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旧約の犠牲は廃止された。イエズス・キリストの十字架上の犠牲によって。

2021年03月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十六講 旧約聖書の犠牲と我らの主、イエズス・キリストの犠牲



旧約聖書の犠牲と我らの主、イエズス・キリストの犠牲
Gabriel Billecocq神父

以前、一般的にいう犠牲とは、何であるのかを見てみました。「奉納品の破壊を伴う外的な奉献であり、これは内面的な奉献を示す祭礼」のことです。
次に、犠牲をよりよく理解するために、犠牲の四つの目的を紹介しました。第一に、礼拝そして感謝。第二、償いあるいは贖罪。第三、恩恵の希求。第四、神との一体化 あるいは一致(拝領)。

要するに、犠牲を執り行うことによって、人間が神に物質的な貴重品を捧げて、そうすることによって、その所有権を捨てて、神に属させるということで、犠牲にされる奉納品は「聖化」される(これは西洋語において犠牲の語源の意味になっている)ということです。そして、このような犠牲を捧げることによって、人間は神への依存、それから犠牲にされる犠牲者との絆を示しています。犠牲者との絆は、犠牲を捧げる人々が内面的に神に自分を奉献することを表すためです。同時に、破壊される奉納品、犠牲者を通じて、神との一体化を図る祭礼となります。

殆どの場合、どこでもいつでも犠牲において捧げられる奉納品は形を問わず破壊されています。なぜでしょうか?それは、人間は神のために、より完全な「奉納」をするためです。奉納品を破壊すると、人間は取り消すことなく、本当に、その奉納品を神に完全に譲ったよということを表すからです。

もちろん、犠牲という祭礼は主に外的な儀式となっています。奉納品を奉献するのも、奉納品の破壊も、その拝領も、身体を動かす祭礼であり、物質的な要素が多いです。しかしながら、同時に、このような外的な祭礼は内面的な犠牲を示すことでもあって、またそのように示すべきです。

天主は霊的な存在なので、霊的な犠牲を捧げる必要もあるということです。我らの主はこう仰せになりました。「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ、4、24)と。つまり、物質的な現実を通じて、霊的な現実、それから内面的な現実を表すということです。

以上、簡単に以前に見たことを要約してみました。少しだけ、犠牲の歴史を見てみましょう。この講座の目的は歴史ではないので、手短にしますが、我らの主、イエズス・キリストの犠牲をより良く理解するために、ある程度、犠牲の歴史を見ておきましょう。

まず、犠牲という現象は「自然次元」に属します(つまり、人間の本性に織り込まれている事柄で、人間にとって必須の営みです)。もちろん、カトリックにおける犠牲は超自然次元の営みでもあり、天主は超自然のレベルまで犠牲を引き上げたということですが、そうすることによって、その自然のレベルを破壊したことはなく、むしろ、その自然レベルを全くそのままに保ちながら、これを昇華するのです。言いかえると、天主の生命の働きによって、本来ならば人間の本性を越える実が結ばれることを可能にするのが天主の聖寵ということになります。

ですから、旧約聖書の時代、天主は既にヘブライ人に犠牲を要求しました。しかしながら、犠牲という祭礼はどこでもいつでもすべての宗教において存在する祭礼です。どこでもいつでも宗教というものは、お供え、犠牲、生贄などがあります。以前に定義した犠牲が必ずあります。



例えば、古代エジプト、古代メソポタミア、古代ギリシャと古代ローマなどの犠牲の歴史は資料が多く残ってよく知られています。また、アステカをはじめ、中南米の犠牲などもよく知られています。アフリカの多くの文明においても犠牲があります。アジアも一緒です。どこでもいつでも祭礼があります。というのも、祭礼を営むのは人間の本性の一部であって、人間は社会において必ず祭礼を捧げます。

というのも、創造主が存在するということは現実なので、その自覚度あるいは認識度がばらばらであるとしても、どこでもいつでも少なくとも人間を超える存在を崇拝して、礼拝を捧げる営みが存在します。人間の本性に刻まれる事柄です。どうしても創造主たる存在へ礼拝を捧げようとします。つまり、自分を創造したとされる存在へ、犠牲を通じて祭礼を捧げるのはどこでもいつでもある現象です(先祖へであろうとも、仏へであろうとも、神々へであろうとも)。

そもそも、創造主を想定して捧げられた犠牲でしたが、もちろん、歴史上に、多くの誤謬と邪道が生じて、多くの過酷なこともありましたし、間違った対象に犠牲を捧げることもありましたが、それは別の問題です。つまり、面白いことに、どれほど邪道になっても、間違っても、過酷になっても、とりあえず、人間の社会なら、どこでもいつでも、祭礼があって、犠牲という祭礼が存在するということです。人間の本性に属する要素なので、普遍的な現象になるからです。

では、なぜ悲惨な犠牲などが生じたでしょうか?それは人間が罪人であって、原罪を負っているから、どうしても人間が営む事柄において、その罪も染まってきて、本来の筋から脱線したり邪道になったりすることは多くて当然のことです。それでも、形を問わず、人間の本性に従って、人間は必ず、犠牲を捧げようとします。

いわゆる、歴史上に生じた人間の生贄、あるいは子供や赤ちゃんの生贄があったのですが、一番覚えてほしいのは、形をさておいても、以前、定義した「犠牲」、つまり「上の存在への供え物、奉納、奉献」という祭礼はいつでもどこでもあるということです。

いや、逆にいうと、現代でも新興宗教や多くのセクト、たとえば、フリーメーソンの幾つかのロッジにおいて、人間の生贄、あるいは悪魔のミサが確認されていますが、それでも犠牲なのです。ただ、「悪魔へ捧げた犠牲」になりますが、しかしながら、間違った対象になったとしても、人間は必ず犠牲を捧げる本性を持っています。それだけは変わりません。

このような悪魔のミサや人間の生贄などは、凄まじく醜く人間の本性に背く生贄になりますが、それでも逆説的に、「悪魔に感謝を捧げる」というようなことになっても、彼らが間違った対象に犠牲を捧げても、彼らは絶対視される何かへ「自分を奉献する」、あるいはその絶対化されたその存在への依存を示そうとして、犠牲の祭礼があります。

何のためにささげられるのでしょうか?残念ながら、現世利益を求めて、権力と金などを得るための犠牲になりますが、それでも犠牲であるということに関しては、人間の本性を表します。以上の悪魔へのミサは一番堕落した形の犠牲になるかと思いますが、それを語る資料などをみたら、現にひどいものですが、より広く知られているところでいうと、いくつかの「ロックバンド」は文字通りに「悪魔に自分を奉献する」祭礼を展開している現実があります。彼らは現世利益を得るために、悪魔へ犠牲を捧げ、また悪魔と一体化して、拝領しますが、悲劇的な結果となります。

しかしながら、面白いことに、どれほど間違った方向にいっても、人間の本性はかわらないのです。つまり、面白いことに、どれほどの誤謬になったとしても、誤謬自体は本質的な事柄として存在しないので、すべての誤謬は一部の真理をもっていて一部の真理を表します。たとえば、このような悪魔への犠牲の場合、「犠牲を捧げるのは人間の本性の一部である」ということを証明します。どうしても、人間が犠牲を捧げます。
問題は、善く捧げるべきだということです。
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そうするために、旧約聖書において、天主ご自身はどうやって犠牲を捧げるべきかについて細かく規定なさいました。天主は創造主であって、また犠牲が捧げられている時、天主への犠牲なので、天主ご自身が旧約聖書において犠牲を規定することになさいました。これらの規程はモーゼ法に記されています。

モーゼ法以前にももちろん犠牲はありました。例えば、カインとアベルの二つの犠牲がありますね。カインが捧げた犠牲を天主は受け入れませんでした。一方、アベルの犠牲を天主は受け入れました。言いかえると、前者の犠牲を捧げても天主の好意を得られない一方、後者の犠牲を捧げられたら天主の好意を得られるということでした。

なぜでしょうか?新約聖書は、なぜ後者は有効になっていた一方で、前者は無効だったかを説明します。それは、アベルが犠牲を捧げた時、自分の霊魂をも奉献したおかげで、外的の犠牲と内面的な犠牲は一致していたので、天主のお気に召されました。一方、カインの犠牲は外的な犠牲、形式的な犠牲のみを捧げており、自分を奉献しなかったので、天主はカインの犠牲を拒まれました。否定しました。

ただ、カインとアベルの時代には、すでに犠牲が捧げられていたということです。ノア、アブラハムなども犠牲を捧げたことが記されています。例えば、ノアの大洪水のあと、ノアは犠牲を捧げた記述もあるし、アブラハム、イサクなども一緒です。歴史と人類学の成果を見ても、どこいつも犠牲があることは確認されていますが、ヘブライ民と旧約聖書においてももちろん犠牲がありました。



そして、時代が下って、天主はモーゼに律法を与えられたとき、犠牲を細かく規定なさいました。これはいわゆる「旧法」と呼ばれる律法であり、後述しますが、イエズス・キリストによって旧法は廃止されて、もはや有効でなくなりましたが、あとでなぜどうやって廃止したかということを紹介します。

要するに、旧約聖書において天主は犠牲を規定なさいました。犠牲において、流血を伴う犠牲もあれば、流血を伴わない犠牲もありました。流血を伴わない犠牲でいうと、例えば果物の供え物とか、お香、油などを奉献する奉納でした。それで、殆どの場合、お香を焼いて、油を火になげたりしていたので、ある意味で、流血を伴わないお供え物においても、奉納品の破壊が存在しました。

それから、流血を伴う犠牲には種類が三つありました。 
第一、ホロコースト(いけにえ)がありました。
第二、罪のためのホスチア(いけにえ)がありました。
第三、平和的な犠牲がありました。

さて、それぞれを見ていきましょう。
第一、ホロコースト(いけにえ)という犠牲は奉献される奉納品の完全な破壊を意味していました。つまり、犠牲者は完全に焼かれた犠牲でした。神殿において、その犠牲のための場所があって、司祭たちはそこでホロコーストを捧げていました。つまり、犠牲者を全く残さない犠牲。

第二、罪のためのホスチアと呼ばれる犠牲は、罪を償うためにありましたが、捧げられた犠牲者の一部を残して、司祭たちはそれを食べていました。つまり、この犠牲の中心の目的は贖罪です。ホロコーストの場合、礼拝が中心の目的になる一方、罪のためのホスチアの場合、贖罪が中心の目的となります。ですから、司祭は犠牲者の一部を拝領して、つまり一部を食べました。

第三の平和的な犠牲は主に、「感謝する」ということを目的にしています。面白いことに、モーゼ法の犠牲において、犠牲の種類ごとに殆ど犠牲の目的別で分けられていますね。もちろん、すべての目的はすべての犠牲においてにありますが。
そして、平和的な犠牲において、犠牲者の一部は司祭と犠牲を捧げていた一般人によって食べられたのです。

要約すると、第一の犠牲、ホロコーストの場合、犠牲者の全部が破壊されます。
第二の犠牲、贖罪のための犠牲の場合、司祭が犠牲者の一部を食べます。
第三の犠牲、感謝を中心にする犠牲の場合、司祭と犠牲を捧げることを頼んでいた「奉納者」は犠牲者の一部を食べました。

以上が、旧約聖書における犠牲の幾つかの種類です。ここで一つ指摘しておきましょう。旧約聖書の犠牲には犠牲として効果がありませんでした。つまり、不完全な犠牲でした。

なぜでしょうか?これらの犠牲を捧げていた人が罪人だったからです。で、罪人なる人、罪人として犠牲を捧げる人は天主の好意を得ることはできません。というのも、これは矛盾そのものだからです。「罪人」であるというのは、天主の好意を得ていない、自力で好意を得られないという意味ですから、天主の好意を得ていない人が天主の好意を得ようとしても無理があります。

罪人は天主と間に、絶交の状態にある人なので、このような人が他人のためにも自分のためにも仲直りを得ようとしても一体どうやって得られるでしょうか?自分の力だけでは無理があります。つまり、言いかえると、罪人が捧げる犠牲の価値は一体どうやってあり得るでしょうか?というのも、罪人は天主の味方ではない、天主の好意を得ていない人なので、天主から見て彼が犠牲を捧げても何の価値がないのは当然でしょう。(想像してください。あなたを徹底的に侮辱した人が何の仲介者なし、償いなし、自分のため、あるいは他人のため、あなたに恵みを乞いに来てもその申請を受け入れることはあり得ないようなことと似ています)。



言いかえると、司祭が天主によってお気に召されて初めて、その司祭が捧げる犠牲に効果があります。その逆ではないのです。天主のお気に召されていない人が犠牲を捧げても効果はありません。そして、罪人という定義は天主のお気に召されていないという意味です。

このように、罪人によって捧げられた犠牲は不完全でした。しかしながら、現実として、旧約聖書においての犠牲は天主のお気に召されていたのではないかと思う方もいるでしょう。確かにそうなのです。旧約聖書においての犠牲は天主のお気に召されていましたが、なぜでしょうか?旧約聖書においての犠牲は別の特別な犠牲を示し、予兆していたとしてのみ、天主のお気に召されていたということです。つまり、別の完全な犠牲の象徴、予兆であったこととしてのみ、天主が旧約聖書においての犠牲を肯定していたということです。

ですから、旧約聖書においての犠牲の価値は結局、我らの主、イエズス・キリストの犠牲を目的にしていたということです。要約すると、旧約聖書における諸々の犠牲は、我らの主、イエズス・キリストの完全なる犠牲、正しい犠牲、唯一の有効な犠牲を予兆して、象徴していたのです。

我らの主、イエズス・キリストの犠牲は、旧約聖書の犠牲にはなかった完全性を持っています。だからこそ、十字架上の我らの主、イエズス・キリストの犠牲は旧約聖書のすべての犠牲を廃止しました。というのも、旧約の犠牲は、イエズス・キリストの犠牲を予兆させるためにのみ、存在した犠牲だったから、実際に、イエズス・キリストの犠牲が実現されたら、もはや旧約聖書の犠牲の存在理由は消えたからです。

また、旧約聖書の約束もイエズス・キリストの犠牲によって果たされたので、その旧法も果たされて、亡くなって、その代わりにイエズス・キリストの犠牲が新法をもたらしました。旧法を完成した新法、旧法よりも清く正しく現実的である新法をもたらしたのはイエズス・キリストの御血です。旧法では、羊やヤギなどの血は何の価値もありませんでした。イエズス・キリストはそれについて仰せにもなっています。


このように、イエズス・キリストの十字架上の犠牲をもって、唯一、完全なる犠牲を果たしたことによって、旧法の約束を果たして、その意味で旧法は廃止されました。また、ですから、我らの主、イエズス・キリストの犠牲をもって、旧約聖書は終わります。つまり、旧約聖書における天主の御約束を成就したイエズス・キリストの犠牲、イエズス・キリストの御血なので、もはやその約束のためにあった旧法、立法などの存在理由がなくなり、廃止されます。

そういえば、現代のユダヤ教を見ても以上のことは確認できます。面白いことに、今でも旧約聖書は終わっていないと思い込んでいるユダヤ人たちは現実問題として旧約聖書の律法を続けることができません。というのも、神殿が破壊された時以来、モーゼ法に従って犠牲を捧げることが不可能になっている状態にあります。これはイエズス・キリストの犠牲以降、ずっと続いています。事実上、旧約聖書の犠牲も廃止されています。

ユダヤ教においては、現在、犠牲はもはや存在しません。悲しいかもしれませんが、天主は旧約聖書を廃止したから、ユダヤ教徒たちがどれほど踏ん張っても無駄です。現実を見ると、明白なのに。つまり、ユダヤ教において神殿が破壊されて、また犠牲もなくなったのです。



で、犠牲がなくなると、宗教はもはやなくなったということになります。ですから、犠牲のない現代のユダヤ教は宗教ではありませんし、宗教になろうとおもってももはやなれません。というのも、旧約聖書の諸々の犠牲の不完全性に代わって、我らの主、イエズス・キリストの完全なる犠牲が実現されつづけているからです。

さて、では、なぜ、我らの主、イエズス・キリストの犠牲は完全であるのでしょうか?以前に見た通り、イエズス・キリストは真の天主であると同時に、真の人でもあります。両方です。イエズス・キリストの人間性はイエズス・キリストの天主性によって聖化されています。これは御托身の玄義です。位格の結合の玄義です。要するに、イエズス・キリストは真の天主であるおかげで、いつまでも人間ならだれも持てない完全性をイエズス・キリストが人として持っています。

具体的にいうと、我らの主、イエズス・キリストには原罪がありません。天主であるから、原罪を負えません。具体的には、奇跡を通じて、聖霊の御宿りによってお生まれになったことは、その無原罪を示します。我らの主、イエズス・キリストは真の人であると同時に、真の天主であるということです。完全に人であると同時に、完全に天主であるイエズス・キリストなのです。

では、イエズス・キリストは何をなさいましたか?唯一、本物の犠牲を捧げ給ったのです。ご自分自身を犠牲者として捧げ給ったのです。すでに教義の部に紹介しましたが、聖なる犠牲、本物の犠牲が実現されたのは十字架上の時です。

第一、天主へ捧げられた犠牲です。また我らの主、イエズス・キリストは天主ご自身です。第二、我らの主、イエズス・キリスト、完全である司祭、至上に浄い司祭によって捧げられた犠牲です。第三、捧げられた生贄はイエズス・キリストご自身です。イエズス・キリストはご自分自身を犠牲者として捧げ給ったのです。「その命は私から奪い取り物ではなく、私がそれを与える」(ヨハネ、10、18)と仰せになりました。要するに、我らの主、イエズス・キリストは司祭としてまた犠牲者なるご自分自身を捧げ給うたのです。

要約すると、我らの主、イエズス・キリストは天主なるご自分自身に犠牲を捧げ給うたのです。また、犠牲を捧げ給った司祭でもあります。また捧げられた犠牲者でもあります。そして、その上、真の人なるイエズス・キリストなので、人として捧げ給い、十字架上の犠牲の効果を全人類まで及ぼしました。

以上に見るように、十字架上に実現された生贄はこの上なく完全なる聖なる犠牲なのです。

また、現に、唯一の本物の犠牲は我らの主、イエズス・キリストの犠牲のみです。他のすべての犠牲は最高でも似非(えせ)犠牲にすぎません。旧約聖書なら、我らの主、イエズス・キリストの犠牲を予兆し、象徴として特別な位置づけがありましたが、十字架上の犠牲が実現された時点で、旧約聖書の犠牲は廃止されました。無用となったからです。天主の御約束が果たされたからです。また、イエズス・キリストの犠牲はいとも完全なる聖なる犠牲になられたので、他にはこのような完璧な犠牲は存在し得ません。

つまり、我らの主、イエズス・キリストの犠牲はこの上なく犠牲中の犠牲を捧げ給うたのです。イエズス・キリストの犠牲に適える犠牲は存在しません。そしていつまでも存在しません。

繰り返しますが、我らの主、イエズス・キリストのみ、本物の、唯一の聖なる犠牲を捧げ給うたのです。十字架の犠牲です。また、この犠牲は永遠です。というのも、我らの主、イエズス・キリストの司祭職は永遠だからです。真の天主であるからです。我らの主、イエズス・キリストの司祭職は永遠だからです。従って、我らの主、イエズス・キリストの司祭職は唯一で、無比です。ですから、その犠牲も唯一で、無比です。そのため、唯一なる永遠なる犠牲と司祭職なので、我らの主、イエズス・キリストには継承者がありません。司祭なる我らの主、イエズス・キリストには継承者がありません。



旧約聖書においては違いました。司祭には継承者があって、定期的に司祭職を継承していました。が、新約聖書では、司祭たちは司祭職を継承していません。天主によって、我らの主、イエズス・キリストの司祭職とその司祭権に任じられているだけです。

また後述しますが、新約聖書の司祭たち(司祭と司教)は「Alter Christus」であって、代わりのイエズス・キリストであって、キリストの継承者ではありません。あえて言えば、イメージですが、司祭になった時点で、もう一度、我らの主、イエズス・キリストの司祭職が具現化したかのように、完全にその司祭職が司祭に与えられているということです。

言いかえると、司祭は我らの主、イエズス・キリストの司祭職をそのままに延長しています。また、司祭はイエズス・キリストの権限と権威に与っていますが、司祭個人としては何の力もありません。あくまでもイエズス・キリストに任じられたとして、イエズス・キリストを代理して、その権限と権威を持っています。

王権上の勅使に似ています。あるいは政治上の大使に似ています。つまり、天皇が任命して、天皇がいないとして、天皇の権限と権威を持った大使あるいは勅使。そして、大御心を仰ぎ、大使あるいは勅使が天皇のご意向通りに行動するにすぎません。

また今度、見ておきますが、司祭が捧げる犠牲であるミサ聖祭は十字架上の聖なる犠牲、唯一の犠牲そのものであって、その再現です。神父は十字架の聖性により、新しい犠牲、あるいは違う犠牲を捧げないということです。神父は全く同じ犠牲を捧げるのです。

以上のように我らの主、イエズス・キリストの完全なる性格を見ました。永遠に確立された聖なる十字架の犠牲は、古い犠牲を果たしてそれを実現させることにより、古い犠牲を廃止したのです。


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