。
第一の教訓は、岩から造られた神殿は永遠のために創られたのではないということ教えがあります。いずれか、岩からの神殿は破壊されます。この世に、我々に霊魂の世話のために存在する岩の神殿です。それは覚えておくべき第一の教訓です。
そして、こういった火災は天主が許可されたのですが、ちなみに、世界中の多くの人々はノートルダム大聖堂の火災をみて、その尖塔の落下をみて泣き出したわけです。悲劇ですから。しかしながら、天主はその火災を許可したわけです。それは、冒涜などの忌まわしい行為にたいして天主がいずれか罰することを忘れないように、思い起こさせるためです。
ここにいう冒とくは新しいミサであれ、エキュメニカルなどの儀式であれ、数多すぎるほどあります。天主のみ前に嫌悪される酷い冒涜の行為です。そういった冒涜行為が行われる場所である天主の神殿を傷つける行為です。これら冒涜行為は神殿を汚すのです。
ですから、そこに教訓があります。天主はこのような火災を強化することがあったら、我々が天主に対して無礼なこと、侮辱などの行為、罪を犯すことにおいて、特に身体上の慎みを破って、淫乱の罪にかかる行為に対しても、天罰を下ることもあることを忘れてはいけません。永遠に地獄で焼く霊魂がいることを天主は許可しています。
ですから、いと愛する兄弟の皆様、畏敬や畏怖を軽くしたら大変なことになります。聖書にしるされているように「天主を馬鹿にして罰せられずに済まぬものだ」。天主を馬鹿にして罰せられずに済まないものです。
典礼などにおいてその美しい規定に従って、天主の神殿に対して畏敬を払うべきですが、それよりも大事な貴重な神殿があることを忘れないでおきましょう。それは神殿となっている我々の身体です。なぜなら、身体は聖霊の神殿だからです。聖なる三位一体ひいて、聖父と聖子と聖霊は我々の内に居を構えておられるからです。
ですから、いと愛する兄弟の皆様、これらの出来事を見て、教訓を覚えておいて、実践しましょう。また聖母マリアに祈りましょう。聖別される意味、聖なる身体として奉献された意味を深く体現できるように祈りましょう。
はい、我々は洗礼によって聖別されて天主に奉献されたものです。もはや自分自分の物ではなく、天主の物であるからこそ、我々の身体を天主に値する奉献物として質素に慎みぶかく汚してはいけないのです。模範として教会をどれほど大切にしているかを参照しましょう。
また聖母マリアを見ましょう。聖母マリアこそはご出現されるたびに、特に子供の前に、聖母マリアを見た子供などは聖母マリアについて「美しき婦人」と言います。
また、多くの霊魂も回心すると、特にこの教会、聖ニコラで善くある話ですが、はじめて聖伝の典礼に与ったら、「美しい」と評価します。
同じように、いと愛する兄弟の皆様、だれも我々を見て言えるように努力しましょう。「美しい信徒」と。つまり、見た瞬間で、カトリック信徒であることが見えているように。美しいから、天主の聖なる神殿であるから。
ですから、天主への畏敬を体現する、天主の神殿である我々の身体への畏敬を実際に体現して実践するように聖母マリアに祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
天主を馬鹿にして罰せられずには済まぬ
ビルコックBillecocq神父様の説教
2021年5月31日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日、パリ教区では、ノートルダム大聖堂の聖別式(献堂式)を祝う日なのです。毎年、お祝いする献堂式の記念日というのは人に例えるとちょうど洗礼を受けた日を祝うことと似ています。教会あるいは大聖堂の献堂式というのは、天主に奉献された日であり、天主のために聖別された日となります。そして、聖別されたら、毎年この献堂式の日を祝い、そうすることによって、最初の聖別を想いだして祝うのです。
さて、天主のために教会を聖別して奉献する理由とは何です?教会の献堂式とは非常に古い儀式なのです。旧約聖書において既にありました。というのも、神殿は聖別されるようにと天主は命じたからです。そして、ソロモン王は神殿を造ると荘厳に献堂式がささげられました。そして、そのあと、毎年、この献堂式を祝う習慣もありました。
バビロンへの追放の間、神殿は破壊されました。そして、Zorobabelゾロバベルの時代、ヘブライ人はパレスチナに帰れた暁に、新しい神殿が造られましたが、もう一度天主のために聖別されて、献堂式が挙げられました。このように前例に従って、カトリック教会は天主のための建物であるすべての教会を聖別すべきだと決定しました。
そのため、司教は教会を聖別しますが、かなり荘厳な長い典礼となります。献堂式の時、教会を聖別するだけではなくて、祭壇をも聖別します。それから、教会の壁へ聖水を投げて、また教会の柱に聖油を塗るのです。ここの教会においてもすぐ見られます。それぞれの柱には十字架のしるしがあるかと思います、塗油された場所です。柱は12本あります。12人の使徒を象徴する柱です。
教会の柱である使徒たちを象徴します。また、聖別の日、それぞれの柱の十字架しるしの前に、特別な蝋燭が点されます。また、教会の中の地面には、灰に書かれた十字架に、司教がラテンとギリシャの文字を書いて、この教会は天主の物だよということを示す式などもあります。
要するに献堂式というのはとても荘厳で壮麗な祝いであり、その記念日はずっと重視されて大切にされました。なぜでしょうか?
教会は神殿だからです。そして神殿は宝石箱なのです。言いかえると安置するための場所なのです。つまり、宝石箱よりも偉大な立派な大切な物を安置するための場所だということです。聖別された宝石箱であり、聖なる宝石箱となります。つまり、いとも貴重な宝石箱となります。
なぜなら、それ(宝石)よりもいとも貴重な物を納まっているからです。二つの貴重なものが教会に安置されています。王の王であるイエズス・キリストです。ご聖体におけるご現存によってです。そして、さらにいうと、ご現存によってイエズス・キリストは体現されておられるすべての玄義も入れられてあります。それは、至上の玄義であるミサ聖祭も含めてです。祭壇上に再現される十字架上の聖なる生贄というミサ聖祭です。
この世において、地上では、我々と一緒にましまし給うイエズス・キリストより偉大なものは存在しません。また、この世において、地上では、イエズス・キリストのご現存に伴う聖なる生贄より偉大なものは存在しません。イエズス・キリストと十字架上の生贄は一体化しています。また、ご現存(ご聖体)と十字上の生贄の再現、ひいてはミサ聖祭は教会においていとも聖なるように行われているわけです。
ですから、ご聖体もミサ聖祭もあらゆるものごとより神聖で、何よりもいとも聖なる事柄なので、それを行うために、安置するために、いとも聖なる宝石箱が必要となります。聖別された宝石箱が必要となります。このように、叙階式の時、ミサ聖祭ひいてはイエズスご自身を捧げるために特別に聖別されて奉献される司祭と同じように、ご現存であるご聖体を安置するために、そしてミサ聖祭が行われるために、教会も聖別されます。
ですから、いと愛する兄弟の皆様、教会は天主の神殿です。神殿に入ったら天主を畏怖すべきです。ですから、教会に入るためには畏敬を抱かなければならないのです。そうするために、カトリック教会は教会への入堂のためにいくつかの規定を制定しました。態度と服装に関する規定です。聖別された神殿なので、聖なる場所だからです。我々は天主に対して畏敬を示さなければなりません。
こういった畏敬は内面的であるのです。しかしながら、われわれは霊魂と肉体の一体なので、外面的にも示すために、具体的な仕業や行為で体現します。ですから、教会内ではたべてはいけない、しゃべってはいけない、躾よく礼儀正しく振舞うべき所以です。また、典礼において、座り、跪き、立ち上がりなどの動きも義務化されているのはそのためです。聖なる神殿であるからです。また聖なる神殿において、いとも聖なる行いとご現存があるからです。
いと愛する兄弟の皆様、献堂式を祝ったりするのは、それよりも大事な玄義を理解するために存在します。本日の福音(献堂式の記念ミサ)において語られている玄義です。お分かりのように、本日の福音は神殿の献堂式についてではありませんでした。普通に考えたら、なにか旧約聖書の献堂などといった朗読があるだろうと期待してもいいですね。献堂式の記念日ですから。
しかしながら、そうなっていないのです。本日の福音(ルカ、19)は、ザアカイの家へのイエズス・キリストの訪問となります。カトリック教会はなぜこの福音を今日置いたでしょうか?我々に何を思い起こさせるためでしょうか?
簡単です。岩から建てられた神殿が存在すれば、それよりも貴重な大事な神殿があるよということを思い起こさせるためです。肉体からなる神殿です。我々の身体のことです。聖寵によって、我々の身体は聖霊の神殿となっています。我々も、洗礼を受けた日に、聖霊のために聖別され奉献された神殿となりました。洗礼の時、水は注がれたことによって、聖なる三位一体がわれわれの霊魂において入りましたが、我々は天主の物となりました。
しかしながら、思い出しましょう。洗礼の儀礼の時、司祭は他に何をやるでしょうか?司祭は受洗者の身体に聖油を塗ったのです。教会の柱に聖油を塗る司教と全く同じ意味です。このように、我々は身体においても霊魂においても天主の物となりました。身体も霊魂も奉献されました。またこのように、霊魂に対しても身体に対しても、我々は身体と霊魂に値する畏敬を払われなければなりません。ですから、質素で慎み深い態度で振舞い、つつましく上品な服装を全うする義務はそこから生じます。我々は聖霊の神殿だからです。
教会内での規定は、我々がどこでもいつでも守らなければならないのです。聖霊の神殿であることを忘れてはいけません。カトリック信徒ならだれでも、どこにいようとも、天主の神殿であるので、その分の尊厳と畏敬が必要です。ほら、考えてください。教会などの聖なる場所に対し、力を尽くして大切にしているのと同様に、我々一人一人も聖霊の神殿としてそのように力を尽くして大切にしなければならないのです。我々の身体をも尊厳に全うして畏敬して精華させるべきです。
いと愛する兄弟の皆様、現代のカトリック教会の不幸はそこにあります。特に、典礼の改革の最も大きな弊害は天主への畏敬、畏怖、それから天主に値する荘厳、尊厳を表すようなすべてのことごとを排除したことはもっとも不幸なことです。
それ以降、建てられた神殿はもはや何の神聖さを発揮しなくなったし、聖職者ですら神聖や聖なることを体現しなくなったわけです。残念ながら司祭服などを排除することによって行われた非神聖化が進められました。そして、次はどうなったでしょうか?当然と言ったら当然ですが、平信徒も司祭の模範に従ってどんどん下品にだらだらとなっていきました。それは当然です。天主への畏怖も、教会への畏敬も、自分自身への畏敬もなくなったからです。
いと愛する兄弟の皆様、本日、パリの大聖堂、ノートルダム大聖堂の聖別記念日を祝います。大聖堂は焼かれたことがみ摂理の御業であるかもしれません。少なくとも天主の御手にある出来事であったことに違いありません。
ノートルダム大聖堂の破壊という悲劇は、我々に何が思い起こさせるでしょうか?はい、ノートルダム大聖堂の火災は悲劇です。惨事です。
第一の教訓は、岩から造られた神殿は永遠のために創られたのではないということ教えがあります。いずれか、岩からの神殿は破壊されます。この世に、我々に霊魂の世話のために存在する岩の神殿です。それは覚えておくべき第一の教訓です。
そして、こういった火災は天主が許可されたのですが、ちなみに、世界中の多くの人々はノートルダム大聖堂の火災をみて、その尖塔の落下をみて泣き出したわけです。悲劇ですから。しかしながら、天主はその火災を許可したわけです。それは、冒涜などの忌まわしい行為にたいして天主がいずれか罰することを忘れないように、思い起こさせるためです。
ここにいう冒とくは新しいミサであれ、エキュメニカルなどの儀式であれ、数多すぎるほどあります。天主のみ前に嫌悪される酷い冒涜の行為です。そういった冒涜行為が行われる場所である天主の神殿を傷つける行為です。これら冒涜行為は神殿を汚すのです。
ですから、そこに教訓があります。天主はこのような火災を強化することがあったら、我々が天主に対して無礼なこと、侮辱などの行為、罪を犯すことにおいて、特に身体上の慎みを破って、淫乱の罪にかかる行為に対しても、天罰を下ることもあることを忘れてはいけません。永遠に地獄で焼く霊魂がいることを天主は許可しています。
ですから、いと愛する兄弟の皆様、畏敬や畏怖を軽くしたら大変なことになります。聖書にしるされているように「天主を馬鹿にして罰せられずに済まぬものだ」。天主を馬鹿にして罰せられずに済まないものです。
典礼などにおいてその美しい規定に従って、天主の神殿に対して畏敬を払うべきですが、それよりも大事な貴重な神殿があることを忘れないでおきましょう。それは神殿となっている我々の身体です。なぜなら、身体は聖霊の神殿だからです。聖なる三位一体ひいて、聖父と聖子と聖霊は我々の内に居を構えておられるからです。
ですから、いと愛する兄弟の皆様、これらの出来事を見て、教訓を覚えておいて、実践しましょう。また聖母マリアに祈りましょう。聖別される意味、聖なる身体として奉献された意味を深く体現できるように祈りましょう。
はい、我々は洗礼によって聖別されて天主に奉献されたものです。もはや自分自分の物ではなく、天主の物であるからこそ、我々の身体を天主に値する奉献物として質素に慎みぶかく汚してはいけないのです。模範として教会をどれほど大切にしているかを参照しましょう。
また聖母マリアを見ましょう。聖母マリアこそはご出現されるたびに、特に子供の前に、聖母マリアを見た子供などは聖母マリアについて「美しき婦人」と言います。
また、多くの霊魂も回心すると、特にこの教会、聖ニコラで善くある話ですが、はじめて聖伝の典礼に与ったら、「美しい」と評価します。
同じように、いと愛する兄弟の皆様、だれも我々を見て言えるように努力しましょう。「美しい信徒」と。つまり、見た瞬間で、カトリック信徒であることが見えているように。美しいから、天主の聖なる神殿であるから。
ですから、天主への畏敬を体現する、天主の神殿である我々の身体への畏敬を実際に体現して実践するように聖母マリアに祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
聖母の汚れ無き御心教会の献堂式の動画です。フィリピン イロイロ島