白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」既に、以前、信経の第二条をご紹介しました。
続いて、信教の第三条は、「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」という信条でした。ご托身の玄義です。これについては以前にもご紹介しました。つまりご托身の玄義からの展開というか、30年間ほど続いた私たちの主の私生活をもご紹介しました。
また、より展開して、私たちの主の公生活と呼ばれるものもご紹介しました。つまり、ご自分の使徒たちと一緒に、公にお過ごしになった三年間で、大衆の前で福音宣教をなさりながら、ご自分の御教えの神性を証明したことによって、明白に、ご自分が救い主であることをお示しになりました。
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【信経第四条「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」】
以上の信経の条々に続いて、今回から、第四条に移りたいと思います。信経の第四条の教えはこうです。イエズス・キリストは「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」です。この第四条において、贖罪の玄義が紹介されています。
贖罪の玄義を語るとき、二つの側面を見なければなりません。これから、順番にご紹介していきます。
【贖罪の玄義の第一の側面:歴史的事実】
第一の点は、かなり時間が要りますが、非常に興味深い側面です。つまり、歴史という側面です。要するに、贖罪の玄義において、先ず、私たちの主は何を具体的に苦しんでいたか、それからどういうふうにその苦しみを受け入れたかを見てみます。要するに、枝の主日からご復活の祝日までの間を中心に展開してきた諸史実についてのご紹介です。その一週間の出来事をご紹介しますが、典礼上、この一週間を「聖週間」と呼びます。以上は、歴史編ということです。
【贖罪の玄義の第二の側面:神学的意味】
しかしながら、歴史編といった諸史実の上に、贖罪の玄義の神学的意味という側面も大事です。贖罪の玄義そのものが何であるかということです。贖罪の玄義とは一体何でしょうか。贖罪の啓示された諸真理とは、何を意味するでしょうか。
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【贖罪の玄義に関してイエズス・キリストが成就した旧約の預言】
贖罪の玄義の歴史編に入る前に、少しだけ、この贖罪の玄義に関して私たちの主イエズス・キリストが実現した旧約聖書に記された諸預言をご紹介させていただきたいと思います。
私たちの主は、救い主です。御自分で明白に仰せになります。そう断言しますし、前に見たとおり、そのことを証明し裏付けます。御自分の聖なる聖徳溢れる行動と一生の模範を通じて、また、御教えの完璧性やその素晴らしさを通じて、さらに起こす諸奇跡を通じて、それを証明します。
その上、私たちの主は、ご自分が救い主であることを証明するために、預言を実現してそれを確立します。というのも、当時のユダヤ人は、旧約聖書の諸預言などをよく細かく知っていたからです。
【当時のユダヤ人は、旧約聖書の諸預言などをよく知っていた】
これを示す出来事を挙げると、三人の博士のことを思い出すのが良いと思います。三人の博士は救い主について情報を得るために来るので、ヘロデ王が司祭らを呼んで聞いてみると、あっさり救い主の生まれる場所がどこか分かります。司祭らは知っているわけです。ベトレヘムと答えます。その例で分かるように、ユダヤ人は預言を良く知っています。従って、私たちの主が諸預言をどんどん実現することを見ると、ユダヤ人らは「彼は救い主だ」と思うわけです。
だからこそ、私たちの主が受難の際に実現していく脈々と並ぶ旧約聖書の多くの預言を知る必要があります。それほど実現されたので、ユダヤ人は私たちの主が待ち望まれた救い主だったことを知らずにいられなかったのです。したがって、ユダヤ人は、諸預言が実現したことを見ないようにしました。そのせいで、ユダヤ人たちは頑固に意図的に盲目になってしまいました。
~~
【私たちの主イエズス・キリストの逮捕や受難の前の事情に関する諸預言】
諸預言は、旧訳聖書の諸々な所に散在しています。整理してみると、先ず、私たちの主イエズス・キリストの逮捕や受難の前の事情に関する諸預言があります。
例えば、旧約聖書のザカリア預言者による次の預言があります。枝の日に起こったエルサレムへの凱旋的な入城の預言です。聖書によると、「シオンの娘よ、喜びいさめ、エルサレムの娘よ、喜びおどれ。見よ、王が来られる、正しいもの、勝利のものが。彼は、謙遜なもので、ろばに乗ってこられる。子ろば、雌ろばの子に乗って。」
そこで、私たちの主は、以上の預言を実現します。
また、旧約聖書では、私たちの主が生贄になることを前兆し、預言します。
「彼は、私たちの罪のためにつきさされて」とイザヤが53章で預言します。この第53章は、まさにメシア(救い主)的です。というのも、イザヤがその章で、直接に救い主を見たかのように描写するからです。また、同じ章で、イザヤがこう預言します。「実に、彼は私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った」と。
また、ある詩編では、予めユダの裏切りが預言されています。
「私の信頼していた親友、私のパンを食べた者さえ、私に向かってかかとを上げた。」
「私のパンを食べた者さえ」とは、「私と一緒に生活していた者」という意味です。ラテン語では「Companio(一緒にパンを)」といって、仲間の意味です。同じパンを食べて、同じ食卓を挟むという意味です。使徒のユダです。「私に向かってかかとを上げた。」
因みに、預言者ザカリアの書においても、ユダについてのもう一つの預言が次のようにあります。
「すると、彼らは、私に、銀三十銭をはかって、賃金を払った。」 また、ユダの裏切りの後の預言もあって、畑の購入についての預言です。「それで、私は、銀三十銭をとって、主の神殿のさい銭箱に投げ入れた。」 畑の購入を預言する箇所です。
私たちの主の断末魔についてならば、詩編に次の預言があります。
「私の心はのたうち、死の恐怖が私をおおった。恐れとおののきにおそわれ、戦慄にしめつけられた。」
詩編がこう記しているわけです。
「牧者を殺せ、そうすれば、羊は散る」 とザカリアが預言します。これは、私たちの主イエズス・キリストの逮捕の時に、使徒たちが散らされる預言に他なりません。
「私に逆らって、偽りの証人が立ち上がったが、偽りは自ずとばれた」 。この預言は、また詩編から出てきます。私たちの主に対して証人を呼んだことを語り、それぞれの証言は矛盾しあって、合っていなかった場面を預言します。
イザヤ曰く「口を開かず、屠所(としょ)にひかれる子羊のように、毛を刈る人の前でもだす羊のように、口を開かなかった。」 これは、私たちの主の沈黙の預言となります。この沈黙こそには表現力に富むかぎりです。
あざけりや侮辱などの預言もイザヤに多く預言されています。また、哀歌にもあります。「そしていま、私は彼らのあざけりの的となった。」 と旧約聖書にあります。
「主は、自分にうちかかるものにほおを向け、辱めで満たされる。」 「打つ人に私の背中を、ひげを引く抜く人に私のほおをまかせ、ののしりとつばから、顔を隠さなかった。」
また、私たちの主の死について、さらにより明白な預言もあります。鞭打ちについてもあり、十字架刑についてもあります。例えば、鞭打ちについては、「私たちは彼をらい病人のようにみえて、その前では顔を覆いたくなる。」
らい病人のようにみえて、私たちの主が傷だらけだったので、鞭打ちのせいで剥ぎ取られていく肌の姿についてです。
「私たちを救う罰が彼の上に襲いかかり、その傷のおかげで、私たちは癒やされた。」
それから、有名な詩編21もあります。私たちの主を素晴らしく描写する詩編です。ちなみに、後で詳しくご紹介しますが、十字架上で私たちの主は、この詩編の一部を唱えだします。
「私の手足をつきさした。私の骨をみな数えた。」 ここに出てくる「骨をみな数えた」というのは、「骨を一つも割らなかった」という意味です。預言通りに実現しました。
「これは、私を愛している人々の家で加えられた傷である。」
「彼が自分を死にわたし、悪人の数に入れられた。かれは、多くの人の罪を背負って、罪人のためにとりつぎをした」 からです。
また、詩編21の別のところには、こうあります。
「私を見る人はみんなあざけり、口を曲げ、頭をふる。『彼は主によりたのんだ、主が彼を救うだろう。主が救うだろう、主は彼を喜び迎えたのだから』」 。
また詩編で21番ではありませんが、次の詩編はこう預言します。
「彼らは、慰めの代わりに毒を食わせ、渇いた私に酢を飲ませた」 。
詩編21に戻ると、「また、私の衣類を互いにわけ、服をくじ引きした」 。旧約聖書の預言者ダヴィドが預言するところです。つまり、私たちの主の到来の遠く前大昔に預言されたことです。
また、旧約聖書のもう一人の預言者アモスの書には、私たちの主の死の際に地上が覆われて暗闇となる預言が記されています。
「その日―天主、主のお告げ―『私は、真昼に太陽を沈め、昼の間、地を闇で覆う。』」
「私の天主よ、私の天主よ、なぜ、私を見捨てたもうたのか。」 詩編21の最初の句で、十字架上に私たちの主の言い出す句でもあります。
以上、救い主をかなり明白に予告する諸預言をご紹介しました。
当時、ユダヤ人が私たちの主の受難を見て、それぞれの多くの預言が一気に実現しつつあったので、ユダヤ人はこれらの預言を連想せずにはいられませんでした。
ほぼ同じ時にそれらのすべては実現しました。すくなくとも数時間にわたって私たちの主の受難の際、多くの預言は実現されます。だから、私たちの主は、逮捕された際、これから実現していくこれらの預言のことを念頭に置いておられたことを知ってください。
また、ユダヤ人は主を逮捕した時、それぞれの預言のことを考えずにいられなかったのです。というのも、救い主と名乗っている者を逮捕しに来ているわけですからです。救い主についての預言を当たり前のように思い起こしているのです。
それにもかかわらず、受難の際、私たちの主による預言の実現を無視したのは、ユダヤ人が頑固に、意図的に、自らを盲目としていたのです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第三十二講 贖罪の玄義・歴史編
「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」既に、以前、信経の第二条をご紹介しました。
続いて、信教の第三条は、「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」という信条でした。ご托身の玄義です。これについては以前にもご紹介しました。つまりご托身の玄義からの展開というか、30年間ほど続いた私たちの主の私生活をもご紹介しました。
また、より展開して、私たちの主の公生活と呼ばれるものもご紹介しました。つまり、ご自分の使徒たちと一緒に、公にお過ごしになった三年間で、大衆の前で福音宣教をなさりながら、ご自分の御教えの神性を証明したことによって、明白に、ご自分が救い主であることをお示しになりました。
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【信経第四条「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」】
以上の信経の条々に続いて、今回から、第四条に移りたいと思います。信経の第四条の教えはこうです。イエズス・キリストは「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」です。この第四条において、贖罪の玄義が紹介されています。
贖罪の玄義を語るとき、二つの側面を見なければなりません。これから、順番にご紹介していきます。
【贖罪の玄義の第一の側面:歴史的事実】
第一の点は、かなり時間が要りますが、非常に興味深い側面です。つまり、歴史という側面です。要するに、贖罪の玄義において、先ず、私たちの主は何を具体的に苦しんでいたか、それからどういうふうにその苦しみを受け入れたかを見てみます。要するに、枝の主日からご復活の祝日までの間を中心に展開してきた諸史実についてのご紹介です。その一週間の出来事をご紹介しますが、典礼上、この一週間を「聖週間」と呼びます。以上は、歴史編ということです。
【贖罪の玄義の第二の側面:神学的意味】
しかしながら、歴史編といった諸史実の上に、贖罪の玄義の神学的意味という側面も大事です。贖罪の玄義そのものが何であるかということです。贖罪の玄義とは一体何でしょうか。贖罪の啓示された諸真理とは、何を意味するでしょうか。
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【贖罪の玄義に関してイエズス・キリストが成就した旧約の預言】
贖罪の玄義の歴史編に入る前に、少しだけ、この贖罪の玄義に関して私たちの主イエズス・キリストが実現した旧約聖書に記された諸預言をご紹介させていただきたいと思います。
私たちの主は、救い主です。御自分で明白に仰せになります。そう断言しますし、前に見たとおり、そのことを証明し裏付けます。御自分の聖なる聖徳溢れる行動と一生の模範を通じて、また、御教えの完璧性やその素晴らしさを通じて、さらに起こす諸奇跡を通じて、それを証明します。
その上、私たちの主は、ご自分が救い主であることを証明するために、預言を実現してそれを確立します。というのも、当時のユダヤ人は、旧約聖書の諸預言などをよく細かく知っていたからです。
【当時のユダヤ人は、旧約聖書の諸預言などをよく知っていた】
これを示す出来事を挙げると、三人の博士のことを思い出すのが良いと思います。三人の博士は救い主について情報を得るために来るので、ヘロデ王が司祭らを呼んで聞いてみると、あっさり救い主の生まれる場所がどこか分かります。司祭らは知っているわけです。ベトレヘムと答えます。その例で分かるように、ユダヤ人は預言を良く知っています。従って、私たちの主が諸預言をどんどん実現することを見ると、ユダヤ人らは「彼は救い主だ」と思うわけです。
だからこそ、私たちの主が受難の際に実現していく脈々と並ぶ旧約聖書の多くの預言を知る必要があります。それほど実現されたので、ユダヤ人は私たちの主が待ち望まれた救い主だったことを知らずにいられなかったのです。したがって、ユダヤ人は、諸預言が実現したことを見ないようにしました。そのせいで、ユダヤ人たちは頑固に意図的に盲目になってしまいました。
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【私たちの主イエズス・キリストの逮捕や受難の前の事情に関する諸預言】
諸預言は、旧訳聖書の諸々な所に散在しています。整理してみると、先ず、私たちの主イエズス・キリストの逮捕や受難の前の事情に関する諸預言があります。
例えば、旧約聖書のザカリア預言者による次の預言があります。枝の日に起こったエルサレムへの凱旋的な入城の預言です。聖書によると、「シオンの娘よ、喜びいさめ、エルサレムの娘よ、喜びおどれ。見よ、王が来られる、正しいもの、勝利のものが。彼は、謙遜なもので、ろばに乗ってこられる。子ろば、雌ろばの子に乗って。」
そこで、私たちの主は、以上の預言を実現します。
また、旧約聖書では、私たちの主が生贄になることを前兆し、預言します。
「彼は、私たちの罪のためにつきさされて」とイザヤが53章で預言します。この第53章は、まさにメシア(救い主)的です。というのも、イザヤがその章で、直接に救い主を見たかのように描写するからです。また、同じ章で、イザヤがこう預言します。「実に、彼は私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った」と。
また、ある詩編では、予めユダの裏切りが預言されています。
「私の信頼していた親友、私のパンを食べた者さえ、私に向かってかかとを上げた。」
「私のパンを食べた者さえ」とは、「私と一緒に生活していた者」という意味です。ラテン語では「Companio(一緒にパンを)」といって、仲間の意味です。同じパンを食べて、同じ食卓を挟むという意味です。使徒のユダです。「私に向かってかかとを上げた。」
因みに、預言者ザカリアの書においても、ユダについてのもう一つの預言が次のようにあります。
「すると、彼らは、私に、銀三十銭をはかって、賃金を払った。」 また、ユダの裏切りの後の預言もあって、畑の購入についての預言です。「それで、私は、銀三十銭をとって、主の神殿のさい銭箱に投げ入れた。」 畑の購入を預言する箇所です。
私たちの主の断末魔についてならば、詩編に次の預言があります。
「私の心はのたうち、死の恐怖が私をおおった。恐れとおののきにおそわれ、戦慄にしめつけられた。」
詩編がこう記しているわけです。
「牧者を殺せ、そうすれば、羊は散る」 とザカリアが預言します。これは、私たちの主イエズス・キリストの逮捕の時に、使徒たちが散らされる預言に他なりません。
「私に逆らって、偽りの証人が立ち上がったが、偽りは自ずとばれた」 。この預言は、また詩編から出てきます。私たちの主に対して証人を呼んだことを語り、それぞれの証言は矛盾しあって、合っていなかった場面を預言します。
イザヤ曰く「口を開かず、屠所(としょ)にひかれる子羊のように、毛を刈る人の前でもだす羊のように、口を開かなかった。」 これは、私たちの主の沈黙の預言となります。この沈黙こそには表現力に富むかぎりです。
あざけりや侮辱などの預言もイザヤに多く預言されています。また、哀歌にもあります。「そしていま、私は彼らのあざけりの的となった。」 と旧約聖書にあります。
「主は、自分にうちかかるものにほおを向け、辱めで満たされる。」 「打つ人に私の背中を、ひげを引く抜く人に私のほおをまかせ、ののしりとつばから、顔を隠さなかった。」
また、私たちの主の死について、さらにより明白な預言もあります。鞭打ちについてもあり、十字架刑についてもあります。例えば、鞭打ちについては、「私たちは彼をらい病人のようにみえて、その前では顔を覆いたくなる。」
らい病人のようにみえて、私たちの主が傷だらけだったので、鞭打ちのせいで剥ぎ取られていく肌の姿についてです。
「私たちを救う罰が彼の上に襲いかかり、その傷のおかげで、私たちは癒やされた。」
それから、有名な詩編21もあります。私たちの主を素晴らしく描写する詩編です。ちなみに、後で詳しくご紹介しますが、十字架上で私たちの主は、この詩編の一部を唱えだします。
「私の手足をつきさした。私の骨をみな数えた。」 ここに出てくる「骨をみな数えた」というのは、「骨を一つも割らなかった」という意味です。預言通りに実現しました。
「これは、私を愛している人々の家で加えられた傷である。」
「彼が自分を死にわたし、悪人の数に入れられた。かれは、多くの人の罪を背負って、罪人のためにとりつぎをした」 からです。
また、詩編21の別のところには、こうあります。
「私を見る人はみんなあざけり、口を曲げ、頭をふる。『彼は主によりたのんだ、主が彼を救うだろう。主が救うだろう、主は彼を喜び迎えたのだから』」 。
また詩編で21番ではありませんが、次の詩編はこう預言します。
「彼らは、慰めの代わりに毒を食わせ、渇いた私に酢を飲ませた」 。
詩編21に戻ると、「また、私の衣類を互いにわけ、服をくじ引きした」 。旧約聖書の預言者ダヴィドが預言するところです。つまり、私たちの主の到来の遠く前大昔に預言されたことです。
また、旧約聖書のもう一人の預言者アモスの書には、私たちの主の死の際に地上が覆われて暗闇となる預言が記されています。
「その日―天主、主のお告げ―『私は、真昼に太陽を沈め、昼の間、地を闇で覆う。』」
「私の天主よ、私の天主よ、なぜ、私を見捨てたもうたのか。」 詩編21の最初の句で、十字架上に私たちの主の言い出す句でもあります。
以上、救い主をかなり明白に予告する諸預言をご紹介しました。
当時、ユダヤ人が私たちの主の受難を見て、それぞれの多くの預言が一気に実現しつつあったので、ユダヤ人はこれらの預言を連想せずにはいられませんでした。
ほぼ同じ時にそれらのすべては実現しました。すくなくとも数時間にわたって私たちの主の受難の際、多くの預言は実現されます。だから、私たちの主は、逮捕された際、これから実現していくこれらの預言のことを念頭に置いておられたことを知ってください。
また、ユダヤ人は主を逮捕した時、それぞれの預言のことを考えずにいられなかったのです。というのも、救い主と名乗っている者を逮捕しに来ているわけですからです。救い主についての預言を当たり前のように思い起こしているのです。
それにもかかわらず、受難の際、私たちの主による預言の実現を無視したのは、ユダヤ人が頑固に、意図的に、自らを盲目としていたのです。