白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
アダムの知性と意志は我々の知性と意志とは変わらなかったのです。ただ、罪の影響だけはなかったのです。
つまり、楽園での人間は人間だったということです。我々現代の人々と同じ本質、同じ本性を持っていたという意味です。原罪によって人間の本性は変わらなかったという意味です。我々はアダムと同じ本性を持っています。
つまり、アダムは知性によっての知り方は我々と同じような知り方でした。言いかえると、感覚可能な現象を通じて知識を得て、結果や帰結などを見て原因へ遡るような知り方です。また同じように、感覚可能な現象から抽象して、観念を引き出すような知り方はアダムにも我々も変わらないのです。
このように、アダムは天主を直接に知れなかったのです。一対一に知ることはできませんでした。たしかに楽園では頻繁にアダムは天主との交流があって、話されたりしていたようですが、いわゆる祈りなどの間接な交流であり、一対一の交流ではなかったのです。なぜなら、天主と一対一になったら、人間は罪を犯せなくなるからです。しかしながら、アダムは原罪を犯したことから、このような一対一のことはなかったことを示します。
歴史上に天主との一対一を経験したことのある人はいると思われるのですが、神学上の議論であり、確かなことではありません。使徒聖パウロの場合、厳密に言う一対一ではなかったと思われます。天主によって「拉致」されて、天をちょっと見せられたのですが、本物の一対一ではないのです。
聖書において、「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」(脱出の書、33、20)と明記されています。モーゼも聖パウロも天主を見たことがあることもわかっています。この二つの例外以外、ないのです。聖トマス・アクイナスは聖パウロとモーゼが天主との一対一があったかどうかを考察しています。同時に、天主ご自身は「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」ということなどで、一対一のようなことではなかったでしょう。使徒聖パウロの「拉致」は確かに例外的であって、珍しい恵みだったに違いないのですが、一対一ではなかったでしょう。
それはともかく、アダムは天主との一対一を経験したことがありません。アダムは天にいたわけではなく、楽園にいたからです。つまり、アダムには信徳があったということです。また、アダムは天使が見えなかったし、天使と話すこともできなかったのです。天使には身体がないから、このような交流は不可能です。アダムの知り方は私たちと一緒でしたので、感覚可能な現象を通じなければならなかったのです。つまり、普段、アダムは天使についての知識を得られなかったのです。私たちと同じように。
繰り返しになりますが、これらの問は人間の本性が何であるかを理解するために非常に役立つのです。つまり、人間たらしめるのは何であるか、人間らしさは何であるか、我々はどういった存在であるのかを理解するために非常に役立つ問です。
また原罪を理解するために役立つのです。原罪は人間の本性を破壊しないわけです。また原罪は人間の本性を変質して、悪くさせたわけでもありません。人間の本性は傷ついたが、そのままに良質なのです。
このように、アダムの知性、知り方は我々の知性、知り方と変わらなかったのです。
ただし、一つの問題は残ります。アダムは大人の状態で創造されたわけです。そして、アダムは最初の人間なので、先生などいませんでした。しかし、アダムは何らかの形で学習する必要があったのです。具体的にどうやって習ったかというと、非常な形でアダムは習いました。「天主が与えた知識」をもっていたのです。天主による天賦です。つまり創造した段階に、アダムの霊魂において必要としていた観念などの知識を与えられたということです。
はい、おっしゃる通りに天使にも天賦の知識がありました。ただし、天使と違って、アダムは直接に観念などを知らなかったのです。我々と同じように表象を通じて観念などを知っていたということです。
天主は天使の下に人間を創造されたのは確かですが、天使のように人間を創造したわけではないのです。「天主が与えた知識」とはアダムのみに与えられた知識です。
繰り返しになりますが、天賦の知識があるからといって、アダムは天使と違って直接に観念を通じて知識を得られることが出来なかったのです。言いかえると、前回、人間の知識の在り方を紹介しましたが、アダムの天賦の知識を含めて、表象などを通じなければならなかったのです。
復習になりますが、人間の知性の働き方では、必ず表象と観念がリンクされています。そして知性の働きによって、表象から観念を抽象します(要約すると、表象は9感を通じて得られると)。
教育は以上のような人間の本性を踏まえるはずです。そうしなければ、よく習えません。つまり、教育というのは、少しずつ表象を越えて、表象に留まらないで、抽象力を増やして、観念までたどり着く能力を養うのです。
しかし、アダムは大人の状態で創造されたので、必要としていた観念と表象は天主によって与えられたということです。このようにして、最初から多くのことを知ることができました。このような天賦の知識のお陰で、創世記に明記されているように、アダムは動物などに名を付けることができたということです。アダムはそれぞれの存在を名付けられたということは、これらの存在を知っていたということを裏返しに示します。
なぜなら、本来ならば知らないことを名付けられないのです。つまり、この一句は、天賦の知識が聖書において啓示されているということを示します。
(視聴者の質問)歴史上でのいくつかの聖人、あるいは旧約聖書の預言者などは天主によって与えられた知識もあると思いますが、おなじようなことでしょうか。
(ビルコック神父の回答)いいえ、ちょっと違います。聖霊による天啓、与えられる知識があるとしても、アダムに天主によって与えられた知識は異質です。アダムに与えられた知識は完全だったからです。自然次元において、超自然においても、アダムはよく生きていくために、天を得るために、必要としていたすべての知識が与えられたからです。
繰り返しになりますが、アダムは創造された時、アダムが与えられた目的を得るために必要としていたすべてのことを天主が与えられたのです。アダムの天賦の知識は部分的ではなく、かなり広かったと思われます。注意してください。天賦の知識は絶対的な知識ではないのですよ。すべてを知ったわけではありません。自分の目的を達成するために必要となっている知識だけです。
このようにアダムの知性は完璧であって、アダムは間違いを犯せなかったほどでした。なぜなら、アダムの知性を動揺させうる何もなかったからです。アダムは間違えることが出来なかったのです。もちろん、我々にとって不思議に見えるのは、それでもアダムが罪を犯したというところですね。このポイントは重要です。これも覚えておきましょう。アダムが犯した原罪は過ちでも間違いでもないということです。知らなかったからではなかったのです。原罪の一つの結果として、人間は過ちと間違いを犯せるようになったのですが、原罪の前の正義の状態の内に、アダムは間違いを犯せなかったのです。原罪を犯してからアダムも間違えるようになりましたが、原罪の前にそれはなかったのです。
そしてアダムは罪を犯した時、アダムの完璧な知性の働きではなく、罪は意志の働きの結果です。そして、罪であることを知りながら、悪へ行くことを決意したわけです。だからこそ、原罪は重いわけです。無知だったから、素直だったから罪を犯したわけではありません。
言いかえると、原罪は純粋な悪意をもって犯された罪です。罪の重さを減らせる事情、たとえば無知、脆弱、理性の欠陥などないということです。つまり曇った知性によって誤魔化された意思が本来ならば望まなかったことを決意するようなことはアダムにはなかったのです。
我々の状態は違いますね。よく知性が曇って間違って、過って意志を照らして、悪い方向へ向わせられています。つまり、我々は多くの言い訳ができるのです。「知らなかった」とか、「誤った」とか、「このようなことになるなんて察しなかった」とか我々は言えるのですね。アダムとイブならそうはいかなかったのです。アダムとイヴにはこのような言い訳はあり得ないのです。不可能です。アダムとイヴの状態はそのような欠陥、過ちの余地は存在しなかったのです。アダムとイヴの罪は純粋に意志による罪です。つまり完全に悪意をもっての罪です。知性に欠陥などなかったので。言いかえると、純粋に傲慢の罪でした。
アダムの意志に関して信条があります。アダムの意志は聖寵においてラテン語で言うと「設立」されたということです。つまりアダムの意志は超自然の次元にまで高められたということです。
言いかえると、信条なので、信じるべきことですが、アダムは超自然の次元まで引上げられたということです。超自然ということは、聖寵の次元にまで引き高められて、また対神徳や超自然の聖徳などまで引き高められたということです。これは信条です。
信条になっていないのは、創造された時、すでにその状態だったことです。ですから「引上げられた」という言い回しを使いました。トレント公会議の言い回しは「設立(Constituere)」となります。ただし、この状態において創造されたかどうか信条になっていなくて、神学の対象の論点の一つです。
つまり、直接に超自然の状態において創造されたか、あるいは純粋に自然状態において創造されてから時間が経って超自然の状態に引上げられたか(その後、超自然の玄義を天主から示されたか)、神学の一つの論点です。
聖トマス・アクイナスをはじめ、偉大な神学者の一般共通説は天主がアダムを超自然の状態に直接に創造されただろうと、中間段階はなかっただろうとなっています。しかし、これは信条ではありません。
信条は「アダムが超自然の状態に引上げられた」となります。いつ、引上げられたかについては信条の対象になっていません。ささやかな区別ですが、公教会は緻密に区別しています。
いつについてだれもわかりませんが、一番高い可能性は創造の時に合わせて超自然の状態に引上げられたということです。
それはともかく、いつという問題を別にして、アダムは聖寵の状態にいる時から、初めの正義の状態にあると呼ばれています。楽園でのアダムの状態は初めの正義の状態と言われます。正義の状態にあったということです。正義は「正しさ」を語るということで、アダムにおいてすべてはまっすぐとなっていて、正しかったということです。ラテン語で「Rectitudo(正しい)」という語源の意味はまっすぐという意味です。アダムは完全にまっすぐでした。つまり、言いかえると、アダムにおいてすべては正しくて、秩序正しく整えられていたということです。神学用語でいうと「保全の賜物」とも称せられています。
ただし、この正しさは何だったでしょうか。聖書においてこの最初の正しさが明記されています。コレへットの書にあります。「天主は人間を正しいものとして造られた」(7,29)
この正しさは何でしょうか?三重の従順です。
第一に、天主への知性の従順なのです。これは正しいものです。まっすぐです。
直線はなんであるでしょうか?二点をまっすぐに貫いて何の迂回をしないような一線です。同じように、アダムの第一の真っすぐさは天主と知性を結び付ける従順です。天主に従って知性が働くということで、秩序正しく知性が天主の内に調和的に働いているということです。これは上階層の正しさです。
その下の階層に真っすぐさがあります。下の階層のの能力は知性と意志に従っているという秩序が守れている真っすぐさです。つまり、我々の欲情は知性と意志に従っているということです。アダムは保全の賜物があったわけです。アダムにおいてこのように正しく欲情は意志と知性に従って、知性と意志は天主にしたがっていました。
ところが、我々はもう、それを持たなくなりました。秩序が乱れました。保全の賜物の代わりに、我々は現世欲に秩序を乱すようにさせられています。まっすぐと打って変わって、敗北となっている状態です。醜い状態に陥ってしましました。意志と知性は天主に対して反逆して、欲情は意志と知性に対して反逆して、めちゃくちゃになって、秩序が乱れています。
ですから、我々は常に戦って、辛うじて、本来の秩序を取り戻すために努力しています。真っすぐさを取り戻すため、正義を取り戻すためです。
天主の統治の部についてふれておきますが、上部の秩序は下部の秩序の原因となります。意志と知性が天主に従順であって、欲情が意志と知性への従順です。逆ではありません。
そして一番下の階層の秩序もありました。身体は霊魂に従っているという正しさ、秩序、従順がアダムにありました。上部の二つの秩序も保全であったので。
注意していただきたいのは、上の階層は下の階層の状態を決めます。上が乱れたら下も乱れます。逆に上が正しかったら下も正しくなっていきます。一番上の階層の正しさは、第二の階層の正しさの原因となり、さらに第二の階層のの正しさは一番の下の階層の正しさの原因となります。
我々は常に人生において経験しているでしょう。カトリックに改宗した人々は皆経験しているでしょう。つまり、天主のことについて知性でよく分かった時、意志も正しくなって、正しい方向へ導かれて、少しずつ、欲情も身体をも従わせえます。しかし、出発点は信仰、回心です。天主のために目的づけられます。
そしてアダムの罪は欲情においても身体においてもないわけです。意志と知性のレベルです。「私は従わないことにする」という天主に対する反逆です。意志の決意です。欲情でもなくて、過ちでもなくて、純粋に悪意です。本来の自分の目的から逸らして、悪を選ぶ意志による行いです。
この本来の乱れなる罪のせいで、下の階層の反乱を招きます。下の階層の秩序も乱れているようになります。ですから今は抑えがたい欲情もあったりして、またわれわれの身体も脆弱でどうにもならない所以です。原罪のせいです。上の階層の秩序が乱れたせいで、他のすべての下の階層の秩序が乱れます。
また、原罪についての授業の時に改めて見ることになりますが、このように「初めての正義の状態」は何であったのか理解していただけたと思います。
で、どうしても、我々は思ってしまうでしょう。「私はアダムの立場にいたなら、このふざけた原罪を犯さなかったに違いない」と。
しかしながら、我々は本当にアダムの代わりにいたとしても、我々はアダムより勝ることはなかったのです。アダムにはすべてがそろっていました。私たちよりも遥かに完成していました。同じように「ルシファーの代わりにいたなら、絶対に反逆しなかっただろう」と思うこととおなじようなことです。ルシファーは被創造物の内に一番優れた、完璧な存在だったですので、私たちよりも遥かに遥かにまさっていたのです。
どうせ、この仮説は意味がないのです。我々はアダムでもルシファーでもないので、もう手遅れで、歴史をやり直すことはできないのです。仮に、もしもあり得ないとしても、本当にわれわれが彼らの代わりにいたならば、どうせ、我々よりも遥かに完璧な人々であるのに、なぜ我々の方がより良い決意するかと言えるのは個人的に疑問が残ります。
歴史を後から見直す、検討することは簡単ですが、当事者だったなら、これほど簡単に別行動をしたとはいいがたいのです。
アダムにはもちろん欲情がありました。私たちも欲情がありますね。そして、普通なら、我々は自分の欲情に対してちょっと怖いですね。うまく機能しなくなっているので、欲情はいつ暴れ出すかよくわからないので、我々は欲情に対してちょっとこわいですね。
アダムにも欲情があったのですが、怖いことでもなかったのです。完全に従っていたからです。善への欲情ばっかりだったわけです。楽園では悪がなかったので、欲情は必ず善へ向かわせられていたのです。この地上とちがっていたのです。
たとえば、楽園では悲しみなどはありませんでした。なぜなら、悲しむというのは、悪に対してことです。しかしながら、楽園では悪はなかったので、悲しみも怒りもありませんでした。怒りも自分にかかってくる悪に対する抵抗の欲情なので、楽園では存在しませんでした。怒る能力はあったわけですが、怒る対象が存在しなかったので、アダムは実際に怒ったことがありませんでした。楽園では。アダムの妻ですらアダムを怒らせなかったほどの完璧な楽園でしたよ(笑)。
憎しみというような欲情もありませんでした。憎しみの対象は楽園では存在しなかったからです。恐れもなかったのです。
同じように、アダムの霊魂にはすべての徳が揃っていましたが、完全な徳だけを実施していました。例えば、愛徳、正義の徳などを行いました。しかしながら、不完全な徳と呼ばれる徳、つまり罪と関係する徳などを実施する機会がなかったのです。持っていましたが、行う必要はなかったのです。
たとえば、慈悲という徳をアダムが行わなかったのです。なぜなら、慈悲の対象は楽園で存在しなかったのです。惨めなことは存在しなかったからです。また、償うことも改悛することもありませんでした。罪がなかったからです。アダムは楽園で罪人ではなかったので。
おなじように、我らの主、イエズス・キリストは改悛の徳を行ったことがありませんでした、人々の罪のために自己犠牲として贖罪のために御自身を捧げたのですが、改悛などはありませんでした。イエズスは一つの罪をも犯したことがないからです。
このような不完全な徳を行わなかったことは不完全さを示すのではなく、逆に完全さを示すわけです。アダムは私たちより遥かに完全だったことから、アダムのすべての行為は私たちの行為よりも価値があったのです。
永遠の命を得るために愛徳が必要ですね。愛徳は高ければ高いほどに永遠の命を得ることに値します。そして、我々の仕事は愛徳の実施を妨げる障害を自分の霊魂から一つずつ取り除くということです。
アダムの場合、楽園で、愛徳に対す障害は一つもなかったので、無限に愛徳は実施されていました。アダムの愛徳は勝っていったので、アダムの行為はかなりの功徳に値していました。
言いかえると、アダムにとって私たちにとってよりも、良い行為を行うに当たって、よりやりやすくて努力を必要としなかったからといって、その功徳は少なかったことになりません。功徳の価値は愛徳の程度だけです。善い行為をやるかどうの努力と関係ありません。また愛徳について紹介する時、改めて説明します。
さて、最後の点になりますが、一番下の階層の秩序、正しさは人間に対する大自然の真っすぐさです。つまり、大自然、被造物世界は人間に従っていたという正しさです。
ただし、正しく理解しましょう。一般的に言われる大自然に対する人間の支配のイメージとかなり違います。つまり、アダムは「この星々よ、この軌道が気に行かないので、軌道を変えてください」といっても星々の軌道は変わらなかったのです。もちろん。天主のみ旨に従った大自然という大枠において、アダムは自分の目的を果たすために(つまり正当な目的のために)完全に障害なく、抵抗なく大自然を利用することはできたのです。
いいかえると被造物世界は楽園で、完全にアダムに奉仕していたのです。
これで終わりにしたいと思います。楽園についてまだちょっとだけ残りますが、新学期にゆずりましょう。1月11日となります。ご清聴ありがとうございました。
(終わりの祈り)
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
楽園での人間について。(自然法、夫婦の別、男女の別などについて)
アダムの知性と意志は我々の知性と意志とは変わらなかったのです。ただ、罪の影響だけはなかったのです。
つまり、楽園での人間は人間だったということです。我々現代の人々と同じ本質、同じ本性を持っていたという意味です。原罪によって人間の本性は変わらなかったという意味です。我々はアダムと同じ本性を持っています。
つまり、アダムは知性によっての知り方は我々と同じような知り方でした。言いかえると、感覚可能な現象を通じて知識を得て、結果や帰結などを見て原因へ遡るような知り方です。また同じように、感覚可能な現象から抽象して、観念を引き出すような知り方はアダムにも我々も変わらないのです。
このように、アダムは天主を直接に知れなかったのです。一対一に知ることはできませんでした。たしかに楽園では頻繁にアダムは天主との交流があって、話されたりしていたようですが、いわゆる祈りなどの間接な交流であり、一対一の交流ではなかったのです。なぜなら、天主と一対一になったら、人間は罪を犯せなくなるからです。しかしながら、アダムは原罪を犯したことから、このような一対一のことはなかったことを示します。
歴史上に天主との一対一を経験したことのある人はいると思われるのですが、神学上の議論であり、確かなことではありません。使徒聖パウロの場合、厳密に言う一対一ではなかったと思われます。天主によって「拉致」されて、天をちょっと見せられたのですが、本物の一対一ではないのです。
聖書において、「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」(脱出の書、33、20)と明記されています。モーゼも聖パウロも天主を見たことがあることもわかっています。この二つの例外以外、ないのです。聖トマス・アクイナスは聖パウロとモーゼが天主との一対一があったかどうかを考察しています。同時に、天主ご自身は「どんな人も、私の顔を眺めて、なおいきつづけることはできない」ということなどで、一対一のようなことではなかったでしょう。使徒聖パウロの「拉致」は確かに例外的であって、珍しい恵みだったに違いないのですが、一対一ではなかったでしょう。
それはともかく、アダムは天主との一対一を経験したことがありません。アダムは天にいたわけではなく、楽園にいたからです。つまり、アダムには信徳があったということです。また、アダムは天使が見えなかったし、天使と話すこともできなかったのです。天使には身体がないから、このような交流は不可能です。アダムの知り方は私たちと一緒でしたので、感覚可能な現象を通じなければならなかったのです。つまり、普段、アダムは天使についての知識を得られなかったのです。私たちと同じように。
繰り返しになりますが、これらの問は人間の本性が何であるかを理解するために非常に役立つのです。つまり、人間たらしめるのは何であるか、人間らしさは何であるか、我々はどういった存在であるのかを理解するために非常に役立つ問です。
また原罪を理解するために役立つのです。原罪は人間の本性を破壊しないわけです。また原罪は人間の本性を変質して、悪くさせたわけでもありません。人間の本性は傷ついたが、そのままに良質なのです。
このように、アダムの知性、知り方は我々の知性、知り方と変わらなかったのです。
ただし、一つの問題は残ります。アダムは大人の状態で創造されたわけです。そして、アダムは最初の人間なので、先生などいませんでした。しかし、アダムは何らかの形で学習する必要があったのです。具体的にどうやって習ったかというと、非常な形でアダムは習いました。「天主が与えた知識」をもっていたのです。天主による天賦です。つまり創造した段階に、アダムの霊魂において必要としていた観念などの知識を与えられたということです。
はい、おっしゃる通りに天使にも天賦の知識がありました。ただし、天使と違って、アダムは直接に観念などを知らなかったのです。我々と同じように表象を通じて観念などを知っていたということです。
天主は天使の下に人間を創造されたのは確かですが、天使のように人間を創造したわけではないのです。「天主が与えた知識」とはアダムのみに与えられた知識です。
繰り返しになりますが、天賦の知識があるからといって、アダムは天使と違って直接に観念を通じて知識を得られることが出来なかったのです。言いかえると、前回、人間の知識の在り方を紹介しましたが、アダムの天賦の知識を含めて、表象などを通じなければならなかったのです。
復習になりますが、人間の知性の働き方では、必ず表象と観念がリンクされています。そして知性の働きによって、表象から観念を抽象します(要約すると、表象は9感を通じて得られると)。
教育は以上のような人間の本性を踏まえるはずです。そうしなければ、よく習えません。つまり、教育というのは、少しずつ表象を越えて、表象に留まらないで、抽象力を増やして、観念までたどり着く能力を養うのです。
しかし、アダムは大人の状態で創造されたので、必要としていた観念と表象は天主によって与えられたということです。このようにして、最初から多くのことを知ることができました。このような天賦の知識のお陰で、創世記に明記されているように、アダムは動物などに名を付けることができたということです。アダムはそれぞれの存在を名付けられたということは、これらの存在を知っていたということを裏返しに示します。
なぜなら、本来ならば知らないことを名付けられないのです。つまり、この一句は、天賦の知識が聖書において啓示されているということを示します。
(視聴者の質問)歴史上でのいくつかの聖人、あるいは旧約聖書の預言者などは天主によって与えられた知識もあると思いますが、おなじようなことでしょうか。
(ビルコック神父の回答)いいえ、ちょっと違います。聖霊による天啓、与えられる知識があるとしても、アダムに天主によって与えられた知識は異質です。アダムに与えられた知識は完全だったからです。自然次元において、超自然においても、アダムはよく生きていくために、天を得るために、必要としていたすべての知識が与えられたからです。
繰り返しになりますが、アダムは創造された時、アダムが与えられた目的を得るために必要としていたすべてのことを天主が与えられたのです。アダムの天賦の知識は部分的ではなく、かなり広かったと思われます。注意してください。天賦の知識は絶対的な知識ではないのですよ。すべてを知ったわけではありません。自分の目的を達成するために必要となっている知識だけです。
このようにアダムの知性は完璧であって、アダムは間違いを犯せなかったほどでした。なぜなら、アダムの知性を動揺させうる何もなかったからです。アダムは間違えることが出来なかったのです。もちろん、我々にとって不思議に見えるのは、それでもアダムが罪を犯したというところですね。このポイントは重要です。これも覚えておきましょう。アダムが犯した原罪は過ちでも間違いでもないということです。知らなかったからではなかったのです。原罪の一つの結果として、人間は過ちと間違いを犯せるようになったのですが、原罪の前の正義の状態の内に、アダムは間違いを犯せなかったのです。原罪を犯してからアダムも間違えるようになりましたが、原罪の前にそれはなかったのです。
そしてアダムは罪を犯した時、アダムの完璧な知性の働きではなく、罪は意志の働きの結果です。そして、罪であることを知りながら、悪へ行くことを決意したわけです。だからこそ、原罪は重いわけです。無知だったから、素直だったから罪を犯したわけではありません。
言いかえると、原罪は純粋な悪意をもって犯された罪です。罪の重さを減らせる事情、たとえば無知、脆弱、理性の欠陥などないということです。つまり曇った知性によって誤魔化された意思が本来ならば望まなかったことを決意するようなことはアダムにはなかったのです。
我々の状態は違いますね。よく知性が曇って間違って、過って意志を照らして、悪い方向へ向わせられています。つまり、我々は多くの言い訳ができるのです。「知らなかった」とか、「誤った」とか、「このようなことになるなんて察しなかった」とか我々は言えるのですね。アダムとイブならそうはいかなかったのです。アダムとイヴにはこのような言い訳はあり得ないのです。不可能です。アダムとイヴの状態はそのような欠陥、過ちの余地は存在しなかったのです。アダムとイヴの罪は純粋に意志による罪です。つまり完全に悪意をもっての罪です。知性に欠陥などなかったので。言いかえると、純粋に傲慢の罪でした。
アダムの意志に関して信条があります。アダムの意志は聖寵においてラテン語で言うと「設立」されたということです。つまりアダムの意志は超自然の次元にまで高められたということです。
言いかえると、信条なので、信じるべきことですが、アダムは超自然の次元まで引上げられたということです。超自然ということは、聖寵の次元にまで引き高められて、また対神徳や超自然の聖徳などまで引き高められたということです。これは信条です。
信条になっていないのは、創造された時、すでにその状態だったことです。ですから「引上げられた」という言い回しを使いました。トレント公会議の言い回しは「設立(Constituere)」となります。ただし、この状態において創造されたかどうか信条になっていなくて、神学の対象の論点の一つです。
つまり、直接に超自然の状態において創造されたか、あるいは純粋に自然状態において創造されてから時間が経って超自然の状態に引上げられたか(その後、超自然の玄義を天主から示されたか)、神学の一つの論点です。
聖トマス・アクイナスをはじめ、偉大な神学者の一般共通説は天主がアダムを超自然の状態に直接に創造されただろうと、中間段階はなかっただろうとなっています。しかし、これは信条ではありません。
信条は「アダムが超自然の状態に引上げられた」となります。いつ、引上げられたかについては信条の対象になっていません。ささやかな区別ですが、公教会は緻密に区別しています。
いつについてだれもわかりませんが、一番高い可能性は創造の時に合わせて超自然の状態に引上げられたということです。
それはともかく、いつという問題を別にして、アダムは聖寵の状態にいる時から、初めの正義の状態にあると呼ばれています。楽園でのアダムの状態は初めの正義の状態と言われます。正義の状態にあったということです。正義は「正しさ」を語るということで、アダムにおいてすべてはまっすぐとなっていて、正しかったということです。ラテン語で「Rectitudo(正しい)」という語源の意味はまっすぐという意味です。アダムは完全にまっすぐでした。つまり、言いかえると、アダムにおいてすべては正しくて、秩序正しく整えられていたということです。神学用語でいうと「保全の賜物」とも称せられています。
ただし、この正しさは何だったでしょうか。聖書においてこの最初の正しさが明記されています。コレへットの書にあります。「天主は人間を正しいものとして造られた」(7,29)
この正しさは何でしょうか?三重の従順です。
第一に、天主への知性の従順なのです。これは正しいものです。まっすぐです。
直線はなんであるでしょうか?二点をまっすぐに貫いて何の迂回をしないような一線です。同じように、アダムの第一の真っすぐさは天主と知性を結び付ける従順です。天主に従って知性が働くということで、秩序正しく知性が天主の内に調和的に働いているということです。これは上階層の正しさです。
その下の階層に真っすぐさがあります。下の階層のの能力は知性と意志に従っているという秩序が守れている真っすぐさです。つまり、我々の欲情は知性と意志に従っているということです。アダムは保全の賜物があったわけです。アダムにおいてこのように正しく欲情は意志と知性に従って、知性と意志は天主にしたがっていました。
ところが、我々はもう、それを持たなくなりました。秩序が乱れました。保全の賜物の代わりに、我々は現世欲に秩序を乱すようにさせられています。まっすぐと打って変わって、敗北となっている状態です。醜い状態に陥ってしましました。意志と知性は天主に対して反逆して、欲情は意志と知性に対して反逆して、めちゃくちゃになって、秩序が乱れています。
ですから、我々は常に戦って、辛うじて、本来の秩序を取り戻すために努力しています。真っすぐさを取り戻すため、正義を取り戻すためです。
天主の統治の部についてふれておきますが、上部の秩序は下部の秩序の原因となります。意志と知性が天主に従順であって、欲情が意志と知性への従順です。逆ではありません。
そして一番下の階層の秩序もありました。身体は霊魂に従っているという正しさ、秩序、従順がアダムにありました。上部の二つの秩序も保全であったので。
注意していただきたいのは、上の階層は下の階層の状態を決めます。上が乱れたら下も乱れます。逆に上が正しかったら下も正しくなっていきます。一番上の階層の正しさは、第二の階層の正しさの原因となり、さらに第二の階層のの正しさは一番の下の階層の正しさの原因となります。
我々は常に人生において経験しているでしょう。カトリックに改宗した人々は皆経験しているでしょう。つまり、天主のことについて知性でよく分かった時、意志も正しくなって、正しい方向へ導かれて、少しずつ、欲情も身体をも従わせえます。しかし、出発点は信仰、回心です。天主のために目的づけられます。
そしてアダムの罪は欲情においても身体においてもないわけです。意志と知性のレベルです。「私は従わないことにする」という天主に対する反逆です。意志の決意です。欲情でもなくて、過ちでもなくて、純粋に悪意です。本来の自分の目的から逸らして、悪を選ぶ意志による行いです。
この本来の乱れなる罪のせいで、下の階層の反乱を招きます。下の階層の秩序も乱れているようになります。ですから今は抑えがたい欲情もあったりして、またわれわれの身体も脆弱でどうにもならない所以です。原罪のせいです。上の階層の秩序が乱れたせいで、他のすべての下の階層の秩序が乱れます。
また、原罪についての授業の時に改めて見ることになりますが、このように「初めての正義の状態」は何であったのか理解していただけたと思います。
で、どうしても、我々は思ってしまうでしょう。「私はアダムの立場にいたなら、このふざけた原罪を犯さなかったに違いない」と。
しかしながら、我々は本当にアダムの代わりにいたとしても、我々はアダムより勝ることはなかったのです。アダムにはすべてがそろっていました。私たちよりも遥かに完成していました。同じように「ルシファーの代わりにいたなら、絶対に反逆しなかっただろう」と思うこととおなじようなことです。ルシファーは被創造物の内に一番優れた、完璧な存在だったですので、私たちよりも遥かに遥かにまさっていたのです。
どうせ、この仮説は意味がないのです。我々はアダムでもルシファーでもないので、もう手遅れで、歴史をやり直すことはできないのです。仮に、もしもあり得ないとしても、本当にわれわれが彼らの代わりにいたならば、どうせ、我々よりも遥かに完璧な人々であるのに、なぜ我々の方がより良い決意するかと言えるのは個人的に疑問が残ります。
歴史を後から見直す、検討することは簡単ですが、当事者だったなら、これほど簡単に別行動をしたとはいいがたいのです。
アダムにはもちろん欲情がありました。私たちも欲情がありますね。そして、普通なら、我々は自分の欲情に対してちょっと怖いですね。うまく機能しなくなっているので、欲情はいつ暴れ出すかよくわからないので、我々は欲情に対してちょっとこわいですね。
アダムにも欲情があったのですが、怖いことでもなかったのです。完全に従っていたからです。善への欲情ばっかりだったわけです。楽園では悪がなかったので、欲情は必ず善へ向かわせられていたのです。この地上とちがっていたのです。
たとえば、楽園では悲しみなどはありませんでした。なぜなら、悲しむというのは、悪に対してことです。しかしながら、楽園では悪はなかったので、悲しみも怒りもありませんでした。怒りも自分にかかってくる悪に対する抵抗の欲情なので、楽園では存在しませんでした。怒る能力はあったわけですが、怒る対象が存在しなかったので、アダムは実際に怒ったことがありませんでした。楽園では。アダムの妻ですらアダムを怒らせなかったほどの完璧な楽園でしたよ(笑)。
憎しみというような欲情もありませんでした。憎しみの対象は楽園では存在しなかったからです。恐れもなかったのです。
同じように、アダムの霊魂にはすべての徳が揃っていましたが、完全な徳だけを実施していました。例えば、愛徳、正義の徳などを行いました。しかしながら、不完全な徳と呼ばれる徳、つまり罪と関係する徳などを実施する機会がなかったのです。持っていましたが、行う必要はなかったのです。
たとえば、慈悲という徳をアダムが行わなかったのです。なぜなら、慈悲の対象は楽園で存在しなかったのです。惨めなことは存在しなかったからです。また、償うことも改悛することもありませんでした。罪がなかったからです。アダムは楽園で罪人ではなかったので。
おなじように、我らの主、イエズス・キリストは改悛の徳を行ったことがありませんでした、人々の罪のために自己犠牲として贖罪のために御自身を捧げたのですが、改悛などはありませんでした。イエズスは一つの罪をも犯したことがないからです。
このような不完全な徳を行わなかったことは不完全さを示すのではなく、逆に完全さを示すわけです。アダムは私たちより遥かに完全だったことから、アダムのすべての行為は私たちの行為よりも価値があったのです。
永遠の命を得るために愛徳が必要ですね。愛徳は高ければ高いほどに永遠の命を得ることに値します。そして、我々の仕事は愛徳の実施を妨げる障害を自分の霊魂から一つずつ取り除くということです。
アダムの場合、楽園で、愛徳に対す障害は一つもなかったので、無限に愛徳は実施されていました。アダムの愛徳は勝っていったので、アダムの行為はかなりの功徳に値していました。
言いかえると、アダムにとって私たちにとってよりも、良い行為を行うに当たって、よりやりやすくて努力を必要としなかったからといって、その功徳は少なかったことになりません。功徳の価値は愛徳の程度だけです。善い行為をやるかどうの努力と関係ありません。また愛徳について紹介する時、改めて説明します。
さて、最後の点になりますが、一番下の階層の秩序、正しさは人間に対する大自然の真っすぐさです。つまり、大自然、被造物世界は人間に従っていたという正しさです。
ただし、正しく理解しましょう。一般的に言われる大自然に対する人間の支配のイメージとかなり違います。つまり、アダムは「この星々よ、この軌道が気に行かないので、軌道を変えてください」といっても星々の軌道は変わらなかったのです。もちろん。天主のみ旨に従った大自然という大枠において、アダムは自分の目的を果たすために(つまり正当な目的のために)完全に障害なく、抵抗なく大自然を利用することはできたのです。
いいかえると被造物世界は楽園で、完全にアダムに奉仕していたのです。
これで終わりにしたいと思います。楽園についてまだちょっとだけ残りますが、新学期にゆずりましょう。1月11日となります。ご清聴ありがとうございました。
(終わりの祈り)