ファチマの聖母の会・プロライフ

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天主はあらゆる恩寵の源|真の謙遜とは

2021年10月26日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ゴードレ(Th.Gaudray)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ゴードレ(Th.Gaudray)神父様の説教  
天主様、あらゆる恩寵の源である
2021年08月01日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
聖書は何度も、繰り返し、数え切れない多くの言い方で次のことを教えます。「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられるからである」(ルカ、18,14)。これは人間の心の奥に真にあることです。これは我らにとって重要な教えです。

我々は被創造物です。我々の存在理由も人間の在り方も被創造物であることにかかります。また、被創造物であるが故に宗教生活を営むのです。創造主なる善き天主様を礼拝する理由は、また誰よりもこの上なく天主様を崇める理由は天主様が我らの創造主であるからです。つまり、本質的に人間はすべてにおいて天主様に依存しているからです。

本日の書簡において(コリント人への書簡、12,2-11)聖パウロは三位一体の位格について語られます。三位一体の第三の位格、天主様の霊すなわち聖霊、天主様より生じる霊によって、人々はイエズスを「我が主」と認めることができると教えられています。イエズスは天主の御子であり、すなわち三位一体の第二位格です。言いかえると天主様についての玄義には天主様の位格の間に違う関係があり、その関係によってのみ三位一体の位格の聖父、聖子と聖霊を区別できます。聖父なる天主様は聖子なる天主様と全く同じですが、一つだけ違うものは聖父と聖子との間の関係であり、つまり父子の関係があるのです。そして聖霊もあって、現に区別できる位格で、違う位格です。

このように三位一体の位格を区別することができれば、完全に異質のやり方、つまり創られたという形で創造主より生じた我々も天主様に完全にすべてにおいて依存することは本来なら自明なことではないでしょうか。要するに、我々は一人一人の存在、人生、持っているすべては天主様から常に与えられるのです。



無から我々を創られました。いや、より厳密に言うと絶えまなく常に無から我々を創り、存在の内に存続できるように我々を創り続け給うのです。はい、我々は極小さい、弱い被創造物にすぎません。信徒は皆、望まれることですが、もしも天で至福を得ることがあったとしても、地獄に落ちたとしても、我々は引き続き天主様に依存することになって、天主様への依存は変わりません。死んでからでも我々を存在させ給い続けるのは引き続き、天主様なのです。そして、天では天主様から栄光をも与え給うのです。

天主様への人間の依存は人間の根底にあります。いわゆる存在においての依存だけではなく(天主様がいなければ我々は存在し続けられないという)、すべてにおいても天主様へ依存しています。本日の書簡において聖パウロはその事実を思い起こします。

「イエズスは主である」という人は、自然上も超自然上(聖寵の次元)も善を施す人は、みんな天主様によってのみそのようなことができます。例えば、今、私はミサ聖祭を捧げられることも、また皆様はミサ聖祭に与かられることも、また皆様、今朝起床した時、「よし、ミサにあずかろう」と思えたことも、「天主様の掟、教会の掟に従おう」と思えることも、「ミサ聖祭に与る善い行為を決意した」と決意できたのも、それはすべて天主様の聖寵によってのみ可能であり、実現できます。

天主様は善良のすべての事の源であり、原因であります。聖パウロは聖霊の多くの賜物を紹介しています。いわゆる我々の周りにある多くの良いことで、更に人々のために善を施すための賜物などです。このような施し、行為、能力なども天主様の聖寵によってです。我々は皆、自分自身で有らしめるのは善き天主様なのです。このような事実は根底中の根底にあって重要中の重要な事実である分、なぜか人間にとって自覚しづらいところがあります。いとも愛する兄弟の皆様、我々は心の謙遜を本当に持っているでしょうか?天主様の前に、我々は無に等しいことを本当に認めているでしょうか?

我々のために我らの主は福音書において簡単なしるし、可視的しるしを二つ与え給います。このようなしるしのお陰で、僅かでも、自分の心において謙遜であれるかどうかを知ることができます。謙遜を表す第一の基準は改悛する心、償う意志にあります。福音書では税吏が何をするでしょうか。神殿の端に立ちながら、哀れな罪人であることを認めて、「目を天に向けることさえ成し得ない」のです。

はい、そうなのです。すべての善、良、善い物事は天主様より来ますが、同時にすべての悪、欠陥、欠如、すべての罪などは被創造物である我々からきて、我々が原因なのです。ですから、我々が犯している罪を告白して、我々の哀れな状態を認めて、力強い天主様の御手の下に、正義を全うするための天罰を見て憚り、御赦しを希うのです。

我々が犯した多くの罪に値する厳しい罰を知って、この罰から逃れるために天主様のみ前に畏れ多くしつつ御憐みを希うことはもっともなことです。また罰から逃れるために我々のできる範囲で努力することは正当なことですが、罰が与えられた時、その罰を受け入れて、(それが)公平で理に適うことを認めるべきです。つまり、我々は皆、とんでもない罪人であり、多くの罪を犯している分、とんでもない罰を受けても当然のことです。過失の深さに値する本来ならば受けるべき厳しい罰の代わりに、我々は償うために苦しんでも当然であり、当たり前であります。

現代、フランス全国でイスラム教が広まり、モスクが数多くなるのは天主様からの罰です。フリーメーソンが全世界を牛耳っていることも天主様からの罰です。そして、このような罰を受けることは当然だと認めましょう。また、毎日のようにどんどん息苦しくなっていく理不尽な「コロナ対策」で苦しめられることも天主様からの罰だと認めましょう。



我々は哀れな罪人にすぎません。この中、例えばデモに参加すること、抵抗すること、請願書を著名することなどは役立つかどうかはそれぞれに賢明の徳の実践にかかる評価です。ただし、注意しましょう。何でもかんでも異論を言い出すという精神を我々の宗教生活に絶対に入り込まないように注意しましょう。税吏に倣いましょう。「哀れな罪人である私は苦しんで、責められているが、この罰を受けるのは当然だ」という精神を徹底しましょう。

本日の福音書にある、心において謙遜であるかどうかを知るための第二のしるし、基準は憐みなのです。謙遜な心を持つ人は隣人を憐れむのです。逆に、高ぶる人は、傲慢な人は必ずと言ってもよいほどいずれか虚栄心という罪を犯してしまいます。あらゆる物事は天主様に依存している事実を認めたくないから、傲慢な人は本来、天主様から来る賜物のすべてを自分自身から来ることにしてしまいます。で、自分が生んだ賜物だと思う挙句、虚栄心に繋がり、隣人への軽蔑に繋がります。福音書に登場する高ぶるファリサイ人のように。かれはほかの人々よりも偉いと思い込んでしまいます。

気を付けましょう。天主様から頂くすべての良いこと、恩寵などを自分の物にしてしまったら虚栄心に繋がります。何でもいいですが、一族の偉い血統を自慢したり、筋肉が強くてとても体力があることを自慢したり、健康であることを自慢したり、頭がいいから、学問に達者であるから、あるいは実践家であるから自慢したり、善徳を実践することを自慢したりするなどはすべて虚栄心です。虚栄心は修道院においても入り込みます。自慢したり、高ぶったり、他人よりも偉いよと思ったりするなど行為です。はい、だれでもすべての人生において虚栄心は溢れます。賜物が多ければ多いほどに生じやすいです。

一方、心が謙遜であれば、すべての賜物は天主様が与えられた事実を認めますので、天主様がいなければ自分は何でもないということを知っています。謙遜な人は胸を張るよりも、慎しんで本来ならば人の目からずっと逃れたいはずです。人々からの評価、評判などを求めない人です。逆に謙遜の人は罪人であることを知って認めているので、罰を受けることは当然だと知っています。ですから、無視されても追い出されても軽蔑されてもそれは当然だと知っています。

だからといって、謙遜の人は絶望に落ちることはありません。その逆です。謙遜の人は常に喜んでいます。彼の喜びは天主様によって愛されていることを知っていることにあります。謙遜の人は自分自身に頼らないで天主様に頼っているので、そこに謙遜の人の力があります。被創造物に頼ることはありません。どれほど偉大であっても綺麗な被創造物であったとしてもですよ。

善徳、聖徳にすら頼りません。よき天主様にのみ頼っている故、謙遜の人は強いです。十字架を見たら、我々はどれほど天主様に愛されていることかを知ります。そして、それを知って天主様に頼って確かに剛毅となります。慎しみから得られる剛毅さです。

二週間ぐらい後に被昇天を祝うのですが、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。被創造物の内にもこの上なく慎しんで謙遜だったマリア様から謙遜から来る本物の剛毅さを与えられるように。そして、ずっとずっと天主様の力強い御手の下にへりくだり、自分を下げましょう。そうしたら、いつか上げられます。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 


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