白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
引き続きに、法についての講話を続けましょう。最初は法の定義をご紹介しました。それは大事なことです。いつも、定義に戻る必要があります。なぜかというと、定義はその意味の通りに「意義を定めて」ということで、何について話しているかを明らかにする定義なのですから、非常に大事です。定義のおかげで、その何かは何であるかを説明するということですが、法に関しても同じで、法の種類を問わず、どの法も法の定義に当てはまるということです。
この定義は「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布(立法)される」となります。
以前にみた通り、法には大きく二つの種類があります。法を公布する立法者によって分けられます。天主が公布する法なら、「天主の法」といいます。人間が公布するのなら、「人間の法」といいます。
天主が公布する場合。最初に法を公布するのは創造の際です。被創造物を創造するときに、それぞれを目的に向かわせ給ったという法は「永遠の法」と言います。それから、天主は人間を創造します。そうすると、人間に自由意志を与えます。その自由意志によって、人間は与えられた目的に自分の動きで行くことができます。が、自由意志を適切に作用するために、また、人間は与えられた目的地に無事に辿り着くことができるように、天主は人々の人間性において法を刻印しました。本性(自然)から転じて、「自然法」と呼ばれています。
それから、その上に天主はいくつかの法をその上なく自由に公布することになさいました。追加された法であり、「実定法」と呼ばれています。そういえば、実定法という定義は名の通りです。つまり、ラテン語の「positus」に由来している「実定(positif)」なんですが、「その上に置かれた、追加された、付け加わった」といった意味です。したがって、実定法というのは、その上に、余分に追加された法だという意味です。だから、人間の法は必ず実定法となります。特に自然法に対しての実定法です。
また後述しますが、人間が公布する法律は自然法に追加された法だからです。そして、天主もいくらでも法を追加することができます。これらの法は、「天主の実定の法」と呼ばれています。天主が公布するから、天主の法であり、また追加された法だから、実定法だと言います。
追加されたというのは、人間性にとって本質的な法ではないという意味であり、天主によってさらに付け加わった法なのです。天主によって自由に立法された法なのです。当然ながら、超自然の目的のために追加された法なのです。なぜかというと、法は「理性による規定」あるいは「理(ことわり)による命令」なので、それらの実定法は自由に追加されたって、理に適うのです。
つまり、気まぐれで勝手に天主が「そうしたいから」追加された法ではありません。もちろん、存在しているあらゆる物事は天主のお気に入りのことだから存在しますが。それはともかく、法は公布される目的は、必ず共通善のためです。言い換えると、人間に関して、我々の至福、我々の永遠の目的であり、つまり、天主の賛美という目的のために制定された実定法なのです。なぜかというと、我々の永遠の目的は天主の賛美だからです。同じことです。
~~
要するに、実定法は自然法の上にさらにつき加わった天主の法なのです。ところが、自然法と違って、天主の実定法は理性によってだけ天主の実定法を発見することは不可能です。なぜかというと、天主は自由に決めた命令ですから、人間が天主の実定法を知るには、天主による啓示を必要としているからです。天主の実定法は天主のご啓示によってのみ知らせられているのです。なぜかというと、天主は実定法のゆえに、ご啓示することをお決めになるからです。
さらに付け加わった実定法なので、普遍な法ではありません。場所と時代によって変わりうるのです。また、人によっても変わりうるのです。例えば、特定の共同体にだけ、天主はいくつかの特別法を与えることがあり得ます。旧約はその好例なのです。
天主の実定法はまた不変でもありません。いつでも天主が撤去できる実定法だからです。
それから、天主の実定法は絶対でもありません。場合と事情によって変わりうる法なので、相対な法なのです。が、天主の法であることに関して変わりがありませんので、実定法が適用される場合、義務が発生します。
より詳しく言うと、天主の実定法にはさらに二つの種類で分けられます。正確に言うと、歴史的な区分になりますが、モーゼ法という種類があります。言い換えると、旧約の法なのです。過去の誓約という意味です。で、その旧約は私たちの主、イエズス・キリストご自身によって廃止された旧法なのです。そして、廃止された旧法の代わりに新法がイエズス・キリストによって公布されました。言い換えると、新約とも呼ばれています。要するに、旧法であるモーゼ法があって、それから旧法を廃止した新法もあります。「キリスト教の法」とも呼ばれています。
~~
旧法はいずれか廃止されるべき法でした。他方、新約の新法は「Novum et aeternum testamentum (永遠なる新たな法)」であり、永遠な法なのです。ここでの「永遠」という意味に、「世の終わりまで続く」という意味だけです。言い換えると、新法を廃止してその代わりに三つ目の実定法が出てくることはないという意味です。私たちの主、イエズス・キリストは新法をお定めになった時、世の終わりまで続く法になさいました。
聖パウロが書いたように、その新法は「墨ではなく生きる神の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」 ということです。石の板に書かれた法はモーゼ法であり、心に書かれた法は「福音の法」なのです。新法と福音の法は一緒であり、「キリスト教の法」とも言います。おもに、愛徳の法なのです。また、コリント人への第二の手紙において聖パウロは次のように書きます。先ほどの引用の全部です。「確かにあなたたちは、私たちによって書かれたキリストの手紙である。しかも墨ではなく生きる神の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」
以上は旧法と新法との間の違いをご紹介しました。また、旧法の場合、ユダヤ民族にだけ適用された実定法でした。言い換えると、選別された民族にのみ適用されていた旧法でした。一方、新法はすべての人々に適用されている実定法なのです。信経の部をご紹介したときにすでにご紹介したことですが、教会は「カトリック」でありますが、「公教会」といいますが、それは「普遍の教会」という意味であり、全人類に及ぶ教会だという信条を見ると、新法の性質を確認できます。「行け、諸国の民に教えよ」 とイエズス・キリストは仰せになったのです。「諸国の民」というのは、あらゆる国々だということです。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常にお前たちとともにいる」 と。
旧法のもう一つの特徴は、「畏怖」に基づいていた法でした。旧約において、天主は畏怖によって敬われるのは多いです。他方、新法の特徴は、「愛の法」であるということです。別の言い方でいうと、旧法は「奴隷の法」に近いです。奴隷は主人を恐れて生きていると似ているからです。他方、子供は父を恐れながら生きるのではなくて、父を慕い愛しながら子供が生きています。だから、新法は愛の法、あるいは「愛徳の法」と呼ばれています。もちろん、俗にいう「愛」ではないから、正しく理解する必要があると思いますが、新法は「愛の法」なのです。
旧法は新法の影だったかのようです。他方、新法は旧法の完成版、またその補足版なのです。「私が律法や預言者を廃するために来たと思ってはならぬ。廃しようとして来たのではなく、完成するために来た。」 そして、新法はさらにつき加わっていて新しいことをもたらしておきます。それは、内面的な完成なのです。「文字は殺し、霊は生かすものだからである。」 。
したがって、旧法は「生かす」ことがありませんでした。言い換えると、「恩寵の生命」を与えることはできませんでした。旧約において、恩寵の生命が与えられていたことがあったのですが、旧法時代においてイエズス・キリストへの信仰こそが恩寵の生命を与えました。他方、新法は「恩寵の生命」を与えることができます。例えば、新法においての「秘跡」は恩寵の生命を与えます。七つの秘跡です。秘跡によってこそ、霊魂は生かされて恩寵の生命が与えられています。旧法において秘跡なんかはありませんでした。旧法において、義認されるために、将来に到来すべき救い主への信仰を通じてのみ義認されることは可能でした。新法では、義認されるために、相応しい状態で秘跡にあずかると義認されるということです。秘跡によって恩寵が与えられています。
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以上は、天主の実定法をご紹介しました。要約するに、現代、天主の実定法は「福音の法」なのです。新法であります。完成化の法であります。また愛徳の法です。
最後に残りの法の種類を見る必要があります。つまり、人間の法なのです。難しくないのです。
人間の法には権威が国家であるか教会でかによって、二つの種類に分けられています。市民法と教会法との二つの種類なのです。
前述したように、人間の法はすべて実定法なのです。さらにつき加わった法であって、理性によって発見されるような法ではありません。当然ながら、知性によって立法される法であることは言うまでもないのですが、また当然ながら、共通善のために立法される法であるべきだということも言うまでもないのです(でなければ法に値しないのです)。そして、市民法は自然法をより明確にする役割を持ちます。そして、教会法の場合、天主の実定法をより明確にする役割を持ちます。これらの人間の法より人間に義務が発生します。法なので、我々は守らなければなりません。
道徳法の場合は、道徳法に違反したときに、罪が発生します。刑法の場合は、刑法に違反したときに、罪が発生するのではなく、刑罰が発生します。それらの法の種類次第で、それらの法に対する義務はもちろん変わります。道徳法の場合は、例外なくその道徳法に従わなければなりません。なぜかというと、道徳法に違反するのは、天主を侮辱する行為になるからです。他方、純粋の刑法の場合、刑法に違反したときに、罪は発生するのではないのですが、必ず刑罰が発生するのです。要するに、市民法と教会法なのです。権威者によって公布される法なのです。
そして、公教要理において一番中心になるのは、教会法なのです。というのも、教会法こそは、キリスト教徒の生活を律するからです。教会法は教皇と司教によって公布される法なのです。当然ながら、必ず「共通善のために公布される法」であるのは前提であって、忘れてはいけない特徴です。教皇は法を決定するときに、「気まぐれで、面白いから、やりたいから立法する」ということはできません。教会法も法ですから、共通善のためにあるのです。
そして、教会の法典には「Prima lex, salus animarum」という言葉があります。それで教会法のすべては語られています。「第一の法は」、つまり一番先に来る法、残りのすべての法律の前提となる法は、「霊魂の救済だ」ということです。言い換えると、霊魂は自分の目的、自分の善である救済を得るために法があるということです。それは、「天主の永遠の法」の一部を明確にした文章に他なりません。「永遠の法」は被創造物をそれぞれの目的に向かわせておく法です。また、永遠の法によってあらゆる存在をその目的に傾かせるのです。だから、「Prima lex, salus animarum」という根本法があります。「第一法は霊魂の救済であります」。
したがって、教会のすべての法は霊魂の救済のためにあり、霊魂の救済のために立法されています。ある意味で、すべての教会の法は、「霊魂の救済」という根本法をより明確にし、その救済を得るように人々を助ける法律に過ぎないといえます。そのために教会は法律を立法して、またそのため法律を立法する権威があります。ただ、必ず、霊魂の救済のためにある法律であります。そうでなければ、法に値しないのです。言い換えると、信仰の生活を助け、秘跡の享受を助ける教会法なのです。これらの教会法は、教会法典において記録されているほかに、ローマ教皇庁による文書と教区の規定にも記録されています。なぜかというと、「教える側の教会」、つまり教会において権威を持つ人々は教皇と司教たちだからです。以上は教会の法をご紹介しました。
最後に、市民法に関して公教要理の観点からいうとそれほど関係がないのです。が、とはいえ、市民法は自然法をより明確にする法律に過ぎないということを指摘しておきましょう。したがって、市民法は一切自然法に反することはできません。もしも、ある「法律」は自然法に反したら、もはや「法」ではないのです。法としての効力を失います。なぜかというと、そういったような「法律」はもう理性による法、理に適う法でなくなります。というのも、人間の理性に、人間の理に反する法になるからです。同時に、共通善のためにある法律でなくなります。なぜかというと、自然法に反する「法律」は自然の秩序、(人間性によって存在する秩序)を破壊するような法律になりますので、法ではありません。だから、例えば、堕胎を合法化するような「法律」はけしからぬ「法律」であり、法律でなくなり、法としての効力をそれきり失います。なぜかというと、人間性に反するという意味で、反自然な法律ですから。本性に反する法ですから。人間性に反するあらゆる「法律」は法ではなく、法としての効力を持たないのです。なぜかというと、人間性に反する「法律」は、理にもかなわないし、共通善のためにあることでもないからです。自然法を破壊するような「法律」であるから、天主である永遠の法を妨げる「法律」となります。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第八十講 実定法
引き続きに、法についての講話を続けましょう。最初は法の定義をご紹介しました。それは大事なことです。いつも、定義に戻る必要があります。なぜかというと、定義はその意味の通りに「意義を定めて」ということで、何について話しているかを明らかにする定義なのですから、非常に大事です。定義のおかげで、その何かは何であるかを説明するということですが、法に関しても同じで、法の種類を問わず、どの法も法の定義に当てはまるということです。
この定義は「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布(立法)される」となります。
以前にみた通り、法には大きく二つの種類があります。法を公布する立法者によって分けられます。天主が公布する法なら、「天主の法」といいます。人間が公布するのなら、「人間の法」といいます。
天主が公布する場合。最初に法を公布するのは創造の際です。被創造物を創造するときに、それぞれを目的に向かわせ給ったという法は「永遠の法」と言います。それから、天主は人間を創造します。そうすると、人間に自由意志を与えます。その自由意志によって、人間は与えられた目的に自分の動きで行くことができます。が、自由意志を適切に作用するために、また、人間は与えられた目的地に無事に辿り着くことができるように、天主は人々の人間性において法を刻印しました。本性(自然)から転じて、「自然法」と呼ばれています。
それから、その上に天主はいくつかの法をその上なく自由に公布することになさいました。追加された法であり、「実定法」と呼ばれています。そういえば、実定法という定義は名の通りです。つまり、ラテン語の「positus」に由来している「実定(positif)」なんですが、「その上に置かれた、追加された、付け加わった」といった意味です。したがって、実定法というのは、その上に、余分に追加された法だという意味です。だから、人間の法は必ず実定法となります。特に自然法に対しての実定法です。
また後述しますが、人間が公布する法律は自然法に追加された法だからです。そして、天主もいくらでも法を追加することができます。これらの法は、「天主の実定の法」と呼ばれています。天主が公布するから、天主の法であり、また追加された法だから、実定法だと言います。
追加されたというのは、人間性にとって本質的な法ではないという意味であり、天主によってさらに付け加わった法なのです。天主によって自由に立法された法なのです。当然ながら、超自然の目的のために追加された法なのです。なぜかというと、法は「理性による規定」あるいは「理(ことわり)による命令」なので、それらの実定法は自由に追加されたって、理に適うのです。
つまり、気まぐれで勝手に天主が「そうしたいから」追加された法ではありません。もちろん、存在しているあらゆる物事は天主のお気に入りのことだから存在しますが。それはともかく、法は公布される目的は、必ず共通善のためです。言い換えると、人間に関して、我々の至福、我々の永遠の目的であり、つまり、天主の賛美という目的のために制定された実定法なのです。なぜかというと、我々の永遠の目的は天主の賛美だからです。同じことです。
~~
要するに、実定法は自然法の上にさらにつき加わった天主の法なのです。ところが、自然法と違って、天主の実定法は理性によってだけ天主の実定法を発見することは不可能です。なぜかというと、天主は自由に決めた命令ですから、人間が天主の実定法を知るには、天主による啓示を必要としているからです。天主の実定法は天主のご啓示によってのみ知らせられているのです。なぜかというと、天主は実定法のゆえに、ご啓示することをお決めになるからです。
さらに付け加わった実定法なので、普遍な法ではありません。場所と時代によって変わりうるのです。また、人によっても変わりうるのです。例えば、特定の共同体にだけ、天主はいくつかの特別法を与えることがあり得ます。旧約はその好例なのです。
天主の実定法はまた不変でもありません。いつでも天主が撤去できる実定法だからです。
それから、天主の実定法は絶対でもありません。場合と事情によって変わりうる法なので、相対な法なのです。が、天主の法であることに関して変わりがありませんので、実定法が適用される場合、義務が発生します。
より詳しく言うと、天主の実定法にはさらに二つの種類で分けられます。正確に言うと、歴史的な区分になりますが、モーゼ法という種類があります。言い換えると、旧約の法なのです。過去の誓約という意味です。で、その旧約は私たちの主、イエズス・キリストご自身によって廃止された旧法なのです。そして、廃止された旧法の代わりに新法がイエズス・キリストによって公布されました。言い換えると、新約とも呼ばれています。要するに、旧法であるモーゼ法があって、それから旧法を廃止した新法もあります。「キリスト教の法」とも呼ばれています。
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旧法はいずれか廃止されるべき法でした。他方、新約の新法は「Novum et aeternum testamentum (永遠なる新たな法)」であり、永遠な法なのです。ここでの「永遠」という意味に、「世の終わりまで続く」という意味だけです。言い換えると、新法を廃止してその代わりに三つ目の実定法が出てくることはないという意味です。私たちの主、イエズス・キリストは新法をお定めになった時、世の終わりまで続く法になさいました。
聖パウロが書いたように、その新法は「墨ではなく生きる神の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」 ということです。石の板に書かれた法はモーゼ法であり、心に書かれた法は「福音の法」なのです。新法と福音の法は一緒であり、「キリスト教の法」とも言います。おもに、愛徳の法なのです。また、コリント人への第二の手紙において聖パウロは次のように書きます。先ほどの引用の全部です。「確かにあなたたちは、私たちによって書かれたキリストの手紙である。しかも墨ではなく生きる神の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」
以上は旧法と新法との間の違いをご紹介しました。また、旧法の場合、ユダヤ民族にだけ適用された実定法でした。言い換えると、選別された民族にのみ適用されていた旧法でした。一方、新法はすべての人々に適用されている実定法なのです。信経の部をご紹介したときにすでにご紹介したことですが、教会は「カトリック」でありますが、「公教会」といいますが、それは「普遍の教会」という意味であり、全人類に及ぶ教会だという信条を見ると、新法の性質を確認できます。「行け、諸国の民に教えよ」 とイエズス・キリストは仰せになったのです。「諸国の民」というのは、あらゆる国々だということです。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常にお前たちとともにいる」 と。
旧法のもう一つの特徴は、「畏怖」に基づいていた法でした。旧約において、天主は畏怖によって敬われるのは多いです。他方、新法の特徴は、「愛の法」であるということです。別の言い方でいうと、旧法は「奴隷の法」に近いです。奴隷は主人を恐れて生きていると似ているからです。他方、子供は父を恐れながら生きるのではなくて、父を慕い愛しながら子供が生きています。だから、新法は愛の法、あるいは「愛徳の法」と呼ばれています。もちろん、俗にいう「愛」ではないから、正しく理解する必要があると思いますが、新法は「愛の法」なのです。
旧法は新法の影だったかのようです。他方、新法は旧法の完成版、またその補足版なのです。「私が律法や預言者を廃するために来たと思ってはならぬ。廃しようとして来たのではなく、完成するために来た。」 そして、新法はさらにつき加わっていて新しいことをもたらしておきます。それは、内面的な完成なのです。「文字は殺し、霊は生かすものだからである。」 。
したがって、旧法は「生かす」ことがありませんでした。言い換えると、「恩寵の生命」を与えることはできませんでした。旧約において、恩寵の生命が与えられていたことがあったのですが、旧法時代においてイエズス・キリストへの信仰こそが恩寵の生命を与えました。他方、新法は「恩寵の生命」を与えることができます。例えば、新法においての「秘跡」は恩寵の生命を与えます。七つの秘跡です。秘跡によってこそ、霊魂は生かされて恩寵の生命が与えられています。旧法において秘跡なんかはありませんでした。旧法において、義認されるために、将来に到来すべき救い主への信仰を通じてのみ義認されることは可能でした。新法では、義認されるために、相応しい状態で秘跡にあずかると義認されるということです。秘跡によって恩寵が与えられています。
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以上は、天主の実定法をご紹介しました。要約するに、現代、天主の実定法は「福音の法」なのです。新法であります。完成化の法であります。また愛徳の法です。
最後に残りの法の種類を見る必要があります。つまり、人間の法なのです。難しくないのです。
人間の法には権威が国家であるか教会でかによって、二つの種類に分けられています。市民法と教会法との二つの種類なのです。
前述したように、人間の法はすべて実定法なのです。さらにつき加わった法であって、理性によって発見されるような法ではありません。当然ながら、知性によって立法される法であることは言うまでもないのですが、また当然ながら、共通善のために立法される法であるべきだということも言うまでもないのです(でなければ法に値しないのです)。そして、市民法は自然法をより明確にする役割を持ちます。そして、教会法の場合、天主の実定法をより明確にする役割を持ちます。これらの人間の法より人間に義務が発生します。法なので、我々は守らなければなりません。
道徳法の場合は、道徳法に違反したときに、罪が発生します。刑法の場合は、刑法に違反したときに、罪が発生するのではなく、刑罰が発生します。それらの法の種類次第で、それらの法に対する義務はもちろん変わります。道徳法の場合は、例外なくその道徳法に従わなければなりません。なぜかというと、道徳法に違反するのは、天主を侮辱する行為になるからです。他方、純粋の刑法の場合、刑法に違反したときに、罪は発生するのではないのですが、必ず刑罰が発生するのです。要するに、市民法と教会法なのです。権威者によって公布される法なのです。
そして、公教要理において一番中心になるのは、教会法なのです。というのも、教会法こそは、キリスト教徒の生活を律するからです。教会法は教皇と司教によって公布される法なのです。当然ながら、必ず「共通善のために公布される法」であるのは前提であって、忘れてはいけない特徴です。教皇は法を決定するときに、「気まぐれで、面白いから、やりたいから立法する」ということはできません。教会法も法ですから、共通善のためにあるのです。
そして、教会の法典には「Prima lex, salus animarum」という言葉があります。それで教会法のすべては語られています。「第一の法は」、つまり一番先に来る法、残りのすべての法律の前提となる法は、「霊魂の救済だ」ということです。言い換えると、霊魂は自分の目的、自分の善である救済を得るために法があるということです。それは、「天主の永遠の法」の一部を明確にした文章に他なりません。「永遠の法」は被創造物をそれぞれの目的に向かわせておく法です。また、永遠の法によってあらゆる存在をその目的に傾かせるのです。だから、「Prima lex, salus animarum」という根本法があります。「第一法は霊魂の救済であります」。
したがって、教会のすべての法は霊魂の救済のためにあり、霊魂の救済のために立法されています。ある意味で、すべての教会の法は、「霊魂の救済」という根本法をより明確にし、その救済を得るように人々を助ける法律に過ぎないといえます。そのために教会は法律を立法して、またそのため法律を立法する権威があります。ただ、必ず、霊魂の救済のためにある法律であります。そうでなければ、法に値しないのです。言い換えると、信仰の生活を助け、秘跡の享受を助ける教会法なのです。これらの教会法は、教会法典において記録されているほかに、ローマ教皇庁による文書と教区の規定にも記録されています。なぜかというと、「教える側の教会」、つまり教会において権威を持つ人々は教皇と司教たちだからです。以上は教会の法をご紹介しました。
最後に、市民法に関して公教要理の観点からいうとそれほど関係がないのです。が、とはいえ、市民法は自然法をより明確にする法律に過ぎないということを指摘しておきましょう。したがって、市民法は一切自然法に反することはできません。もしも、ある「法律」は自然法に反したら、もはや「法」ではないのです。法としての効力を失います。なぜかというと、そういったような「法律」はもう理性による法、理に適う法でなくなります。というのも、人間の理性に、人間の理に反する法になるからです。同時に、共通善のためにある法律でなくなります。なぜかというと、自然法に反する「法律」は自然の秩序、(人間性によって存在する秩序)を破壊するような法律になりますので、法ではありません。だから、例えば、堕胎を合法化するような「法律」はけしからぬ「法律」であり、法律でなくなり、法としての効力をそれきり失います。なぜかというと、人間性に反するという意味で、反自然な法律ですから。本性に反する法ですから。人間性に反するあらゆる「法律」は法ではなく、法としての効力を持たないのです。なぜかというと、人間性に反する「法律」は、理にもかなわないし、共通善のためにあることでもないからです。自然法を破壊するような「法律」であるから、天主である永遠の法を妨げる「法律」となります。