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教皇の役割とは 【公教要理】第六十四講

2019年09月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十四講 公教会における権威



「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
今回も、この信条の説明を続けましょう。公教会における権威という課題をご紹介していきたいと思います。
前回は公教会の構造をご紹介しました。教会の構造の基礎は「叙階の権能」と「統治権」にあります。
また、公教会の構造においては、教皇しか権威を持たず、司教たちは本物の権威をもってはいるものの、それは必ず教皇に依存しながらの権威となっています。

教皇が預かっている権威は具体的にどう行使されているのか、教皇の権威はどうなっているのでしょうか。
言い換えると、教皇の役割とは一体何なのでしょうか。カトリック教会の頭であることとは、一体何を意味するのでしょうか。

以前申し上げましたが繰り返しましょう。イエズス・キリストによって使徒たちに三重の使命が与えられました教義上の権能司祭上の権能統治上の権能の三つです。教える役割、聖化する役割、そして、第一と第二の役割に依存しながら、統治する役割です。教皇の権威は直接に天主から、私たちの主から由来しています。また、教会の権威は私たちの主の権威の延長に過ぎません。

私たちの主は第一に教えた御方でした。この上ない教師です。12歳の時、すでに神殿で教えていたイエズス・キリストの姿がある通りです。この上ない教師です。私たちの主は「真理そのもの」です。天主なる御子であられるイエズス・キリスト、至聖なる三位一体の第二の位格は、真理そのものです。真理、天主の聖子、御言葉であるからこそ、イエズス・キリストは真理そのものです。従って、イエズス・キリストは何よりもまず真理であり、教義であり、教師です。教えるためにイエズス・キリストは来たり給うたのです。

続いて、第二に、私たちの主は本当の最高司祭なのです。この上ない司祭です。童貞聖マリアの汚れのないご胎内に御宿り給うた御告げの最初の時から、すでにイエズスは永遠に司祭でした。そして、イエズス・キリストが司祭職をこの上なく果たしたのは、十字架の上です。というのも、「大司祭・Pontifex」の語源の通り、十字架上のイエズス・キリストは司祭職を果たし尽くしたからです

大司祭(Pontifex)として橋(pons)を造った、天主と人間との間の「橋」をかけたからです。従って、イエズス・キリストは人々の祈祷を天主へ届け挙げる本当の司祭であると同時に、聖化するための恩恵を天主から人々へ垂れたもう本当の司祭なのです。

それから、私たちの主は教師であり、司祭である上に、最後にでもあります。「あなたの言うとおりに私は王なのだ」 と私たちの主がピラトに仰せになった通りです。王である故に、私たちの主は本物の統治権をお持ちです。

注意しましょう。私たちの主は教える権威と聖化する権威と共に、聖ペトロと彼の継承者たち(歴代教皇)へ与えたもうこの統治・統治する権威は好き勝手にさせるためでは決してありません。私たちの主は「私は王である」と断言なさった時、興味深いことに、その後すぐ、「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た」 と言い加えます。これは、聖ヨハネが福音に記す言葉で、ピラトに対する質問の答えの中にあります。「あなたの言うとおりに私は王なのだ。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」 と。

したがって、非常に興味深いことですが、私たちの主の統治権とその王権は真理の上にこそ存在します。その福音の言葉で、あえて言えば、教皇の権威の定義がすべて明記されています。

私たちの主が教皇へ直接に賜った権威であって、教皇はキリストの代理者である故に、この世において、キリストの地位を教皇が占めて、代理するのです。従って、御覧の通り、教皇は好き勝手にその権威を発揮することは一切できません。教皇の持っている権威はあくまでも代理の権利であるので、自分で何でも好き勝手に決められるわけではないからです。

違います。キリストの代理者として、できるだけイエズス・キリストと一致して、イエズス・キリストが直接統治するかのように常に統治を行う努力をせねばなりません。キリストがお望みになる通り、教皇は受けた権威を発揮すべきです。
イエズス・キリストがお望みなる通りに統治する、主の教えをそのまま教える、また天主と人々との仲介者なる本物の司祭であることが求められます。天主の恩恵を人間に与え届ける「司祭」です。

私たちの主は「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た」 と仰せになります。教皇の第一の役割は教師であること、言い換えると教義上の役割です。
私たちの主イエズス・キリストによって啓示された真理を引き続き継承し、引き継いでいくことが教皇の第一の役割です。というのも、公教会の真理、また教会の遺産である真理は「ある人間」の真理ではなく、「天主の真理」であるからこそ大切だからです。真理の持主は天主でしかなく、天主しか真理を啓示できないからです。教皇はその真理の擁護者と守護者に過ぎないのです。啓示された真理の擁護者、その守護者です。

だれかが「でも諸世紀にわたって新しい真理(教義)が出てきただろう」と非難を出してくるかもしれません。違います。「新しい真理」が出されたことは一度もありませんでした

というのも、もしも「新しい教義」があったとすれば、それは「作り出された真理」ではなく、既存の真理を明徴したに過ぎません。「新しい教義」というのは、信仰において既に暗に包含されていた「真理」の明白化に過ぎないのです。ただ、その教義が明白に断言される以前には、それほど明文化する必要がなかっただけです。

「真理を明白化する」ことはあっても、「新しい真理を作り出す」ということはそもそもありません。新しい真理とか新しい法とかはありません。既存の真理の明白化だけです。言いかえると、真理を明白に述べるということです。より明白に、より明晰に、より明徴された真理ですが、真理としてはずっと初めからありました。既に啓示の中に暗に包含されていた真理をあらわにするような営みに過ぎないのです。
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教皇は啓示された真理の擁護者であり、その守護者です。そのために、そしてそのためにだけ、教皇に「不可謬性」というカリスマが備わっています。「不可謬性」が与えられた理由は啓示に含められている諸真理を保護、そして明徴するためです。

教皇は常に不可謬性であるわけではありません。言い換えると、「教皇は不可謬性」であるからといって、何か常に教皇が本質的に不可謬であるかのような性格を持っているというようなことではありません。「不可謬性」というカリスマは、一時的かつこの世においての教皇に対する聖霊の働きなのです。
一時的に、時間において、その聖霊の働きによって、教皇のために教皇が発せられる一つの真理の不可謬性を保証するカリスマのことです。言い換えると、真理であることの確信を保証するカリスマです。この「不可謬性」というカリスマの対象は「信条」と「道徳上の命題」だけであって、そういった真理を保証するためだけに「不可謬性」が与えられています

世界中のキリスト教徒に対して、ある真理はイエズス・キリストが「啓示された真理において包含されている真理である」ということを断言するためだけのカリスマです。教皇の不可謬性で一番最近に行使されたのは、教皇ピオ12世の御代の時でした。それは、世界中に向けて、「聖母マリアの被昇天」という教義を宣言した時でした。というのも、「聖母マリアの被昇天」という真理は既に暗に啓示された真理の中に含められている真理でしたが、これを明白に再断言・再確認したのです。ピオ12世が新しい真理を作りだしたのではなく、聖書においても聖伝においても、暗にすでに含められていた真理を宣言したに過ぎないのです。

以前にご紹介した通り、啓示の基礎は聖伝と聖書です。そして、聖書に基づき、また聖伝に基づき、教皇ピオ12世は「聖母マリアの被昇天」という真理を強調し、啓示され預かった信仰の遺産の中に、その真理を改めて明白に述べ、世界中に改めて再提示して発布しました。その際、教皇への一時的な聖霊の御働きによって、「天主によって啓示された真理であり、私たちの主イエズス・キリストの啓示の遺産に包含されている」ということを不可謬的に保証したのです。留意していただきたいことですが、私たちの主イエズス・キリストの啓示は最後の使徒の死によって、つまり聖ヨハネの死によってもう完全に閉じられました

以上は教皇の第一の役割です。教義上の役割で、その役割によって、教師となりながら、この世と人々を照らす光となるのです。私たちは主の後を歩くだけです。イエズス・キリストこそが光からの光「Lumen de lumine」と信経の中にあるように、光からの光なのです。
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続いて、教義上の権威により、教皇には統治権も備わっています。言い換えると、聖なる教義または啓示された教義の擁護と真理の伝播のために、教皇は法律を制定し、規律を施し、司教を任命し、公会議を招集します
教義(信仰)を守るために公教会の初めの諸世紀において多くの公会議が招集されていました。以上、公教会の権威の紹介でした。


次は、権威という課題をもうちょっと深めていくために、司教たちも本当の権威を持っていることを改めて繰りかえしましょう。
司教たちは教える権威、聖化する権威、統治する権威を本当に持っているのです。神授権として、司教たちはその三重の権威を完全に持っているのです。
しかしながら、教義にかんして、司教たちは牧者たちの牧者である教皇に、任せます。それでも、司教たちは教区において本物の教える権威、聖化する権威、統治する権利を持っています。教会において、教皇は絶対的な主要な権威を持っている一方、他方、司教たちは教皇に依存しながらも副次的に権威を持っていますが、本物の権威であることに関しては何も変わらないのです。

そして、公教会において、教皇と司教たちの間には多くの称号などがあって、あえていえば他の権威者たちもいるのです。これらは場所と時間によって変わったりするのです。そして、それらの敬称・称号などは多くあって、それらの個別の言葉も「教会用語」になって多くあって場所時間次第で違ったりします。

公会議についてちょっと説明していきたいと思います。公会議というのは、一般的に言うと司教たちの集会なのです。公会議には二つの種類があります。「エキュメニカル」と言われている会議(「公」会議)が、全世界の司教たちを集会する公会議です。教皇が司教たちを招集します。招待されて集まった司教たちの集会の普遍的な権威は、教皇自身から得ているにすぎません。だいたいの場合は、公会議はある真理を明白化するために集りますが、歴史において公会議はいつも信仰の教義と信条を守るために集まってきました

それから、「特定の会議」または「地方の会議」と呼ばれるものもあります。これらは、ある首都大司教が特定の地方の司教たちを招集する教会会議です。これらの特定の教会会議は勿論「公会議」ほど権威が備わっていません。


その他に、教会において、多くの「等級」があります。多くの「称号」があるが、かならずしも空っぽな「敬称」だけではなくて、時々、教会においての特別な義務・役割を現す称号でもあります。
最高牧者である教皇が教会の頭であることをすでに紹介しました。司教たちについても紹介しました。例えば、司教たちの間に、実際に「裁判権・統治権」が備わっている司教たちとそうでもない司教たちを区別するために、後者を「肩書き司教」と呼びます。

また、時々、ある司教には「総大司教」あるいは「首座大司教」という敬称で呼ばれています。これらは敬称であります。「総大司教」という敬称について、特定の特別の名誉のある司教座についている敬称なのです。例えば、ローマの司教(教皇)なら、「ローマ総大司教」とも呼ばれています。ローマには普遍なる教会の聖座があるからです。またエルサレムは最初に出来た教会なので、エルサレムの司教をも「総大司教」と言います。また、例えば、コンスタンティノープルの司教をも「総大司教」と言います。教会においての幾つかの司教座についている敬称であって、現場の教区の歴史からそれらの司教は名誉上の優位性があるということを現す敬称なのです。

他に「首座大司教」という称号もあります。「首座大司教」は大司教であって、昔はある国の全国を担当していたか、特定の広い領土を担当していた大司教だったということから転じた称号なのです。現代は「首座大司教」だといっても、古代にあった具体的な権力は、もはや存在しないが、その敬称としてだけ残りました。
例えば、フランスにおいて、リオンの大司教は「ガリアの首座大司教」という敬称を持っています。リオンの大司教はフランス全国に及んでいた権限は遙か以前からもうすべてなくなったが、敬称だけは残りました。
幾つかの場合は、司教であるが、複数の教区に及ぶ権限を持つということから、別の称号を持ったりします。
以上のように、公教会において多くの称号があるわけです。特別の使命によって、歴史によって、領土によって与えられたりしますが、公教会の構造でいうとそういった称号があるからといって基本的に何も変わらないのです。



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