白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
天主は純粋な霊であります。
限りなく完全です。
総ての物事の創造者であり、司り主・総宰者です。
私たち人間にとって、「創造者」といわれても、分かりにくいかもしれません。ちなみに、「創造」という言葉は、芸術において頻繁に使われています。芸術家による作品の創造といいますね。「創造」を地上の事でも使うたびに、天主のなさったことについて、確かに、何かが語られています。天主は大自然の創造者であるといったら、芸術家は芸術作品の創造者という時と、かなり似ています。でも、ちょっと違います。というのは、先ず、どの芸術家のどの名作に比べても、天主はより完全に創造したからです。しかも、どの大芸術家が多くの名作を創造したところに、比べようがないほどに、量・質としても、天主の創造した作品は、多くまた偉大です。天主は創造の仕方においても、どの芸術家の名作の仕方よりも、優れています。なぜでしょうか。どうやってなさったでしょうか。
~~
天主にとって、創造するとは、無から何かを創るということです。私たち人間にとって、これは神秘です。地上にいる誰一人もできないことだからです。芸術家なら、「創造する」というのは、なんでしょうか。ある材料を準備します。例えば、彫刻家だったら大理石の塊、建具屋なら木材、何でもいいわけです。画家なら、カンバスと筆と色ですね。つまり、いわゆる原料を使って、粗雑な材料を使って、芸術家が名作を作るわけです。しかしながら、既存にある原料がそもそもなければ、どの芸術家であっても、何も作れないことは自明でしょう。家具を作ろうと思う職人がいるとしたら、木材を使わなければなりません。空っぽなアトリエに職人がいきなり入って、「さて、家具をつくるぞ」といったところに、何もできません。先ず、木材が届いてもらわなければなりませんね。さもなければ、理不尽だけです。彫刻家が、いきなり「石がなくても、何も材料がなくても、今日、像を作ってみるよ。さて鑿(のみ)を取ってやってみようか」と言ったとしましょう。彼が、彫る何かの材料がない限り、何も作れません。名作どころか、何もできません。
天主は、完全なる天主ならどうでしょうか。善そのものである天主は、無からすべてを創造しました。以前にも説明したことですけど、私たちは自分の存在理由は自分自身にはありません。ある日は、存在していなかったわけです。しかしながら、天主なら、これは何の妨げになりません。無から私たちを有らしめて存在させることができます。これが「創造」と呼ばれることです。
整理してみると、変化の概念の前提には、出発点と到着点がなければなりません。ある物が、こうだったが、例えば、ある大理石の塊は粗かったが、またより簡単にいうと、水が冷たかったが、変化によって他のモノに変わります。例えば、水が熱くなって湯となります。大理石の塊は像となります。ミケランジェロ・ブオナローティのモーゼ像になるかもしれません。
要するに、前に、何か既存の物があったわけです。生殖の場合でさえそうです。生命のある材料というか媒体というか、かかる生物がなければ、生殖できません。生命を産むには、少なくとも、一つの細胞が要りますね。この細胞がなければ、無から生命を産むことは無理です。あり得ないことです。
天主なら、創造に当たって、必要なもの何もありません。天主が創造する際に、何でも如何にも天主の意志の働きだけで創造します。いや、前回に説明したように、より正確に言うと、愛の働きによってだけ創造します。天主において、意志と愛は同じだからです。要するに、天主が創造することを決定して、つまり意志を作用して、つまり愛した途端に、そのモノが創造されます。素晴らしいでしょう。
創世記に明白に語られるように「天主が「光あれ」と仰せられた。」言い換えると、「天主は光りが存在することを意志した」という意味です。「すると光ができた」。何もなかったのに、いきなり何かできました。創造です。既存の物質も一切なかったのに、ある物質ができました。あるモノが一切存在しなかったのに、突然、存在しはじめました。したがって、天主はすべての物事の創造者であると言います。少なくとも、すべての物事の源泉において、創造者です。このように天主は天地を創造しました。こういうふうに海と陸を創造しました。こうやって月と太陽と惑星と天体を創造しました。無から創造しました。「モノがあれ」と仰せられただけで、モノができました。
原点にあった爆発とされるビッグバンの科学説が、正しいとしても、その爆発には、最初の閃きが要ります。天主は爆発あれと仰せられ、無からそれができました。原点に遡ったら、どうしてもある存在が必要です。この存在は天主に他なりません。天主だけは、全能のゆえに、無から何かを生める存在であるからです。これが創造ということです。
もう一度、繰り返すと、天主において、創造とは天主の意志の働きであって、つまり、愛の働きです。ラテン語で「善は自らを拡散する」といった表現があります。「Bonum diffusivum sui. ボヌム・ディフジヴム・スイ」。善は自ずからを拡散します。それで、天主こそが至上の善であります。至上の意志である故に、至上の愛である故に、至上の善でなければなりません。要するに、天主はこの至上の善を広めようとします。これが創造ということなのです。天主は創造します。
創世記において、天主は創造する場面が出てくるたびに、例えば、二日目、天主は天と地を創造したと言った時に、必ずその最後に、それを「良しと思われた」とあります。良しと思われる以外にあり得ません。この上もなく善である天主は、愛の働きと呼ばれている意志の働きでしか創造できない天主は、善である働きであるに決まっています。したがって、当然ながら、天主の創造したものは、すべて良いものです。良いということは必然です。さもなければ、無理です。無から天主は創造します。創造されたものは、良いものです。天主の創造したすべてのものは善いです。天主の愛の働きによるものですから。しかも、創造によってこそ、創造されたものに、天主の愛を分かちました。天主はすべての物事の創造者です。要するに、無から、すべてを創りました。
~~
もう一つ言っておくべきことがあります。信条であるので大事なことです。創造には始まりがあるという信条です。言い換えると、時間において始まりました。中世期において、神学討論になった課題ですが、地球が絶えずいつも存在していたという説もあり得ることです。この説を出張しても、創造に関して何の差し支えはありません。というのも、地球は常に絶えずに存在していたとしても、被造物として、存在していることにおいて、存在を与え続けている天主に依存しているからです。それで、天主は永遠ですから、永遠に創造したはずだと出張しだした神学者がいました。創造としては問題になりません。この説によったとしたら、ただ、永遠に地球が存在しているだけで、それで、常に存在しているということにおいて、天主に依存しているからです。
しかしながら、信仰は違うことを教えます。信じるべき信条であります。信じないなら、異端者になってしまいます。というのは、信仰によれば、創造は時間において始まったという教えです。言い換えると、創造は永遠ではありません。実際において、たとえ違う状態があり得たとしてもです。「初めに、天主は天地を創った」と創世記が記しています。聖書の最初の言葉です。「初めに、天主は天地を創った」。言い換えると、天主は天地を創った際に、時間をも創ったことになります。それで、時間は、ある日に始まりました。いつ、何年前に、始まったかということは、きっといつまでもこの地上では知りえないことでしょうけども。
公教要理-第五講 創造について
天主は純粋な霊であります。
限りなく完全です。
総ての物事の創造者であり、司り主・総宰者です。
私たち人間にとって、「創造者」といわれても、分かりにくいかもしれません。ちなみに、「創造」という言葉は、芸術において頻繁に使われています。芸術家による作品の創造といいますね。「創造」を地上の事でも使うたびに、天主のなさったことについて、確かに、何かが語られています。天主は大自然の創造者であるといったら、芸術家は芸術作品の創造者という時と、かなり似ています。でも、ちょっと違います。というのは、先ず、どの芸術家のどの名作に比べても、天主はより完全に創造したからです。しかも、どの大芸術家が多くの名作を創造したところに、比べようがないほどに、量・質としても、天主の創造した作品は、多くまた偉大です。天主は創造の仕方においても、どの芸術家の名作の仕方よりも、優れています。なぜでしょうか。どうやってなさったでしょうか。
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天主にとって、創造するとは、無から何かを創るということです。私たち人間にとって、これは神秘です。地上にいる誰一人もできないことだからです。芸術家なら、「創造する」というのは、なんでしょうか。ある材料を準備します。例えば、彫刻家だったら大理石の塊、建具屋なら木材、何でもいいわけです。画家なら、カンバスと筆と色ですね。つまり、いわゆる原料を使って、粗雑な材料を使って、芸術家が名作を作るわけです。しかしながら、既存にある原料がそもそもなければ、どの芸術家であっても、何も作れないことは自明でしょう。家具を作ろうと思う職人がいるとしたら、木材を使わなければなりません。空っぽなアトリエに職人がいきなり入って、「さて、家具をつくるぞ」といったところに、何もできません。先ず、木材が届いてもらわなければなりませんね。さもなければ、理不尽だけです。彫刻家が、いきなり「石がなくても、何も材料がなくても、今日、像を作ってみるよ。さて鑿(のみ)を取ってやってみようか」と言ったとしましょう。彼が、彫る何かの材料がない限り、何も作れません。名作どころか、何もできません。
天主は、完全なる天主ならどうでしょうか。善そのものである天主は、無からすべてを創造しました。以前にも説明したことですけど、私たちは自分の存在理由は自分自身にはありません。ある日は、存在していなかったわけです。しかしながら、天主なら、これは何の妨げになりません。無から私たちを有らしめて存在させることができます。これが「創造」と呼ばれることです。
整理してみると、変化の概念の前提には、出発点と到着点がなければなりません。ある物が、こうだったが、例えば、ある大理石の塊は粗かったが、またより簡単にいうと、水が冷たかったが、変化によって他のモノに変わります。例えば、水が熱くなって湯となります。大理石の塊は像となります。ミケランジェロ・ブオナローティのモーゼ像になるかもしれません。
要するに、前に、何か既存の物があったわけです。生殖の場合でさえそうです。生命のある材料というか媒体というか、かかる生物がなければ、生殖できません。生命を産むには、少なくとも、一つの細胞が要りますね。この細胞がなければ、無から生命を産むことは無理です。あり得ないことです。
天主なら、創造に当たって、必要なもの何もありません。天主が創造する際に、何でも如何にも天主の意志の働きだけで創造します。いや、前回に説明したように、より正確に言うと、愛の働きによってだけ創造します。天主において、意志と愛は同じだからです。要するに、天主が創造することを決定して、つまり意志を作用して、つまり愛した途端に、そのモノが創造されます。素晴らしいでしょう。
創世記に明白に語られるように「天主が「光あれ」と仰せられた。」言い換えると、「天主は光りが存在することを意志した」という意味です。「すると光ができた」。何もなかったのに、いきなり何かできました。創造です。既存の物質も一切なかったのに、ある物質ができました。あるモノが一切存在しなかったのに、突然、存在しはじめました。したがって、天主はすべての物事の創造者であると言います。少なくとも、すべての物事の源泉において、創造者です。このように天主は天地を創造しました。こういうふうに海と陸を創造しました。こうやって月と太陽と惑星と天体を創造しました。無から創造しました。「モノがあれ」と仰せられただけで、モノができました。
原点にあった爆発とされるビッグバンの科学説が、正しいとしても、その爆発には、最初の閃きが要ります。天主は爆発あれと仰せられ、無からそれができました。原点に遡ったら、どうしてもある存在が必要です。この存在は天主に他なりません。天主だけは、全能のゆえに、無から何かを生める存在であるからです。これが創造ということです。
もう一度、繰り返すと、天主において、創造とは天主の意志の働きであって、つまり、愛の働きです。ラテン語で「善は自らを拡散する」といった表現があります。「Bonum diffusivum sui. ボヌム・ディフジヴム・スイ」。善は自ずからを拡散します。それで、天主こそが至上の善であります。至上の意志である故に、至上の愛である故に、至上の善でなければなりません。要するに、天主はこの至上の善を広めようとします。これが創造ということなのです。天主は創造します。
創世記において、天主は創造する場面が出てくるたびに、例えば、二日目、天主は天と地を創造したと言った時に、必ずその最後に、それを「良しと思われた」とあります。良しと思われる以外にあり得ません。この上もなく善である天主は、愛の働きと呼ばれている意志の働きでしか創造できない天主は、善である働きであるに決まっています。したがって、当然ながら、天主の創造したものは、すべて良いものです。良いということは必然です。さもなければ、無理です。無から天主は創造します。創造されたものは、良いものです。天主の創造したすべてのものは善いです。天主の愛の働きによるものですから。しかも、創造によってこそ、創造されたものに、天主の愛を分かちました。天主はすべての物事の創造者です。要するに、無から、すべてを創りました。
~~
もう一つ言っておくべきことがあります。信条であるので大事なことです。創造には始まりがあるという信条です。言い換えると、時間において始まりました。中世期において、神学討論になった課題ですが、地球が絶えずいつも存在していたという説もあり得ることです。この説を出張しても、創造に関して何の差し支えはありません。というのも、地球は常に絶えずに存在していたとしても、被造物として、存在していることにおいて、存在を与え続けている天主に依存しているからです。それで、天主は永遠ですから、永遠に創造したはずだと出張しだした神学者がいました。創造としては問題になりません。この説によったとしたら、ただ、永遠に地球が存在しているだけで、それで、常に存在しているということにおいて、天主に依存しているからです。
しかしながら、信仰は違うことを教えます。信じるべき信条であります。信じないなら、異端者になってしまいます。というのは、信仰によれば、創造は時間において始まったという教えです。言い換えると、創造は永遠ではありません。実際において、たとえ違う状態があり得たとしてもです。「初めに、天主は天地を創った」と創世記が記しています。聖書の最初の言葉です。「初めに、天主は天地を創った」。言い換えると、天主は天地を創った際に、時間をも創ったことになります。それで、時間は、ある日に始まりました。いつ、何年前に、始まったかということは、きっといつまでもこの地上では知りえないことでしょうけども。