ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

ミサ聖祭の重要な「四つの目的」

2021年02月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十五講 生贄・犠牲の諸目的



生贄・犠牲の諸目的
Gabriel Billecocq神父

前回、犠牲・生贄の定義を示したように、犠牲には三つの要素があります。
一つは、お供えがあります。いわゆる「奉納」あるいは「奉献」です。天主へ私たちが持っている「何か」を捧げるということで、その「何か」を完全に投げ捨てて、離れていて、天主の物にするという「奉納」。そして、このように外的な奉納を行うことによって、「天主への内面的な献身」を示しています。それから、犠牲の第二の要素はお供え物の崩壊があるとみました。それから、第三の要素は天主との一致のために犠牲を捧げるということをもみました。

今回、犠牲の諸目的を中心に見ていきたいと思います。つまり、何のために犠牲を捧げるでしょうか?

以前、すでにちょっと触れた課題です。祈りについてご紹介した時、祈りの目的は四つあると説明しました。当然と言えば当然ですが、この四つの目的は犠牲の目的としても数えられています。

犠牲は祭礼の一環でありますので、公的な儀礼であり、政治的かつ社会的な役割を持つ祭礼でもありますので、犠牲は全く祭礼の一つなのです。祈りもまた祭礼に属します。もちろん、祈りの場合、犠牲よりも私的な行為としても行われることが多いし、そして場合によって、外的な行為を伴わない完全な内面的な行為としての祈りもあるわけですが、祭礼の一つの執り行いとしても祈りがちゃんと存在しています。

従って、祭礼のすべての執り行いに共通している様子がありまして、犠牲も祈りも同じ四つの目的があります。あえて言えば、祈りの場合よりも、犠牲においてこの四つの目的が明確となると言えましょう。では、これから、犠牲の四つの目的をゆっくり見ていきましょう。
~~


犠牲の定義を思い出しましょう。
「犠牲」とは「祭礼の内の一つの儀礼であり、可視的な奉納を通じて、内面的な宗教的な行為の実践を示す物質的な「何か」を投げ捨てて神の物にする儀礼です。そうすることによって、自分自身を奉献する人々は神との一致をはかるのです。」

そして、犠牲の諸目的は以上の定義で見た犠牲の本質から生まれます。
そして、犠牲の第一の目的、また一番大事な目的は「礼拝する」ということです。ですから、犠牲という祭礼を捧げる第一の目的は天主を礼拝することにあります。この目的は一番中心にあって、犠牲という儀礼の本質から生じる目的です。なぜでしょうか?

犠牲を執り行うことによって、人々は自分の持っている「何か」の所有権を捨てて、この「何か」を天主に奉献するわけです。俗に言うと、神にお供えするという形で神に「プレゼント」を差し上げるということです。では、「お供えする」あるい「奉納する」という行為は何を意味しているでしょうか?奉納先への依存を表して認める儀礼となります。

言いかえると、犠牲者あるいは奉納品を奉献することによって、その所有権を人間から天主へ移転させるというのは、まさに犠牲という儀式です。この奉納品の所有権をあきらめるという外的な行為によって、内面的な天主への献身が示されています。要するに、外的な奉献を通じて、内面的な実践を示し、それは内面的な献身を意味する「犠牲」なのです。言いかえると、天主への依存を認めて積極的に示している「犠牲、お供え物」なのです。

ですから、犠牲の一番の特徴は天主への依存を示していることにあります。これこそが「礼拝する目的」の意味です。「天主を礼拝する」というのは、天主は我らの主であること、我らの創造主であることを積極的に認める行為です。また、我らは天主の使い人であること、また聖寵によって我らが天主の養子であることを積極的に認める行為です。要するに、我ら人間は天主に依存しているよという事実を積極的に認める行為です。犠牲という祭礼は天主への依存を示しているという目的が中心にあります。

そして、お分かりのように、天主への依存を示していることによって、ミサ聖祭という犠牲は被創造物と創造主との絆を語っているのです。つまり、犠牲を通じて、人間は天主に事実としてどうしても依存していること、それから人間が天主との一体によってその天主との絆を深めて実践していきたいという願いをも表しています。

被創造物として、人間はみな、天主に依存しています。そして、カトリック信徒は洗礼によって贖罪された天主の養子として、他の宗教では存在しない、比較できないほどの天主との深い絆があります。ミサ聖祭はカトリック信徒に限って、カトリックにおいてのみある、天主との親子関係という絆を示す犠牲です。

それはともかく、繰り返しになりますが、犠牲の第一の目的は天主との絆、天主との関係を表すことにあります。しかしながら、絆とはなんでしょうか?そもそも西洋語では「宗教」の語源的な意味です。「Religio」とは「Religare」に由来していて、つまり宗教とは人間を「(天主に)つながらせる」という意味です。ですから、犠牲という儀礼は祭礼の儀礼中の儀礼です。一番、この上なく、宗教的な行為を実践する儀礼です。なぜでしょうか?犠牲という祭礼こそが、天主への依存をあらわすための執り行いです。天主との絆をあらわしているための執り行いです。

要するに、天主を礼拝するという目的は犠牲の目的中の目的です。ミサ聖祭に参列する際、必ず「礼拝する」という目的を思い出しましょう。また、十字架上の聖なる犠牲を黙想するとき、その「礼拝する」こと、天主との絆のことを思い出しましょう。あるいは、ミサ聖祭と別に、個人的に犠牲を払おうとするときにおいても、天主への礼拝を表すことは非常に大事です。つまり、天主への依存という関係を表すことが非常に大事です。

ご覧のように、犠牲を通じて、犠牲を払う人は自分自身を天主に奉献するのです。自分自身を天主に投げ捨てます。犠牲を天主に奉納することによって、犠牲を払う人自身の奉献を示しているのです。まさにこれは「献身する」ということで、自分自身を天主に捧げるということで、礼拝するということです。これらの言い回しは類似していますね。献身、奉献、捧げる、礼拝するなど。

だからこそ、司祭はこの上なく「天主にささげられている」存在なのです。また、だからこそ、三つの誓願を捧げる修道女と修道士も「天主にささげられている」存在なのです。そして、聖職者は天主の奉献の上、その内に最期まで生きていきます。つまり「聖別」された存在です。

まとめると、犠牲の第一の目的は「礼拝する」ことにあります。



犠牲の第二の目的も非常に大事です。この目的はこの世での我々の状態から生じます。つまり、我々は必ず罪人であるということから生じます。人間は罪人であることは誰人も簡単に確認できるし、また信仰もその真理を教えています。原罪があったゆえに、われわれは罪人という状態の内に生きざるをえません。あえていえば、かならず罪の支配の下にこの世に生まれる人という事実。皆、罪人です。みな、欠陥があって不完全です。罪とは「天主への侮辱」です。で、天主への侮辱を償うためにはどうすればよいのでしょうか?贖罪することによって罪を償えるのです。では、贖罪するためにどうすればよいですか?犠牲をもって、贖罪するのです。

ここでも、外的な犠牲は内面的な犠牲を表します。つまり、罪の償いを行うための犠牲です。罪を贖うためです。
罪を犯したら、その罪を償う必要があります。つまり侮辱した相手の下に慎み深く行って、その「赦し」を希う必要があります。まさに、犠牲はそのためにあります。人間が侮辱している天主の赦しを希うために、貴重な奉納品、つまりある犠牲を天主に捧げて、罪を償おうとします。

そして、天主の赦しを希(ねが)うことによって、罪によって反逆者となった人間に対するもっともな天主の怒りを鎮めようとしています。犠牲を通じて、天主に対する反逆(つまり罪のこと)を償うことになります。ですから、犠牲において、奉納品を破壊することによって、犠牲を払う人の「償いたい心」を表して、天主との「仲直りしたい心」を表します。

ようするに、犠牲の一つの目的は天主の赦しを得て、天主の好意を得ることにあります。また後述しますが、残念ながらもこの第二の目的は新しいミサにおいてかなり薄められてしまいました。つまり、犠牲の第二の目的は贖罪にあります。要は、我々が犯した罪を償うという目的です。そうすることによって、天主の怒りを鎮めて、我々に対する天主の好意を得て、つまり、天主のご慈悲を得るように、御憐みをえるためです。

罪のせいで苛立った天主は我々が捧げる犠牲のお陰で、天主を喜ばせて、天主との仲直りを得るのです。天主からの我々への好意、そのご慈悲を得るのです。また、天主の御赦しを得しめる犠牲です。これが第二の目的です。

要するに、犠牲における「供犠」あるいは「犠牲」という行為自体によって、つまり「お供え」する部分よりも、奉納品、犠牲者を破壊する行為によって、苦しい形で、負担付きの形で、つまり奉納品を完全に失うという形で、これは破壊ですが、犠牲を払う人は「罪を償いたい意志」を実際に表します。

つまり、犠牲において、必ず償いの目的があります。そういえば、罪を償い、罪を贖うこと、そして天主の好意、天主との仲直りを得ることは非常に密接につながっています。双方は同時に両立するわけです。人間が罪を償う。そして、天主の怒りは鎮まってほしいという。犠牲において、この双方の側面があります。というのも、先ほどに申し上げたように、犠牲によって、天主との絆を積極的に認めて深めていく祭礼です。したがって、天主との絆は単なる「依存」だけではなく、本物の暖かい相互な絆になるために、人間が贖罪する必要があります。天主への侮辱を払った暁に、つまり犠牲によって罪を償った暁に、天主はいよいよ人間を好意的にみることになります。

贖罪という犠牲の第二の目的は非常に大事です。
繰り返しますが、犠牲から「贖罪」という目的がなくなったら、天主と人間との間の絆がきちんとしているという確信はなくなります。ようするに、贖罪という側面をなくしてしまうと、人間の犠牲、あるいは人間の祈りを天主は聞き入れ給うかどうかということがぼやけしてしまいます。これは悲劇的なことです。



また今度、話しますが、本当に困ったことです。新ミサにおいて、この「贖罪」の効果は薄められて、不信の種となります。罪を償うという側面は新ミサにおいて薄くなる分、天主の御赦し、天主からの好意を得られなくなるわけです。天主は馬鹿やさしい存在であるわけがありません。天主は正しいです。正義を全うする天主です。ですから、憐み深い天主であると同時に、正義を全うする天主でもあります。つまり、天主が憐みを配るために、その前提に正義が全うされる必要があります。

つまり、御赦しを得るために、罪を償うことは必要不可欠です。憐みと正義は密接につながっています。いわゆる、正義が全うされた途端、無限に正義が要求する対価よりも遥かに非常に天主が我々に恵みを施し給うという憐み深いことです。犠牲において、人間側は恩返しするだけではなく、天主に対する侮辱を償うことによって正義を全うする結果、天主が御憐みを垂れたまうのです。以上は犠牲の第二の目的です。
~~

犠牲の第三の目的に移りましょう。以上の二つの目的からの帰結になります。
贖罪することによって、人間は天主と仲直りして、その絆を強めて、その絆をよくした結果、天主からの好意を人間が得た関係となりました。つまり、積極的に罪を償おうとして、犠牲を捧げたおかげで、天主の御赦しを得ました。つまり、礼拝と贖罪によって、このような好意的な関係ができた暁に、天主は多くの恵み、おおくの恩寵を人間のために分配されて、また人間はこれらの恩寵を希うことも可能となります。

礼拝の行為を捧げて(天主に従う心をあらわす)、罪を償った(天主に従うことを完成させる行為の)おかげで、願いを天主に捧げても聞き入れ給うことが可能となります。天主は礼拝と贖罪によって人間に対して好意的になったので、人間の願いを叶い給うことは可能となりました。

要するに、犠牲の第三の目的は「恩寵を希(ねが)う」ことにあります。そういえば、天主はいわゆる「恵みの自動的な配分者」ではありません。なにか自動的に、いつもどこも、かならず天主が機械的に恩寵を配分するような存在ではありません。天主は恩寵を垂れるためには、天主と人間の間に犠牲によって清められた絆・関係が前提となります。「恩寵を希う」という目的は「礼拝」と「贖罪」との目的から直接に生じます。



そして、犠牲の最後の目的は「感謝する」ことにあります。天主より頂いた無数の恵みのために天主に感謝するという意味ですが、それだけではなく、「聖体拝領」というニュアンスもあります。つまり、ミサ聖祭の第四の目的は天主との一致であります。それは御聖体の拝領によって実現します。単なる一致だけではなく、天主との一体、天主との完全な分かち合い、合体となります。ですから、犠牲の第四の目的は「天主との一致」であって、つまり「イエズス・キリストになる犠牲者を拝領」することにもあります。

繰り返しになりますが、外的な犠牲は内面的な犠牲を示しています。ですから、犠牲を払う人は犠牲者を拝領することによって自分をも犠牲にすることを表します。

具体的に、殆どの場合、犠牲のあと、その犠牲者(ユダヤ教だったら羊)を食べるか、つまりお供えした奉納品を飲食することですが、いつでもどこでも犠牲を完成させるために、捧げた犠牲を食べ飲むのです。これは「拝領」と言います。つまり、奉献された犠牲者と一致するということです。で、犠牲者と一致することによって、天主に「自分自身」を捧げることを示して、天主との一致を願うことを示しています。これはどこいつも、犠牲の特徴でした。捧げられたお供えを食べ飲むことによって、つまり犠牲者との一致をすることによって、犠牲を捧げる人々は「自分自身を神にささげる」ことを示しています。犠牲はこれを示すためにもあります。

しかしながら、同時に、犠牲によって、奉納されている犠牲者は神に属する「聖なる物」となりました。ですから、天主に属するものを拝領することによって、犠牲者と一致して、自分人間も自分を犠牲にすることを表すだけではなく、ある意味で、聖なる犠牲者を拝領することによって、天主と一致して、天主との絆を強めようとしています。

要するに「拝領」は犠牲を完成させる儀式です。一方、犠牲を捧げる人々の内面的な犠牲を表すとともに、天主との一致をも表す「拝領」です。というのも、犠牲によって、犠牲者の所有権は人間から天主に移ったので、聖なる物となった犠牲者を食べ飲むことによって、非物質的な神と一致する手段とされています。

ですから、拝領というのは犠牲の大事な目的です。また犠牲の必然なる帰結だと言えます。拝領するという目的は天主と人間との絆を、その一体を実現するためのことです。犠牲者を拝領することによって、人間は自分自身を捧げることになって、その結果、天主との一体をはかるものです。

聖アウグスティヌスは次のように書いています。「本物の犠牲とは聖なる社会の内に我々が天主において合体される執り行いなのです」

非常に核心をえた定義です。「天主に合体される」ということはまさに「聖体拝領」、ミサ聖祭です。
そういえば、聖アウグスティヌスの定義だけを見ても、犠牲の社会的な、あるいは政治的な側面も窺えます。つまり、個人としての人が捧げるというよりも、社会上の人々は共同体として天主に合体すべきだという犠牲の側面が窺えます。

そして、そうするために、社会として、共同体の人々はミサ聖祭に参列しなければならないということです。つまり、ミサ聖祭は公の犠牲として、政治的上と社会上の役割があるとして、この上なく政治的な公けに属する祭礼という位置づけであり、聖なる執り行いなのです。ですから、以上の第四の目的も大事です。犠牲において拝領をしないことは、犠牲による効果を被らないようなことで、いやむしろ、犠牲の効果を拒否するようなことです。



ある著作者の言葉を借ります。「要約すると、人間あるいは天主による制定に従い、犠牲を執り行い、犠牲とは物質的な奉献なのです。そして、この物質的な奉献は内面的な奉献を示しています。この犠牲において、天主への尊敬の印として【これは礼拝の目的に当たります】、至上の主のために、貴重な財物を投げ捨てます。このように、天主に召した形に沿って捧げられた犠牲は天主が犠牲を払う人々に好意的になることが期待されています【これは贖罪の目的に当たります】。そして、その結果、天主との同盟、あるいは宗教的な親交関係を結ぶことが期待されています。」

この意味で、犠牲こそが宗教の儀礼中の儀礼で、宗教的中の宗教的な行いなのです。というのも、犠牲によって、神と人をつながらせますが、それだけではなく、「拝領によって」神との合体を実現します。ですから、拝領という目的は犠牲にとって非常に大事です。以上は犠牲の四つの目的についてでした。カトリックのミサ聖祭だけではなく、一般的に犠牲において以上のような目的があります。旧約聖書においても、他のすべての犠牲において、何らかの形でお供えする奉納品を「拝領」することがあるからです。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。