白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ミサ聖祭、聖体拝領
Gabriel Billecocq神父
ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。ミサ聖祭の秘跡は秘跡中の秘跡であって、一番偉大な秘跡なのです。なぜでしょうか?理由はいくつかあります。
前にも見たように、第一に、ミサ聖祭の秘跡は聖寵を与えるだけではなく、聖寵の御主、言いかえると天主ご自身を与える秘跡であり、その意味で一番の秘跡です。例えば、洗礼や堅振などは確かに聖寵を与えますが、御聖体は天主ご自身そのもの、真の人、真の天主である我らの主、イエズス・キリストを与えるのです。それだから、秘跡中の秘跡です。
また、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡であるのはなぜでしょうか?天主は御聖体にましまし給うということだけではなく、御聖体においてとどまり給うわけです。つまり、一瞬にしてご現存するだけではなく、御聖体は継続的にましまし給うのです。言いかえると、聖変化された形色が存続するかぎり、天主のご現存も存続するということです。従って、御聖体にある天主をご礼拝することができます。
ご現存は一時的でもなく、一瞬でもなく、継続的に安定的に通常にましまし給うのです。つまり、御聖体の秘跡は時間においてとどまり、継続しています。他の秘跡は一時的です。例えば、洗礼は一定の行いなので、秘蹟としては一時的です。もちろん、洗礼の効果はいつまでも続くのですが、聖寵を与える行いは一時的です。「洗礼を受けた」といった時、過去形を使って、一回限りであって、時間においても一時のことです。
他方、御聖体において「現存しておられる」というように、現在形を使って、常に秘蹟は続いているということです。ご現存というのは、秘蹟の効果によるものだけではなく、秘蹟そのものなのです。堅振もほかの秘跡も、秘蹟として一時の行いなのです。御聖体のみ、常に残っています。
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「我らの父なる天主を望み奉る。我らの主なる天主を望み奉る」
~~
そして、他のすべての秘跡はミサ聖祭の秘跡に収斂するという意味からしても、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡です。ミサ聖祭は諸秘跡の中心にある秘跡です。
聖体拝領できるように洗礼を受けるのです。御聖体の聖寵をより完全にうけるために、堅振を受けるのです。結婚も叙階もそうなのです。要するに、ミサ聖祭は秘跡中の秘跡です。天主は人々と一緒に留まることをお望みになります。素晴らしいでしょう。
我らの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃいました。天主は御托身をなされ、人々の間で人生を送り給うことになさったことは限りなく素晴らしいことです。考えてみると、何よりも素晴らしいことでしょう。33年間、この世にお住まいでいらっしゃっただけでも人類への愛がどれほどに示されているでしょうか。しかしながら、御托身に留まらないで、その上、更に私たちと一緒に常におられることになさったのです。これが御聖体です。どれほど私たちへの愛を示されているのでしょうか?
ですから、御聖体は、「愛徳の秘跡」あるいは「愛の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?
愛を示すために、本当に愛していることを行為で示す一つの手段は、愛している人々のそばにいつまでもとどまることです。お互いに愛している人々はずっと一緒にいたいわけです。我らの主は人々と一緒におられることになさいました。御聖体という愛の秘跡です。御聖体において天主がご現存しておられて、そして私たちと一緒に常におられる秘蹟です。素晴らしいことでしょう。
しかしながら、これだけではありません。これよりも我らの主は素晴らしいことをなさいました。ご存じのように愛を示すために、愛している人のそばにただ物質的にいるだけでは済まないのですね。いわゆる、傍にいることによって、物質的にいることを越えて、「愛している人と一緒に心理的にいる」という親しく暖かい関係ができて初めて愛は証明されています。
聖トマス・アクイナスの言葉を借りると、「愛している人は愛されている人の心の内にいる。愛されている人は愛している人の心の内にいる」ということになります。つまり、物質的な親しみを越えて、その上、心理的な親しみとなっていきます。この世ではこのような親しみは一番高貴な親しみなのです。つまり、お互いに愛している人々は相手を自分の心の内にいるというような関係になります。友人を愛している人は、友人を常に自分の心の内に持っていて、つまり、常に自分と一緒にいるというようなことです。そして、相手も一緒です。要するに、双方の霊魂は一致します。一体にまします。
聖バジルあるいは、聖ナジアンゾスのグレゴリオスでしたかな、とにかく次のように友好的な関係を説明していました。「二人の友人は二つの身体においての一つの霊魂だ」と言っていました。この文章は美しく友好を語ると思います。つまり、本当の意味で友人になる時、このような心理的な一致、一体ができていることを示している定義です。このような内面的な霊魂の一致ができている時、まさに「愛している」状態を特徴づけています。
そして、我らの主、イエズス・キリストは私たちと一致するために、素晴らしい手段を制定なさいました。それが聖体拝領なのです。そもそも、ラテン語で「Communio」と言っていまして「○○と一致する」という意味です。「ある人の心と結びつく」という意味です。まさに聖体拝領です。
要約すると、御聖体をもって、第一、我らの主は常にとどまる手段を制定なさいました。それだけでも、私たちへの天主の愛は示されています。しかしながら、それにとどまらないで、その上、私たちと一致するための手段をも制定なさいました。我らの主は我らとどうしても一致したいと思っておられるので、その愛を示すために聖体拝領を与え給ったのです。我らの主、イエズス・キリストは我らとの一致がお望みになるのは我らを愛しておられることを示しています。
そして、私たちも主を愛しているのなら、主と一致したいという気持ちになるはずです。愛しているのなら、必ず相手と一致したいからです。天主との一致は、この結びつきは聖体拝領と呼ばれています。聖体拝領という素晴らしい手段を設け給うイエズス・キリストは、常に私たちと一致する手段を与えたもうということです。
そして、食べ物として聖体を拝領するので、物質的な一致にもなりますが、それよりもまず、聖体拝領を通じて我らの主、イエズス・キリストは我らの霊魂を養い給うのです。また、そうすることによって、私たちとの一致を強化したまい、その一致へ激しい欲望を強化し給うのです。どう考えてもこれは、天主の限りない優しさ、善良さを示しているのです。なんと豊かな秘跡でしょう。
ですから、御聖体においての天主のご現存、我らの霊魂にご自分を与える、我らと一緒に常に一致しようとなさっておられるという限りなく素晴らしい豊かさを感じていない人々、嗜んでいない人々はどれほど残念なことでしょうか。そして、我らの霊魂を養うことによって、我らの霊魂の天主のご現存はさらに強くなって深くなって、よりよく天主を愛するように導き給う素晴らしい秘跡です。ミサ聖祭によって天主と一致することをお望みになって、ゆるし給うのです。
これは聖体拝領で給う秘跡の素晴らしい玄義です。御聖体はカトリック信徒にとって本物の食べ物なのです。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉をたべ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者の内に宿る。」(ヨハネ、6、53-56)
我らの主、イエズス・キリストのお言葉は非常に明白なのです。そして、天主から人々への愛に満ちているお言葉です。ですから、よく聖体拝領をする習慣を身につけていきましょう。言いかえると、御聖体において、我らの主、イエズス・キリストご自身を我らの霊魂のための食べ物として頂くようにしましょう。これが聖体拝領なのです。
救霊のために聖体拝領は手段として必要ではないと言われています。つまり、聖体拝領は救霊のために必要不可欠ではないということです。救霊のための条件の一つではないという意味です。一方、洗礼とは救霊のために手段として必要不可欠です。言いかえると、洗礼を受けない者は天国に行けないのです。救われることは不可能です。一方、聖体拝領をしなくても、洗礼を受けたら天国に行けるわけです。この意味で、「救霊のために御聖体は必要不可欠ではない」と言っています。
しかしながら、掟として、御聖体は必要不可欠となっています。言いかえると、「聖体拝領せよ」という命令はあります。
この掟は、あるいは命令は、我らの主、イエズス・キリストご自身が命令したことです。聖ヨハネの第六章においてこの命令が記されています。本当にこの第六章を読むようにお勧めします。本当に素晴らしい場面です。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。」
つまり、「私の肉を食べ、私の血を飲んだら、あなたたちの中に私の命を持ち続けられる」という意味ですね。つまり、聖体拝領をすることによって、いわゆる「聖寵の状態」の内のままにいられるということです。ときどき、信徒からこの質問があります。「善において粘り強く徹底的にやり続けるために、聖寵でいつまでもいられるようにするには、どうすればよいでしょうか」と。
答えは簡単で明白です。聖体拝領することです。我らの主、イエズス・キリストの御体と御血を頂くことです。霊魂を養う聖なる食べ物を頂くことです。イエズス・キリストにおいて霊魂を置く御聖体、そして確実に強くイエズス・キリストにおいていられるようにする秘蹟です。危険においても誘惑においても強くいられるようにする秘蹟です。要するに、我らの主、イエズス・キリストによって「聖体拝領せよ」という掟があります。
その上、カトリック教会はイエズス・キリストの命令をより明確に規定しておきました。カトリック教会は本当に良い母なのです。カトリック教会が命令する、つまり義務化する掟は非常に少ないのです。母なるカトリック教会なので、母らしく自分の子供のことを想っています。ですから、「復活祭の時期、年に一回、聖体拝領するように」とカトリック教会は信徒に義務づけています。要するに、カトリック信徒なら以前に見た通りに、年一回、復活祭の時期に聖体拝領する義務があります。
また、死の危険がある時、カトリック教会は「聖体拝領すること」を義務化づけています。
また後述しますが、聖体拝領は永遠の命を示してもたらす効果がありますから、瀕死になった時、聖体拝領することによって、最期を強く毅然とした態度で迎えるように助けるのです。最期の時は人生における一番大事な戦いとなるからです。その時、悪魔は全力を尽くして、天主から霊魂を外して地獄に引っ張ろうとするのです。ですから、最期を迎えた時、聖体拝領は非常に大事です。霊魂を養い、戦う力を備えることが大事です。
もちろん、義務を越えて、何か人生において大変な誘惑がある時、あるいは試練があるとき、聖体拝領は欠かせない薬となっています。なるべく聖体拝領をしましょう。
それから、聖体拝領の効果は何でしょうか?聖体拝領は成聖の聖寵をいや増す効果があります。つまり、聖体拝領をする者は自分において天主のご実存がいや増します。思い出しましょう。成聖の聖寵とは三位一体が我らの霊魂において居を構えて、我らの霊魂において「おられる」という意味です。ですから、聖体拝領すると、我らの主、イエズス・キリストと一致して、結びついて、密接に一体することになりますので、聖体拝領すればするほどに、天主との絆は強まります。言いかえると、我らの主、イエズス・キリストと一緒にいる絆はどんどん強まるということです。
次に、秘蹟のもう一つの効果は多くの助力の聖成を与えるということです。つまり、ご聖体は日常の私たちの義務において、超自然の次元においてより忠実に完全に使命を果たすように助けてくれる聖寵を与えるのです。また、食べ物は身体の生命の回復のために必要となっているように、御聖体は霊魂の生命を回復するように助ける秘跡です。つまり、成聖の聖寵をいや増し、または多くの助力の聖寵をも与えます。
そして、もう一つの効果があります。以上の効果から生じますが、聖体拝領すればするほど、激情は弱くなっていって、誘惑に対する抵抗力も増えます。そして、当然と言えば当然ですが、天主がおられると、悪魔は恐れて近づくことすらできなくなります。天主は悪魔を支配するのが当然だからです。
また、御聖体は永遠の命を示し、すでに天国をもたらす秘跡ですから、非常に大事な秘跡です。我らの主、イエズス・キリストを頂くということは天国を頂くということですよ。言いかえると、聖体拝領すると、もうすでにちょっと永遠に入りかけたことになるというか、いや厳密にいうと永遠は拝領者においてちょっと入ってきたということになります。聖体拝領すると、天主は我らの霊魂に下り給います。そして、私たちは死んでいくと天主の下へ参ります。聖寵の状態であるのなら。
ですから、瀕死になった時、命の危険があった時、聖体拝領することが大事です。というのも、聖体拝領することによって、天主を頂くのですが、同時に天主が私たちを頂くのですから、その時に死んだら永遠に入っていけます。つまり、死ぬ直前に聖体拝領すると、天国に入れることは殆ど保証されているといってもよいでしょう。かなり救霊は近づくということです。御聖体はまさに我らの主、イエズス・キリストは人々に与え給った素晴らしい愛の証、永遠の命への保証です。
死ぬとき、聖体拝領すると、天国に行くための通行証を貰うようなことです。御聖体は永遠の命をもたらす秘跡ですから。
さらにいうと、この世では頻繁に聖体拝領する者は、そのぶん頻繁に自分の霊魂を天主に向かわせて、よく死ねるように、よく永遠の命の内にいられるための訓練となります。どれほど善き天主が善いかを感じられるでしょう。永遠の命を約束するだけではなく、永遠の命を得るためのすべての手段を与え給うのです。
しかしながら、聖体拝領するためには、条件があります。相応しい状態にあるべきです。霊魂の条件もありながら、身体の条件もあります。聖体拝領するとき、形色の外観の下に、現に天主を頂くことになりますので、物質的な印においてこそご現存しておられますので、拝領するために、霊魂だけではなく、身体も相応しい状態にあるべきであって、条件があります。もちろん、なによりも霊魂の条件が大事です。
原則として、分別のできる状態でなければなりません。そして、適法に聖体拝領するために、十分な教育をも受ける必要があります。つまり、御聖体がなんであるかということを知らなければなりません。
そして、一番大事な条件は「霊魂は聖寵の状態にあるべきだ」ということです。言いかえると、大罪の状態にある霊魂は聖体拝領することができません。なぜでしょうか?大罪を犯した霊魂は「天主の敵」となっています。つまり、大罪を犯したことによって、霊魂から天主を追い出したという意味ですから、御聖体を受けることはできません。「でも、天主を拝領したら、逆に天主を取り戻せるのではないか」と思う人もいるかもしれませんが、違います。天主を取り戻すために、告解がまず必要です。つまり、悔い改めて償う必要があります。罪を改悛して償う前提があります。いわゆる、天主に対して侮辱を犯したままに、天主に対して反目しているなかで、愛の秘跡、友好の証を受けることは無理です。
この意味で、近代主義者の説は非常に悲惨的なのです。悔い改めていないまま、大罪を犯している状態の者に聖体拝領を許す司祭たちは醜いのです。残念ながら、これはよく経験していることですよ。ある信徒は私に「大罪を犯しても聖体拝領できるとある司祭から聞いた」といいます。大変なことです。悲劇的なことです。このような軽い気持ちで、このような軽率なことは、我らの天主の愛への侮辱です。冒涜です。天主のやさしさ、天主の友好さを馬鹿にするようなことです。天主を馬鹿にするようなことです。天主はばかばかしいほどに優しい方ではありません。本当の意味での友人なので、私たちへの忠実と正直さについては徹底したものがあります。友人を本当に愛していたら、だめなことはだめなこととして言って、目をつぶるわけにはいきません。
聖書の多くのところで明記されています。一番象徴的なのは知恵の書でしょう。天主との友好的な関係を傷つける事柄、つまり罪ですね。大罪ですね。大罪は友好的な関係を潰す行為だからこそ忌まわしいのです。当然と言えば当然ですが、天主と仲直りするためには、努力が必要になるわけです。ですから、告解が必要となります。要するに、聖体拝領するためには、「聖寵の状態にいる」条件があります。必要な条件です。
また、当然と言えば当然ですが、聖体拝領するためには、最小限の慎みの心を持たなければなりません。天主ご自身はこの上なく至上の慎みを示すでしょう。ほら、威光あふれる姿でもなんでもなく、単なるパンとワインの外観の下にという質素な形を取り、ご自分を霊魂に与えるという素晴らしい慎み。このぐらい、聖体拝領するために、最小限の慎みの心を持っていきましょう。
また、聖体拝領するためにはまっすぐな心づもりでいるという条件があります。つまり、傲慢、誇示、自慢などの気持ちなしに聖壇に近づくことが大事です。なにか人間的な理由で聖体拝領してはいけません。薬を頂こうとする心が大事です。御聖体はまさに人間の現世欲への薬です。
最後に、聖体拝領するために、身体上の条件もあります。いわゆる断食することです。現在の教会法では、残念ながら、断食の義務はかなり減ったのです。「御聖体の断食」と呼ばれる断食ですが、聖職者に義務化づけられる断食ほど重くないのはいうまでもありません。最近まで、「御聖体のための断食」は、前夜の夜中から聖体拝領まで食べるのも飲むのも控えるということでした。いつも、聖体拝領するのは朝だったのですね。
教皇ピオ十二世は午後中にも聖体拝領を許すとともに、「御聖体の断食」の義務を減らしました。つまり、聖体拝領する前の三時間の間に食べるのも飲むのも控えるということです。つまり、「御聖体の断食」は本当に断食であって、聖体拝領する前の三時間、何も食べないで飲まないことです。ただ、「水」は対象外です。水を飲んでも大丈夫だということです。
残念ながらも現在、さらに教会法は緩くされて、現在法では断食を聖体拝領前一時間にまで減らせられたのです。もう、意味のない断食となっているということです。ここで、近代的なこのような法、つまり近代主義の精神を汲むこのような法律はどれほど悲劇的であって、悲惨であるかよく感じられます。このような法律は天主を馬鹿にしているようにしか見えません。もはや、天主に近づけるために、何の犠牲を払わなくてもよいような不敬。ご現存に対するこのような不敬は本当に悲しいことです。今度の講座においてまたご紹介します。
当然、病者などは「御聖体の断食」の義務から免除されています。例えば、薬を取るべき病者は薬を飲んでも断食の掟に違反していないのです。教会は母らしくて善いですから。ただし、健康である人は、御聖体の断食をすべきです。言いかえると、自分の体を準備するということです。我らの主を拝領するように、自分の体を準備して、断食によって清めるという。いわゆる、聖体拝領によって、我らの身体は聖櫃になっているので、聖なる場所となっているので、聖なる場所を清めることが必要であって、また当然なことです。
最後に、聖体拝領するためには、ある程度の礼儀正しい状態でなければなりません。ですから、聖体拝領するために、跪きますが、その上、服装ももちろん礼儀正しくなければなりません。例えば、水着のような恰好で教会に行くわけには行けません。当然ですが。今の例はちょっと極端ですが、天主様ですから、礼儀正しい服装は最低限です。
最近まで、教会法はこのようなところに関しても厳しかったですが、残念ながらも「近代への妥協」ということで、第二ヴァチカン公会議が決めた「世俗への妥協」の結果、これらの常識的な最小限な規定ですらなくなっています。残念ながらも礼儀正しい心を失うと、悲劇的なことが起きます。我らの主、イエズス・キリストに対して持つべき畏敬、畏怖を忘れて、危うくなっていきます。
最後に、御聖体は両形色をもって拝領することは昔からもはやありません。パンと葡萄酒の双方の形色で拝領することは「教会の当初の時代に回帰することだから」あるいは「よいことだろう」というよう理由で最近取り上げられて、この掟を緩くする動きがあります。しかしながら、それは違います。カトリック教会は賢明です。時間の積み重ねを顧みて、その英知を活かして、パンだけの聖体拝領にするようになりました。もちろん、特別な少数の典礼では、例えばギリシャ系の典礼では、今でも双方の形色で聖体拝領することはあります。
が、実際問題として、双方の形色での聖体拝領になると、多くの問題と困難が生じます。特に、冒涜する恐れがありますので、控えます。いと貴き御血を拝領することになると、液体なので、当然と言ったら当然ですが、こぼし易いし、配りにくいし、いろいろ問題があります。想像してください。皆、同じ杯に拝領するようなことには無理があります。ですから、賢明なる教会は信徒の葡萄酒の拝領を禁止しました。
当然ながら、霊的にいうと何も変わらないのです。聖変化されたパンにおいて完全にイエズス・キリストがましまし給うのですから、聖変化された葡萄酒を拝領しても何も変わりませんし。これは大事です。双方の形色の下に、同じく御体と御血とご霊魂とご神聖が完全にましまし給うから、パンの形色で拝領しても、完全な拝領となります。葡萄酒の形色を拝領する必要がどこにもありません。【後述しますが、なぜ形色が二つあるというと、生贄としてのミサ聖祭が成り立つためです】
それから、聖体拝領するために舌で拝領すべきです。近代主義者たちは舌で拝領しなくともよいという説を根拠づけるためにあまり関係のない教父の文書を引き出します。例えば「拝領しに行くと、右の手を左の手に置くようにしてください。」といった。確かに、当初の時代、手で聖体拝領することもありました。が、教会の長い経験と賢明を尊重すべきです。御聖体への尊敬のために、冒涜行為を避けるために、司祭が直接に舌に御聖体を置くことになっています。
以上聖体拝領という美しい事柄についてご紹介しました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百十三講 ミサ聖祭、聖体拝領
ミサ聖祭、聖体拝領
Gabriel Billecocq神父
ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。ミサ聖祭の秘跡は秘跡中の秘跡であって、一番偉大な秘跡なのです。なぜでしょうか?理由はいくつかあります。
前にも見たように、第一に、ミサ聖祭の秘跡は聖寵を与えるだけではなく、聖寵の御主、言いかえると天主ご自身を与える秘跡であり、その意味で一番の秘跡です。例えば、洗礼や堅振などは確かに聖寵を与えますが、御聖体は天主ご自身そのもの、真の人、真の天主である我らの主、イエズス・キリストを与えるのです。それだから、秘跡中の秘跡です。
また、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡であるのはなぜでしょうか?天主は御聖体にましまし給うということだけではなく、御聖体においてとどまり給うわけです。つまり、一瞬にしてご現存するだけではなく、御聖体は継続的にましまし給うのです。言いかえると、聖変化された形色が存続するかぎり、天主のご現存も存続するということです。従って、御聖体にある天主をご礼拝することができます。
ご現存は一時的でもなく、一瞬でもなく、継続的に安定的に通常にましまし給うのです。つまり、御聖体の秘跡は時間においてとどまり、継続しています。他の秘跡は一時的です。例えば、洗礼は一定の行いなので、秘蹟としては一時的です。もちろん、洗礼の効果はいつまでも続くのですが、聖寵を与える行いは一時的です。「洗礼を受けた」といった時、過去形を使って、一回限りであって、時間においても一時のことです。
他方、御聖体において「現存しておられる」というように、現在形を使って、常に秘蹟は続いているということです。ご現存というのは、秘蹟の効果によるものだけではなく、秘蹟そのものなのです。堅振もほかの秘跡も、秘蹟として一時の行いなのです。御聖体のみ、常に残っています。
~~
「我らの父なる天主を望み奉る。我らの主なる天主を望み奉る」
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そして、他のすべての秘跡はミサ聖祭の秘跡に収斂するという意味からしても、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡です。ミサ聖祭は諸秘跡の中心にある秘跡です。
聖体拝領できるように洗礼を受けるのです。御聖体の聖寵をより完全にうけるために、堅振を受けるのです。結婚も叙階もそうなのです。要するに、ミサ聖祭は秘跡中の秘跡です。天主は人々と一緒に留まることをお望みになります。素晴らしいでしょう。
我らの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃいました。天主は御托身をなされ、人々の間で人生を送り給うことになさったことは限りなく素晴らしいことです。考えてみると、何よりも素晴らしいことでしょう。33年間、この世にお住まいでいらっしゃっただけでも人類への愛がどれほどに示されているでしょうか。しかしながら、御托身に留まらないで、その上、更に私たちと一緒に常におられることになさったのです。これが御聖体です。どれほど私たちへの愛を示されているのでしょうか?
ですから、御聖体は、「愛徳の秘跡」あるいは「愛の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?
愛を示すために、本当に愛していることを行為で示す一つの手段は、愛している人々のそばにいつまでもとどまることです。お互いに愛している人々はずっと一緒にいたいわけです。我らの主は人々と一緒におられることになさいました。御聖体という愛の秘跡です。御聖体において天主がご現存しておられて、そして私たちと一緒に常におられる秘蹟です。素晴らしいことでしょう。
しかしながら、これだけではありません。これよりも我らの主は素晴らしいことをなさいました。ご存じのように愛を示すために、愛している人のそばにただ物質的にいるだけでは済まないのですね。いわゆる、傍にいることによって、物質的にいることを越えて、「愛している人と一緒に心理的にいる」という親しく暖かい関係ができて初めて愛は証明されています。
聖トマス・アクイナスの言葉を借りると、「愛している人は愛されている人の心の内にいる。愛されている人は愛している人の心の内にいる」ということになります。つまり、物質的な親しみを越えて、その上、心理的な親しみとなっていきます。この世ではこのような親しみは一番高貴な親しみなのです。つまり、お互いに愛している人々は相手を自分の心の内にいるというような関係になります。友人を愛している人は、友人を常に自分の心の内に持っていて、つまり、常に自分と一緒にいるというようなことです。そして、相手も一緒です。要するに、双方の霊魂は一致します。一体にまします。
聖バジルあるいは、聖ナジアンゾスのグレゴリオスでしたかな、とにかく次のように友好的な関係を説明していました。「二人の友人は二つの身体においての一つの霊魂だ」と言っていました。この文章は美しく友好を語ると思います。つまり、本当の意味で友人になる時、このような心理的な一致、一体ができていることを示している定義です。このような内面的な霊魂の一致ができている時、まさに「愛している」状態を特徴づけています。
そして、我らの主、イエズス・キリストは私たちと一致するために、素晴らしい手段を制定なさいました。それが聖体拝領なのです。そもそも、ラテン語で「Communio」と言っていまして「○○と一致する」という意味です。「ある人の心と結びつく」という意味です。まさに聖体拝領です。
要約すると、御聖体をもって、第一、我らの主は常にとどまる手段を制定なさいました。それだけでも、私たちへの天主の愛は示されています。しかしながら、それにとどまらないで、その上、私たちと一致するための手段をも制定なさいました。我らの主は我らとどうしても一致したいと思っておられるので、その愛を示すために聖体拝領を与え給ったのです。我らの主、イエズス・キリストは我らとの一致がお望みになるのは我らを愛しておられることを示しています。
そして、私たちも主を愛しているのなら、主と一致したいという気持ちになるはずです。愛しているのなら、必ず相手と一致したいからです。天主との一致は、この結びつきは聖体拝領と呼ばれています。聖体拝領という素晴らしい手段を設け給うイエズス・キリストは、常に私たちと一致する手段を与えたもうということです。
そして、食べ物として聖体を拝領するので、物質的な一致にもなりますが、それよりもまず、聖体拝領を通じて我らの主、イエズス・キリストは我らの霊魂を養い給うのです。また、そうすることによって、私たちとの一致を強化したまい、その一致へ激しい欲望を強化し給うのです。どう考えてもこれは、天主の限りない優しさ、善良さを示しているのです。なんと豊かな秘跡でしょう。
ですから、御聖体においての天主のご現存、我らの霊魂にご自分を与える、我らと一緒に常に一致しようとなさっておられるという限りなく素晴らしい豊かさを感じていない人々、嗜んでいない人々はどれほど残念なことでしょうか。そして、我らの霊魂を養うことによって、我らの霊魂の天主のご現存はさらに強くなって深くなって、よりよく天主を愛するように導き給う素晴らしい秘跡です。ミサ聖祭によって天主と一致することをお望みになって、ゆるし給うのです。
これは聖体拝領で給う秘跡の素晴らしい玄義です。御聖体はカトリック信徒にとって本物の食べ物なのです。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉をたべ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者の内に宿る。」(ヨハネ、6、53-56)
我らの主、イエズス・キリストのお言葉は非常に明白なのです。そして、天主から人々への愛に満ちているお言葉です。ですから、よく聖体拝領をする習慣を身につけていきましょう。言いかえると、御聖体において、我らの主、イエズス・キリストご自身を我らの霊魂のための食べ物として頂くようにしましょう。これが聖体拝領なのです。
救霊のために聖体拝領は手段として必要ではないと言われています。つまり、聖体拝領は救霊のために必要不可欠ではないということです。救霊のための条件の一つではないという意味です。一方、洗礼とは救霊のために手段として必要不可欠です。言いかえると、洗礼を受けない者は天国に行けないのです。救われることは不可能です。一方、聖体拝領をしなくても、洗礼を受けたら天国に行けるわけです。この意味で、「救霊のために御聖体は必要不可欠ではない」と言っています。
しかしながら、掟として、御聖体は必要不可欠となっています。言いかえると、「聖体拝領せよ」という命令はあります。
この掟は、あるいは命令は、我らの主、イエズス・キリストご自身が命令したことです。聖ヨハネの第六章においてこの命令が記されています。本当にこの第六章を読むようにお勧めします。本当に素晴らしい場面です。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。」
つまり、「私の肉を食べ、私の血を飲んだら、あなたたちの中に私の命を持ち続けられる」という意味ですね。つまり、聖体拝領をすることによって、いわゆる「聖寵の状態」の内のままにいられるということです。ときどき、信徒からこの質問があります。「善において粘り強く徹底的にやり続けるために、聖寵でいつまでもいられるようにするには、どうすればよいでしょうか」と。
答えは簡単で明白です。聖体拝領することです。我らの主、イエズス・キリストの御体と御血を頂くことです。霊魂を養う聖なる食べ物を頂くことです。イエズス・キリストにおいて霊魂を置く御聖体、そして確実に強くイエズス・キリストにおいていられるようにする秘蹟です。危険においても誘惑においても強くいられるようにする秘蹟です。要するに、我らの主、イエズス・キリストによって「聖体拝領せよ」という掟があります。
その上、カトリック教会はイエズス・キリストの命令をより明確に規定しておきました。カトリック教会は本当に良い母なのです。カトリック教会が命令する、つまり義務化する掟は非常に少ないのです。母なるカトリック教会なので、母らしく自分の子供のことを想っています。ですから、「復活祭の時期、年に一回、聖体拝領するように」とカトリック教会は信徒に義務づけています。要するに、カトリック信徒なら以前に見た通りに、年一回、復活祭の時期に聖体拝領する義務があります。
また、死の危険がある時、カトリック教会は「聖体拝領すること」を義務化づけています。
また後述しますが、聖体拝領は永遠の命を示してもたらす効果がありますから、瀕死になった時、聖体拝領することによって、最期を強く毅然とした態度で迎えるように助けるのです。最期の時は人生における一番大事な戦いとなるからです。その時、悪魔は全力を尽くして、天主から霊魂を外して地獄に引っ張ろうとするのです。ですから、最期を迎えた時、聖体拝領は非常に大事です。霊魂を養い、戦う力を備えることが大事です。
もちろん、義務を越えて、何か人生において大変な誘惑がある時、あるいは試練があるとき、聖体拝領は欠かせない薬となっています。なるべく聖体拝領をしましょう。
それから、聖体拝領の効果は何でしょうか?聖体拝領は成聖の聖寵をいや増す効果があります。つまり、聖体拝領をする者は自分において天主のご実存がいや増します。思い出しましょう。成聖の聖寵とは三位一体が我らの霊魂において居を構えて、我らの霊魂において「おられる」という意味です。ですから、聖体拝領すると、我らの主、イエズス・キリストと一致して、結びついて、密接に一体することになりますので、聖体拝領すればするほどに、天主との絆は強まります。言いかえると、我らの主、イエズス・キリストと一緒にいる絆はどんどん強まるということです。
次に、秘蹟のもう一つの効果は多くの助力の聖成を与えるということです。つまり、ご聖体は日常の私たちの義務において、超自然の次元においてより忠実に完全に使命を果たすように助けてくれる聖寵を与えるのです。また、食べ物は身体の生命の回復のために必要となっているように、御聖体は霊魂の生命を回復するように助ける秘跡です。つまり、成聖の聖寵をいや増し、または多くの助力の聖寵をも与えます。
そして、もう一つの効果があります。以上の効果から生じますが、聖体拝領すればするほど、激情は弱くなっていって、誘惑に対する抵抗力も増えます。そして、当然と言えば当然ですが、天主がおられると、悪魔は恐れて近づくことすらできなくなります。天主は悪魔を支配するのが当然だからです。
また、御聖体は永遠の命を示し、すでに天国をもたらす秘跡ですから、非常に大事な秘跡です。我らの主、イエズス・キリストを頂くということは天国を頂くということですよ。言いかえると、聖体拝領すると、もうすでにちょっと永遠に入りかけたことになるというか、いや厳密にいうと永遠は拝領者においてちょっと入ってきたということになります。聖体拝領すると、天主は我らの霊魂に下り給います。そして、私たちは死んでいくと天主の下へ参ります。聖寵の状態であるのなら。
ですから、瀕死になった時、命の危険があった時、聖体拝領することが大事です。というのも、聖体拝領することによって、天主を頂くのですが、同時に天主が私たちを頂くのですから、その時に死んだら永遠に入っていけます。つまり、死ぬ直前に聖体拝領すると、天国に入れることは殆ど保証されているといってもよいでしょう。かなり救霊は近づくということです。御聖体はまさに我らの主、イエズス・キリストは人々に与え給った素晴らしい愛の証、永遠の命への保証です。
死ぬとき、聖体拝領すると、天国に行くための通行証を貰うようなことです。御聖体は永遠の命をもたらす秘跡ですから。
さらにいうと、この世では頻繁に聖体拝領する者は、そのぶん頻繁に自分の霊魂を天主に向かわせて、よく死ねるように、よく永遠の命の内にいられるための訓練となります。どれほど善き天主が善いかを感じられるでしょう。永遠の命を約束するだけではなく、永遠の命を得るためのすべての手段を与え給うのです。
しかしながら、聖体拝領するためには、条件があります。相応しい状態にあるべきです。霊魂の条件もありながら、身体の条件もあります。聖体拝領するとき、形色の外観の下に、現に天主を頂くことになりますので、物質的な印においてこそご現存しておられますので、拝領するために、霊魂だけではなく、身体も相応しい状態にあるべきであって、条件があります。もちろん、なによりも霊魂の条件が大事です。
原則として、分別のできる状態でなければなりません。そして、適法に聖体拝領するために、十分な教育をも受ける必要があります。つまり、御聖体がなんであるかということを知らなければなりません。
そして、一番大事な条件は「霊魂は聖寵の状態にあるべきだ」ということです。言いかえると、大罪の状態にある霊魂は聖体拝領することができません。なぜでしょうか?大罪を犯した霊魂は「天主の敵」となっています。つまり、大罪を犯したことによって、霊魂から天主を追い出したという意味ですから、御聖体を受けることはできません。「でも、天主を拝領したら、逆に天主を取り戻せるのではないか」と思う人もいるかもしれませんが、違います。天主を取り戻すために、告解がまず必要です。つまり、悔い改めて償う必要があります。罪を改悛して償う前提があります。いわゆる、天主に対して侮辱を犯したままに、天主に対して反目しているなかで、愛の秘跡、友好の証を受けることは無理です。
この意味で、近代主義者の説は非常に悲惨的なのです。悔い改めていないまま、大罪を犯している状態の者に聖体拝領を許す司祭たちは醜いのです。残念ながら、これはよく経験していることですよ。ある信徒は私に「大罪を犯しても聖体拝領できるとある司祭から聞いた」といいます。大変なことです。悲劇的なことです。このような軽い気持ちで、このような軽率なことは、我らの天主の愛への侮辱です。冒涜です。天主のやさしさ、天主の友好さを馬鹿にするようなことです。天主を馬鹿にするようなことです。天主はばかばかしいほどに優しい方ではありません。本当の意味での友人なので、私たちへの忠実と正直さについては徹底したものがあります。友人を本当に愛していたら、だめなことはだめなこととして言って、目をつぶるわけにはいきません。
聖書の多くのところで明記されています。一番象徴的なのは知恵の書でしょう。天主との友好的な関係を傷つける事柄、つまり罪ですね。大罪ですね。大罪は友好的な関係を潰す行為だからこそ忌まわしいのです。当然と言えば当然ですが、天主と仲直りするためには、努力が必要になるわけです。ですから、告解が必要となります。要するに、聖体拝領するためには、「聖寵の状態にいる」条件があります。必要な条件です。
また、当然と言えば当然ですが、聖体拝領するためには、最小限の慎みの心を持たなければなりません。天主ご自身はこの上なく至上の慎みを示すでしょう。ほら、威光あふれる姿でもなんでもなく、単なるパンとワインの外観の下にという質素な形を取り、ご自分を霊魂に与えるという素晴らしい慎み。このぐらい、聖体拝領するために、最小限の慎みの心を持っていきましょう。
また、聖体拝領するためにはまっすぐな心づもりでいるという条件があります。つまり、傲慢、誇示、自慢などの気持ちなしに聖壇に近づくことが大事です。なにか人間的な理由で聖体拝領してはいけません。薬を頂こうとする心が大事です。御聖体はまさに人間の現世欲への薬です。
最後に、聖体拝領するために、身体上の条件もあります。いわゆる断食することです。現在の教会法では、残念ながら、断食の義務はかなり減ったのです。「御聖体の断食」と呼ばれる断食ですが、聖職者に義務化づけられる断食ほど重くないのはいうまでもありません。最近まで、「御聖体のための断食」は、前夜の夜中から聖体拝領まで食べるのも飲むのも控えるということでした。いつも、聖体拝領するのは朝だったのですね。
教皇ピオ十二世は午後中にも聖体拝領を許すとともに、「御聖体の断食」の義務を減らしました。つまり、聖体拝領する前の三時間の間に食べるのも飲むのも控えるということです。つまり、「御聖体の断食」は本当に断食であって、聖体拝領する前の三時間、何も食べないで飲まないことです。ただ、「水」は対象外です。水を飲んでも大丈夫だということです。
残念ながらも現在、さらに教会法は緩くされて、現在法では断食を聖体拝領前一時間にまで減らせられたのです。もう、意味のない断食となっているということです。ここで、近代的なこのような法、つまり近代主義の精神を汲むこのような法律はどれほど悲劇的であって、悲惨であるかよく感じられます。このような法律は天主を馬鹿にしているようにしか見えません。もはや、天主に近づけるために、何の犠牲を払わなくてもよいような不敬。ご現存に対するこのような不敬は本当に悲しいことです。今度の講座においてまたご紹介します。
当然、病者などは「御聖体の断食」の義務から免除されています。例えば、薬を取るべき病者は薬を飲んでも断食の掟に違反していないのです。教会は母らしくて善いですから。ただし、健康である人は、御聖体の断食をすべきです。言いかえると、自分の体を準備するということです。我らの主を拝領するように、自分の体を準備して、断食によって清めるという。いわゆる、聖体拝領によって、我らの身体は聖櫃になっているので、聖なる場所となっているので、聖なる場所を清めることが必要であって、また当然なことです。
最後に、聖体拝領するためには、ある程度の礼儀正しい状態でなければなりません。ですから、聖体拝領するために、跪きますが、その上、服装ももちろん礼儀正しくなければなりません。例えば、水着のような恰好で教会に行くわけには行けません。当然ですが。今の例はちょっと極端ですが、天主様ですから、礼儀正しい服装は最低限です。
最近まで、教会法はこのようなところに関しても厳しかったですが、残念ながらも「近代への妥協」ということで、第二ヴァチカン公会議が決めた「世俗への妥協」の結果、これらの常識的な最小限な規定ですらなくなっています。残念ながらも礼儀正しい心を失うと、悲劇的なことが起きます。我らの主、イエズス・キリストに対して持つべき畏敬、畏怖を忘れて、危うくなっていきます。
最後に、御聖体は両形色をもって拝領することは昔からもはやありません。パンと葡萄酒の双方の形色で拝領することは「教会の当初の時代に回帰することだから」あるいは「よいことだろう」というよう理由で最近取り上げられて、この掟を緩くする動きがあります。しかしながら、それは違います。カトリック教会は賢明です。時間の積み重ねを顧みて、その英知を活かして、パンだけの聖体拝領にするようになりました。もちろん、特別な少数の典礼では、例えばギリシャ系の典礼では、今でも双方の形色で聖体拝領することはあります。
が、実際問題として、双方の形色での聖体拝領になると、多くの問題と困難が生じます。特に、冒涜する恐れがありますので、控えます。いと貴き御血を拝領することになると、液体なので、当然と言ったら当然ですが、こぼし易いし、配りにくいし、いろいろ問題があります。想像してください。皆、同じ杯に拝領するようなことには無理があります。ですから、賢明なる教会は信徒の葡萄酒の拝領を禁止しました。
当然ながら、霊的にいうと何も変わらないのです。聖変化されたパンにおいて完全にイエズス・キリストがましまし給うのですから、聖変化された葡萄酒を拝領しても何も変わりませんし。これは大事です。双方の形色の下に、同じく御体と御血とご霊魂とご神聖が完全にましまし給うから、パンの形色で拝領しても、完全な拝領となります。葡萄酒の形色を拝領する必要がどこにもありません。【後述しますが、なぜ形色が二つあるというと、生贄としてのミサ聖祭が成り立つためです】
それから、聖体拝領するために舌で拝領すべきです。近代主義者たちは舌で拝領しなくともよいという説を根拠づけるためにあまり関係のない教父の文書を引き出します。例えば「拝領しに行くと、右の手を左の手に置くようにしてください。」といった。確かに、当初の時代、手で聖体拝領することもありました。が、教会の長い経験と賢明を尊重すべきです。御聖体への尊敬のために、冒涜行為を避けるために、司祭が直接に舌に御聖体を置くことになっています。
以上聖体拝領という美しい事柄についてご紹介しました。