白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様の説教
教皇とミサ聖祭に対する戦争
2021年07月25日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
愛する信徒の皆様、我らの生きている時代は平凡ではありません。相次ぐ出来事は重要であり、そのせいで多くの人々の人生は変わることもあるでしょう。第一の出来事には、衛生上の独裁政治が思い浮かびます。全世界のどこでも、治験段階にあるワクチンの接種を強制的に人民に課する独裁政治です。また、悪がしこいことに人々を辛いジレンマに追い込むようにしています。自称ワクチンのために実験台に使われるか、それを拒否するか。しかしながら、拒否したらクビになるほどのような脅迫にかかっているという辛い二択です。
はい、現代はそら恐ろしい時代となっています。それよりも酷いことに、教会内に至って、聖伝ミサに対する戦争は継続しています。ご存じのように7月16日、フランシスコ教皇によって発布された自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」をもって聖伝ミサに対する戦争は強化されました。この教令には、第二ヴァチカン公会議の実であるノブス・オルド・ミサ(新しいミサ)をさらに広めて強化する目論見があります。新しいミサとは、天主様のミサでなくなってその代わりに人間のためだけのミサです。
そして我々はこのような時代の内に人生を送らざるを得ない事実があります。ですから、信仰に照らして一番重要なこと、本質的なことに立ち戻ることは大事なことです。これは我々の究極的な目的地に立ち戻りましょうということです。
つまり、この世にいるのはなぜですか。なぜ生まれてきたのですか。自分の霊魂が救われるためにこの世に生まれたのです。このことこそが一番重要な真理です。この真理こそが私たち一人ひとりにとっての一番大事なことなのです。
この人生は巡礼にすぎず、短い移行に過ぎません。天主様は永遠の命のために我々を創り給いました。そしてこの世に生まれてきたのはこの永遠を得るためであり、努力して永遠の命を得ることに値する手柄を果たすためです。ですから、この世でのキリシタンの人生は戦いです。戦闘です。旧約聖書において既にヨブがこういっています。「Militia est vita hominis 、super terra(この世にいることは人にとって兵役である)」(ヨブ記、7,1)。
信仰に照らして戦っていかなければなりません。失望しないために、望徳を保つために、そして、我々の周りのこの世を信仰に照らして変えるために戦わなければなりません。信仰はつねに我々の心に染みてわれわれの霊魂に燃えつくすようにすべきです。
はい、この人生を送って、死後になって天国で至福を得て天主様と一緒になるか、不幸なことに地獄に落ちて自分の霊魂を失うか、一人一人の行為、一人一人の覚悟と努力にかかっています。皆さんの決意にかかっていることなのですよ。
福音書でイエズスが仰せになりました。「よし全世界を儲(もう)けても、自分の霊魂を失えば何の役にたつだろう」(マテオ、16,26.マルコ、8,36)。
聖アンブローズはキリシタンたちに向けて次のように思い起こさせました。「現にある二つの永遠の一つにしか行かないことを覚えてください。永遠に救われるか永遠に罰せられるか」。
以上のような真理は我々の黙想の対象にしましょう。なぜなら信仰が教える真理に照らして、我々は言動を決めなければならないし、周りの出来事を解釈しなければならないわけだからです。
聖フランシスコ・ザビエルによれば「人間にとって善とは専ら一つだけあって、また悪とも専らひとつだけある。人間にとって唯一の善とは救霊であり、唯一の悪とは劫罰を選ぶことである。」
さらにいうと、現代に生まれた我々に向けて、天主様は「この時代において救霊することだ」と命じておられます。教会初期の殉教の時代ほどにまだなっていないものの、平凡な時代でもなく全体的に困難な時代に向かっていることは間違いないことです。
このように、いつもいつも努力して一番重要なことに立ち戻り、そこに留まるようにすることが大事なことになります。一番重要なことは言いかえると我らの主、イエズス・キリストです。イエズス・キリストに従い、倣い、常に祈りによってともにし、我らの人生と心の中心におく、主を信頼するということなどです。
というのも天主様は試練が我々に与えられることを許可しています。また、このような戦闘を許可しています。それは我々の救霊のために必要であるからであり、またどれほど厳しい試練であるとしてもイエズス・キリストは我らの傍に常にいらっしゃって、天主の生命である聖寵によってわれわれを支えたまいます。
教皇の自発教令には気づかせてくれることがあります。使徒時代から教え続けられた聖伝の信仰と第二ヴァチカン公会議が生んだ新しい教えとは絶対に相容れないことを示してくれたということです。これが、「公会議を受容した」教会が聖伝ミサの存在をゆるせない所以です。
なぜでしょうか。単純です。聖伝ミサにおいてカトリック信仰の全体とすべてが織り込まれているからです。また、聖伝ミサはサタンに対するイエズスの勝利でもあります。つまり、十字架上の生贄の流血を伴わない再現です。また聖伝ミサに与れば与るほど、信徒たちの人生にも染みて、どういった人生を送るべきか自然に身についていきます。つまり、戦闘の人生を送ることという事実を自覚して、積極的に戦っていくように養うというのが聖伝ミサです。また、自己犠牲の精神も養われています。また永遠の栄光を得ることに値するために、イエズス・キリストに従い、イエズス・キリストに倣う精神も養われています。
一方、エキュメニズムの精神によって育まれた近代的なミサはプロテスタントの精神に染まっていて、何よりも人間を中心におくのです。現代の社会で確認できる大がかりで全面的な危機はフランス革命とともに生まれた民主主義、民主政治の理不尽さを露呈させています。天主の権利を否定するためにできた「人権」により生まれた民主主義の弊害は露呈されるようになりました。
以上は政治上で人間を中心におく民主主義であるなら、同じように新しいミサは天主のためのミサでなくなって、人間のためのミサになってしまっているということです。
要するに、現代、我々は生きている政治社会での危機、それから教会での危機はまったく同じ問題の二つの側面にすぎません。両方の危機は繋がっています。両方とも信仰を破壊するための、教会を破壊するための革命なのです。そしてこのような戦いの内にあるのが我々の兵役です。我々は戦闘員です。乱れた秩序を回復するために改めるために合法的な手段で全力を尽くすべきです。
そして、第一に自分自身に対する戦いなのです。自分自身を改めなければなりません。というのも社会、教会、この世が改まってほしいと思うのなら、自分自身をかえなければなりません。我々の第一の戦いは自分自身に対する戦いなのです。
本日の福音書に出ているところです(ルカ、19,41-47)。イエズス・キリストはエルサレムの前にいて涙を流されています。というのもエルサレムは救霊をもたらしに来た天主の御子を迎え入れないから、こんど罰として滅びるエルサレムを見てイエズスは悲しまれます。そしてその預言通りに紀元ごろ70年、ヴェスパシアヌス皇帝の代に、いわゆるティトゥス皇帝の軍によってエルサレムの神殿は破壊されました。このような天罰は現代の欧州を象徴していると言えましょう。というのも、かつてキリスト教だった欧州は信仰を捨てた分、昔のヘブライ人のように天罰を被っているからです。イエズス・キリストを拒めば拒むほど、自壊に至っていくのが欧州です。
また本日の福音書に登場するエルサレムは人間の霊魂をも象徴しています。我らの主、イエズス・キリストによって救いに呼びかけられている霊魂です。イエズス・キリストは信仰の恩寵を我らに与え給い、イエズス・キリストを肯定するように、受け入れるように、イエズスの教えに従うようにイエズスに倣うようにすべての人々を呼びかけられています。
そしてイエズスは一人も残さずにすべての人々のために救いをもたらしに来ました。あらゆる人間を救うために十字架上に死に給うたのです。また、一人一人の人に救いを得るための十分な適切な聖寵を与え給います。あと、それぞれの霊魂はそれを受け入れるかどうかです。それぞれの霊魂次第でありますが、残念ながら、天主様からの聖寵を拒むことがあります。こうなったら、自滅につながっていきます。
しかしながら、信徒である我々はイエズス・キリストを限りなく受け入れて迎え入れましょう。勝利するための第一の条件です。我々の霊魂と心に我らの主、イエズス・キリストを迎え入れましょう。イエズスのために我らの心に最大の最高の地位を譲りましょう。というのも、イエズス・キリストは神殿の商人たちを追い出すために来給いました。
福音書にあるこの場面はまず、史実をそのままに表します。そして、霊的な意味もあります。イエズスは神殿から商人たちを追い出されたのは、御父の家の神聖さを再断言するためでもあります。ひいては全世界の(建物としての多くの)カトリック教会は神聖であることを示し給いました。この分、教会に入るためにどれほど敬意を払うべきか、立居振舞においても服装においても祈りにおいてもどれほど尊厳に畏怖に満ちて入って言動していくべきかが示されています。
しかしながら、イエズスが神殿から商人たちを追い出した行為によって以上の、具体的な教え上、象徴的な意味もあります。つまり、われわれの霊魂こそは一番大事な神殿であるのです。そして、イエズスは神殿なるわれわれの霊魂にいる商人たちを追い出すために来給いました。これらの商人たちは乱れた感情、この世にある財産、栄光などへの愛着、肉欲や乱れた欲望などです。
というのも、天主様は我らの霊魂をお創りになったのは、天主様の神殿になるためです。聖霊の神殿になるためです。そのために我らの霊魂が存在します。我々の存在理由です。要するに、我らの主、イエズス・キリストを自分の内に迎え入れ、イエズス・キリストが我々の内に施されることを妨げないように努力することです。
また、イエズスに我々の内にどんどん施されるように祈ることです。告解と聖体拝領によって自分の霊魂にどんどんイエズス・キリストを迎え入れましょう。そして、私たちのために、私たちの代わりに、私たちとともに戦い給いますように。つまり、イエズス・キリストとともに霊魂ができるだけ一致しますように。
社会においても教会においてもこれから物事はどのように変わっていくでしょうか。変わっていくことだけは確かであろうが、具体的にどうなるでしょうか。聖ジャンヌ・ダルクがいうように、最終的に天主様は勝利を与え給うが、戦闘員たちは踏ん張って戦うことに専念すればよいと。
天主様は勝利のために適切な人々を選び出されるし、手段を与え給うことになります。そうでなければ、世の終わりになるでしょう。
喜ばしいことに、ファチマで出現された際、聖母マリアは「我が汚れ無き御心は最後に勝利する」と約束されたので、安心できます。ですから、善い意味でこの戦争は逆転し、天主様の勝利へ変わっていくでしょう。具体的にどうやってこのような逆転は起きるでしょうか。聖なる霊魂によってです。我らの主、イエズス・キリストにすべてを託した霊魂によって勝利に導かれます。このようなエリートの霊魂は頭となり、天主様のための戦闘を果たせる霊魂たちはこれから輩出していきます。このように社会と教会での天主様の秩序は取り戻されるでしょう。
そのために、我々は常に努力して準備しなければならないし、心を備えるべきです。まず、自分自身に毎日、いつも、我らの主、イエズス・キリストとの一致を強化することに努めましょう。そして、ずっとイエズスへの信仰と信頼を堅く維持するように努力しましょう。(戦いに挑んでいるので、よく絶望の脅迫に迫れるだろうが、絶望的な時においてこそ、踏ん張って勇気を出してイエズスのみ旨を果たせば戦闘員としての我々の義務は果たされるので、それで十分です)。天主様こそは歴史の流れを支配していることをわすれないでおきましょう。(すべての出来事はより多くの善のために用意されていることは教義において教えられています)。
そして、聖母マリアに祈りましょう。このような覚悟ができるように、イエズスへすべてを託する覚悟を養うように祈りましょう。
とりあえず、毎日、現在において生きていきましょう。天主様の恩寵にたよりながら毎日出てくる問題と試練などを一つ一つ受け入れて立ち向かい、戦っていきましょう。天主様はこれらのすべての試練を許可していることをわすれないでおきましょう。
商人たちを神殿から追い出すために試練が必要です。(何の戦いもせずに商人たちは出ないからです。)キリスト教の秩序を確立するためには十字架は必要不可欠です。しかしながら、十字架を担うべきであるとともにそれを担い乗り越えるための聖寵をも与えられます。本日の書簡で(コリント人へ第一の手紙、10,6-13)思い起こされるように、忠実なる天主様は我々の力を越える試練を送られることはないので安心しましょう。
毎日の苦しみがある分、毎日の聖寵もあるので、喜ばしいです。そして、よく祈って、天主様を何よりも上に我々の人生においておくのなら、毎日、未来にも、その時ごとに何をやるべきかは天主様によって示されることになりますので、そのみ旨を理解できるように、聞けるように努力して祈りましょう。
聖母マリアに以上の恩寵を得られるように祈りましょう。聖母マリアこそは自分自身を完全に天主様に託して、天主の聖寵に深く染みておられました。そして、一番苦しい時になってもそれは変わりませんでした。十字架の下にいた聖母マリアもその状態は変わりませんでした。聖母マリアの霊魂には天主様への望徳が満ちて、どれほど絶望的になっても、悲しい気持ちになってもいつも心の奥に安心して安泰でした。なぜなら、聖母マリアはつねに天主様と一致していたので、御受難などの酷い出来事はどれほど辛いとしても天主様が許可したことを知り、より善いことのためにあることを知っていたので心配しないで安心していました。
ですから、天主の御手に安心して自分自身を託しましょう。天主様は全能であり我々を愛し給うからです。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ペトルッチ(PP. Petrucci)神父様の説教
教皇とミサ聖祭に対する戦争
2021年07月25日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
愛する信徒の皆様、我らの生きている時代は平凡ではありません。相次ぐ出来事は重要であり、そのせいで多くの人々の人生は変わることもあるでしょう。第一の出来事には、衛生上の独裁政治が思い浮かびます。全世界のどこでも、治験段階にあるワクチンの接種を強制的に人民に課する独裁政治です。また、悪がしこいことに人々を辛いジレンマに追い込むようにしています。自称ワクチンのために実験台に使われるか、それを拒否するか。しかしながら、拒否したらクビになるほどのような脅迫にかかっているという辛い二択です。
はい、現代はそら恐ろしい時代となっています。それよりも酷いことに、教会内に至って、聖伝ミサに対する戦争は継続しています。ご存じのように7月16日、フランシスコ教皇によって発布された自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」をもって聖伝ミサに対する戦争は強化されました。この教令には、第二ヴァチカン公会議の実であるノブス・オルド・ミサ(新しいミサ)をさらに広めて強化する目論見があります。新しいミサとは、天主様のミサでなくなってその代わりに人間のためだけのミサです。
そして我々はこのような時代の内に人生を送らざるを得ない事実があります。ですから、信仰に照らして一番重要なこと、本質的なことに立ち戻ることは大事なことです。これは我々の究極的な目的地に立ち戻りましょうということです。
つまり、この世にいるのはなぜですか。なぜ生まれてきたのですか。自分の霊魂が救われるためにこの世に生まれたのです。このことこそが一番重要な真理です。この真理こそが私たち一人ひとりにとっての一番大事なことなのです。
この人生は巡礼にすぎず、短い移行に過ぎません。天主様は永遠の命のために我々を創り給いました。そしてこの世に生まれてきたのはこの永遠を得るためであり、努力して永遠の命を得ることに値する手柄を果たすためです。ですから、この世でのキリシタンの人生は戦いです。戦闘です。旧約聖書において既にヨブがこういっています。「Militia est vita hominis 、super terra(この世にいることは人にとって兵役である)」(ヨブ記、7,1)。
信仰に照らして戦っていかなければなりません。失望しないために、望徳を保つために、そして、我々の周りのこの世を信仰に照らして変えるために戦わなければなりません。信仰はつねに我々の心に染みてわれわれの霊魂に燃えつくすようにすべきです。
はい、この人生を送って、死後になって天国で至福を得て天主様と一緒になるか、不幸なことに地獄に落ちて自分の霊魂を失うか、一人一人の行為、一人一人の覚悟と努力にかかっています。皆さんの決意にかかっていることなのですよ。
福音書でイエズスが仰せになりました。「よし全世界を儲(もう)けても、自分の霊魂を失えば何の役にたつだろう」(マテオ、16,26.マルコ、8,36)。
聖アンブローズはキリシタンたちに向けて次のように思い起こさせました。「現にある二つの永遠の一つにしか行かないことを覚えてください。永遠に救われるか永遠に罰せられるか」。
以上のような真理は我々の黙想の対象にしましょう。なぜなら信仰が教える真理に照らして、我々は言動を決めなければならないし、周りの出来事を解釈しなければならないわけだからです。
聖フランシスコ・ザビエルによれば「人間にとって善とは専ら一つだけあって、また悪とも専らひとつだけある。人間にとって唯一の善とは救霊であり、唯一の悪とは劫罰を選ぶことである。」
さらにいうと、現代に生まれた我々に向けて、天主様は「この時代において救霊することだ」と命じておられます。教会初期の殉教の時代ほどにまだなっていないものの、平凡な時代でもなく全体的に困難な時代に向かっていることは間違いないことです。
このように、いつもいつも努力して一番重要なことに立ち戻り、そこに留まるようにすることが大事なことになります。一番重要なことは言いかえると我らの主、イエズス・キリストです。イエズス・キリストに従い、倣い、常に祈りによってともにし、我らの人生と心の中心におく、主を信頼するということなどです。
というのも天主様は試練が我々に与えられることを許可しています。また、このような戦闘を許可しています。それは我々の救霊のために必要であるからであり、またどれほど厳しい試練であるとしてもイエズス・キリストは我らの傍に常にいらっしゃって、天主の生命である聖寵によってわれわれを支えたまいます。
教皇の自発教令には気づかせてくれることがあります。使徒時代から教え続けられた聖伝の信仰と第二ヴァチカン公会議が生んだ新しい教えとは絶対に相容れないことを示してくれたということです。これが、「公会議を受容した」教会が聖伝ミサの存在をゆるせない所以です。
なぜでしょうか。単純です。聖伝ミサにおいてカトリック信仰の全体とすべてが織り込まれているからです。また、聖伝ミサはサタンに対するイエズスの勝利でもあります。つまり、十字架上の生贄の流血を伴わない再現です。また聖伝ミサに与れば与るほど、信徒たちの人生にも染みて、どういった人生を送るべきか自然に身についていきます。つまり、戦闘の人生を送ることという事実を自覚して、積極的に戦っていくように養うというのが聖伝ミサです。また、自己犠牲の精神も養われています。また永遠の栄光を得ることに値するために、イエズス・キリストに従い、イエズス・キリストに倣う精神も養われています。
一方、エキュメニズムの精神によって育まれた近代的なミサはプロテスタントの精神に染まっていて、何よりも人間を中心におくのです。現代の社会で確認できる大がかりで全面的な危機はフランス革命とともに生まれた民主主義、民主政治の理不尽さを露呈させています。天主の権利を否定するためにできた「人権」により生まれた民主主義の弊害は露呈されるようになりました。
以上は政治上で人間を中心におく民主主義であるなら、同じように新しいミサは天主のためのミサでなくなって、人間のためのミサになってしまっているということです。
要するに、現代、我々は生きている政治社会での危機、それから教会での危機はまったく同じ問題の二つの側面にすぎません。両方の危機は繋がっています。両方とも信仰を破壊するための、教会を破壊するための革命なのです。そしてこのような戦いの内にあるのが我々の兵役です。我々は戦闘員です。乱れた秩序を回復するために改めるために合法的な手段で全力を尽くすべきです。
そして、第一に自分自身に対する戦いなのです。自分自身を改めなければなりません。というのも社会、教会、この世が改まってほしいと思うのなら、自分自身をかえなければなりません。我々の第一の戦いは自分自身に対する戦いなのです。
本日の福音書に出ているところです(ルカ、19,41-47)。イエズス・キリストはエルサレムの前にいて涙を流されています。というのもエルサレムは救霊をもたらしに来た天主の御子を迎え入れないから、こんど罰として滅びるエルサレムを見てイエズスは悲しまれます。そしてその預言通りに紀元ごろ70年、ヴェスパシアヌス皇帝の代に、いわゆるティトゥス皇帝の軍によってエルサレムの神殿は破壊されました。このような天罰は現代の欧州を象徴していると言えましょう。というのも、かつてキリスト教だった欧州は信仰を捨てた分、昔のヘブライ人のように天罰を被っているからです。イエズス・キリストを拒めば拒むほど、自壊に至っていくのが欧州です。
また本日の福音書に登場するエルサレムは人間の霊魂をも象徴しています。我らの主、イエズス・キリストによって救いに呼びかけられている霊魂です。イエズス・キリストは信仰の恩寵を我らに与え給い、イエズス・キリストを肯定するように、受け入れるように、イエズスの教えに従うようにイエズスに倣うようにすべての人々を呼びかけられています。
そしてイエズスは一人も残さずにすべての人々のために救いをもたらしに来ました。あらゆる人間を救うために十字架上に死に給うたのです。また、一人一人の人に救いを得るための十分な適切な聖寵を与え給います。あと、それぞれの霊魂はそれを受け入れるかどうかです。それぞれの霊魂次第でありますが、残念ながら、天主様からの聖寵を拒むことがあります。こうなったら、自滅につながっていきます。
しかしながら、信徒である我々はイエズス・キリストを限りなく受け入れて迎え入れましょう。勝利するための第一の条件です。我々の霊魂と心に我らの主、イエズス・キリストを迎え入れましょう。イエズスのために我らの心に最大の最高の地位を譲りましょう。というのも、イエズス・キリストは神殿の商人たちを追い出すために来給いました。
福音書にあるこの場面はまず、史実をそのままに表します。そして、霊的な意味もあります。イエズスは神殿から商人たちを追い出されたのは、御父の家の神聖さを再断言するためでもあります。ひいては全世界の(建物としての多くの)カトリック教会は神聖であることを示し給いました。この分、教会に入るためにどれほど敬意を払うべきか、立居振舞においても服装においても祈りにおいてもどれほど尊厳に畏怖に満ちて入って言動していくべきかが示されています。
しかしながら、イエズスが神殿から商人たちを追い出した行為によって以上の、具体的な教え上、象徴的な意味もあります。つまり、われわれの霊魂こそは一番大事な神殿であるのです。そして、イエズスは神殿なるわれわれの霊魂にいる商人たちを追い出すために来給いました。これらの商人たちは乱れた感情、この世にある財産、栄光などへの愛着、肉欲や乱れた欲望などです。
というのも、天主様は我らの霊魂をお創りになったのは、天主様の神殿になるためです。聖霊の神殿になるためです。そのために我らの霊魂が存在します。我々の存在理由です。要するに、我らの主、イエズス・キリストを自分の内に迎え入れ、イエズス・キリストが我々の内に施されることを妨げないように努力することです。
また、イエズスに我々の内にどんどん施されるように祈ることです。告解と聖体拝領によって自分の霊魂にどんどんイエズス・キリストを迎え入れましょう。そして、私たちのために、私たちの代わりに、私たちとともに戦い給いますように。つまり、イエズス・キリストとともに霊魂ができるだけ一致しますように。
社会においても教会においてもこれから物事はどのように変わっていくでしょうか。変わっていくことだけは確かであろうが、具体的にどうなるでしょうか。聖ジャンヌ・ダルクがいうように、最終的に天主様は勝利を与え給うが、戦闘員たちは踏ん張って戦うことに専念すればよいと。
天主様は勝利のために適切な人々を選び出されるし、手段を与え給うことになります。そうでなければ、世の終わりになるでしょう。
喜ばしいことに、ファチマで出現された際、聖母マリアは「我が汚れ無き御心は最後に勝利する」と約束されたので、安心できます。ですから、善い意味でこの戦争は逆転し、天主様の勝利へ変わっていくでしょう。具体的にどうやってこのような逆転は起きるでしょうか。聖なる霊魂によってです。我らの主、イエズス・キリストにすべてを託した霊魂によって勝利に導かれます。このようなエリートの霊魂は頭となり、天主様のための戦闘を果たせる霊魂たちはこれから輩出していきます。このように社会と教会での天主様の秩序は取り戻されるでしょう。
そのために、我々は常に努力して準備しなければならないし、心を備えるべきです。まず、自分自身に毎日、いつも、我らの主、イエズス・キリストとの一致を強化することに努めましょう。そして、ずっとイエズスへの信仰と信頼を堅く維持するように努力しましょう。(戦いに挑んでいるので、よく絶望の脅迫に迫れるだろうが、絶望的な時においてこそ、踏ん張って勇気を出してイエズスのみ旨を果たせば戦闘員としての我々の義務は果たされるので、それで十分です)。天主様こそは歴史の流れを支配していることをわすれないでおきましょう。(すべての出来事はより多くの善のために用意されていることは教義において教えられています)。
そして、聖母マリアに祈りましょう。このような覚悟ができるように、イエズスへすべてを託する覚悟を養うように祈りましょう。
とりあえず、毎日、現在において生きていきましょう。天主様の恩寵にたよりながら毎日出てくる問題と試練などを一つ一つ受け入れて立ち向かい、戦っていきましょう。天主様はこれらのすべての試練を許可していることをわすれないでおきましょう。
商人たちを神殿から追い出すために試練が必要です。(何の戦いもせずに商人たちは出ないからです。)キリスト教の秩序を確立するためには十字架は必要不可欠です。しかしながら、十字架を担うべきであるとともにそれを担い乗り越えるための聖寵をも与えられます。本日の書簡で(コリント人へ第一の手紙、10,6-13)思い起こされるように、忠実なる天主様は我々の力を越える試練を送られることはないので安心しましょう。
毎日の苦しみがある分、毎日の聖寵もあるので、喜ばしいです。そして、よく祈って、天主様を何よりも上に我々の人生においておくのなら、毎日、未来にも、その時ごとに何をやるべきかは天主様によって示されることになりますので、そのみ旨を理解できるように、聞けるように努力して祈りましょう。
聖母マリアに以上の恩寵を得られるように祈りましょう。聖母マリアこそは自分自身を完全に天主様に託して、天主の聖寵に深く染みておられました。そして、一番苦しい時になってもそれは変わりませんでした。十字架の下にいた聖母マリアもその状態は変わりませんでした。聖母マリアの霊魂には天主様への望徳が満ちて、どれほど絶望的になっても、悲しい気持ちになってもいつも心の奥に安心して安泰でした。なぜなら、聖母マリアはつねに天主様と一致していたので、御受難などの酷い出来事はどれほど辛いとしても天主様が許可したことを知り、より善いことのためにあることを知っていたので心配しないで安心していました。
ですから、天主の御手に安心して自分自身を託しましょう。天主様は全能であり我々を愛し給うからです。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン