白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ブベ(Boubée)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ブベ(Boubée)神父様の説教
2021年4月28日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する友人の皆様、本教会では、毎日の主なミサの時、ローマ暦の重要な聖人のミサを捧げる慣行があります。しかしながら、本日、フランス人たちが特に大切に愛しくお祝いする聖人について私が話すことを忘れたならば、皆様の忠告を頂いたことでしょう。というのも、ご存じのように、本日、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールを祝うからです。
フランス西部の立派な使徒です。また、フランス革命の一世紀まえに、信仰の頗る高揚を促したことによって、フランス革命の時、共和政府がフランス西部の民衆の抵抗に負けそうになり、フランス革命の思想がまさに敗北する寸前まで至らしめることを可能にしたのが聖ルイです。フランス革命を止めるようにヴァンデーをはじめ、西部の農家たちによる反革命運動はキリスト教信仰に支えられて、キリスト教は立ち上がったのです。
なぜこの反革命運動は可能になったでしょうか?カトリック信仰はその地方に深く根を下ろしており、そのルーツは深いです。フランス西部においてそして信仰の根を確立して教化したのが聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールです。
しかしながら、彼の手柄は他にも多くあります。彼はブルターニュのモンフォールという場所に生まれました。彼は1673年1月31日に生まれ、その場所から名を貰いました。そして、比較的若くして亡くなりました。1716年に帰天したからです。18人子供の家庭に生まれました。そして、幼児期の教育は非常に敬虔であり、イエズスと聖母マリアへの帰依によりその敬虔さは養われました。
そして、レンヌの方で勉強するために学校に入りました。そこでは、すでに彼の性格は目立っており、並外れた性格の持ち主でした。教会のなかでも深く印象的であり、彼の聖徳に満ちた姿はすでに目立っていました。そして、二十歳になって、家族や友人と離れて、故郷を出て、パリへ歩いて旅経ちます。神学校に入るためでした。途中で、持っていたすべての金や持ち物を貧しい人々に渡し続けたため、パリに到着した時はぼろをまとい、手ぶらの状態でした。
最初から聖ルイは貧乏人向けの神学校に席を入れるつもりでした。というのも、当時、神学校は多くありまして、その内に学費を払っての神学校が基本でしたが、当時は学費を払えない神学生のための神学校も増えていました。そのなかで彼はサン=シュルピスの神学校を選びます。ご存じのように、そのあと、聖ルイはサン=シュルピスで重要な役割を果たしていきます。そこで叙階を授かって司祭となって、初ミサ聖祭を捧げました。ここのすぐ近くにある教会ですね。1700年の時でした。
サン=シュルピスの神学校には特徴がありまして、特別な役割を果たしていました。というのも、当時、トレント公会議によって促された、司祭職にかかわるあらゆる改革を強化して確立して勧めるために力を入れた神学校だったからです。このようにサン=シュルピスの神学校は50年前にAulier氏によって創立されました。また、Bérulle枢機卿によって代表される「フランス型霊学派」を象徴する神学校としてしられています。今晩、この学派については割愛しましょう。
また、聖ルイはサン=シュルピスでClaude Poullart des Placesという人と出会いました。皆様は恐らく初耳の人物でしょうが、一言で言うと、ルフェーブル大司教が総長を務めた聖霊修道会の創立者です。そして聖ルイとClaudeは親しく協力していって、サン=シュルピスの神学校で霊的な講演や授業を担当していました。
しばらくしてから、聖ルイはポワティエへ行って、そこで、病院系の修道会のシスター(修道女)たちの世話をすることになります。ポワティエで聖ルイは最初の修道会を創立します。というのも、死ぬまで三つの修道会を創立したわけですが、ポワティエで「英知修道女会」を創立しました。「英知修道女会」の目的は貧乏人や病人の世話をすることでしたが、そこで多くの聖別された霊魂、つまり奉献された霊魂が集まって聖ルイはその世話をしていました。サン=シュルピスの神学校においてもその才能がありましたが、ポワチエもそうでした。
そのあと、「マリア宣教会(モンフォールの布教司祭修道会とも)」を創立しました。
マリア宣教会は聖ルイのミッションにおいて一番有名です。また「サンガブリエル兄弟会」という修道会をも創立しました。
そして、聖ルイは旅しながら宣教活動を始めていきます。ある程度の時期から宣教の際、少しずつ彼にとって重要なことをおしえ始めました。いわゆる「ミッション(布教、宣教)」についても話していました。ミッションとは、つまり、信仰が揺るがされていた田舎で信仰を改めて強化する運動ということです。
具体的に言うと、聖ルイのような司祭はどこかの村にいって、野外での黙想会を執り行うという感じになります。現地の信徒たちは場合によっては夕方から集まり、あるいは朝と夕方の間に集まり、大掛かりな告解が行われたり、荘厳な行列が行われたりしました。つまり、何かの理由で信仰が動揺していた小教区のために、信仰の熱心を燃やしなおすためでした。
しかしながら、当時のヤンセン主義はこういったミッションは気に入らなかったのです。というのも、ヤンセン主義者たちはキリスト教の信心が熱心にならないように、冷めるようにしたかったのですから。つまり、ヤンセン主義者とは、一般人は敬虔にならなくてもいいという考え方であり、霊的なエリートだけが価値があり、熱心で敬虔で完全な純潔でいられればよいという考え方の人々でした。
そこで、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールは福音の布教活動のために、ローマに行きました。教皇の下に行って、海外での布教へ派遣してもらうように提案しました。しかしながら、教皇は聖ルイの依頼を聞き入れないで、フランスにおける布教活動に努めるように命令しました。これはみ摂理による命令でもあったと言えます。そして、聖ルイはそれ以降、フランス西部を歩いて、我らの主、イエズス・キリストと聖母マリアを宣べ伝えていきます。
もちろん、現地の司教の許可なしで出来なかったのですから、司教の意向次第で布教活動できたりできなかったりしました。たとえばAvranchesの司教は聖ルイの活動を許可しなかったのですが、Coutanceの司教は逆に積極的にCoutance教区における彼の活動を応援しました。ようするに現地の司教との関係はまちまちでしたが、絶えず布教活動に従事して説教して秘跡を授けて、また多くの十字架を立ち上げていきました。また、ロザリオの信心を広げました。そして、聖歌を積極的に推奨して、かなり多くのよい実を結びました。
これらの聖歌のいくつかは、今でも私たちも歌っています。いわゆる、誰でも歌う聖歌で、公教要理あるいは人間の人生の目的あるいは聖母マリアについてのこと、あるいはホスチア(御聖体)におけるご現存などを想起するような聖歌が多いです。場合によって、既存の音楽を活かして歌詞を変えたし、場合によって新しい音楽をも作成しました。いずれにせよモンフォールの聖歌は古典化していって今でもフランス風の聖歌集に入っています。これらの聖歌は永遠なる真理を想起するために作成されました。
十字架をもちろん重視していました。本日の朗読にもあったように、あらゆる布教、伝道は十字架に帰するわけです。そして、聖ルイは現地でミッションを行って、ミッションが終了したら、ミッションの終了記念としても必ず十字架を立ち上げました。「ミッションの十字架」と呼ばれて、この慣行は多くの村において長く続いて、場合によって、20世紀の最近までやっていました。それはミッションの後、村全員は荘厳に行列した結果、十字架を立ち上げて、ある種の共同体全体による誓いでした。つまり、ミッションの恩恵を受けた分、これから、より敬虔な信徒になるように頑張っていくことを誓うというようなことでした。
周知のように、モンフォールが残した一番有名な十字架はポンシャトーの巨大なゴルゴタの丘の十字架です。ナントからちょっと北にある村です。巨大なカルヴァリオの上に十字架があって、天辺までの十字架の道行きもあって、多くの実物大の石像があります。
また聖ルイにたいして嫌悪感を持った人々の憎しみもありました。ルイ14世にまで働き掛けた聖ルイの敵は、ポンシャトーの十字架は遠くから見えるので、敵軍の軍艦がこれを目印に使う恐れがあり、そこにあった聖地を模型にしていた洞窟を避難所としても使われる恐れがあるというようなことを国王の耳にいい述べました。そこは敵の巣窟になるおそれがあるというような口実をつけて、その十字架の破壊のために働き掛けたのです。この結果、ルイ14世は防衛という理由で、このカルヴァリオの解体命令を出します。そして、一旦そうなりましたが、ナポレオンの帝政期が終わると聖ルイの継承者はそのカルヴァリオを完成させました。
聖ルイは世の終わりに向けての戦いをすごく意識しており、霊的な戦いのために軍団を編成する必要があると確信していました。この軍団の人々のことを「世の終わりの使徒たち」と呼んでいました。ちなみに、そのあとのラサレットの聖母のご出現の時、「世の終わりの使徒たち」という言葉を聖母マリアも使います。
もちろん、カトリック教会は完全に認めていませんが、最近、天啓と受けたとされる女性が聖母マリアが12人の世の終わりの使徒を必要としているというような「天啓」を述べています。まあ、どの時代も聖母マリアに頼んだら自動的に予言してくれるような「神秘主義者」はいますが、その女性は12人の人を選んで(その内に私の知り合いもいます)世の終わりの使徒を選んだという妙な話です。それは幸いにして自然消滅したのですが、このような妙な「世の終わりの使徒」は聖ルイの「世の終わりの使徒」とは全く関係ありません。違うことです。
聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールがいう「世の終わりの使徒」はとんでもない困難に陥っている人々、つまり棄教して教会を積極的に潰そうとするような人々で、信仰を潰そうとしている人々に対して戦える強い信者を指すのです。そうして、このような戦士を守る必要もあります。では、彼らを守るためにどうすればよいでしょうか?簡単です。いとも聖なる童貞マリアへの信心によってこそ守られるということです。
イエズス・キリストの最初の到来は聖母マリアの「フィアット」、聖母マリアの承諾によってのみ可能となりました。御托身の玄義は聖母マリアに頼ることで実現しました。聖母マリアこそがその全ての責任を負いました。その時、拒否したのならば、もはや托身もなく、贖罪もなかったのです。つまり、贖罪を果たすためには、聖母マリアの協力は必要不可欠な条件でした。また、同時に、聖ルイは、キリストの再臨、つまり世の終わりの時のイエズスの再臨も聖母マリアの手によって見守られるというか、保護されるというか、聖母マリアも中心なる役割を果たすと確信していました。
ですから、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールは世の終わりが近づけば近づくほど、聖母マリアが天主より与った御力は特に強くなっていくと教えています。それを根拠づける手がかりとは、近代期になってからの聖母マリアのご出現の大増加です。正式にカトリック教会によって本物のご出現として認められたものをみるだけでも、自明です。しかも全世界で起きています。
ようするに、聖母マリアのこの世への働きは頻繁にかつ大規模となっていきます。そこでは「世の終わりの使徒たち」は聖母マリア自身によって守られる必要があると聖ルイが説明します。ですから、「世の終わりの使徒たち」は聖ルイにとって、特別に強く聖母マリアに奉献されるべきだということです。御托身のように、天主の御業と御働きは必ず聖母マリアを通じます。ですから、「世の終わりの使徒たち」も聖母マリアの手を通じてのみ、我らの主イエズス・キリストの統治のために、王たるキリストの統治のために、聖心の統治のためにはじめて効果が出ます。
しかしながら、そのためには、聖母マリアに奉献しなければならないのです。モンフォール著の『聖母マリアへのまことの信心』は特にその奉献の必要性を強調します。ご存じのように、聖ルイも生前に預言したようにこの名著はいったん消えたのですが、1842年に、たまたまその写本が発見されて、そのあと、出版されました。この名著において、聖母マリアに自分のすべてを託して、奉献して、常に聖母マリアの内に生きていくべきこと、また、自分の身体も霊魂も行為も財産も功徳もすべてを聖母マリアに奉献するべきだと説いています。
というのも、これらのすべては私たちよりも聖母マリアこそがよくお使いになり、実らせてくださるからです。我々は弱い人間であるので、この脆弱な手段で、世の終わりの時に起きる戦いの際、イエズスの統治のためにいったい何ができるでしょうか?ですから、世の終わりの戦いに臨むためには、聖母マリアの手を完全に通さなければなりません。要するに、モンフォールの精神は単純であると同時に豊かです。聖母マリアへの聖なる奴隷になることです。
皆様、よく説教でお勧めする奉献ですし、黙想会の時も、本教会でお告げの祝日の時にも特にお勧めする慣行がありますね。
聖母マリアへの完全なる奉献、聖母マリアの手にすべてを任すという奉献こそ、世の終わりの使徒たちの盾と剣の強みとなります。これは聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールが与えてくれた充実した信心です。現代になっても、霊的に富んだこの信心の効果をなるべく数多くの人々につたえないでいられません。というのも、われわれ、一人一人の各分限におかれて、皆、使徒的な使命を負っているからです。ですから、世の終わりの時代に入って、この時代における戦いに臨みうるために、特別な忍耐が必要です。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
終末期の使徒たち
ブベ(Boubée)神父様の説教
2021年4月28日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する友人の皆様、本教会では、毎日の主なミサの時、ローマ暦の重要な聖人のミサを捧げる慣行があります。しかしながら、本日、フランス人たちが特に大切に愛しくお祝いする聖人について私が話すことを忘れたならば、皆様の忠告を頂いたことでしょう。というのも、ご存じのように、本日、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールを祝うからです。
フランス西部の立派な使徒です。また、フランス革命の一世紀まえに、信仰の頗る高揚を促したことによって、フランス革命の時、共和政府がフランス西部の民衆の抵抗に負けそうになり、フランス革命の思想がまさに敗北する寸前まで至らしめることを可能にしたのが聖ルイです。フランス革命を止めるようにヴァンデーをはじめ、西部の農家たちによる反革命運動はキリスト教信仰に支えられて、キリスト教は立ち上がったのです。
なぜこの反革命運動は可能になったでしょうか?カトリック信仰はその地方に深く根を下ろしており、そのルーツは深いです。フランス西部においてそして信仰の根を確立して教化したのが聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールです。
しかしながら、彼の手柄は他にも多くあります。彼はブルターニュのモンフォールという場所に生まれました。彼は1673年1月31日に生まれ、その場所から名を貰いました。そして、比較的若くして亡くなりました。1716年に帰天したからです。18人子供の家庭に生まれました。そして、幼児期の教育は非常に敬虔であり、イエズスと聖母マリアへの帰依によりその敬虔さは養われました。
そして、レンヌの方で勉強するために学校に入りました。そこでは、すでに彼の性格は目立っており、並外れた性格の持ち主でした。教会のなかでも深く印象的であり、彼の聖徳に満ちた姿はすでに目立っていました。そして、二十歳になって、家族や友人と離れて、故郷を出て、パリへ歩いて旅経ちます。神学校に入るためでした。途中で、持っていたすべての金や持ち物を貧しい人々に渡し続けたため、パリに到着した時はぼろをまとい、手ぶらの状態でした。
最初から聖ルイは貧乏人向けの神学校に席を入れるつもりでした。というのも、当時、神学校は多くありまして、その内に学費を払っての神学校が基本でしたが、当時は学費を払えない神学生のための神学校も増えていました。そのなかで彼はサン=シュルピスの神学校を選びます。ご存じのように、そのあと、聖ルイはサン=シュルピスで重要な役割を果たしていきます。そこで叙階を授かって司祭となって、初ミサ聖祭を捧げました。ここのすぐ近くにある教会ですね。1700年の時でした。
サン=シュルピスの神学校には特徴がありまして、特別な役割を果たしていました。というのも、当時、トレント公会議によって促された、司祭職にかかわるあらゆる改革を強化して確立して勧めるために力を入れた神学校だったからです。このようにサン=シュルピスの神学校は50年前にAulier氏によって創立されました。また、Bérulle枢機卿によって代表される「フランス型霊学派」を象徴する神学校としてしられています。今晩、この学派については割愛しましょう。
また、聖ルイはサン=シュルピスでClaude Poullart des Placesという人と出会いました。皆様は恐らく初耳の人物でしょうが、一言で言うと、ルフェーブル大司教が総長を務めた聖霊修道会の創立者です。そして聖ルイとClaudeは親しく協力していって、サン=シュルピスの神学校で霊的な講演や授業を担当していました。
しばらくしてから、聖ルイはポワティエへ行って、そこで、病院系の修道会のシスター(修道女)たちの世話をすることになります。ポワティエで聖ルイは最初の修道会を創立します。というのも、死ぬまで三つの修道会を創立したわけですが、ポワティエで「英知修道女会」を創立しました。「英知修道女会」の目的は貧乏人や病人の世話をすることでしたが、そこで多くの聖別された霊魂、つまり奉献された霊魂が集まって聖ルイはその世話をしていました。サン=シュルピスの神学校においてもその才能がありましたが、ポワチエもそうでした。
そのあと、「マリア宣教会(モンフォールの布教司祭修道会とも)」を創立しました。
マリア宣教会は聖ルイのミッションにおいて一番有名です。また「サンガブリエル兄弟会」という修道会をも創立しました。
そして、聖ルイは旅しながら宣教活動を始めていきます。ある程度の時期から宣教の際、少しずつ彼にとって重要なことをおしえ始めました。いわゆる「ミッション(布教、宣教)」についても話していました。ミッションとは、つまり、信仰が揺るがされていた田舎で信仰を改めて強化する運動ということです。
具体的に言うと、聖ルイのような司祭はどこかの村にいって、野外での黙想会を執り行うという感じになります。現地の信徒たちは場合によっては夕方から集まり、あるいは朝と夕方の間に集まり、大掛かりな告解が行われたり、荘厳な行列が行われたりしました。つまり、何かの理由で信仰が動揺していた小教区のために、信仰の熱心を燃やしなおすためでした。
しかしながら、当時のヤンセン主義はこういったミッションは気に入らなかったのです。というのも、ヤンセン主義者たちはキリスト教の信心が熱心にならないように、冷めるようにしたかったのですから。つまり、ヤンセン主義者とは、一般人は敬虔にならなくてもいいという考え方であり、霊的なエリートだけが価値があり、熱心で敬虔で完全な純潔でいられればよいという考え方の人々でした。
そこで、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールは福音の布教活動のために、ローマに行きました。教皇の下に行って、海外での布教へ派遣してもらうように提案しました。しかしながら、教皇は聖ルイの依頼を聞き入れないで、フランスにおける布教活動に努めるように命令しました。これはみ摂理による命令でもあったと言えます。そして、聖ルイはそれ以降、フランス西部を歩いて、我らの主、イエズス・キリストと聖母マリアを宣べ伝えていきます。
もちろん、現地の司教の許可なしで出来なかったのですから、司教の意向次第で布教活動できたりできなかったりしました。たとえばAvranchesの司教は聖ルイの活動を許可しなかったのですが、Coutanceの司教は逆に積極的にCoutance教区における彼の活動を応援しました。ようするに現地の司教との関係はまちまちでしたが、絶えず布教活動に従事して説教して秘跡を授けて、また多くの十字架を立ち上げていきました。また、ロザリオの信心を広げました。そして、聖歌を積極的に推奨して、かなり多くのよい実を結びました。
これらの聖歌のいくつかは、今でも私たちも歌っています。いわゆる、誰でも歌う聖歌で、公教要理あるいは人間の人生の目的あるいは聖母マリアについてのこと、あるいはホスチア(御聖体)におけるご現存などを想起するような聖歌が多いです。場合によって、既存の音楽を活かして歌詞を変えたし、場合によって新しい音楽をも作成しました。いずれにせよモンフォールの聖歌は古典化していって今でもフランス風の聖歌集に入っています。これらの聖歌は永遠なる真理を想起するために作成されました。
十字架をもちろん重視していました。本日の朗読にもあったように、あらゆる布教、伝道は十字架に帰するわけです。そして、聖ルイは現地でミッションを行って、ミッションが終了したら、ミッションの終了記念としても必ず十字架を立ち上げました。「ミッションの十字架」と呼ばれて、この慣行は多くの村において長く続いて、場合によって、20世紀の最近までやっていました。それはミッションの後、村全員は荘厳に行列した結果、十字架を立ち上げて、ある種の共同体全体による誓いでした。つまり、ミッションの恩恵を受けた分、これから、より敬虔な信徒になるように頑張っていくことを誓うというようなことでした。
周知のように、モンフォールが残した一番有名な十字架はポンシャトーの巨大なゴルゴタの丘の十字架です。ナントからちょっと北にある村です。巨大なカルヴァリオの上に十字架があって、天辺までの十字架の道行きもあって、多くの実物大の石像があります。
また聖ルイにたいして嫌悪感を持った人々の憎しみもありました。ルイ14世にまで働き掛けた聖ルイの敵は、ポンシャトーの十字架は遠くから見えるので、敵軍の軍艦がこれを目印に使う恐れがあり、そこにあった聖地を模型にしていた洞窟を避難所としても使われる恐れがあるというようなことを国王の耳にいい述べました。そこは敵の巣窟になるおそれがあるというような口実をつけて、その十字架の破壊のために働き掛けたのです。この結果、ルイ14世は防衛という理由で、このカルヴァリオの解体命令を出します。そして、一旦そうなりましたが、ナポレオンの帝政期が終わると聖ルイの継承者はそのカルヴァリオを完成させました。
聖ルイは世の終わりに向けての戦いをすごく意識しており、霊的な戦いのために軍団を編成する必要があると確信していました。この軍団の人々のことを「世の終わりの使徒たち」と呼んでいました。ちなみに、そのあとのラサレットの聖母のご出現の時、「世の終わりの使徒たち」という言葉を聖母マリアも使います。
もちろん、カトリック教会は完全に認めていませんが、最近、天啓と受けたとされる女性が聖母マリアが12人の世の終わりの使徒を必要としているというような「天啓」を述べています。まあ、どの時代も聖母マリアに頼んだら自動的に予言してくれるような「神秘主義者」はいますが、その女性は12人の人を選んで(その内に私の知り合いもいます)世の終わりの使徒を選んだという妙な話です。それは幸いにして自然消滅したのですが、このような妙な「世の終わりの使徒」は聖ルイの「世の終わりの使徒」とは全く関係ありません。違うことです。
聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールがいう「世の終わりの使徒」はとんでもない困難に陥っている人々、つまり棄教して教会を積極的に潰そうとするような人々で、信仰を潰そうとしている人々に対して戦える強い信者を指すのです。そうして、このような戦士を守る必要もあります。では、彼らを守るためにどうすればよいでしょうか?簡単です。いとも聖なる童貞マリアへの信心によってこそ守られるということです。
イエズス・キリストの最初の到来は聖母マリアの「フィアット」、聖母マリアの承諾によってのみ可能となりました。御托身の玄義は聖母マリアに頼ることで実現しました。聖母マリアこそがその全ての責任を負いました。その時、拒否したのならば、もはや托身もなく、贖罪もなかったのです。つまり、贖罪を果たすためには、聖母マリアの協力は必要不可欠な条件でした。また、同時に、聖ルイは、キリストの再臨、つまり世の終わりの時のイエズスの再臨も聖母マリアの手によって見守られるというか、保護されるというか、聖母マリアも中心なる役割を果たすと確信していました。
ですから、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールは世の終わりが近づけば近づくほど、聖母マリアが天主より与った御力は特に強くなっていくと教えています。それを根拠づける手がかりとは、近代期になってからの聖母マリアのご出現の大増加です。正式にカトリック教会によって本物のご出現として認められたものをみるだけでも、自明です。しかも全世界で起きています。
ようするに、聖母マリアのこの世への働きは頻繁にかつ大規模となっていきます。そこでは「世の終わりの使徒たち」は聖母マリア自身によって守られる必要があると聖ルイが説明します。ですから、「世の終わりの使徒たち」は聖ルイにとって、特別に強く聖母マリアに奉献されるべきだということです。御托身のように、天主の御業と御働きは必ず聖母マリアを通じます。ですから、「世の終わりの使徒たち」も聖母マリアの手を通じてのみ、我らの主イエズス・キリストの統治のために、王たるキリストの統治のために、聖心の統治のためにはじめて効果が出ます。
しかしながら、そのためには、聖母マリアに奉献しなければならないのです。モンフォール著の『聖母マリアへのまことの信心』は特にその奉献の必要性を強調します。ご存じのように、聖ルイも生前に預言したようにこの名著はいったん消えたのですが、1842年に、たまたまその写本が発見されて、そのあと、出版されました。この名著において、聖母マリアに自分のすべてを託して、奉献して、常に聖母マリアの内に生きていくべきこと、また、自分の身体も霊魂も行為も財産も功徳もすべてを聖母マリアに奉献するべきだと説いています。
というのも、これらのすべては私たちよりも聖母マリアこそがよくお使いになり、実らせてくださるからです。我々は弱い人間であるので、この脆弱な手段で、世の終わりの時に起きる戦いの際、イエズスの統治のためにいったい何ができるでしょうか?ですから、世の終わりの戦いに臨むためには、聖母マリアの手を完全に通さなければなりません。要するに、モンフォールの精神は単純であると同時に豊かです。聖母マリアへの聖なる奴隷になることです。
皆様、よく説教でお勧めする奉献ですし、黙想会の時も、本教会でお告げの祝日の時にも特にお勧めする慣行がありますね。
聖母マリアへの完全なる奉献、聖母マリアの手にすべてを任すという奉献こそ、世の終わりの使徒たちの盾と剣の強みとなります。これは聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールが与えてくれた充実した信心です。現代になっても、霊的に富んだこの信心の効果をなるべく数多くの人々につたえないでいられません。というのも、われわれ、一人一人の各分限におかれて、皆、使徒的な使命を負っているからです。ですから、世の終わりの時代に入って、この時代における戦いに臨みうるために、特別な忍耐が必要です。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン