ファチマの聖母の会・プロライフ

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善き天主は、被造物を通じて、私たちに多くの善を与えることになさいました 「第四戒」

2020年10月26日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百講 第四戒について



前回まで一枚目の石板の戒を見てきました。つまり、第一と第二と第三の戒のことです。これらは、天主に関する戒であって、天主に対する義務を記す三つの掟です。今回から、二枚目の石板に刻まれた戒を見ていきましょう。第四から第十までの戒です。隣人と自分自身に対する義務に関する掟です。
天主への義務に続いて隣人への義務を見ていきましょう。
最初に第四の戒から紹介しましょう。一番一般的な題目は次のようになっています。

第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。

私たちは天主よりすべてを賜ることは言うまでもありません。存在も生命も天主より賜っています。しかしながら、善き天主はこれらの多くの善を私たちに与えるために二次的な原因を使うことになさいました。言いかえると、善き天主は創造し給た被創造物を通じて、生命を与えたり、恩恵を与えたり、存在し続けられるように、また我々が統治できるように、善い物事を与えたりすることになさいました。

これらを踏まえたうえで、私たちの創造主に対する義務の次に、私たちの創造に協力してくれた人々に対する義務を見ていきましょう。私たちに生命を与えるために、創造主の道具となった人々、創造主の御業に協力した親・先祖に対する義務です。
実は、第四戒は我々の親のみを対象とするのではなく、その範囲はより広いです。

第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。

といいますが父母という表現は親を指すだけではなくて、私たちの命を成り立たせるすべての人々も含まれています。
要するに、第四戒の「父母」には次の人々が含まれています。まず、自分の父母、即ち親があります。つまり、生命を頂いた親と先祖です。

それから、生物的な側面からの生命ではありませんが、、知識や秩序という側面からの生命を与えてくれる師匠・先生・上司などの人々も含まれています。
それから、国家も含まれています。国家は社会的側面からの生命と政治的側面からの生命を与えてくれる存在として、私たちの完成化を助けてくれます。
それから、宗教上の長上も含まれています。霊的な生命、聖なる生命、内面的な生命を与えてくれる宗教的側面からの長上たちも含まれています。

ですから、この第四戒はかなり広い範囲に及びます。要約すると、第四戒の内に次の義務が規定されています。
■親と先祖に対する義務。
■世俗界のもろもろの(広義の意味での)上司に対する義務。
■そして、霊的な長上に対する義務。

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このようにして、第四戒の「父」とは私たちに対して権威を持つすべての人々が含まれています。では下の者から上の者への義務とは何ですか?
一般的にいうと、これに属する義務は「孝行」という徳の一環となります。



孝行というのは、社会的な政治的な存在である人間であるがゆえに、下の人が上の人に返すべき恩を返すことを意味する徳なのです。
では、第一に、親に対する子供の義務とは何でしょうか?親に対する子供の第一の義務とは親を愛することです。当然といえば当然ですが、そもそも生まれてきたのも愛による行為の結果であり、また親しく世話もされたことに対する恩返しということで、親を深く誠実に愛すべきです。
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ですから、親への愛を拒絶するような行為は罪となります。例えば、親に対して悪意をもった行為、あるいは親に対して怒りの念を抱く時、最悪の場合、憎しみの念を抱くのは罪となります。また、例えば、親の弱点と欠点を他人に明かしたり、あるいは人前で親を誹謗したりすることは罪となります。誹謗するというのは、嘘あるいは誤っていることをあえて誰かについていうということです。また、親に何か悪いことが起きるように望むようなものも罪です。まとめると、親に対する子供の第一の義務は親を愛するということです。

第二の義務は親を敬うことです。言いかえると、親を尊敬して、また親を崇敬するということです。
具体的にいうと、このような崇敬は親に話す時の口調における丁寧さを通じて表されています。つまり、親に話す時、友達に話す時と違うわけです。つまり砕けた口調あるいは不作法に厚かましく親に話すのではありません。言葉は内面的な態度と意図を外に表すものとして、親に話す時、出来る限り丁寧に敬意をこめて話すべきです。

このように、外面的に親に返すべき恩を表さなかったら孝行に背くことになります。例えば、極端な例ですが、親を打つとかは孝行にもとるのです。荒っぽくあるいは侮蔑的に親に話すことは孝行に背く行為です。砕けた口調で親に話すことでさえ、親に払うべき尊敬に背く行為です。そういえば、尊敬という義務は愛という義務から来ます。誰かを愛している時、必ず敬うようになるからです。



そして、愛と尊敬に加えたさらにもうひとつの義務は従順です。当然といえば当然ですが、子供は親に従うべきです。従順という徳は何ですか?親は子供が善へ歩むように子供の意志に命じる時、自分の善のために子供が積極的に従うことを意味します。つまり、従順には、まず権威からの命令という行為があります。ここでは親から子供への命令ですね。このように命じるという行為は子供の意志を対象にしています。そして、子供の場合、善悪の区別もまだよく把握していないし経験も少なく、具体的に何をすべきか決められないことが多いので、親は子供に命じざるを得ません。

ここでの「命じる」というのは善い意味での命令です。いわゆる、秩序づける命令、善に向かわせるとしての意味の命令です。ですから、親は子供に命じます。そして、親は子供に命じることによって、子供を善へ動かすのです。そして、当たり前ですが、子供はそれに従う義務があります。要するに、子供の従順というのは、親からの正当なる誠実なる命令に従うということです。

そして、親に対する子供の義務はもう一つあります。親への援助の義務です。言いかえると、子供は親のために必要となる身体上と霊魂上の援助を施すべきです。

当然ながら、親は子供に生命を与えました。また住食衣を子供に与えます。また教育をも与えます。これらの多くの恩を頂いた分、子供は恩返しすることですね。つまり、親は年を取って、病気になる時、晩年になって死後の裁き、臨終が迫っている時、子供は親を援助する義務があります。必要に応じて物質的な援助はもちろんのことです。病気あるいは事故などがあったら、子供は親への援助義務があります。それには、精神上の援助も含まれています。霊的な援助のことです。親は死に近づく時、子供はできる限りあらゆる手段を尽くして、親が臨終に近づいてよく備われるように援助すべきです。いわゆる敬虔の内に、聖の内に臨終を迎えるための準備。具体的には勇気をもって親に臨終のことを話したり、告解と聖体拝領に与れるように神父様を呼んだりするのがよいでしょう。
以上は親に対する子供の義務でした。

つづいて、親に対する子供の義務をなぞった、同じく生徒対先生、臣下対君主(市民対正当なる権威者)、そしてカトリック信徒対教会の正当なる権威者。ここでの「正当」というのは、「善に導く限りにおいての権威者」という意味です。

このようにして、生徒は先生に対して従順になること。フランス語では「Docilité」といって、ラテン語の「教わる」という意味ですが、これはよく教えられる状態に自発的に心境を整えるという意味があります。また先生には親しみをもって接するべきです。先生を愛するときこそ、教えられる側の生徒がよく学び得るという現象は興味深いです。そして、先生に対して感謝するという義務もあります。先生といった時、師匠、上司、上の権威者なども含まれています。教わったことによって承った多くの知識と賜物への感謝の表明。あるいは上司から鍛えられた徳に対する賜物への感謝の表明。



感謝することは最近では忘れがちであるかもしれませんが、必要であり、義務です。

次には大きくいって「国家」に対して以上の義務を類推して適用することができます。感謝することも必要です。正当なる権威者に対しての義務ですが、残念ながらも、現代ではこのような正当なる権威者はめちゃくちゃです。具体的な例を挙げませんが、本来ならば、政治上の権威者は、例えば元首が共通善のために働くべきですが、現代、共通善のためにあまり働かないのですから、服従の徳、あるいは「忠」を果たすのも難しくなります。

また以上と同じように、正当なる聖職者には信徒は従うべきです。ここでの正当は今回、政治上の共通善に沿う権威者というのではなく、信仰に沿っての聖職者を言います。つまり、信仰を教えて伝えて、また秘跡を預ける聖職者に対して信徒はこれらの霊的な次元において正当なる権威者として従うべきです。秘跡とは霊魂の救いのために与えられた手段であり、必要な手段です。

駆け足で紹介しましたが、親に対するほかの義務もこのようにしてそれぞれの場合(国家、教会など)に援用できます。たとえば、忠と孝のような区別を細かくできることができますし、それぞれの場合、徳の名前などはちょっと違ったりしますが、大きく言ってその基礎、その根本は共通しています。まとめると、子供、市民、カトリック信徒としての上の者への従順の義務。社会と教会において下の者としての立場のゆえに生じる義務です。

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さて、第四戒について一つ大事なことを指摘しておきましょう。前述したように、第四戒の中心は「上」の者に対する「下」の者の義務なのです。つまり下の者は上の者に対してどうすべきかを規定する掟です。

しかしながら、第四戒にはもう一つの大事な側面があります。この側面は現代で忘れがちですから強調しておきましょう。実は現代ではこの側面を無視することが殆どです。現代人は本来の政治的な感覚を失ったからでしょう。政治的な感覚という時、本来の政治の意味で使っていますので、家、社会、教会ににわたり妥当します。



「下」の者は「上」の者に従うべきだというのは簡単ですが、大事なことを忘れないでおきましょう。つまり、従うことというのは二人の間の関係を前提にしているということです。つまり、「従順」あるいは「服従」の義務があるという時、暗に上下の間に一定の関係性が想定されているのです。それはある命令に従うために共通善に沿う命令が想定されているということであり、つまり、下の者が上の者に従うべきだという前提には、まず、必ず、上の者が共通善に従っているという前提があるのです。順番でいうと、下の者は上の者に従う義務以前に、まず、上の者は共通善に従う義務があるということです。この前提を忘れてはいけません。

ですから、第四戒は下の者(子供、臣下、生徒、信徒)に対する上の者、即ち権威者たち(父、君主、師匠、神父などなど)の義務をも含まれています。この中に、部下に対する上司の義務もあるし、つまり、指揮を執っている人々の義務も含まれています。もちろん、司教と教皇との義務も含まれています。

このようにして、上下関係は関係なのですから、あえていえば、相手は尊敬に値する時にこそ、本当の意味で相手を尊敬することはできるという前提があります。つまり、だれかを客観的に尊敬するためには(これはいわゆる気持ちとしての主観的な尊敬ではなく)、その人が客観的に尊敬に値する必要があるということです。つまり具体的な物事があって、尊敬に値するから実際に相手を尊敬するということです。つまり、権威者が形式的に任命されて権威がある場合では、まだ十分ではなくて、完全な尊敬の対象になれません。いや、正当な権威を善く振るってこそ初めて、より高度な尊敬の対象になれます。

ですから、下の者として、上の者は上の者だから、つまり権威があるから、下の者が機械的に跪いて崇敬することはだめです。上の者はは、善く権威を振るうべきです。つまり何もしない、あるいは共通善にために権威を使っていない権威者は尊敬に値しません。

ですから、上の者は重い責任のゆえ、重い義務を負います。上の者に対する下の者の義務よりも、下の者に対する上の者の義務はより重く重大です。つまり、上に立つ人々は下に立つ人々に「命じたから従え。理由を聞くな。私が上の者だから黙れ。私が好き勝手に決めたから従え」というような態度はだめです。全くその逆です。共通善のためにだけ、共通善にそってだけ、命じることは許されています。つまり、共通善に従ってだけ、命令が正当となります。

このように上下関係を考えると、現代は困難な時代であることを感じてもらえるかと思います。現代は政治上の上下関係だけではなく、あらゆる社会上の関係において、ある種の全体主義的な、ある種の独裁主義的な、ある種の権威主義、ある種の人格主義的な空気になっています。つまり、上の者は共通善を下の者に課するよりも、「自分自身」の人格を下の者に押し付けるような時代になっています。いわゆる「私が言ったから、不正であっても従え」そして「従わなかったら強制的に押し付けるぞ」というような時代になっています。

そして、上の者は下の者が従わない場合、本来ならば悲しむのですが、なぜか悲しむかというと、共通善に反するからです。しかしながら、現代の空気では、上の者は下の者が従わないと上の者が怒るが、共通善が傷つくからではなく、自分自身に対する侮辱であるとか思うからです。これはまさに、共通善が殆どの場合、忘れられているという意味です。

たとえば、親は子供を愛する義務があります。そして、子供は愛の行為から生まれますが、そのあとでも生きている間に、ずっと親からの愛情の対象であるべきです。これは自然だと言ったら自然です。母はどうしても産んだ子を愛して、最後まで産んだ子を愛し続けるように、人間の本性に織り込まれた自然な愛情だと言えます。しかしながら、それは単なる自然な愛情だけではなく、実践的な愛にならなければなりません。
実践的な愛というのは、例えば親の場合、教育の実践において現れます。真にそっての教育、善にそっての教育、美に沿っての教育。いわゆる真善美を嗜むように育っていくこと。また学問を通じた、知性の教育、意志の教育、いわゆる徳を実践するための教育ですね。

ですから、親の立場は子供の教育のために、教師と学校を選ぶときには非常に慎重に子供を想い、任せる必要があります。親が教育の責任を負っていますから。つまり、深い考えもなく、自分の子供を悪い先生あるいは邪悪な先生に任せたら深刻な罪を犯します。

現代の殆どの学校は残念ながら、悪いことを子供に教え込むのですから気を付けましょう。特に最近、学校に登場した「性的な教育」を見ると明瞭でしょう。これは文字通りにスキャンダルなのです。不祥事なのです。厳密にいうとスキャンダルは「他人を罪に落とさせる行為」だから、まさに「性的な教育」はスキャンダルです。

また親のもう一つの大事な義務があります。子供を罰する義務があります。この義務は現代で否定されがちです。いわゆる「児童の権利」とかを取り上げて、罰してはいけないという空気になります。しかしながら、善悪をよく分別していない子供の「権利」とはどういうことでしょうか?つまり、子供は自分で本当の意味で基本的に選べないから、子供にとっての「選択の自由」は意味をなさないでしょう。



そこで親は子供に対して罰する義務があるということになります。どういう意味でしょうか?そもそも「罰する」という言葉はフランス語で「糺す」ということでもあって、また「直す」という意味があります。まさに罰するということは、誤った行為を糺すために、つまりより良い子になるように子供を助けるということです。つまり、徳を身につけるために子供を罰するのです。徳というのは善の内に常に行為していく習慣を身につけるということです。ですから、「罰する」ことは大事で、親の義務です。

また前述したとおりに、子供の義務になぞらえて、部下・生徒・信徒・臣下などの義務も考えられます。同じように、子供に対する親の義務も、上司・教師・神父・君主の義務になぞらえます。例えば、先生は生徒を愛すべきです。そして、先生は真善美を教える義務もあります。また、生徒の誤りを正す義務があります。同じように、社会における社長、元首なども下の者を善へ導く義務があります。

そして、同じくして、教会の指導者たちも同じような義務があります。つまり、司教たちと教皇は信徒たちを善へ導く義務があります。
「私の羊を牧せよ」「私の子羊を牧せよ」 という聖書の句があります。私たちの主、イエズス・キリストは聖ペトロに「私の羊を牧せよ」「私の子羊を牧せよ」と仰せになりました。

それは文字通り、羊と子羊を牧場につれていって、おいしい草が食べられるようにしてくださいという命令ですね。それになぞらえて、牧者たちの信徒に対する義務はよくわかるでしょう。ですから、牧者が不誠実になる時、指導者たちがその使命に不誠実になるとき、信徒も部下も不正な命令に従わなくてもよいのです。この場合、従う義務はありません。

なぜかというと、このような場合に限っては、元首あるいは牧者は、その使命から外れて、その範囲外に動くことになりますので、牧者あるいは元首の権威を振るえないのです。つまり、牧者はその使命に従わないで命令するとき、牧者として行動しないので、従わなくてもよいのです。つまり、このような場合は、その地位の分を越えて、ある種の権威主義になるというか、権威を濫用した、まさにいわゆる横暴あるいは僭主政治なのです。

以上から、どれほど下の者の義務は上の者の義務と密接につながっているかがわかるでしょう。その逆ではありません。ですから、現代では上の者は下の者を強いる前に、自分自身を顧みて反省するのがよいはずなのですが。

以上第四戒をご紹介しました。この誡は幅広い誡なのですから、すべてを紹介できなかったですが、多くの義務が含まれています。
下の者の義務もあれば上の者の義務もあります。まあ、下の者の義務のみを見がちですが、これはいわゆる歴史に照らして上の者の義務よりも下の者の義務を取りざたすることが多いからでしょう。しかしながら、同時に上の者も下の者に対する義務もあることを忘れてはいけません。


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