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私たちの主は魂全体で苦しみを感じられた 【公教要理】第四十八講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年08月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第四十八講  贖罪の玄義・神学編・その二 私たちの主は魂全体で苦しみを感じられた




私たちの主は魂全体で苦しみを感じられた

私たちの主は十字架の刑を通じて、私たちの罪を贖いました。前に、歴史上の十字架刑をご紹介したように、この世におけるいろいろな刑の中でも、全体的に言っても残酷さからいっても、十字架刑が第一でしょう。

【主は、身体と霊魂の全体で苦しまれた】
そこで、留意していただきたいのは、御受難の際に、私たちの主が身体と霊魂の全体で(或いは御自分の持っている全てにおいて)苦しみを感じられたということです。言い換えると、私たちの主の御受難において、度を超えて、表現できないほどの、言語に絶する残酷さと苦しみに及んだということです。


御受難の際に、主は身体と霊魂の全体で(或いは御自分の持っている全てにおいて)苦しみを感じました。

【外的な所有物において苦しまれた】

第一は、当然ながら外的な持ち物において苦しめられました。私たちの主は清貧でした。御自分について「人の子には枕するところもない」 と仰せになった通りです。ところが、少ない持ち物だった服装が脱がせられて奪い取られたうえに、分配されてしまいました。私たちの主の物資的な持ち物がすべて奪い取られたのです。


【身体において苦しまれた】
それから、私たちの主は、ご自分の身体において、苦しみを感じられました。以前に細かくご紹介した通りです。私たちの主が、すべての苦しみを最後まで最大限に苦しみ給うことになりました。また、私たちの主の全身が、旧約聖書のイザヤ預言者が記すように、「なま傷と、打ち身と、ただれ」 だらけでした。要するに、私たちの主は、ご自分の全身で、全体で完全に苦しみ給いました。

そればかりではなく、その上に言うべきことがあります。大体の場合は、身体の苦しみを挙げて留まることが多いですけど、確かに、身体の苦しみは分かりやすいでしょう。茨の冠による頭の御苦しみ、唾や手打ちによる顔の御苦しみ、釘により両手と両足の御苦しみ、鞭打ち刑による胴体と足の御苦しみなど。私たちの主は本当の意味で全身において苦しみ給いました。

【御霊魂においても苦しまれた:誹謗、嘲笑、侮辱】
その上に、御霊魂においても苦しみ給いました。というのも、私たちの主の名声が嘲られ蔑(ないがし)ろにされたからです。

誹謗によって御評判が屈辱的に傷つけられました。
十字架上の時でさえ、その許にいる人々が冒瀆していました。
「おい、神殿を壊して三日で建てる男よ、十字架から下りて自分で自分を救え」 とか、罵倒は止むことはありませんでした。
「あの男はイスラエルの王だ、さあ、十字架を下りよ」 とか。
また、私たちの主のご名誉も傷つけられていて、苦しみ給いました。私たちの主が嘲笑されたり、凌辱されたりしました。また、兵隊たちが私たちの主にヴェールをかぶせて、「キリストよ、当ててみろ、おまえを打ったのは誰だ」 という虐待など。


【身体の自由においても苦しめられた】
また、主は身体の自由においても苦しめられました。
全宇宙の創造者であるイエズス・キリストは、拘束されて縛られてしまいました。


【御魂においても悲しみで苦しまれた】

御魂においても悲しみで苦しみ給いました。「私の魂は死なんばかりに悲しむ」 と仰せになった通りです。そういえば、これらの悲しみは非常に激しかっただけに、それで実際に悲しみだけで死ねたということです。しかしながら、普通の人間であれば、その悲しみで亡くなったはずのところですが、私たちの主は悲しみで死なぬとされて、繰り返しますが、決め給うた時に死に給うたのです。私たちの主の御受難は、意志的である上に、自由に選ばれた御受難ですから。


【裏切られた苦しみ】
また、例えば、私たちの主は、ユダの裏切りによっても苦しみを感じられました。聖ペトロの否認によっても。オリーブ山での使徒たちの逃亡によっても。全員が逃亡してしまいました。もう一人も残りませんでした。私たちの主は、彼らを守ったけど、なんて悲しいことでしょう。御自分で選定した使徒たち、誰よりも愛していた使徒たち、三年程に一緒に暮らしていた使徒たち、ずっと教えてあげた使徒たち、叙階へ向けて育った使徒たち。この使徒たちこそが、私たちの主を見捨ててしまいました。そして、私たちの主は独りぼっちになりました。その事実も、御受難の残酷さを語ります。


【御母が苦しまれる御姿を御覧になる苦しみ】
それに、もう一つの御苦しみを付け加えるべきです。心理的な御苦しみなのです。心理的とは言っても、本当に現実にある御苦しみでした。まさに、御霊魂の一つの御苦しみでした。それは、私たちの主が十字架の許におられる御母が苦しまれる御姿を御覧になる悲痛な御苦しみなのです。幼きイエズスの神殿への奉献の際に、義人シメオンが「あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」 と預言しました。そして、私たちの主は、全く無関心ではありません。いや逆に、度を越えて一般の人間よりも、敏感なほどに他人の苦しみを感じ取って思いやる完璧な人間であるイエズス・キリストです。

人類上、私たちの主が一番完璧な体の持主であるから、一番完璧な感覚・知能の持主でもあります。だから、過去にも現在にも未来にも、この世における一番敏感に鋭い感覚の持主です。
従って、至上に敏感に感情を鋭く感じうる私たちの主なので、愛し給うているすべての人の感情を感じずにいられないわけです。その中で、一番愛したもうている方は御自分の御母です。勿論、子どもが自分の母を愛するように愛し給うています。しかしながら、その上、いとも聖なる童貞の御霊魂を徹底的に知り給うておられるので、聖母としても非常に愛し給うています。童貞であること、無原罪であること、御宿りにおいて無原罪である、いとも聖なる童貞ですから。従って、御母のすべての苦しみを良く理解し感じられました。罪に傷つけられた私たちよりも、無原罪の聖母の苦しみの方が遥かに苦しいのです。いとも聖なる童貞の感覚や感情は深く苦しめられています。私たちの主は、ご自分の御母が苦しむのを御覧になって、深く悲しまれています。


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以上ご紹介したとおり、絶えずに付きまとういろいろな御苦しみを感じられ、ご自分の身体のすべての部分での御苦しみと、御霊魂のすべての部分での諸御苦しみと、そして持ち得たすべて(物質的な持ち物も精神的な評判・名声なども)においても御苦しみを感じられました。


【全ての種類の人々から苦しみを受けた】
その上、私たちの主はすべての人々によって、一人も欠かさない全人類によっても御苦しみを感じることになさいました。これも神秘なのですけれど、その意味は深いものがあります。つまり、総ての人々は、一人も欠かずに罪を犯しましたし、まだ犯していることを示します。残念ながらも、罪から逃れられる人は一人もいません。
 
裁判に渡してしまったユダヤ人たちによっても苦しまれました。また、異教徒たちによっても(兵隊たちをはじめ)苦しめられました。異教徒たちこそがイエズス・キリストを十字架に付けるのです。また、祭司と大司祭たち、律法士などのユダヤ民族における高位役人たちによっても苦しめられました。同時に、脅迫がかかった可能性はあるとしても、結果として「十字架に付けろ!」と繰り返し叫んだユダヤの大衆によっても苦しめられました。御自分の友人と弟子たちによっても苦しめられました。
要するに、総ての人々によって苦しめられました。しかも、前述したように、ちょっと違う意味でも、いとも聖なる童貞の苦しむ姿を見て苦しめられましたから、聖母によっても苦しめられました。

私たちの主はこれらすべての苦しみを受け入れ給いました。私たちに対する愛を示すためでした。
また、私たち人間が憎むべき罪、また恐怖を抱くべき罪の醜悪を示すためでした。
そして、私たち人間が悔悛の心を行うように励ますためでした。というのも、御受難の恐ろしさを見て、初めて罪の恐ろしさを理解することが出来るので、回心への奨励であります。回心とは、私たち一人一人が自分の犯した罪を見て自分で悔い改めて悔悛して、自分の犯した罪を見て苦しむということです。

同時に、恐ろしいこれらの御苦しみを受け入れ給うて、私たちの主が、苦しんでいるすべての人々のために慰めとなることになさいました。
この世には、多くの霊魂が、多くの場合に見捨てられ無視されている多くの霊魂が、内面的であれ外面的であれ苦しんでいるのです。病気によって体において苦しむか、心理的な苦しみによって、親戚の死亡によって、なんであれ、目に見えない苦しみによって、隠されている苦しみであれ、知られている苦しみであれ、私たちの主が十字架上において、私たちの慰めとなることになさいました。なぜ慰めになるかというと、つまり、私たち人間それぞれは、あり得るすべての苦しみの一部しか苦しまない一方、他方で私たちの主は、あり得るすべての苦しみをご身体と御霊魂のすべてにおいて、すべての人々によって、苦しめられ、それを受け入れ給うたからです。それは、私たちのために慰めとなり給うて、私たちが、経験している一番苦しい苦しみに置かれても、励ましとなります。

以上、十字架の聖なる生贄の恐ろしさをご紹介しました。ある種の醜悪・残酷・非道の側面を持つ生贄で、同時に至上なる優位性をも持っています。
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【大司祭イエズス・キリストの最高のいけにえ】
何時でも何処でも、過去においても未来においても、この上なく至上なる生贄です。なぜでしょうか。
第一、十字架の生贄における司祭が旧法のどの司祭よりも立派で優位だからです。十字架上の私たちの主は、司祭そのものでもあります。御自分を生贄としてお捧げする司祭なのです。私たちの主は、天主が選び給うた司祭であって、天主による直接の塗油を受けたキリストです。また、位格的結合による故に、司祭なのです。言い換えると、イエズス・キリストという存在において、天主の本性と人間の本性の結合によって司祭となります。神聖なる、王たる司祭職です。この司祭職に立ってこそ、私たちの主が十字架上に生贄を捧げ給うのです。

旧約聖書では、司祭たちは単なる死ぬべき人間にすぎませんでした。新約聖書では、司祭たちは私たちの主の使いであって、イエズス・キリストの名において道具として生贄を捧げることになります。ところが、イエズス・キリストの名においてのことで、私たちの主の「代わりに」はならないのです。

大司祭はイエズス・キリストしかおられません。
聖パウロのヘブライ人への手紙に記されている通りです。「キリストは永久にとどまり、変わることのない司祭職を保ち、ご自分によって天主に近づく者のために取り次ごうとして常に生き、その人々を冠に救われる。
こういう大司祭こそ私たちのために必要であった。それは清い者、罪のない者、穢れのない者であり、罪人から区別された者、天より高い者であった。」

生贄の至上たる性格はそこにあるのです。つまり、最高の司祭が捧げ給うた生贄なので、その生贄の最高の優位性が明らかとなります。


その上、十字架上の生贄の優位性は、別のところからも来ます。生贄として捧げられる十字架上の生贄の性格からもその優位性が明らかになります。
生贄を捧げる司祭は天主です。司祭は私たちの主です。
同時に、生贄自体は、犠牲自体は、私たちの主でもあります。神秘でありますけど、十字架上にイエズス・キリストが司祭と同時に生贄の犠牲でもあります。

従って、十字架上の生贄は完全なのです。旧約聖書に捧げられた犠牲は単なる動物でした。でも、新約以来、捧げられた犠牲は、私たちの主ご自身です。毎日のミサ聖祭の生贄の際に、捧げれる生贄も変りません。同じ生贄で、イエズス・キリストご自身です。流血なしに、毎日、祭壇で、イエズス・キリストが司祭としてご自分を生贄として捧げ給うのです。

十字架上の聖なる犠牲はその上なく優位なものです。司祭の優位性故に。犠牲の優位性故に。

また、いとも聖なる童貞の故でもあるといえます。私たちの主が、聖母を御自分の犠牲に参与させるので、聖母が「共贖者」となっています。言い換えると、贖罪の玄義において、聖母が共にされたということです。勿論いとも聖なる童貞は、司祭でもなんでもありません。ところが、それでも、私たちの主イエズス・キリストと共に、司祭としてではなく、十字架の許において苦しまれているので、私たちを愛する故に、また、私たちの主イエズス・キリストご自身が聖母を参与させた分だけ、犠牲として自分の苦しみを共にして、聖母が聖なる犠牲に、つまり私たちの霊魂の贖罪に参与します。

以上、聖なる生贄の残酷さと共に、十字架上に捧げられた償いの優位性をご紹介しました。


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