ファチマの聖母の会・プロライフ

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教会はなぜ畏れるべきところなのか?Terribilis est locus iste

2021年08月22日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

教会はなぜ畏れるべきところなのか?


クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教
2020年11月18日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、「Terribilis est locus iste」。これは本日のミサの最初の言葉です。今日は使徒聖ペトロ・聖パウロ大聖堂の献堂式の祝日です。「Terribilis est locus iste」「ここは、畏(おそ)るべきところ」という意味です。その通りです。教会という場所はまさに畏(おそ)るべきところです。なぜでしょうか?



というのも、天主は教会という場所に御聖体においてお住いだからです。また、教会という場所こそはこの上なく信徒たちの聖化の場所だからです。またこの上ない祈りと祈祷の場所だからです。信徒個人の祈りの場所のためにもそうですが、それよりも、第一に公教会の公けの礼拝と儀礼・祈祷のための場所でもあるからです。そしてこの上なく祈祷中の祈祷であるミサ聖祭のための場所だからです。ミサ聖祭は我らの主、イエズス・キリストご自身によるこの上ない完璧な祈祷なのです。また、ミサ聖祭こそはこの上なく完成された愛徳の施しなのです。というのも、十字架の犠牲を再現する完成なる愛徳の施しだからです。

ですから、教会は畏(おそ)るべき場所です。というのも、教会という場所は新しいカルヴァリオであり、新しいゴルゴタ丘であるからです。数世紀にわたって教会ではカルヴァリオで行われた生贄が毎日再現されて、その犠牲は延長されている場所だからです。

「全能の主よ、主の住居は好ましい、私の心は、主の家に入りたいとのぞみあこがれる」(詩編、83、2-3)と典礼にあります。

カトリック教会に入る時、そこにあるすべては天主を語っています。また、人間の目的地、人間の生まれた理由とその使命、人間の最期、人間の希望、我々の過去と原罪と将来などのすべてが語られているのが教会なのです。また、教会に入っていくと、そこにあるすべては天から与えられた多くの聖寵を語っています。教会に入ったら、手前にすぐ教会の祈りによって祝別された聖水が置いてあります。この聖水の清さを見て、我々もイエズス・キリストのお望みに沿うべく、どれほど清い状態でこの聖なる場所に入らなければならないかを示してくれます。そして、教会に入ってから目線をちょっと上げたらすぐ十字架が見えます。

ここ、聖ニコラ教会では、聖壇の上の十字架が見えて、それから後陣のステンドグラスの十字架も見えます。十字架を見るだけで多くの真理が思い起こされます。十字架を見ると、人となり給った天主の限りない愛徳や我らの主の磔刑を引き起こした「罪」の非常な深刻さなどといった重要な真理を思い出します。

それから、その下に聖域にある聖壇の近くに灯っている赤いランプが見えます。聖櫃の内に我らの主、イエズス・キリストが御体、御血、ご神聖とご霊魂とが一緒にましまし給うことを示してくれるランプです。
また、教会に入ったらすぐに手前に洗礼式用の洗礼堂が見えます。洗礼堂を見ると、洗礼の時に頂いた素晴らしい超自然の命を思い出します。洗礼の陰で天に入ることが可能となったことを思い出します。また、洗礼を受けたお陰で、怒りの子とサタンの奴隷だった自分たちは我らの主、イエズス・キリストの貴き御血によって我々が浄められて再生されて、天主の養子になったことを思い出します。



また、教会の中へ歩を進めていったら、告解室が壁の方に並んでいます。告解室は我々を待っています。告解室は天主の下に戻りたいと思っている我々、罪人の避難所であり、アジール(聖域)である、また我々の希望をもたらす場所です。告解室は聖寵と憐みの泉の場所です。救いをもたらす禊(みそぎ)の場所であり、天主との友人関係を残念にも失った天主と仲直りしたい人々にとって安心していける場所です。



さらに、中へ歩を進めていくと、説教壇が見えます。それを見ると、説教壇から伝えられたカトリック信仰の諸教義を思い出します。また、我らの本物の祖国なる天国という我らの目的地にたどり着くために、天主によって与えられた多くの手段を思い出します。

それから聖壇が見えて、内陣と区切る聖体拝領用の白い布も見えます。我々は天での宴に誘われていることを思い出します。そこで、我らの主、イエズス・キリストは御聖体という形で我らの糧になり給うておられます。聖体拝領は、天主が我々の心と霊魂とにおいてお住いを構えるためであり、我々の心と霊魂を支配するためです。



そして、その先に聖壇が見えます。そこで、永遠なる天主は正義を全うされるのです。毎日、我々の多くの侮辱と罪を償うために、天主なる御子を天主が生贄として捧げることによって妙なる正義が全うされます。また、毎日、聖壇の上の父なる天主はいとも高く愛されている御子なる天主を生贄として我々の救霊のために捧げられることによって、御憐みを尽くし給うのです。祭壇の上にイエズス・キリストは罪が齎す死を打ち勝って、我々に聖寵の生命をもたらし給うのです。




また、聖壇はあたかも聖母マリアの体内であるかのようです。というのも、ミサ聖祭が執り行われるたび、天主はもう一度この世に来りて神父の指が挟むパンにおいて現存し給うのです。
聖壇は新しい馬屋であるかのように、ミサ聖祭が行われるたびにもう一度この世にご降臨され給うのです。また、聖壇はまさに、カルヴァリオの丘のように、この世に降り給った天であるのです。天ではイエズス・キリストは御父の右に座り給い、我々の御取り次ぎをなさっておられます。
この聖壇を見ると、どれほど多くの素晴らしい喜ばしい物事がこのように知らされていますのかがよくわかります。
また、内陣は多くの小聖堂に囲まれています。これを見て、限りなく多くの人々にイエズス・キリストの聖寵が届けられるようにされていることが示されます。

また、教会のあちこちでは素晴らしい絵と像が飾られており、我らの黙想のために用意されています。これらの聖人の像などを見ると、聖人らがいかに慎み深い人生を送って、侮辱の対象になったりして、苦しみと迫害にあったかということと、その報いとしていかに天において栄光に満たされているかを思いおこさせます。「この世での我々の苦しみは天においてどれほど報われるかということを少しでも理解してもらえたら我々の模範に倣って我々と同じ道に歩むためにすごく励んでくれるだろう」と聖人らが我々に話しかけるかのようです。
愛する兄弟の皆様、教会の中にあるすべてのことは天主を語り、天主に近づくためにあります。「天主よ、あなたの家に住む者はしあわせ」、「まことに、あなたの入り口での一日はその千日にまさる」(詩編83、4、11)。

我々の教会は救霊の場であり、赦しの場であり、礼拝の場であり、憐みの場であり、贖罪の場であり、償いの場、聖寵の場であり、感謝の場であります。ですから、悪魔がどうしても教会を破壊しようとする憎悪感を理解するのは容易なことです。あるいは悪魔はどうしても信徒たちが教会に入らせないように暴れ出していることはわかりやすいです(注・現在、フランスではミサが禁止されています)。

愛する兄弟の皆様、我らの教会を踏ん張って守っていきましょう。ただし戦う目的を間違わないように気を付けましょう。教会の前の祈祷なども(注・完全に違憲なのに)強制的に解散されるのは理不尽であることはその通りです。が、それよりも幾倍に理不尽なのは教会の中にミサ聖祭に参列が禁止されることです。これほど理不尽なことはありません。

ですから、どれほど激しい迫害になっても、そういった迫害に慣れてはいけません。問題は教会内のミサ聖祭への参列であり、単なる教会の門前の「祈祷」という「ましな状態」を許してもらえることではありません。教会内でお祈りして、教会の中でミサ聖祭に参列することこそを我々が望んでおりますので、そのために踏ん張って戦っているのです。教会という建物はそのためにだけ存在する場所だからです。教会は、ミサ聖祭のためにあり、天主のためにあり、祈祷のためにある場所です。

マスクの着用が義務化させられている中で、一方、王たるキリストの敵らは実に正体を現しているのです。十字架の敵らはもはや自分の身を隠そうともせず、正体を現しています。彼等は単なるカトリック教義を知らないだけではないのです。彼等はカトリック教義に関して大体の場合、無知であるのはそうですが、天主より来るすべてのことをこの世から取り除く意志が彼等にあるのは自明であり、わかりやすいです。

彼等はまだ知りませんが彼らはもはや負けました。教会という建物をどんどん破壊していっても、天主にとってこの上なく好んでお住いになる不滅の教会は、我々、信徒の一人一人の霊魂なのです。

我らの心こそは十字架上の生贄のためのこの上なく相応しい場所です。天主は彼等、背信者らを厳しく裁くでしょう。我々にとって、これらの迫害をありがたく受け入れて、我らのイエズス・キリストへの愛着を示す機会とし、我らの主、イエズス・キリストの奴隷になっていることを我らの誇りと栄光の冠といたしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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