白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
プーガPuga神父様の説教
2021年5月5日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、イタリアの北部、トリノとジェノヴァの間に小さな村があります。マレンゴです。歴史を少し知っている人なら、マレンゴと言われたら、ナポレオンが皇位に就く際においておそらく一番決定的な戦いでした(1800年)。まだ第一執政官だった時期のナポレオンはオーストリアに対して勝利しました。その結果、アミアンの平和条約が結ばれて、それから、元老院はナポレオンをナポレオン一世、フランス人の皇帝として任命することになり、ご存じのように1804年になって、フランス人の皇帝としてノートルダムにおいて、教皇ピオ7世の司式の下、戴冠式(即位式)は行われました。
そして、有名な場面は、皇帝冠を戴く時、本来の儀礼を破って、ナポレオンは勝手に皇帝冠を教皇の手から取って、自ら自分の頭に置きました。なぜ、この話を今日やるかというと、ナポレオンの死から200周年を機に、フランスにおいてナポレオン一世を記念する人々が現れたからですが、また、本日の祝日の聖人との関連を思い起こしたいと思います。教皇聖ピオ5世です。彼はマレンゴとどういった関係をもつのでしょうか?
1504年、教皇聖ピオ5世はマレンゴに生まれました。つまり、マレンゴでオーストリア軍と戦っていたナポレオンは戦場からまだ教皇になっていなかったピオ5世が建設させた教会を見たことでしょう。その教会は自分が死んだら生まれた故郷にその遺体を収める為の教会でした。ただし、教皇として選定されることなどまだぜんぜん知らなかった時の建設でした。
なぜ、こういった関連をご紹介することにしたのでしょうか?比較的つましい家庭に生まれ、14歳の時、ドミニコ修道会に入ったアントニオ・ギスリエーリ(後の聖ピオ五世)の運命はかなり抜群だったからです。彼の才能、優秀さ、それから善徳の実践によって、カトリック教会の位階を少しずつ昇進していきました。24歳、司祭となりました。そして間もなくして司教となって、トレント公会議に参加しました。そして、枢機卿となってから、1566年、教皇に選ばれました。偉大な教皇であり、カトリック教会の歴史の中で重要な役割を果たした教皇です。彼の信仰は確たるもので、深かっただけではなく、信仰を正しく良く世へ伝えていくように非常に気を配った教皇でした。
聖職者の階級を昇っていった教皇聖ピオ5世は非常に深い不安をもつようになっていきました。昇進するたびに、「我が霊魂を救えるのか」と悩み、おそれながら昇進してゆきました。要するに、昇進すればするほど、彼は救霊に関する不安が増えていったのです。聖ピオ5世の言葉によると、「司祭だった時、何とか救われるようにやってみようと思いました。司教になった時、救われたらいいのにと思うようになりました。枢機卿になった時、自分の救霊を考えて心配でならなかったのです。教皇になった時、もう永久に業罰を受けることはほぼ疑うことができないでしょう」と聖ピオ5世は言っていました。なぜなら、彼は天主の前に覆っていた大きな責任を深く認識して自覚していたからです。つまり、個人の人としての責任ではなく、与えられた権威と権力、権限などによる大きな責任を深く深く自覚していたからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/4e/a62b9963e9481b0ed91388ea5cf2bb11.png)
ちなみに、昔は、教皇の即位式があり、教皇は冠を戴いていました。それはともかく、即位式の際、人々に担われた教皇坐の上、教皇が座って行列する儀式がありましたが。その時、人々の歓呼を浴びながら教皇の前に彼に向っていた十字架がありました。そして、それよりも教皇の前に一人の聖職者が歩いていました。彼は、行列の際、頻繁に教皇へ振り向いて、麻屑をとりあげて、それに火につけました。ご存じのように、麻屑に火をつけると一瞬で焼けて消えます。そして、これをやりながら、聖職者は「Sic transeat gloria mundi」と言いました。「この世の栄光はこのように過ぎ去るよ」と。
愛する兄弟の皆さま、指導している人々の責任を考えてみると恐ろしいです。司祭なり、司教なり、教皇なり、あるいは世俗の指導者も同様に、彼らの天主の前の責任を考えると怯えるのです。というのも、こういった立場にある人々は、死んだときに自分の霊魂をどうしたかと聞かれるだけではありません。結婚された方なら、妻と子供の霊魂をどうしたかと聞かれるだけではありません。天主はさらに、「預かった多くの霊魂たちはどう世話したか」と聞かれるからです。
聖ピオ5世は少なくとも、死んで裁判に臨まれた時、自分の弁護のために「この地位を望んだことはなかったのです」と言えました。はい、聖ピオ5世は教皇として選ばれた時、当時の他の枢機卿は皆、驚いて意外だったという。ちなみに、ドミニコ修道会の一員でしたので、教皇になってもドミニコ修道会の白衣を捨てることがなくて、このままにドミニコ修道会の白衣を纏ったままになりました。そのことから、現代までも歴代教皇は白衣を纏う慣行ができました。聖ピオ5世は教皇になろうともしませんでした。
それと打って変わって、現代によく見える権力や権威、地位と身分のために野望と切りのない競争をみると恐ろしいです。彼らは死んだら、いったいなぜこのような責任を追及されるかを後悔するでしょう。責任を覆おうとしたのはどれほど狂気の沙汰だったかを自覚するでしょう。「Sic transeat gloria mundi」。「この世の栄光はこのように過ぎ去るよ」。
ナポレオン一世は教皇を侮辱して、傲慢にも自分は力ずくで皇帝になったぞと自慢しながらノートルダムから出ましたが、結局、ナポレオンは可哀そうにすべてを失って失敗ばかりで、敗北したまま、若くして、病気で、小さな孤島で一人ぼっちでなくなっていきました。まあ、最期になって、秘跡に与ったといわれてはいますがどうでしょうか。まあ、可能ではありますが、19世紀中葉に出来上がったナポレオン神話によって美化されたところが少なくないので、そういった神話を鵜呑みにしてはいけません。まあ、その可能性は否定しませんが、ナポレオンの責任を考えるとなんて恐ろしい!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/6d/bf64cd72fa02f893f5e1c355a17dfdd8.jpg)
ナポレオンの戦争や政治のせいで、革命思想、また近代の病を全欧州に広まってしまいました。また、死者でいうと、とんでもなく多くの人々が彼のせいで死にました。はい、天主の前に、それと逆に、教皇聖ピオ5世は自分の責任について深く認識して自覚していました。ご存じのように、改革は聖ピオ十世の働きが大きかったです。厳密に言うと、トレント公会議が決定した改革を聖ピオ5世は実施したにすぎません。聖ピオ5世はトレント公会議が終了してからの最初の教皇だったからです。ことに典礼の改革は有名ですね。改革といっても、もちろん第二ヴァチカン公会議のあとに起きたような改革と全く異質です。トレント公会議の典礼の改革の目的は、単に信仰を復興するために、典礼において聖伝に沿った精神が改めて重視されるように、強調されるようにするための改革でした。
というのも、多くの教区において、数多くの付属儀礼などが追加されたり、場所によっては本来の典礼から歪みも出てきたりして、信仰を妨げたところがあったのです。聖ピオ5世はこのように、現代に至って我々がまだ使っているミサ典書を編成された教皇です。このミサ典書の旨はローマカトリックにおいてすべてのミサの原型になるように、ローマにおいて捧げられた典礼に基づいて編成されました。もちろん、近代的な発想はなかったので、一律に他のすべての典礼は廃止されたわけではありません。一定程度古い典礼だったら、改めなくても許可されていました。例えば、アンブローズ典礼あるいはドミニコ修道会典礼、あるいはガリカン典礼、あるいはとても古いシャルトル典礼などは今でも残っています。聖伝ドミニコ修道会でミサに与ったことがある方、小さなところで典礼はこことちょっと違うことに気づいたでしょう。
聖ピオ5世はつまり、このような叡智を破滅させることもなく、単に、典礼を復興することが目的でした。改革というより、1570年の教皇勅書、『Quod Primum』は復興だと言った方が正しいでしょう。また、なぜローマの典礼を原型にしたかというと、ローマの行われていた典礼こそがカトリック教義、カトリック信仰を一番優れた形で表現されていたからだという理由でした。ちなみに、聖ピオ5世はドミニコ修道会出身だったので、ローマ典礼は「自分」の典礼でもなかったわけですね。つまり、キリストの生贄とミサの時のその再現を一番表す典礼だったから選ばれました。
ご存じのように、プロテスタントの異端による一番著しい誤謬は生贄についてでした。この結果、祭壇の方向を変えたり、逆さまにしたり、典礼を徹底的に変えたり、言語を方言に訳したり、ご現存を否定したり、司祭職を否定したりしました。それに対して、トレント公会議はそれぞれの誤謬に対して教義を再断言して、典礼においても戒律においても司祭職においても、本来の本質が保たれるように整理整頓しておきました。
そして、典礼について、聖ピオ5世は命令しました。ローマの典礼はラテン圏の全域に捧げる「生命」という原則をたてました。なぜなら、ローマの典礼こそが聖なる生贄であるミサに関するカトリック教義を一番完璧に表現する典礼だからです。そして、この命令は永続に有効であると聖ピオ5世は宣言しました。また、「このミサ典書を改革する人に呪いあれ!」と聖ピオ5世は誡めたほどです。
要約すると、教皇、聖ピオ5世は典礼の改革によって知られています。聖ピオ5世について有名であるもう一点は、トルコ民とイスラム教の欧州への進行に対する心配でした。当時、オスマン帝国は地中海の海岸のほぼ全域を支配していました。ところが、地中海というと、中心なる交通海路と貿易海路で、皆、通っていた海でした。そして、オスマン帝国系のガレー船は地中海の商船や町を攻撃したり、掠奪したり、キリスト教徒を拉致して奴隷にさせたりしました。それは今に始まったことではありませんでしたが、16世紀になるとオスマン帝国の海上覇権は天辺に立って、会場の治安は非常に悪かったのです。
聖ピオ5世はこういった拉致や治安の問題を解決するために、カトリックの諸侯、王々を呼びかけて、聖なる同盟を組み、オスマン帝国の海軍による地中海の侵略を食い止めるように要請しました。この結果、かの有名なるレパント海戦に至ります。聖ピオ5世がいなかったのなら、このような同盟は実現しなかったと思われます。つまり、カトリック同士の喧嘩は絶えなかったので、聖ピオ5世は「これらの喧嘩や対立を一旦捨てて、いま深刻な状況であるので、しっかりしろ。多くの霊魂の救いはあなたたちの行為にかかっている」というような呼びかけでした。このように、聖ピオ5世はこの同盟の設立のために貢献して、そして、オスマン帝国に対して宣戦して、レパント海戦という決戦に至ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/ae/21373af01d661cbdeb90025d94396d10.jpg)
さきほど、ナポレオンについてマレンゴの戦がありましたが、今度はレパント海戦ですね。この意味で、聖ピオ5世も歴史上の有名な決戦の主要人物でした。しかしながら、革命思想を広く流すためのマレンゴ戦とは打って変わって、レパント海戦はイスラム教の侵略から欧州を守るためでした。
レパント海戦のために、聖ピオ5世には武器がありました。
ご存じのように、ナポレオンは最初、砲兵隊の中尉でしたが、ナポレオンはその後、多くの凱旋や勝利を抑えた一つの理由はナポレオンが戦略上、大砲などの運用に秀でていたからと言われています。聖ピオ5世の大砲はナポレオンとの大砲とかなり異なる趣きでありました。イスラム教の侵略に対する十字軍を打ち勝つために、聖ピオ5世はキリスト教圏全域に、ロザリオの十字軍を行うように命令しました。つまり、ロザリオという祈りを推奨して、オスマン帝国と戦っていく諸侯のために祈っていったのです。
そして、1571年10月7日、その日はレパント海戦の日でしたが、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子にあたるドン・フアンが率いた艦隊はアドリア海の出口あたりで、オスマン艦隊を長くさがしていましたが、いよいよ接触しました。ギリシャの南にある、コリントとギリシャとの間で、パトラ湾に両艦隊が接触しました。日曜日の朝でした。パトラ湾に臨むレパント港を出たばかりのオスマン艦隊はいきなり前に現れました。キリスト教の海軍は不利な状況で海戦に臨みました。艦隊の規模ではなかったのです。というのも、戦艦数でいうと神聖同盟の方は多少に多かったですが、不利でした。なぜなら、太陽に向かっていて眩しかったからです。戦闘隊形をとるために太陽を前にせざるを得ませんでした。さらにいうと、風に逆らっていました。逆に、オスマン帝国の艦隊は風が有利となって、太陽も有利となって、戦いに臨むための最高の状況にありました。
そこで、戦いが始まる前、従事司祭もいましたので、戦艦で多くのミサが捧げられて、軍人たちは告解して聖体拝領しておきました。そして、攻撃開始の瞬間の時、オーストリアのドン・フアンの戦艦に、十字架上のキリストの御旗が高く揚げられました。オスマン帝国の将軍、アリ・パシャの戦艦にはイスラム教を象徴する新月旗が揚げられました。かなり激しい衝突となりました。そこで、海戦の時に不思議なことが起きました。急に、風向きが逆となったのです。つまり、風が逆の方向性に吹き出します。急に。キリスト教の艦隊にとって不利だったところから、海戦がはじまった瞬間に有利となりました。このおかげで、数時間後には、オスマン帝国の艦隊を壊滅させました。壊滅させたということはつまり、海戦を勝っただけではなく、オスマン帝国の地中海への覇権を決定的にやぶり、その覇権は終焉を告げて、二度と同じ軍力までオスマン帝国が回復することはなかったということです。
そのとき、ローマにいた聖ピオ5世は海戦の日に天啓を受けました。つまり、レパント海戦の展開を見ていました。そして、勝利したことをも見ました。この勝利を受けて、聖ピオ5世は10月7日、「ロザリオの聖母マリア」という祝日を設定しました。レパント海戦の奇跡的な勝利を祝うためでした。ですから、聖ピオ5世から我々は多くの恩をいただき、立派な勇気のある教皇でした。また、彼の模範を仰いで、我々も多くの教訓を得られるのではないでしょうか?
聖ピオ5世はローマでつましい環境で質素に亡くなられました。今でも、ローマに行ったら聖ピオ5世の墓はあります。サン・ピエトロ大聖堂ではなく、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の中の小聖堂にあります。天主のみ前に聖ピオ5世は出廷された時、多くの手柄や実りを果たしたうえで亡くなり主の前に出られた幸いな者でした。「Sic transeat gloria mundi」。「この世の栄光はこのように過ぎ去るよ」。
自尊心のため、自分の栄光のため、野望のため、地位、権力を望む者に不幸あれ。いずれか、天主の前に総決算の時が来ます。その責任、やったことが問われる時がきます。我々一人一人も、それぞれの立場で程度の多少はあるものの、それぞれ責任がありますので、こういったことを考えると我々も恐れずにいられません。
今日、5月5日、聖ピオ5世の祝日ですが、また聖母マリアの月である五月なので、それを機に、現代の困難と試練の中に生きている我々のために聖ピオ五世を取りなしに、聖母マリアの加護を希いました。レパント海戦の時、風の方向を奇跡的に逆にされてキリスト教徒を勝たせた聖母マリアに祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ナポレオン、聖ピオ5世とマレンゴ
プーガPuga神父様の説教
2021年5月5日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、イタリアの北部、トリノとジェノヴァの間に小さな村があります。マレンゴです。歴史を少し知っている人なら、マレンゴと言われたら、ナポレオンが皇位に就く際においておそらく一番決定的な戦いでした(1800年)。まだ第一執政官だった時期のナポレオンはオーストリアに対して勝利しました。その結果、アミアンの平和条約が結ばれて、それから、元老院はナポレオンをナポレオン一世、フランス人の皇帝として任命することになり、ご存じのように1804年になって、フランス人の皇帝としてノートルダムにおいて、教皇ピオ7世の司式の下、戴冠式(即位式)は行われました。
そして、有名な場面は、皇帝冠を戴く時、本来の儀礼を破って、ナポレオンは勝手に皇帝冠を教皇の手から取って、自ら自分の頭に置きました。なぜ、この話を今日やるかというと、ナポレオンの死から200周年を機に、フランスにおいてナポレオン一世を記念する人々が現れたからですが、また、本日の祝日の聖人との関連を思い起こしたいと思います。教皇聖ピオ5世です。彼はマレンゴとどういった関係をもつのでしょうか?
1504年、教皇聖ピオ5世はマレンゴに生まれました。つまり、マレンゴでオーストリア軍と戦っていたナポレオンは戦場からまだ教皇になっていなかったピオ5世が建設させた教会を見たことでしょう。その教会は自分が死んだら生まれた故郷にその遺体を収める為の教会でした。ただし、教皇として選定されることなどまだぜんぜん知らなかった時の建設でした。
なぜ、こういった関連をご紹介することにしたのでしょうか?比較的つましい家庭に生まれ、14歳の時、ドミニコ修道会に入ったアントニオ・ギスリエーリ(後の聖ピオ五世)の運命はかなり抜群だったからです。彼の才能、優秀さ、それから善徳の実践によって、カトリック教会の位階を少しずつ昇進していきました。24歳、司祭となりました。そして間もなくして司教となって、トレント公会議に参加しました。そして、枢機卿となってから、1566年、教皇に選ばれました。偉大な教皇であり、カトリック教会の歴史の中で重要な役割を果たした教皇です。彼の信仰は確たるもので、深かっただけではなく、信仰を正しく良く世へ伝えていくように非常に気を配った教皇でした。
聖職者の階級を昇っていった教皇聖ピオ5世は非常に深い不安をもつようになっていきました。昇進するたびに、「我が霊魂を救えるのか」と悩み、おそれながら昇進してゆきました。要するに、昇進すればするほど、彼は救霊に関する不安が増えていったのです。聖ピオ5世の言葉によると、「司祭だった時、何とか救われるようにやってみようと思いました。司教になった時、救われたらいいのにと思うようになりました。枢機卿になった時、自分の救霊を考えて心配でならなかったのです。教皇になった時、もう永久に業罰を受けることはほぼ疑うことができないでしょう」と聖ピオ5世は言っていました。なぜなら、彼は天主の前に覆っていた大きな責任を深く認識して自覚していたからです。つまり、個人の人としての責任ではなく、与えられた権威と権力、権限などによる大きな責任を深く深く自覚していたからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/4e/a62b9963e9481b0ed91388ea5cf2bb11.png)
ちなみに、昔は、教皇の即位式があり、教皇は冠を戴いていました。それはともかく、即位式の際、人々に担われた教皇坐の上、教皇が座って行列する儀式がありましたが。その時、人々の歓呼を浴びながら教皇の前に彼に向っていた十字架がありました。そして、それよりも教皇の前に一人の聖職者が歩いていました。彼は、行列の際、頻繁に教皇へ振り向いて、麻屑をとりあげて、それに火につけました。ご存じのように、麻屑に火をつけると一瞬で焼けて消えます。そして、これをやりながら、聖職者は「Sic transeat gloria mundi」と言いました。「この世の栄光はこのように過ぎ去るよ」と。
愛する兄弟の皆さま、指導している人々の責任を考えてみると恐ろしいです。司祭なり、司教なり、教皇なり、あるいは世俗の指導者も同様に、彼らの天主の前の責任を考えると怯えるのです。というのも、こういった立場にある人々は、死んだときに自分の霊魂をどうしたかと聞かれるだけではありません。結婚された方なら、妻と子供の霊魂をどうしたかと聞かれるだけではありません。天主はさらに、「預かった多くの霊魂たちはどう世話したか」と聞かれるからです。
聖ピオ5世は少なくとも、死んで裁判に臨まれた時、自分の弁護のために「この地位を望んだことはなかったのです」と言えました。はい、聖ピオ5世は教皇として選ばれた時、当時の他の枢機卿は皆、驚いて意外だったという。ちなみに、ドミニコ修道会の一員でしたので、教皇になってもドミニコ修道会の白衣を捨てることがなくて、このままにドミニコ修道会の白衣を纏ったままになりました。そのことから、現代までも歴代教皇は白衣を纏う慣行ができました。聖ピオ5世は教皇になろうともしませんでした。
それと打って変わって、現代によく見える権力や権威、地位と身分のために野望と切りのない競争をみると恐ろしいです。彼らは死んだら、いったいなぜこのような責任を追及されるかを後悔するでしょう。責任を覆おうとしたのはどれほど狂気の沙汰だったかを自覚するでしょう。「Sic transeat gloria mundi」。「この世の栄光はこのように過ぎ去るよ」。
ナポレオン一世は教皇を侮辱して、傲慢にも自分は力ずくで皇帝になったぞと自慢しながらノートルダムから出ましたが、結局、ナポレオンは可哀そうにすべてを失って失敗ばかりで、敗北したまま、若くして、病気で、小さな孤島で一人ぼっちでなくなっていきました。まあ、最期になって、秘跡に与ったといわれてはいますがどうでしょうか。まあ、可能ではありますが、19世紀中葉に出来上がったナポレオン神話によって美化されたところが少なくないので、そういった神話を鵜呑みにしてはいけません。まあ、その可能性は否定しませんが、ナポレオンの責任を考えるとなんて恐ろしい!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/6d/bf64cd72fa02f893f5e1c355a17dfdd8.jpg)
ナポレオンの戦争や政治のせいで、革命思想、また近代の病を全欧州に広まってしまいました。また、死者でいうと、とんでもなく多くの人々が彼のせいで死にました。はい、天主の前に、それと逆に、教皇聖ピオ5世は自分の責任について深く認識して自覚していました。ご存じのように、改革は聖ピオ十世の働きが大きかったです。厳密に言うと、トレント公会議が決定した改革を聖ピオ5世は実施したにすぎません。聖ピオ5世はトレント公会議が終了してからの最初の教皇だったからです。ことに典礼の改革は有名ですね。改革といっても、もちろん第二ヴァチカン公会議のあとに起きたような改革と全く異質です。トレント公会議の典礼の改革の目的は、単に信仰を復興するために、典礼において聖伝に沿った精神が改めて重視されるように、強調されるようにするための改革でした。
というのも、多くの教区において、数多くの付属儀礼などが追加されたり、場所によっては本来の典礼から歪みも出てきたりして、信仰を妨げたところがあったのです。聖ピオ5世はこのように、現代に至って我々がまだ使っているミサ典書を編成された教皇です。このミサ典書の旨はローマカトリックにおいてすべてのミサの原型になるように、ローマにおいて捧げられた典礼に基づいて編成されました。もちろん、近代的な発想はなかったので、一律に他のすべての典礼は廃止されたわけではありません。一定程度古い典礼だったら、改めなくても許可されていました。例えば、アンブローズ典礼あるいはドミニコ修道会典礼、あるいはガリカン典礼、あるいはとても古いシャルトル典礼などは今でも残っています。聖伝ドミニコ修道会でミサに与ったことがある方、小さなところで典礼はこことちょっと違うことに気づいたでしょう。
聖ピオ5世はつまり、このような叡智を破滅させることもなく、単に、典礼を復興することが目的でした。改革というより、1570年の教皇勅書、『Quod Primum』は復興だと言った方が正しいでしょう。また、なぜローマの典礼を原型にしたかというと、ローマの行われていた典礼こそがカトリック教義、カトリック信仰を一番優れた形で表現されていたからだという理由でした。ちなみに、聖ピオ5世はドミニコ修道会出身だったので、ローマ典礼は「自分」の典礼でもなかったわけですね。つまり、キリストの生贄とミサの時のその再現を一番表す典礼だったから選ばれました。
ご存じのように、プロテスタントの異端による一番著しい誤謬は生贄についてでした。この結果、祭壇の方向を変えたり、逆さまにしたり、典礼を徹底的に変えたり、言語を方言に訳したり、ご現存を否定したり、司祭職を否定したりしました。それに対して、トレント公会議はそれぞれの誤謬に対して教義を再断言して、典礼においても戒律においても司祭職においても、本来の本質が保たれるように整理整頓しておきました。
そして、典礼について、聖ピオ5世は命令しました。ローマの典礼はラテン圏の全域に捧げる「生命」という原則をたてました。なぜなら、ローマの典礼こそが聖なる生贄であるミサに関するカトリック教義を一番完璧に表現する典礼だからです。そして、この命令は永続に有効であると聖ピオ5世は宣言しました。また、「このミサ典書を改革する人に呪いあれ!」と聖ピオ5世は誡めたほどです。
要約すると、教皇、聖ピオ5世は典礼の改革によって知られています。聖ピオ5世について有名であるもう一点は、トルコ民とイスラム教の欧州への進行に対する心配でした。当時、オスマン帝国は地中海の海岸のほぼ全域を支配していました。ところが、地中海というと、中心なる交通海路と貿易海路で、皆、通っていた海でした。そして、オスマン帝国系のガレー船は地中海の商船や町を攻撃したり、掠奪したり、キリスト教徒を拉致して奴隷にさせたりしました。それは今に始まったことではありませんでしたが、16世紀になるとオスマン帝国の海上覇権は天辺に立って、会場の治安は非常に悪かったのです。
聖ピオ5世はこういった拉致や治安の問題を解決するために、カトリックの諸侯、王々を呼びかけて、聖なる同盟を組み、オスマン帝国の海軍による地中海の侵略を食い止めるように要請しました。この結果、かの有名なるレパント海戦に至ります。聖ピオ5世がいなかったのなら、このような同盟は実現しなかったと思われます。つまり、カトリック同士の喧嘩は絶えなかったので、聖ピオ5世は「これらの喧嘩や対立を一旦捨てて、いま深刻な状況であるので、しっかりしろ。多くの霊魂の救いはあなたたちの行為にかかっている」というような呼びかけでした。このように、聖ピオ5世はこの同盟の設立のために貢献して、そして、オスマン帝国に対して宣戦して、レパント海戦という決戦に至ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/ae/21373af01d661cbdeb90025d94396d10.jpg)
さきほど、ナポレオンについてマレンゴの戦がありましたが、今度はレパント海戦ですね。この意味で、聖ピオ5世も歴史上の有名な決戦の主要人物でした。しかしながら、革命思想を広く流すためのマレンゴ戦とは打って変わって、レパント海戦はイスラム教の侵略から欧州を守るためでした。
レパント海戦のために、聖ピオ5世には武器がありました。
ご存じのように、ナポレオンは最初、砲兵隊の中尉でしたが、ナポレオンはその後、多くの凱旋や勝利を抑えた一つの理由はナポレオンが戦略上、大砲などの運用に秀でていたからと言われています。聖ピオ5世の大砲はナポレオンとの大砲とかなり異なる趣きでありました。イスラム教の侵略に対する十字軍を打ち勝つために、聖ピオ5世はキリスト教圏全域に、ロザリオの十字軍を行うように命令しました。つまり、ロザリオという祈りを推奨して、オスマン帝国と戦っていく諸侯のために祈っていったのです。
そして、1571年10月7日、その日はレパント海戦の日でしたが、神聖ローマ皇帝カール5世の庶子にあたるドン・フアンが率いた艦隊はアドリア海の出口あたりで、オスマン艦隊を長くさがしていましたが、いよいよ接触しました。ギリシャの南にある、コリントとギリシャとの間で、パトラ湾に両艦隊が接触しました。日曜日の朝でした。パトラ湾に臨むレパント港を出たばかりのオスマン艦隊はいきなり前に現れました。キリスト教の海軍は不利な状況で海戦に臨みました。艦隊の規模ではなかったのです。というのも、戦艦数でいうと神聖同盟の方は多少に多かったですが、不利でした。なぜなら、太陽に向かっていて眩しかったからです。戦闘隊形をとるために太陽を前にせざるを得ませんでした。さらにいうと、風に逆らっていました。逆に、オスマン帝国の艦隊は風が有利となって、太陽も有利となって、戦いに臨むための最高の状況にありました。
そこで、戦いが始まる前、従事司祭もいましたので、戦艦で多くのミサが捧げられて、軍人たちは告解して聖体拝領しておきました。そして、攻撃開始の瞬間の時、オーストリアのドン・フアンの戦艦に、十字架上のキリストの御旗が高く揚げられました。オスマン帝国の将軍、アリ・パシャの戦艦にはイスラム教を象徴する新月旗が揚げられました。かなり激しい衝突となりました。そこで、海戦の時に不思議なことが起きました。急に、風向きが逆となったのです。つまり、風が逆の方向性に吹き出します。急に。キリスト教の艦隊にとって不利だったところから、海戦がはじまった瞬間に有利となりました。このおかげで、数時間後には、オスマン帝国の艦隊を壊滅させました。壊滅させたということはつまり、海戦を勝っただけではなく、オスマン帝国の地中海への覇権を決定的にやぶり、その覇権は終焉を告げて、二度と同じ軍力までオスマン帝国が回復することはなかったということです。
そのとき、ローマにいた聖ピオ5世は海戦の日に天啓を受けました。つまり、レパント海戦の展開を見ていました。そして、勝利したことをも見ました。この勝利を受けて、聖ピオ5世は10月7日、「ロザリオの聖母マリア」という祝日を設定しました。レパント海戦の奇跡的な勝利を祝うためでした。ですから、聖ピオ5世から我々は多くの恩をいただき、立派な勇気のある教皇でした。また、彼の模範を仰いで、我々も多くの教訓を得られるのではないでしょうか?
聖ピオ5世はローマでつましい環境で質素に亡くなられました。今でも、ローマに行ったら聖ピオ5世の墓はあります。サン・ピエトロ大聖堂ではなく、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の中の小聖堂にあります。天主のみ前に聖ピオ5世は出廷された時、多くの手柄や実りを果たしたうえで亡くなり主の前に出られた幸いな者でした。「Sic transeat gloria mundi」。「この世の栄光はこのように過ぎ去るよ」。
自尊心のため、自分の栄光のため、野望のため、地位、権力を望む者に不幸あれ。いずれか、天主の前に総決算の時が来ます。その責任、やったことが問われる時がきます。我々一人一人も、それぞれの立場で程度の多少はあるものの、それぞれ責任がありますので、こういったことを考えると我々も恐れずにいられません。
今日、5月5日、聖ピオ5世の祝日ですが、また聖母マリアの月である五月なので、それを機に、現代の困難と試練の中に生きている我々のために聖ピオ五世を取りなしに、聖母マリアの加護を希いました。レパント海戦の時、風の方向を奇跡的に逆にされてキリスト教徒を勝たせた聖母マリアに祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン