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復活祭の主日の一週間前 【公教要理】第三十三講 贖罪の玄義[歴史編]

2019年03月23日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第三十三講  贖罪の玄義・歴史編・復活祭の主日の一週間前


「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」給うイエズス・キリストを信じ奉る。

【歴史上の事実】
前回に見たように、贖罪の玄義は、先ず、歴史上の事実として見なければなりません。
これから、それをご紹介していきます。つまり、私たちの主イエズス・キリストの贖罪の玄義の歴史を、実際に展開してきた史実をご紹介します。

【受難の序幕:ファイサイ人との戦い】
総ての始まりは、受難の序幕とでも呼ばれることから始まります。具体的にいうと、復活祭の日曜日(過越祭)の一週間前です。当然ながら、イエズス・キリストの全人生は贖罪に向けられているという事実を見る価値がありますので、聖ヨハネの福音書を全部読んでみると良いと思います。それでご降誕の時より、ずっと、私たちの主とファリサイ人との間に、戦いが展開してくることが良く見てとれます。聖ヨハネの序文はその通り語られています。

「御言葉(イエズス・キリスト)は世にあり、世は御言葉によって創られたが、世はそれを認めなかった。」
または「御言葉はご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。」
または「光(イエズス)は闇に輝いたが闇はそれを悟らなった。」
聖ヨハネの福音書では、輝こうとしているその光を語ります。要するに、その光とは、私たちの主で、ご自分が救い主であることを示したり、病みなどを治したり、奇跡を起こしたり、教えを伝えたりするイエズス・キリストです。
一方、ファリサイ人も登場して、彼らは私たちの主の教えを拒絶して、信じることを拒むがゆえに、何度も私たちの主、イエズス・キリストを嵌めようとし続けます。なぜ嵌めようとするのでしょうか。

【ファリサイ派が陰謀を企てる理由】
先ず、私たちの主のもとに、大勢の人々が集まるからです。それで、私たちの主の後に従ってつく人々は、もうファリサイ人の後につかなくなるからです。つまり、そこにあるのは、ある種の嫉妬心です。
その上、やまない傲慢心もあります。その傲慢心はあまりにもやまない挙句、ファリサイ人たちは、私たちの主イエズス・キリストに対して陰謀を企てるようになります。彼を死なせようとしてまでの陰謀です。最後には、死なせることに成功します。
以上は、一般の背景の説明で、その状況に置かれ、その環境のせいで、少しずつ、聖週間に至ります。私たちの主イエズス・キリストご自身が何度も予言なさったその時に至ります。

【受難の切っ掛け】
さて、受難の切っ掛けとでも呼べる事実はなんでしょうか。まず、必ず念に置くべきことがあります。私たちの主が、死ぬことをご自分で決めて、それがいつかも、どこでかもご自分で決めたということです。
永遠なる天主は、贖罪の御計画において、私たちの主の死は聖金曜日に、過越祭においてであることを既に予定なさったのです。それで、私たちの主は、ご自分が死すべきことを知っているし、実際に死去します。積極的に、亡くなられるわけです。ご自分でご自分を捧げるのです。同時に、あえて言えば、その時の人間的な状況を活かして、切っ掛けを得ます。しかしながら、ずっと、人間の自由意志を残しながら、です。神秘です。なぜ神秘かというと、使徒のユダが裏切ったのも、ユダヤ自身が自分の自由意志で決めたことだからです。ユダにして、何かの地獄への予定なども、裏切りへの予定なども全くありませんでした
また後でご紹介しますが、私たちの主は、ユダが裏切らないように全力を尽くしました。しかしユダが自由に決めて裏切ったのです。全く、聖ペトロが主を意図的に、積極的に否認したと同じことです。また同じように、私たちの主の死を決めたファリサイ人たちも、自由意志で積極的に決めた決定なのです。とはいえ、その上に、私たちの主も、積極的に、自由に決めて、ご自分は死去されました

【急展開をもたらした「切っ掛け」:ラザロの復活】
さて、物事を急がせた「切っ掛け」は、ラザロの復活という出来事です。その奇跡は、恐らく数週間前のことで、私たちの主が死ぬべき最後の過越祭の数週間前です。私たちの主は、その時にベタニアにいません。ベタニアはエルサレムより東方数キロにある小さい村です。その時、ユダヤ地方にまだおられませんが、私たちの主の耳に、ラザロが危篤状態にあるという知らせが入ります。その時、私たちの主が使徒たちに暗示的な言葉で、すぐにはラザロのもとに行かないという旨を伝えます。つまり、ラザロを蘇らせるために、ラザロの死をあえて待つのです。というのも、ご自分の天主性を示すためです。

確かに死者の復活よりも天主にしかできない奇跡などないからです。また、本物の奇跡であることを保証するために、私たちの主が、ラザロが死んだ日にその許にいらっしゃるのではなく、あえて、死んだ日の四日後に到着するようになさいます。もう、ラザロが確かに間違いなく死んでいることを保証するためです。
というのも、ご到着なさったとき、ラザロの姉妹、マルタとマリア・マグダレナは私たちの主イエズス・キリストを迎えます。私たちの主は、「私を信じなさい」といった内容の言葉の後に、ラザロの墓の前にある岩を取れと仰せになります。ラザロの姉妹は「主よ、四日も経っていますから臭くなっています」 と言い出します。
つまり、死んでいることが、明白に証明されているのです。当時、ファリサイ人をはじめ、周りの人々は、ラザロが本当に死んだことは周知のことだったのです。
死体が「臭くなっている」ほど、もう死んでいるに違いないのです。ラザロはもう死んだのに、私たちの主は、「ラザロよ、外に出なさい」と呼びます。するとラザロが出てきます。包帯に包まれたままです。私たちの主は、それらの包帯を外せと言います。
ラザロが復活したことは自明で皆の目に晒されます。

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当然ながら、その奇跡は、回心した大勢の人々をイエズスの許に寄せてきます。多くの霊魂は光を受け入れようとしながらも、残念ながら、ある霊魂たちは、より頑固に、光に対して自分を暗闇に閉ざしてしまいます。ファリサイ人たちです。
その日をもって、ファリサイ人たちは集まって、どんと、私たちの主イエズス・キリストを殺すことを決定します。実は、カヤファ大司祭がこう告げます。
「一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬ方が、あなたたちにとってためになる」 と。もう、決定事項で、私たちの主は死ぬべきだと。
要するに、ファリサイ人たち側では、その時、もうその企ては決定しました。死は要求されているのです。後は、その切っ掛けを見つけるだけです。

【キリストの死の直接の切っ掛け:ユダの裏切り】
さて、他の切っ掛けは幾つありますが、最初にあるのは、使徒のユダが差し出します。過越祭が迫ると、ファリサイ人たちはどちらかというと、行事が終わってから実行したほうが都合が良いと思っていました。というのも、過越祭の大行事で、多くのユダヤ人がエルサレムに来ていたので、大勢の人々がいたからです。だから、スキャンダルを避けるために、大衆がファリサイ人たちに対して反発しないように、皆が家に帰ってから殺すことにしていました。要するに、過越祭が収まるのをゆっくり待って、その後に、私たちの主を逮捕する計画でした。それで、人の目に隠れて、殺す計画でした。騒ぎにならないように。何の民の反発などはないように。
しかしながら、私たちの主は違うことをお考えでした。旧約聖書のすべての予言を実現する意味でも、過越祭の時に死ぬことになさいました。特に、民を奴隷から解放するための過越しの子羊の生贄という前兆を実現することになさいました。奴隷というのは、罪に他なりません。
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【枝の主日の前の土曜日、ベタニアで香油を受けるイエズス】
要するに、ファリサイ人たちの計画はハッキリ決められていて、諸行事の終わりを待って、それから、何かの名目を見つけて私たちの主を逮捕させて、裁判にかけて死刑にいたらせることにしていました。
しかしながら、過越祭の8日前に、つまり、枝の主日の前の土曜日ですね、その日は、私たちの主が、ベタニアという小さい村におられました。エルサレムより、数スタディオン(距離の単位)ぐらいです。ライ病のシモンのところに泊まっておられます。以前にも、泊まったことがありましたが、また後にここでも出てきます。食事している時です。それで、思い出してください。それ以前に、シモンの家にいらっしゃったときは、福音書による限り、聖マリア・マグダレナが回心した時でした。罪人として、私たちの主、イエズス・キリストの足許まで来て、私たちの主の足の上で、自分の犯した罪を嘆き涙しました。さらに私たちの主の足を拭いて差し上げました。それを見ていたシモンはこう考えます。
「この人がもし預言者なら、自分に触れた女が何者か知っているはずだ。この女は罪人なのに」 と。彼女は、確かに周知の罪人でした。しかしながら、私たちの主は、聖マリア・マグダレナの心を見抜いていたので、シモンを叱ります。先ず、マリア・マグダレナの抱いていた愛徳を強調して、主は彼女の罪を赦しました。そして、これからもう罪を犯さないようにと。これがマリア・マグダレナの回心でした。

今回も、籟病のシモンの家は舞台となります。そして、マリア・マグダレナはまた来ます。今回はもう罪人ではありません。私たちの主、イエズス・キリストを心よりの愛徳の愛で愛しています。私たちの主の傍にいる、主に使えている女性の一人です。以前と同じように、私たちの主の足を濡らして拭きますが、前回と違って、貴重な香油を、花蜜を、芳しい妙な香を注ぎます。芳しい上に、高級な香油で高価です。香油を、雪花石膏(アラバスター)の壺を割って足に注ぎます。一人の福音者は、「イエズスの頭に香油を注いだ」 と記します。
それで、私たちの主は、マリアの行為の意味を皆に説明なさいます。

【使徒ユダ・イスカリオトはもったいないと非難する】
その貴重な香油を注いだ時、財布を管理していた使徒のユダが、金銭にケチなユダが、注がれた香油を見て、既に心の中で無駄な浪費だと勝手に判断して、こう言います。
「それをよい値で売って貧しい人々に施せたのに」 と。聖ヨハネは別のところでこう付け加えます。「悪魔は早くもイスカリオトのシモンの子ユダに、イエズスをわたそうという考えを入れた」 と。ユダがこういった文句を言い出します。無駄にするより、売って貧しい人に金をあげられたのに、という文句です。
それに対して、私たちの主、イエズス・キリストは、聖マリア・マグダレナの行為を説明します。ユダに向けて、「貧しい人はいつもあなたたちとともにいるけれども、私はいつも一緒にいるのではない。この人は私の体に香油を注いだのは、私の葬りの準備である。」 と仰せになります。これで、暗に十字架上のご自分の死とその葬りを予告します。ユダが、そのコメントにイラっとなって、その時に、私たちの主を裏切り、金を受けて売り飛ばすことを決めます。



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