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なぜイヴはアダムの脇から創られたのか?楽園での人間について【前編】|公教要理[上級編]第12回

2022年03月03日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

楽園での人間について。(自然法、夫婦の別、男女の別などについて)



(アヴェ・マリア 最初の祈り)
・・・今回の授業は、創造の部における被創造物の内に、人間についてです。聖トマス・アクイナスの神学大全の創造に関する最後の部分は人間についてです。あとは、天主の統治についての部分があります。これは次回見ることにします。

さて、人間についての部においての最後の部分は今日、説明することになります。12-13ぐらいの質問となりまして、比較的に理解しやすくて短い部分です。しかしながら、非常に興味深い質問です。なぜなら、聖トマス・アクイナスは楽園での人間について紹介しているからです。言いかえると、アダムとイヴは具体的にどのようだったかについて聖トマス・アクイナスは紹介しています。

楽園での人間について、まず天主はアダムとイヴをどのように創造されたかについてです。

前回、すでに見たように、アダムとイヴの霊魂は楽園であるかどうかを別にして、どうしても天主によって創造されるご計画があったことを述べました。また、言いかえると、人が宿るたびに、必ず天主は直接に働かれておられるということもすでに述べました。天主の御働きによって、天主が一人の霊魂を創造されるということです。

この点について、数人の教父たちは誤解していました。例えば、オリゲネスなどはそうでした。彼によると、宇宙の創造の最初からあらゆる人間の霊魂たちを創造され、最初からすべての霊魂はすでに存在して、これらの霊魂をどこかに「保管」してあるかのように、人間が生まれるたびに天主は霊魂を其の個別の身体へ送り込まれるだろうと想像していました。これは間違いです。

人の身体がある程度に構成されて、霊魂を受け入れられる状態になったら、その瞬間に天主が霊魂を創造して、すぐさまにその身体と一致させてくださいます。つまり、受胎があるたびに天主は直接に御自ら働かれて霊魂を創造されます。
原罪がなかった場合、楽園での受胎もこのようになる予定でした。残念ながら原罪のせいでこの世は堕落しましたが、同じく、受胎があるたびに、天主は霊魂をお造りになります。



さて、人間の身体についてみましょう。前回はそこまで見ておきました。神学大全の第一部の問91です。
創世記の解釈となりますが、人間の身体は「地のちりをとって人間を形づくり」(創世期、2、7)されたということです。
この一句の意味は何でしょうか?ちょっと難しいです。なぜなら、教皇ピオ十二世はこの一句に関する解釈を定めていないとして、科学的に解釈されても構わないと宣言したからです。

それはともかく、「地のちり」から確かに言えるのは、人間の身体は何か物質的なものから造られたに違いがないのです。
また「地のちり」というのは、人間の身体は天下被創造界の「要約」であるということをも意味します。これは聖トマス・アクイナスが説明しているところです。これ以上に聖トマス・アクイナスは「地のちり」がなんであるかについて説明しないのです。

灰の水曜日の時、「人よ、おぼえよ、汝はちりであって、また、ちりにかえるであろう」という一句が思い浮かびますね。これは身体についてです。地の塵から身体を創りになった天主です。そして、身体はいずれか、ちりにかえるということです。霊魂ではないのですね。身体についてです。カトリックの葬式でも、死者の亡骸を埋葬することも、身体が塵に帰る現実を思い起こし、また謙遜の心を表すためでもあります。

また、聖トマス・アクイナスによる「地のちり」とは人間の身体が物質的な被創造世界の要約であるということを意味します。加えて、聖トマス・アクイナスは天主ご自身が人間の身体をお造りになったと説明します。言いかえると、人間の霊魂を受け入れるために相応しく適切なる人間の身体を天主がお造りになったということです。



なぜなら、思い出しましょう。これは生き物なら適用できます。生き物には、霊魂が身体を活かすことになります。そして、このように霊魂が身体を活かすのですが、この活かし方とは霊魂と身体の一体を意味します。霊魂と身体を区別できても実際には一体となります。生き物は霊魂と身体からの構成物なのです。しかしながら、構成物だからといって、その生き物の一部が霊魂であり、別の一部が身体であることになりません。この構成物は一体となっていて、身体のすべての部分において霊魂が一体化していて、別々に出来ないのです。生き物は一体です。

あくまでも一体ですが、水の中にワインを入れたら、出来た液体はワインと水の混じった液体となって、完全に混ざっていて、もはや別々に出来なくなります。子供の場合、ミントのシロップでも水に入れたら、混ぜた結果、一つの液体となっているような感じです。結果として、その飲み物のすべては同時に水でありシロップでもあるような。譬えに過ぎないのですが、生き物、生物はそれと似ています。霊魂は体全体を活かします。身体のどの部分においても霊魂が宿っているということです。例えば、自分の指を見て、これが私の指ですが霊魂がないとは言えないのです。一体です。自分の体のどの一部においても自分の霊魂も宿っているということです。
先ほどの液体のたとえと違って、身体と霊魂の一体の際、霊魂と身体の融解、溶解などはありません。そうではなく、霊魂は身体全体、身体のどの一部までも活かしています。

このように、霊魂は身体を活かせるために、身体と霊魂は見合っているわけです。霊魂によってその身体を活かすために見合っているように造られています。

ですから、動物のように、感覚的な霊魂だけの場合、その感覚的な霊魂に見合った身体が用意されます。つまり、感覚的な生活を送れる身体が用意されています。このように動物には感覚がありますが、動物の霊魂による感覚的な知識は身体上の器官を通じて得られることになっています。また裏を返せば、身体上の器官などは動物自体の霊魂の感覚的知識能力に見合っています。このように多くの動物はいて、生物の秩序における位置次第にその身体も霊魂も違っていて、それぞれ身体と霊魂は見合っています。これから、動物の上下関係、位階制もあって、それぞれの生活上の在り方も違います。

天主は人間の霊魂を直接にお造りになります。そして、あえて言えば霊魂を造られる時、人間の身体に見合うように造られます。裏を返せば、人間の身体は動物にはない、天使の霊魂にある、知性と意志のある人間の霊魂に見合うようにも用意されています。
つまり、人間の霊魂において、前回に見たように、植物的な生活の上、動物的な生活もできます。この上に、他の動物などと違って、理性的な生活もできます。人間はこのようになっているからこそ、天主ご自身が人間の身体をお造りになったのです。

人間と動物の間に乗り越えられない境がそこにあります。なぜなら、動物などは単なる動物的な生活、感覚的な生活ができるように造られて、それに合わせてその体も用意されています。一番高等な動物に至ってですら、意志と知性を機能させるための身体を持たないということです。一番高等な動物ですら、意志と理性を受け入れられる身体を持たないのです。つまり、動物の身体は理性と意志のある人間の霊魂を受け入れられないことになります。十分ではないということです。(この意味でも輪廻転生があり得ない所以であります)
このように、天主は最初の人間を直接にお造りになりました。人間の身体は意志と知性のある霊魂に見合うように造られたのです。

さて天主は人間の身体を「地のちり」から造られました。地のちりはなんであるかというと、いまだに謎です。教皇ピオ12世も暗にこの可能性を捨てないのですが、天主はもしかしたら、ある動物をベースに人間の身体を造られたといった可能性は聖書によって否定されていないわけです。
もちろん、この話はいわゆる進化論で、猿から人間が生まれたという説と関係しますね。しかしながら、猿の身体から人間の身体が造られたとしても(これは神学上に可能な話となり)、猿の本質が一体壊滅されて、新しい存在である人間を天主がお造りになったことは変わらないのです。なぜなら、物事の本性は霊魂によって与えられていて、身体によってではないからです。ですから、猿の身体がベースにされたとしても、猿の身体が人間の霊魂を受け入れられないので、完全に天主が改造されて、ぜんぜん別の身体をお造りになったということになります。(この意味で進化論は間違いです)。
地のちりの正体は何であるにせよ、人間の霊魂に見合った身体を天主がお造りになったことは天啓で、確かです。ですから、猿から人間へ進化というようなことは不可能です。なかったのです。なぜなら、人間の霊魂と猿の身体は見合っていないからです。

要するに、人間の霊魂に見合った身体を用意するために、天主ご自身が人間の身体をお造りになったということです。なぜなら、天主ご自身は人間の霊魂をもお造りになるからです。すでに存在する物質的、感覚的な被創造世界において人間の霊魂の可能性が潜在的にあったのならば、天主ご自身の直接な働きは不要だったはずです。

要するに、天主ご自身が人間の身体をお造りになったということです。

次の聖トマス・アクイナスの問が面白いです。ちょっと読んでおきましょう。というのも、聖トマス・アクイナスは難しい時は難しいですが、この問いのように、理解しやすい部分もあります。聖トマス・アクイナスを理解できて、なんか頭がいいような感じがして嬉しいですね。単純でも聖トマス・アクイナスはいつもきれいな説明をなさいます。

聖トマス・アクイナスの文章です。
「身体の創造の際に、身体に与えられた体質について。人間の身体は人間の霊魂に相応しく見合わせれて造られただろうか。大自然のすべての現実は天主の創造なる御考えによって造られた。だから、被創造世界の現実は職人の前にある作り物のように天主の前にある。ただし、職人なら必ず、自分の作り物において最高の質を与えて作ろうとしている。この最高の質とは絶対的な意味ではなく、その作り物の目的に合わせた形での最高の質だということである。」

天主がお考えになった人間の目的を前提に、人間を最高に造られたということになります。

「また、職人は最高質の作り物を作っても、二次元的な欠陥があったとしても、職人はそれを問題にしない。例えば、職人がのこぎりを作るとしよう。その目的は「切る」ためにあるので、鉄からのこぎりを作るだろう。グラスの方が綺麗な素材なのに、この職人はグラスからのこぎりを作らないだろう。というのも、このようなより綺麗な要素はのこぎりの目的を果たすために障害になるので、職人はそうしないだろう。」

ご覧のように興味深いです。
聖トマス・アクイナスはそれぞれの存在を考える時、それぞれの存在実体だけを考えるのではなく、目的づけられている存在として捉えているのです。「何のために」造られたという重要な視点です。職人は綺麗なのこぎりを作ろうとしても、絶対にグラスから作らないことになります。なぜなら、そうすると、より綺麗だとしても、のこぎりの目的なる「切ること」を達成するのが無理になるからです。だから、職人はのこぎりを作る際、鉄からでも「切る」という目的に見合っている素材で作るということです。

聖トマス・アクイナスに戻りましょう。
「このように、大自然にある諸現実に天主が最高の質を与えられた。絶対的な意味での最高の質ではなく、それぞれの存在の目的に合わせて最高の状態で造られた。」

言いかえると、永遠の救いである人間の目的を得るために、天主は人間を最高の状態でお造りになったということです。救霊という目的あっての最高の状態です。この説明は奥深いです。
そして、聖トマス・アクイナスはアリストテレスの『自然学』の第二巻を引きます。

「人間の身体の近目的は理性の霊魂である」

目的においても秩序があり、順番があります。
つまり、身体は霊魂のために存在します。霊魂は霊魂の目的のためにあります。人間の場合、天主のためにあります。
同時に、身体は霊魂の奉仕のためにあります。身体は霊魂のために存在します。身体を通じて感覚できて知ることもできて、霊魂を養い、意志と知性を発揮できます。このように、普通の知識などを得られる以上に、天主を知るために身体をもちます。

「人間の身体の近目的は理性の霊魂とその働きである。物体は形相のためにあるからである(言いかえると、身体は霊魂のためにあるからである)。道具は行いのためにあるからである。要するにかかる形相(理性的な霊魂)、かかる行いのために必要としていた最高の身体を天主が創られたということである。」

続いて聖トマス・アクイナスは次のように付け加えます。

「さて、身体の状態にたいして不満があったり、欠陥があったりすると思われる場合、これらの欠陥は物質である故に物質の素質からなるためにあると思うべきである。」

物質は物質なので、物質の素質から不可避な欠陥だということです。
これ以上でも以下でもありません。このような欠陥などがあっても、人間の霊魂の目的を達するために障害にならないということです。言いかえると、「本質的に私に与えられた目的を反たせない」というできる人は存在しません。なぜなら、天主は人間が与えられた目的を果たすために必要なるすべてのことは与えられて、十分に最高の身体が与えられたからです。
大事なのは、人間に与えられた目的を果たすためだということです。別の目的ではないということです。ですから、我々の目的は「空に飛ぶ」ということではないので、我々は飛べないし、他にも動物に比べて多くの不自由があると思いますが、それはそれぞれの動物と違う目的で我々は造られたからです。

さて、聖トマス・アクイナスの次の問は「女について」です。「女の創造について」です。
最初の問は「天主は女を造る必要があったのか」ということです。
答えは「はい、必要だった」のです。人類の繁殖のために天主は女の創造を望まれたのです。
神学上の説明とともに、創世記の解釈の試みであるので面白いです。もちろん、創世記の解釈はデリケートで、難しいことです。

創世記を読んでみると、最初は男を創造されて、それで天主は満足したと書いてあります。つまり、女はまだいないけれども、それでもよかったという風に読めなくはないのです。そして、その後、男は助け手が欲しがるようになって、求めても見出せないのです。そして、天主はそれをみて、天主ご自身が介入されて、女を直接にお造りになります。女の創造者は天主ご自身です。アダムを眠りに入れてから天主は女の子を創造されます。

面白いことに、他の被創造世界の種類なら、このような創造の形態と順番はないわけです。動物なら、雄雌の創造において順番はなくて、最初が雄であとは雌のようなことはないのです。人間に限って、まず男を創造して、そのあと女が想像されたという区別が明記されています。
聖トマス・アクイナスはこれを説明します。男の創造と女の創造を区別して、前後にさせることを天主が望まれた理由を聖トマス・アクイナスが説明します。



男女の創造についてこの区別と前後がなぜあるかというと、人間の本来の目的は(動物と違って)繁殖ではないことを示すためだと聖トマス・アクイナスが説明します。人間の一番重要な目的は理性的な目的であるということです。
まあ、現代ならこのような目的の区別は理解しづらいですが、(セックスするために人間は存在しないということを意味します)。

人間の一番重要な働き、行いは理性上の働きであり、「黙想・観照」にあるということです。物事の本質を見極める働きこそが人間の主な働きである、繁殖という働きは二次元的です。

これを我々人間に教えるために、示すために、天主は時間において男女の創造を別々にさせたもうたのです。観照することこそが人間の重要な働きであること、この大事な現実を思い起こすためでした。

要するに、人間において繁殖の能力は人間における一番高貴なものではないということです。人間における一番高貴なのは理性であるとして、霊魂にかかわる働きです。理性の霊魂、すなわち知性と意志による働きこそが人間たらしめる働きであり、人間の高貴なる働きです。繁殖は二次元的です。感覚的な生活も植物的な生活も二次元、三次元的です。繁殖という能力は植物の特有の能力に過ぎないのです。

さて、後になって、女は創造されました。その時、聖トマス・アクイナスが次の問をかけます。「男から女を天主がお造りになったのは相応しいことだったのか」。

もちろん、はい、相応しかったです。天主は相応しいことのみを行われるので、ある意味で答え事態はだれでも予想できて知っているはずです。また、聖トマス・アクイナスがこのような問いをするのは、天主がものごとを良く悪く行われたかを疑問にするためではありません。答えは当然であるとしても、聖トマス・アクイナスがあえて問うて、天主ご計画をよりよく理解するためです。つまり、天主はこのように具体的に行われたことから引き出せる教え、天主のご計画と天啓はなんであるのかを知るためです。

聖トマス・アクイナスは「男から女を天主がお造りになったのは相応しいことだったのか」に対して、相応しかった理由を四つ述べます。

第一、アダムが人類の唯一なる起原であり、人類の頭であることを示すためでした。
アダムが人類の唯一なる起原であり、人類の頭であることを示すためでした。イヴはアダムから取り出されたということで、アダムは純類の唯一なる起原です。二元ではありません。また、今度、原罪を見ていきますが、イヴは原罪を犯したわけではないのです。アダムこそが原罪を犯しました。アダムは人類の頭だからです。イヴは最初に実を食べたのですが、まだその時、原罪は侵されていないのです。イヴとしてだけ罪が犯されたにとどまっていたのです。人類の頭なるアダムが身を食べた時、原罪が犯されました。

個人な罪に留まらないで、全人類の頭すなわち代表として食べて、全人類の責任を負って犯された深刻な原罪です。だから、全人類へおよぶ原罪であるということです。譬えに過ぎないのですが、妊婦が酒を飲んで病気になって赤ちゃんも不自由になるような感じです。赤ちゃんのせいではないかもしれないが母はみごもった赤ちゃんの責任を負うので、母が取る身体上の危険は赤ちゃんに及ぶことは当たり前です。もちろんたとえですが。霊的に言うと、アダムは人類の頭として造られて、全人類の責任を負っていることになっていたからこそ、原罪は大きかったのです。

要するにアダムは人類の唯一なる起原です。イヴはアダムから取り出されたのです。アダムは人類の頭なのです。
聖トマス・アクイナスは次のように説明します。
「このようにされて、最初の男はある程度の尊厳が与えられた。なぜなら、天主が存在する全宇宙の起原であるのように、天主に象られて、アダムも自分の種類の起原となる。」



第二の理由とは、「このようにされて、男はよりよく女を愛し、よりよく離れないで女と一緒にいられるためである。なぜなら自分自身から取り出されたことを知っていることによってである」
要するに、天主は男女の創造の前後を行われたもう一つの理由は、男に女をよりよく愛するようにするためだったということです。もちろん、アダムのあばら骨から取り出された女はイブのみであって、もはや男のあばら骨から女が取り出されていないのですが、最初の男、アダムには嫁に対して頗る愛を天主が与えられたということです。本当に夫婦間の愛はそこに起源をもつのです。深い愛です。つまり自愛するほどの愛です。アダムとイブは同じ身体なので。このように、本物の友情、本物の「愛」の絆のあるべき姿は創世記において以上のように示されています。

第三の理由は現代で受けがたいかもしれません。聖トマス・アクイナスによると、第三の理由は、女は男の権威を尊敬するためです。
「アリストテレスも『ニコマコス倫理学』の第八巻において説明するように、男女は他の動物のように繁殖のために一緒になるだけではなく、さらにいう(人間的な営みなる)家庭生活を営むために一緒になるのが相応しいことである。この意味で男女の別があって、その役割も別々である。このように男は女の頭である。だから、男が女の起原であるかのように男から女が取り出されて創造されたのは相応しかったことである。」

言いかえると、男は女の頭です。このために、イヴはアダムの後に創造されたし、またアダムのあばら骨から創造されたのも、この男女の別を示すための現実です。つまり、アダムへの依存のままにイヴは創造されました。

以上のような真実は現代で理解しづらいのはわかっています。受け入れがたいのも知っています。なぜなら、健全な「依存」とはなんであるか見失ってしまったからです。理解不可能となりました。「依存」と「隷属」は現代で、かならず負のイメージになっているので、余計に理解しづらくなりました。
創世記の意味は女は男の奴隷のような存在であるということではありません。女性には特別な役割があるという意味なのです。さらにいうと、高貴な役割になります。家においても被創造世界において特別な高貴な綺麗な役割があるということです。
ただし、この役割を果たすために、男への依存、上下関係が前提となっています。政治的な上下関係です。独裁的な隷属性ではないのです。つまり奴隷に対する主のような関係ではなく、臣下に対する君主のような関係となります。覇権ではなく、王権のような関係となります。

第四の理由は最後の理由となりますが、かなり美しいです。いわゆる類型学に属する理由です。霊的な兆しとしてです。
「このようにされて、公教会はイエズス・キリストを起原にしていることは示されている」
このように女は男に従うべきと同じように、公教会はイエズスに従うべきだということです。同じようなやり方です。公教会はあくまでもイエズス・キリストの教会です。ですから、結婚する時、女性は夫の姓を貰う理由でもあります。

エフェゾ人への手紙の第五章において、聖パウロは女の創造と男女の婚姻について次のように書きます。
「この奥義は偉大なものである。私がそう言うのは、キリストと教会についてである」(5,32)

このように、結婚において夫婦はキリストと教会の象りでならなければならないのです。つまり、夫婦の関係をみて、キリストと教会の関係が語られるということです。夫婦の在り方は教会とキリストの一体の生きている模範であるのです。どれほど素晴らしいことであるのかはわかるでしょう。ですから、敬虔な信仰深いカトリックの家族はキリストと教会との関係の奥義を実際、具体的に具現化しています。

次は、イブはアダムのあばら骨から取り出されるのです。これはなぜでしょうか。
聖トマス・アクイナスは二つの理由を提示します。

第一の理由は男と女の間に本物の政治的な絆で結ばれるようにさせるためです。
つまり独裁的な関係とか覇権のような関係はありません。女の子を貶めるためでもありません。逆に纏めのある社会になるように男女は造られたということです。共同体の絆は本来ならば非常に強いはずです。社会とは、家(家族)とは集合体でもなんでもありませんよ。石の山積みなんて石の社会にならないのです。同じようなものを並列しているからといって社会とならないのです。

本来ならば、社会とは、すなわち国、家族、村、共同体には共有の生命を分けていて、同じ生命によって活かされているはずです。より厳密に言うと、同じ目的に向けた共同の働きがあって初めて社会として成り立つのです。つまりまさに「共同体」ですね。共同体の語源は共同な働きによって一体になっている人々というような意味です。そして、基礎的な社会・共同体なる家族を助けるために、天主はアダムのあばら骨からイブを取り出されたのです。このようにして、何よりもまず霊的な共同体なる家族を助けられます。霊的な共同体とはそれぞれの霊魂の一致、それぞれの意志の一体を意味します。そしてこのような霊的な一体は、身体上の一体をもって示されるように、天主はアダムのあばら骨からイブを本当に取り出されたのです。

聖トマス・アクイナスは続いて次のように説明されます。創世記の解釈でもあります。

「このように女は男を支配してはいけなかったことから、アダムの頭からイヴは取り出されなかった。他方、女は男によって軽蔑されてはいけないことから、アダムの足からイブは取り出されなかった。」

我々は現代人は以上のバランスをとれなくなりつつありますね。現代人は白黒で考えがちですね。二元主義というか、ある極端からすぐもう一方の極端に陥いてしまいます。両極端の間に、調和のとれた中間があるのを理解できなくなっている現代です。

「他方、女は男によって軽蔑されてはいけないことから、アダムの足からイブは取り出されなかった。」

さてなぜあばら骨からイヴは取り出されたかというと、あばら骨は心臓に当たる部分だからです。転じて愛を象徴する部分でもあります。

第二の理由は、また表象を表すためです。
「アダムは眠りに入ったように、イエズスも十字架上に眠りに入って(死という眠りですねその後、復活を齎した御死ですね)、脇から教会が制定された水と血の玄義はながされた。」

この意味で、教会はイブのように槍によって貫かれたキリストのあばら骨から生まれたということです。水と血は秘蹟を象徴しています。水は特に天主の生命を与える、天主の生命に産ませる洗礼を象徴していて、血は天主の生命を我々の霊魂において常に増やすミサ聖祭を象徴しています。またイエズスの御血を受けて自分の霊魂が清められるという告解の象徴でもあります。

そして、特に現代で特筆すべき点でしょうが、女性のいとも高貴な立場を示すのは、天主ご自身が御自らに直接に女性をお造りになったということです。女性は天主によって直接に造られたのです。言いかえると、女性はこれほど高貴な存在ではなかった場合、天主はわざと直接に介入しなくてもよかったはずです。アダムに任せて、自分なりに都合の良い助け手を造れと天主がなさることがあり得たわけです。しかしながら、そうはならなくて、天主は直接に女性をお造りになって、被創造界をさらに完全化させたのです。というのも、女性は被創造界にとって本当に完全化を意味します。特別の立場、位置づけにあるのです。

要するに、仲介なしに天主は直接に女性をお造りになりました。
つづいて聖トマス・アクイナスは「人間は天主に似せられて、天主に象ってつくられた」という一句についての解釈です。これはつまり、人間には知性と意志があるということを意味します。動物なら、この意味で天主に象って造られていないわけです。動物において霊的な要素はめったにないからです。動物において、天主の本質に似ているような要素はめったにないのです。天主の御象りというようなものは無いということです。

しかしながら、不完全な象りであるものの、不正確な似せであるものの、人間において天主の象りがあります。しかしながら、霊的な働きであるとして、つまり、知性の働きと意志の働き、また真理・善へ向かわせている働きなどは天主の象りではあります。なぜなら、天主こそは知性と意志であり、完全な真理であり、完全な善であります。

しかし、動物には生命はないのではと言われるかもしれません。そして、天主は命でもあるので、動物においてもある種の天主の象りがあると言われるかもしれません。
これは確かにあります。しかしながら、生命だけでは大雑把すぎて、「象り」だとは言えないのです。あえていえば、存在するすべての物事は天主を連想させます。なぜなら、天主こそは存在そのものなのだからです。またすべての物事は天主によって存在させられて、存続させています。確かに、この意味で、全宇宙には天主の印があります。しかしながら、これは「象り」とは言わなくて、天主の痕跡、しるし、名残であると言います。
サイン、印鑑のような感じですね。で、絵画にサインがあったとしても、この絵画は画家の象りになるとは意味しないのですね。
一方、不完全であるものの、人間において天主に似ている何かがあるということです。しかしながら、人間は本当に天主に似ているということです。

創世記において、「似ている」と「象って」という二つの言葉は並列します。同じ意味で捉えても差し支えないし、大体の場合はおなじ意味で捉えられているのです。
しかしながら、この二つの言葉を区別して解釈することもあります。象りと似せを別に捉える解釈もあるということです。象りというのは人間の意志と知性であるとする解釈があります。似せは天主の生命の内に活かす「聖寵」だという解釈もあります。聖トマス・アクイナスはこの解釈を肯定して、二つの言葉を区別して捉えても差し支えはないと説明します。
象りはある種の下書きであるかのように、我々は意志と知性があって、理性のある存在だということです。似ているところは、聖寵によって天主の生命を人間の霊魂に宿ることは可能であるということです。


以上は創造についてでした。
次は楽園でのアダムとイブはどうなっていたかについてです。
【後編】につづく



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