ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

天主且つ人(神人)によって捧げられた贖罪 【公教要理】第四十七講 贖罪の玄義[神学編]

2019年08月05日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第四十七講  贖罪の玄義・神学編・その一 天主且つ人(神人)によって捧げられた贖罪




「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して」

【御受難の必要性】

贖罪の玄義を既に歴史的にご紹介しました。信経の以上の条項を読むと、「天主がこの世において托身する必要は本当にあったのだろうか、また私たち人類のために十字架上で死ぬ必要は本当にあったのだろうか」と思われるかもしれません。
確かに、天主の全能から考えてみると、勿論天主には托身する必要が全くなかったし、同じく、十字架上の生贄を捧げる必要も全くなかったのです。

天主は全能ですから、確かに絶対の次元で考えると、その必要があるとは言えなくて、意志の行為の一つだけで、恩寵一つだけで、原罪を贖うことは可能といえば可能でした。それで済んだ可能性だけはありました

ところが、天主は出来るだけ御自分の正義が最大限に全うされることをお望みになりました。ラテン語の語源でいうと「全うする」satisfacereという表現は「十分にsatis やるfacere」という意味です。つまり、「十分にやり尽くす」「全うする」というのは、正義において「償う・代償する」という意味です。何を償うかというと、天主に対する侮辱行為を償うに他なりません。天主に対する侮辱行為を償うとは、相応しく侮辱行為に値すべき代償をはらい、つぐなうということです。つまり、天主に対する侮辱行為である罪(特に原罪)を相応しく償うために、正しく正義を全うするということでその相応しい代償を払うのです

従って、天主はこの贖罪が、つまり罪の償いが、天主且つ人である存在によって捧げられるようになさったのです。要するに、真の天主であると同時に、真の人である存在によって、罪の償いを捧げさせることになさいました


【単なる被造物は、天主の正義を全うし尽くすことは出来ない】
なぜでしょうか。単なる被造物ならば、天主の正義を全うすることは到底出来ないことですから。というのも、単なる人が、罪の償いを払うことは不可能だからです。なぜでしょうか。

第一に、単純に原罪が人間の本性を堕落させてしまったので、堕落したままの人間が天主に相応しい償いを払おうとしても払えないままだからです。人間は既に堕落しているので、すべての人間の行為がそれで堕落している行為となってしまって、償いの行為でさえ穢れているので、天主に相応しくない行為となります。従って、天主に対する侮辱を代償することは堕落した時点で不可能になりました。
例えば、病者の人が重病を患っているとしましょう。健全でない故に、外からの援助なしに(例えば栄養とか休みとかの)、健全な状態を回復することはできないような感じです。原罪によって人間の本性が傷つけられてしまったので、その傷つけられた本性のままで、天主に相応しい正義を払うことは不可能となりました。

それから、侮辱行為の対象となる方によって、その侮辱行為の重みが決まります。罪とは、天主に対する侮辱行為です。ところが、天主は永遠な存在です。従って、罪(天主に対する侮辱の行為)には何か無限な邪悪さがあります。
社会上、高位に立つ方に対して侮辱行為をするとしましょう。高位であればあるほどにその侮辱行為が重くなって深刻になるでしょう。例えば国王とか、今上陛下に対して侮辱行為をしてしまったら、同じ皇位に立たない同じ名誉を持たない一般人に対する同じ侮辱行為の重みとは違うのです。勿論、侮辱行為として変わりがないのですが、その対象に対する報いるべき恩次第で、その重みが変わってきます。

ところが、天主は全能であり、至上の御稜威を持つ天主なので、天主に対する侮辱行為は、天主の無限性・永遠性の故にその重みにおいて、ある種の無限さを含んでいます。

従って、天主に対する侮辱行為において、無限性があるのなら、その侮辱行為を償うために、代償するために、侮辱行為の重みに値するために、その侮辱行為に相当するために、その代価もやっぱりある種の無限性を必要としています

しかしながら、人間は、堕落していなかったとしても、無限な代償を払うことは到底に出来ないことです。不可能です。人間は有限な存在ですから。従って、天主は、天主且つ人(神人)という存在によって、その代償を払わせることになさいました。


【人間によるつぐないであると同時に、天主によるつぐない】
以上のことを見ると、托身の玄義はどうして贖罪の玄義のためにあるかが、見えてきます私たちの主イエズス・キリストが托身するのは、また天主の本性のままでありながら人間の本性をも受けたのは、十字架上で天主に対する侮辱行為(罪)の償いを捧げることが出来るために他なりません。そうすることによって、十字架上の生贄は、人間によるつぐない(代償行為)であると同時に、天主によるつぐない(代償行為)でもあります。真の人であるが故に、人として、全人類を代表として、罪を償いながら、同時に真の天主であるが故に、無限なる代償を払い、天主に対する侮辱行為を本当に償える生贄となるのです。

~~

【托身の玄義は贖罪の玄義のためにある】

以上のように、托身の玄義は贖罪の玄義のためにこそあります。これが分かったら、以前にご紹介してきた托身の玄義に関する諸誤謬に立ってしまうと、必ず帰結的に、贖罪の玄義も崩れるということがよく理解できます。

例えば、主イエズス・キリストが真の天主ではないという誤謬に立つと、十字架上の生贄は何も価値がなくなってしまうのです。その生贄に無限性がなくなってしまうから、天主に対する侮辱行為を代償できなくなります。
逆に言うと、私たちの主イエズス・キリストが真の人ではないという誤謬に立つと、十字架上の生贄は人間による生贄でなくなってしまうので、無限性があっても、私たち人間にとって何の価値もなくなります。
だから、罪を負わずに、私たちの主は人間の一人として托身なさいました。罪を経験したこともないままに、聖パウロが言うように、「天主は罪を知らなかったお方(イエズス)を私たちのために罪となされた」 ということです。総ての人々、全人類の名において、全人類のために償うためにこそ、イエズスが罪とみなされたということです。

以上の通り、罪を償うために、私たちの主は、真の人と同時に真の天主である必要がありました

ご受難というのは天主に対する全人類による侮辱行為(原罪)を償うために、天主が選び給った手段である上に、私たちの主イエズス・キリストによって受け入れ給うた手段でした。
従って、十字架上で払われた代償が、繰り返すと、ラテン語で「十分な代償」でとあるように、その侮辱行為を償うに足りる代償だったという意味です。天主に対する侮辱行為に相当する代償は、その正義を全うすることで、代価となり得ました。


【私たちの主は、自由に苦しみを受け入れた】
従って、十字架上に払われた代償の第一の特徴は、意志的な行為だったということです。私たちの主イエズス・キリストの自由意志による自由な行為です。「その命は私から奪い取るのではなく、私がそれを与える」
また、十字架上に死ぬ直前に私たちの主が「父よ、私の霊を御手にゆだねます」 と仰せになりました。要するに、まさに「その命は私から奪い取るのではなく、私がそれを与える」 ということです。
~~

私たちの主は、自由に苦しみを受け入れ給うた。言い換えると、意志的な行為で、苦しみを受け入れ給った。十字架上の代償の第一の特性なのです。

十字架上の代償(あるいは償い)の第二の特性は、前述したように、正義を満足させるに相応するということです。言い換えると、代償は侮辱行為の度合いに相当します。
主の位格的結合によって、言い換えると天主の第二の位格が人間の本性を受けるという位格的結合によって、そのイエズスの苦しみは、天主に対する侮辱行為をつぐなうに相当する価値を持つのです。


【罪の償いは有り余って溢れるほど大きい】
さらにその上に言うべきことがあります。イエズス・キリストによる原罪の代償は原罪という侮辱行為に相当するだけはなく、有り余るほどの代償となっています。言い換えると、罪の値が支払われ、その代償で償われただけではなく、その上、罪よりも代償の価値が遥かに上回るということです。イエズス・キリストが払い給った代償が有り余るほど大きかったからこそ、これは素晴らしい事で、キリスト教徒に大きな希望を与える事実です。

私たちの主イエズス・キリストの御受難は、代償として、有り余って無限に余分があるのです。要するに、十字架上の御死去において、代償の価値として、過剰にして余分があるのです。溢れる余分がある。言い換えると、溢れる愛の過剰に他なりません。惨めな被造物に過ぎない私たち人間をどれほど愛し給うたか、代償の溢れる余分をもって改めて示し給うたのです。
イエズス・キリストにおいて、主の「みもとには豊かな贖いがある」 と詩編で唱えています。また、ローマ人宛てに、聖パウロがこう言います。「しかし罪が増(ま)したところには、それ以上に恩寵が溢れるばかりのものとなった」 。罪がどれほどこの世に多くあるとしても、それ以上に恩寵が溢れているということです。

教父聖ヨハネス・クリュソストモスによると、以上の溢れる代償に関して、こう記しています。「正義を満足させた代償は、愛を満足するに足りなかった(=天主の愛はさらに大きい)。」
以上にご紹介したように、罪の償いはどうやって有り余って溢れるかという第三の特性を見ました。


【十字架上の贖いは普遍的】
つづいて、もう一つ挙げるべき点があります。必ず留意すべき点です。十字架上の代償は普遍的です。第四の特性です。
代償の第一の特性は、意志的な代償。或いは自由に選ばれた代償
代償の第二の特性は、罪を完全に満足させる代償
そればかりではなく、それ以上に代償の第三の特性は有り余る代償
そして、代償の第四の特性は普遍的な代償です。

その普遍性は、代償の有り余る特性から必然となります。
要するに、私たちの主イエズス・キリストが、一人一人のすべての人のためにこそ死に給うたということです。一人も除かず、一人も欠かずに全人類のために代償を払い給ったのです。

黙示録において、聖ヨハネがこう記します。「あなたはほふられ、その血によって、すべての部族とことばと民と民族の者たちを天主のためにあがなわれたからである」 。

救いとは普遍的です。天主は一人一人のすべての人々の救済をお望みです。それで、十字架上に死に給うたことによって、有り余る代償を捧げ給うたことによって、天主である主イエズス・キリストが、過剰なほどに私たち人間を愛し給うだけではなく、一人も欠かず全人類の皆のすべての罪を償い給うたことを示されています。
また同じく、天主である私たちの主イエズス・キリストがすべての人々の救済をお望みになっていることを示されています。

従って、十字架上で払われた代償が、全人類の救済のためにすべての霊魂の救済のためであるがゆえに普遍的である上、罪から見ても普遍的です。つまり、一つも欠かさずにすべての罪は、御受難のお陰で、もう既に償われたということにおいて、普遍的な代償なのです。
つまり、「私の犯した罪は、赦され得ないほど重すぎる罪だ」とは誰も言うことができないのです。不可能です。それを言い出したことにおいてこそ、ユダ・イスカリオトの罪があります。ユダが自分の主を裏切ったこと、金のために主を渡したことを自覚すると、聖書によるとユダが「後悔した」とあります 。従って、ユダは自分が罪を犯したということが分かっていました。またその重みをも感じていました。ところが、望徳を持ち続けて私たちの主イエズス・キリストの方に向かうよりも、私たちの主のお赦しを乞うよりも、(因みに、イエズス・キリストの人生において、頼まれたらすぐに罪を何度も何度も赦す例が多いのです)赦しを乞いに行くよりもユダは「私の罪は重すぎて大きすぎる」と勝手に決めてしまいました。

一方、聖ペトロもユダと同じようにご自分の主を否認します。「そんな人は知らぬ」 と言い出してしまいましたね。重い罪です。つまり、私たちの主イエズス・キリストに対する、天主に対する直接な侮辱行為に他なりません。三度も聖ペトロは自分の主を否認しました。しかも、罵倒も加えて、軽蔑表現も加えて、罪がより重くなります。しかも天主のすぐ近くにいた聖ペトロ、また、私たちの主に何度も自分の忠実を約束していた聖ペトロです。「主よ、私はあなたのために命を捨てます」 とか言っていた聖ペトロですよ。その分に罪が重くなります。聖ペトロは自分の主を否認しましたが、一瞬、私たちの主の目線と交わし、私たちの主の御憐れみを感じます。勿論、聖ペトロが一生ずっと深く後悔して最期までその罪を思い出して涙を流していました。また当然のことで、自分が犯した罪の償いとして、いろいろ犠牲を払おうとしました。「しかし罪が増(ま)したところには、それ以上に恩寵が溢れるばかりのものとなった」 のです。
聖ペトロの罪を赦し給うたのは、私たちの主の御受難は、すべての罪を償う代償だったからこそで、主の御受難が普遍的だったからです。
「キリストは私たちの罪のとりなしをされる生贄である。いや、ただ私たちの罪だけのためではなく全世界の罪のためである」 。

私たちの主イエズス・キリストの償い、代償、生贄によって、私たち皆が、一人も例外なく救われることは可能です。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。