白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ショタール(F-M. CHAUTARD)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ショタール(F-M. CHAUTARD)神父様の説教
2021年5月02日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いとも愛する兄弟の皆さま、我々は悪魔的な、ルシファー的な時代の中に生きています。確かに、だからといってフランスにおいて正式にサタンへの公式の礼拝が行われたり、あるいは割れた蹄(ひずめ)の悪魔らがこの世を徘徊して、野生の嫌悪感をもって毒づいてキリスト教を暴力的に迫害しているといったような意味で、この表現を使ってはいません。
そうではなくて、「ルシファー的な時代の中に生きている」という意味は、現代社会は独立精神、または天主を拒否する精神の下に生きているという意味で言っています。というのも、こういった精神こそがルシファーが犯した罪の根本にあるからです。現代はルシファー的な時代だというのは、厳しすぎる指摘ではないだろうかと思われるかもしれません。
本日の福音書を御覧なさい。我らの主は悪魔について話されています。しかしながら、悪魔についての御言葉はどういうものとして仰せになったでしょうか?「この世のかしら」と呼ばれていますよ。強い表現です。つまり、この世へのサタンの支配はどれほど強いかということを強調して示すために仰せになった表現です。我らの主はこの御言葉を通じて、サタンの影響力、この世と現世の影響力に負けないように我らに思い起こさせ給うのです。
そして、サタンのこの世への影響力とは具体的に何でしょうか?基本的に形を問わず、天主を拒む、天主を拒否するようにさせるという意味です。天主からの御光を拒むことにするという態度です。ことに超自然の光ですが、また天主の聖寵、また天主の恩恵を拒む態度でもあります。天主のみ旨に従えば、永遠の至福が得られるということを忘れさせるのがこの世です。
ルシファーは天主、その生命である聖寵、永遠の至福、天主の御光などが大嫌いで、拒みました。最初に、悪魔が叫んだとおり「Non Serviam(奉仕しないぞ)」という精神です。このような精神は、独立精神、あるいは近代風にいうと自由精神は具体的に三つの形で現れます。
第一に、天主ご自身を見ないことにする、という精神です。第二に、天主の光、天主の原理原則に照らして物事を評価しないことにするという精神です。また第三に、天主の掟に従って行為をしないことにするという精神です。
第一に、天主ご自身を見ないことにする、という精神です。サタンの呼び名には「暗闇の王」というものがあります。サタン、つまり「光を運ぶ者」という意味になるルシファーは天主の光を拒み、つまり、超自然の秩序を否定した結果、信仰を否定しました。サタンはこのような最初の反逆というかたちで罪を犯して以来、やむことなく、暗黒の種、誤謬、嘘を撒きき続けて、この世を毒づかせ続けます。
こういった特徴はまさに近代の特徴ではないでしょうか?近代性の特徴ではないでしょうか?快楽、誤謬、幻想、理想、綺麗な空論や思想、あらゆる手段を使い、人々は天主へ目を向けないように、天主から、天主の日から目をそらすようにしているのではないでしょうか?
皆様、考えてください。現代社会で「政教分離」(ライシテ)を絶賛して制度化されているのは、天主を見ないようにさせることでなければ何でしょうか?
また、フランスにおける共和政という新しい宗教を見てください。つまり、天主なき宗教ですが、幼児期から、公立私立学校において、小学校からそして中学校において高校においても、大学においても、天主を一斉考慮しない、天主を完全に無視して、天主の光を見ないふりにしながら、「論じる、考える、知る」ように教え叩きこまれているのではないでしょうか?つまり、天主には一切かかわらない形で、少しでも天主は配慮されないように、現代人が常に考えているように養成されているのではないでしょうか?
つまり、学問において、論じるために、知るために、考えるために、天主の光を一斉配慮しないように教えられています。
だからといって、学校において、明らかに天主を否定したり天啓を否定したりするというわけでもありませんが、それよりもある意味で酷いことに、天主は想像にすぎないと、天主は存在しないようにするということです。すなわち、天主は単なる価値観、価値のない単なる意見に過ぎないという風に現代社会のすべてはなっていて、教育もそうなっています。こういった無関心は攻撃的でもないので、味のない、痛みをも与えない毒でありながら、大変効率的ともいえるのです。
さて、以上のように、基本的な原理原則、一番根源にある原理原則、天主、信仰を考慮することすら拒否していることから、次に天主の光に照らして評価したり、結論付けたり、判断したりすることへの拒否を生み出します。ご存じのように、我らの主はサタンについて「嘘の父」とも呼んでいます。そこで、歴史上のサタンの最初の嘘を見てみましょう。
楽園で、サタンがヘビの姿をとり、エヴァを誘う時でした。「あなたたちは死なないからさ、この実を食べたら天主のようになるからさ」という誘惑で、まさに嘘です。注意していただきたいのは、サタンの最初の嘘は天主が命じた掟に関するものだったということです。つまり、天主の法についての嘘でした。サタンは天主の命令について嘘をつくことによって、本来の秩序を逆さまにさせようとしています。つまり、善を悪と呼び、悪を善と呼ぶ嘘をついて、エヴァを誘うのです。この嘘によってエヴァの判断力を濁らせた結果、エヴァは罪を犯してしまいます。そしてアダムを引きずって罪へ落ちていった結果、アダムとエヴァの子孫である全人類は引きずられて罪へ落ちていきます。
近代社会は以上のように判断力を濁らせて、逆さまにさせようとする点において完全にルシファー的です。ほら、道徳に反する法律はいとまなく成立していき、悪徳を正式に推奨して、犯罪行為を合法化して推奨して、また悪徳を行ったら保険料あるいは助成金が下りるようにされているほどです。典型的なのは、堕胎がそうでしょう。人間性に反する行為や風俗、家族の破壊、キリスト教的な社会への徹底的な破壊などもそうでしょう。
現代社会はこれらの災いを推奨して助けていくわけです。単なる堕落とか、災いとかではなく、よいこととして国家によって社会によって制度化されたりしています。逆に、こういった災い、悪徳、弊害に対する戦い、これらの弊害を防ごうとする人々を現代社会は容赦なく弾劾して、弾圧して、小ばかにして、黙らせようとしているのではないでしょうか。完全に逆さまになっています。堕胎あるいは人間性に反する自称結婚に対して戦う人々は迫害されているのではないでしょうか?もう、完全に逆さまになっています。
そして、それより酷いことに、天主を考慮する事すらしなくなったどころか、なにもかもすべてにおいて、天主が存在しないという前提に立って判断し、決定して、行為する悪習が深く身についています。すべての分野においてです。哲学なり、道徳なり、政治なり、宗教なり、天主を抜きにして考えて判断していくというのが現代です。
例えば、良心の自由、あるいは表現の自由、思想の自由と言ったようなうぬぼれなどはまさにそうでしょう。考える自由という綺麗な言葉は結局、天啓を拒否しなければならないということを意味します。天主の御言に従ってはいけないという意味になります。ルシファーの叫び声に他なりません。
最後に、天主の否定は天主による秩序、天主が創られた秩序を拒否する精神においても現れます。「Non Serviam」と叫んだサタンは、天主が敷きたもうた自然秩序をも超自然秩序をも否定します。現代社会もまさにまったくこの精神にしたがっているのではないでしょうか?具体的には、現代フランスではどうしても人間による人為的な秩序、フランスなら共和政の秩序を最高にさせて、天主の秩序よりも上に置くのではないでしょうか?
旧大統領、故シラクは「共和政の法律の上に宗教的な法が存在することはだめだ」と言ったことがありますが、これは政治界におけるルシファーの「Non Serviam」を代弁するものではないでしょうか?
以上のことは驚くべきことではありません。筋の通った帰結です。天主を見ないことにしたのなら、当事者が意識するしないにはかかわらず、天主によって判断することも、天主によって実践することもなくなって、天主が敷いた秩序に適おうとすることもなくなって、個人単位にしても家庭にしても国家にしても本来の秩序への反逆を意味するわけです。
皆様はあれかと思うかもしれません。なにか、聖ピオ十世学院に関する話であるはずなのに、まだまだ一言も触れていなくて、ちょっと変わった紹介だろうと。あれ?発表の趣旨を忘れているのではないかと。
ご安心ください。忘れていません。確かに、今年は聖ピオ十世学院に関して、他の大学と変わらない部分については触れないことにしました。いわゆる、授業、試験、教師、大学生たちについては具体的に触れないことにしました。どことも同じように、学生の内に勤勉の生徒もいたら、果たすべきことをよく果たす生徒もいたら、残念ながら疲れない程度に頑張っている生徒もいます。どこも変わらないのですね。あるいはいわゆる、卒業してからの入社率などをはじめ、このようなどこの大学もやっていること、またコロナ時代やデジタル化によって大学が掲げる新しい問題についても話せますがあえてそうしないことにして、天主の王とこの世の王との間の巨大な戦いにおける聖ピオ十世学院のささやかな貢献について話すことにしました。
というのも、サタンに続いて近代が天主の真理を否定する世界において、カトリック大学の第一の使命は天主の真理を何よりも上に置くべきではないかと考えるからです。近代は勝手に善悪を決められると自称する世界のなかで、あえて善悪が何であるか人間が決めるものではなく、天主が決めたもので、また正しく間違わないで判断するように、カトリック大学は大学生に教える義務があるのではないでしょうか?
つまり、近代は自然秩序や超自然秩序をともに破壊しようとしている中で、我々は我らの守護聖人、聖ピオ十世のモットー「Omnia instaure in Christ」をもう一度踏まえるべきでないでしょうか。キリストを基盤にすべてを復興させるという意味ですが、言いかえると、分野を問わず、イエズス・キリストをその立場である頭としておいで、その頭に従って、それらの原理原則に基づいてすべてを復興させるという意味です。
そうするために、第一に、知性を真理に向かわせることです。この精神は大事であって、カトリック教育の根本にあります。つまり、それぞれの学問において、奥深く知ろうとして、一番高度な原理原則を見つけて現実をみていくことです。
それについて卒業生の感想が浮かびます。それは彼らは他の大学あるいはクラス・プレパラトオアールなどに通った経験もありまして、聖ピオ十世学院との違いについての感想です。
卒業生の感想はこうでした。「聖ピオ十世学院では、先生たちなどは優秀でありますが、他のところにも優秀な先生もいますし、優れている教養人もいるので、これは聖ピオ十世学院の特徴ではないのですと。しかしながら、聖ピオ十世学院の大きな違いは他にあります。先生たちは知識だけでなくて、奥深く、我々生徒が考えるように、ながめていくように教えています。つまり、他の大学よりも奥深くまで考究し、表面的分析にとどまらないのです」
これは驚くべきではないことです。なぜなら、聖ピオ十世学院の先生たちはキリスト教の真理によって、より上にある原理原則によって深く考察するように教育されているので、より高みから学問を見ることもできれば、より奥深く広く論じることができるといっても驚くべきことではありません。
また、自分の理性を真理に従おうとすること、現に存在する現実という意味での真理に従おうとすることは、それぞれの個別の真理、つまりそれぞれの学問にある限られた真理のすべてはみんな、唯一なる真理である天主から来るということに気づき、自覚することでもあります。つまり、学問にある多くの真理は永遠の真理の単なる影に過ぎないということを知ることでもあります。
また、自分の理性を真理に従おうとすることによって、もう一つ分かります。つまり、学問を志すということは、あるいは単に真理を知ろうとすることは、真理を利用するためにあるのではなく、真理に従うために、真理に奉仕するためにあるということである、ということを自覚できるということです。つまり、真理に対しては、我々人間が主人ではなく、慎み深く、真理を受け入れる立場にあることに気づきます。
ある話が思い浮かびます。ドミニコ修道会の修道女はミッション系の学校の教師でしたが、ある生徒について「彼女は真理に対してまだまだ相応しい態度にはなっていない」といった話を聞きました。言いかえると、真理に対して 慎しむ心、奉仕する心はまだまだだったという意味です。とても素敵なコメントだったと思います。「真理に対してまだまだ相応しい態度にはなっていない」。
つまり、我々の理性は真理を作るために、真理・表象を表現するために、真理を形作るために、学問としてあるのではなく、真理をありのままに認識して受け入れるためにあるということに気づくことが大事です。
ですから、このような志で学問に挑んだら、単に学位をとるような、就活するようなことよりも高尚になっていきます。もちろん、学位などもいいですが、それがあってもいいことですが、学位のために学問があるわけではなく、真理のために学問があるわけです。ですから、学院などに留まらないで、その先にある真理、そして真理に対する相応しい態度までいかなければなりません。
言いかえると、叡智を得ることが学問の目的でもあります。つまり、正しい原理原則に照らして物事を評価し、物事を正しく知ることにあります。叡智を得ることは単に知識を蓄積するだけではなく、また研究方法論を発展するだけでもありません。知識も方法論ももちろん、欠かせないことで大事ですが、それ以上に正しい判断力を、正しく評価する能力を身につけていくということがもっと大事です。たとえば、哲学なら、哲学者の判断力、文学なら文学者の判断力、歴史学なら歴史家の判断力などいろいろありますが、基本的により上から見て、距離をとって、より高い所からより根本的な原理原則に基づいて、結論を出していくというのが本当の叡智です。
より具体的にいうと、信仰の光に照らして物事に対して正しく評価できて、判断できるような。つまり、いつも信仰による光が背景にずっと照らしているように。
Gustave Thibonによると、「Henri Massisは、近代思想の中にある一つ一つの要素を排除することではなくて、近代思想においてある無秩序、混沌、誤解や混同」などを指摘して排除して、不動の本質に基づく原理原則という垂直の秩序にしたがって、改めてそれらの要素を相応しく置くだけ」ということです。
このThibonの言葉はかなり当たっています。つまり、本物の叡智、本物の学問はすべての個別の知識が統合されるときにはじめて得られます。そして、これらの個別の知識を統合するためには、より上にある原理によってのみ統合されうるわけですが、これらの原理を考慮しないかぎり、できませんので、叡智にはなりえません。
当然と言ったら当然ですが、信仰の照らしはすべての学問において同じように働いているわけでもなければ、それぞれの学問の特徴もあって、信仰の照らしの程度も多少があります。しかしながら、歴史学、哲学、文学を信仰の照らしから関係なく考慮することは相応しいことであり得るでしょうか?つまり、天啓はこれらの学問においてどういった役割を持つのかという問題です。
たとえば、文学通の学者が二人いて、一人がカトリックであって、もう一人は不可知論者でもあるとしたら、或る文学作品の構造を研究する時にその研究の成果は変わらないのは当然です。しかしながら、そういった表面的な研究(必要な研究ですが)より一歩踏み出して、より全体的に捉えようとして、どういった意味、どういった本質、どういったことであるかになると、全然変わります。
たとえば、文学だと、人間の心の在り方、人間性のありさまを表すとしての文学、あるいは人生の意味、人生の目的、約束の意味、死、愛、人間に関する意味などになると、信仰の照らしのお陰で、カトリックの学者はより高度な視点を持てて、深い観点を出せて、広く真に当たる結論を出せて、桁が違ってきます。
つまり、信仰に基づく判断力はそれぞれの学問の方法論を変えることはないのです。ですから、単なる知識レベルの具体的な作業なら、何も変わらないのですが、それらの知識を正しく整理整頓することにおいて、その全体的な秩序における意味付けにおいて、ぜんぜん変わります。でより奥が深くなって、意味も深くなって、貴重な結論や成果をだせるのです。
シャルル・モーラスは次のように言いました。「天主における統合性を抜きにして、そして、天主の統一性により帰結、つまり教義における統一性と知性における健全な秩序と掟を抜きにして、思考の統一性も道徳の統一性も政治の統一性もその瞬間に消える。失われた統一性を取り戻すために根本にある統一性(創造なる唯一の神から来る統一性)をその本来の位置におくしかない。
天主を抜きに、真も誤も、善悪も成り立たなくなる。天主を抜きにしてどれほどしっかりとした厳格な論理に沿ったとしても、最高に道理に適ったことは一番狂った思想と変わらなくなる。なぜなら、天主を抜きにして(つまり、学問の要石である天主を抜きにして)検討という原理のみ残るが、検討によって何でも排除できるが、何も基礎を築くことができない。」からであると。
そして、学問の最後の要素について語りましょう。知識だけではなく、真理に従った叡智を得ることは学問の目的ですが、その上、叡智に従って、つまり判明した正しい原理原則に従って我々の人生を歩み、実践していくことです。ですから、大学の本来の目的は学位だけではなく、就活だけではなく、他の学位あるいは資格習得のためだけではなく、よりよく生きる為です。
聖ピオ十世学院の教育方針はキリスト教の叡智を学生たちに与えることによって、学生たちはこの英知を踏まえ、より善い人生を歩んでいけるように、よりよく自分の人生を生きられるようにしております。つまり、卒業したら、卒業生の判断力はなるべく成熟して、より善い相応しい正しい決定やよい実践を選べるように。人間としても共同体の一員としてもカトリック信徒としても、より立派に実践してもらえるように聖ピオ十世学院の学部における教育を整えております。
Henri Massisの言葉にかなり的を射た言葉があります。「二十歳の時に起きる重要な成熟によって、そのあとのすべての人生はきまる」ということなので、よい成熟になるように、多くの善い実りを結ぶ大人が卒業するように望んでなりません。
愛する兄弟の皆さま、結びに代えて、以上のようにご紹介した学問の基本的な在り方を悪魔は否定していると強調しましょう。
つまり、一番上にある原理原則に立って学問に臨むこと。秩序にそった正しい判断力の養成。こういった叡智に従って人生における実践。聖ピオ十世学院はこの三つの目的を果たすべく学問を学生に教えていきます。すべてにおいて、最初の原理を見て、それらの原理に照らして研究を進めて判断、結論を出して、これらの結論に従って、自然秩序と超自然秩序にしたって実践していくように。
そうするためには簡単なことではないのです。努力も要ります。辛抱強い忍耐力も要ります。反省も要ります。また物質的な基盤も必要です。
ちなみに、ある日、記憶がただしかったらニューヨークの大司教だったとおもいますが、名前は今思い出せないのですが、その大司教はルフェーブル大司教につぎのように言っていたという話があります。「猊下、聖寵とドルさえあれば何でもできる」と。
皆様、言いたいことが分かったと思います。聖寵というのは、皆様の祈りを我々は必要としています。またお金もですね。両方において皆様の貢献があれば聖ピオ十世学院は何でもできます。毎年毎年、聖ピオ十世学院のための献金を皆様に頼んでいることなので、昔からの皆様の強い支えをいつも受け続けてきたことを心から誠に感謝しております。
これから試験の時期ですが、試験が終わったら、学生たちと一緒にPontmainへ巡礼に行きます。その時、Pontmainの聖母マリアに、貢献者の皆様のために、また皆様の祈祷をも特別にお祈りを捧げます。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
悪魔的な時代の中に生きています!カトリック大学の本当の使命について
ショタール(F-M. CHAUTARD)神父様の説教
2021年5月02日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いとも愛する兄弟の皆さま、我々は悪魔的な、ルシファー的な時代の中に生きています。確かに、だからといってフランスにおいて正式にサタンへの公式の礼拝が行われたり、あるいは割れた蹄(ひずめ)の悪魔らがこの世を徘徊して、野生の嫌悪感をもって毒づいてキリスト教を暴力的に迫害しているといったような意味で、この表現を使ってはいません。
そうではなくて、「ルシファー的な時代の中に生きている」という意味は、現代社会は独立精神、または天主を拒否する精神の下に生きているという意味で言っています。というのも、こういった精神こそがルシファーが犯した罪の根本にあるからです。現代はルシファー的な時代だというのは、厳しすぎる指摘ではないだろうかと思われるかもしれません。
本日の福音書を御覧なさい。我らの主は悪魔について話されています。しかしながら、悪魔についての御言葉はどういうものとして仰せになったでしょうか?「この世のかしら」と呼ばれていますよ。強い表現です。つまり、この世へのサタンの支配はどれほど強いかということを強調して示すために仰せになった表現です。我らの主はこの御言葉を通じて、サタンの影響力、この世と現世の影響力に負けないように我らに思い起こさせ給うのです。
そして、サタンのこの世への影響力とは具体的に何でしょうか?基本的に形を問わず、天主を拒む、天主を拒否するようにさせるという意味です。天主からの御光を拒むことにするという態度です。ことに超自然の光ですが、また天主の聖寵、また天主の恩恵を拒む態度でもあります。天主のみ旨に従えば、永遠の至福が得られるということを忘れさせるのがこの世です。
ルシファーは天主、その生命である聖寵、永遠の至福、天主の御光などが大嫌いで、拒みました。最初に、悪魔が叫んだとおり「Non Serviam(奉仕しないぞ)」という精神です。このような精神は、独立精神、あるいは近代風にいうと自由精神は具体的に三つの形で現れます。
第一に、天主ご自身を見ないことにする、という精神です。第二に、天主の光、天主の原理原則に照らして物事を評価しないことにするという精神です。また第三に、天主の掟に従って行為をしないことにするという精神です。
第一に、天主ご自身を見ないことにする、という精神です。サタンの呼び名には「暗闇の王」というものがあります。サタン、つまり「光を運ぶ者」という意味になるルシファーは天主の光を拒み、つまり、超自然の秩序を否定した結果、信仰を否定しました。サタンはこのような最初の反逆というかたちで罪を犯して以来、やむことなく、暗黒の種、誤謬、嘘を撒きき続けて、この世を毒づかせ続けます。
こういった特徴はまさに近代の特徴ではないでしょうか?近代性の特徴ではないでしょうか?快楽、誤謬、幻想、理想、綺麗な空論や思想、あらゆる手段を使い、人々は天主へ目を向けないように、天主から、天主の日から目をそらすようにしているのではないでしょうか?
皆様、考えてください。現代社会で「政教分離」(ライシテ)を絶賛して制度化されているのは、天主を見ないようにさせることでなければ何でしょうか?
また、フランスにおける共和政という新しい宗教を見てください。つまり、天主なき宗教ですが、幼児期から、公立私立学校において、小学校からそして中学校において高校においても、大学においても、天主を一斉考慮しない、天主を完全に無視して、天主の光を見ないふりにしながら、「論じる、考える、知る」ように教え叩きこまれているのではないでしょうか?つまり、天主には一切かかわらない形で、少しでも天主は配慮されないように、現代人が常に考えているように養成されているのではないでしょうか?
つまり、学問において、論じるために、知るために、考えるために、天主の光を一斉配慮しないように教えられています。
だからといって、学校において、明らかに天主を否定したり天啓を否定したりするというわけでもありませんが、それよりもある意味で酷いことに、天主は想像にすぎないと、天主は存在しないようにするということです。すなわち、天主は単なる価値観、価値のない単なる意見に過ぎないという風に現代社会のすべてはなっていて、教育もそうなっています。こういった無関心は攻撃的でもないので、味のない、痛みをも与えない毒でありながら、大変効率的ともいえるのです。
さて、以上のように、基本的な原理原則、一番根源にある原理原則、天主、信仰を考慮することすら拒否していることから、次に天主の光に照らして評価したり、結論付けたり、判断したりすることへの拒否を生み出します。ご存じのように、我らの主はサタンについて「嘘の父」とも呼んでいます。そこで、歴史上のサタンの最初の嘘を見てみましょう。
楽園で、サタンがヘビの姿をとり、エヴァを誘う時でした。「あなたたちは死なないからさ、この実を食べたら天主のようになるからさ」という誘惑で、まさに嘘です。注意していただきたいのは、サタンの最初の嘘は天主が命じた掟に関するものだったということです。つまり、天主の法についての嘘でした。サタンは天主の命令について嘘をつくことによって、本来の秩序を逆さまにさせようとしています。つまり、善を悪と呼び、悪を善と呼ぶ嘘をついて、エヴァを誘うのです。この嘘によってエヴァの判断力を濁らせた結果、エヴァは罪を犯してしまいます。そしてアダムを引きずって罪へ落ちていった結果、アダムとエヴァの子孫である全人類は引きずられて罪へ落ちていきます。
近代社会は以上のように判断力を濁らせて、逆さまにさせようとする点において完全にルシファー的です。ほら、道徳に反する法律はいとまなく成立していき、悪徳を正式に推奨して、犯罪行為を合法化して推奨して、また悪徳を行ったら保険料あるいは助成金が下りるようにされているほどです。典型的なのは、堕胎がそうでしょう。人間性に反する行為や風俗、家族の破壊、キリスト教的な社会への徹底的な破壊などもそうでしょう。
現代社会はこれらの災いを推奨して助けていくわけです。単なる堕落とか、災いとかではなく、よいこととして国家によって社会によって制度化されたりしています。逆に、こういった災い、悪徳、弊害に対する戦い、これらの弊害を防ごうとする人々を現代社会は容赦なく弾劾して、弾圧して、小ばかにして、黙らせようとしているのではないでしょうか。完全に逆さまになっています。堕胎あるいは人間性に反する自称結婚に対して戦う人々は迫害されているのではないでしょうか?もう、完全に逆さまになっています。
そして、それより酷いことに、天主を考慮する事すらしなくなったどころか、なにもかもすべてにおいて、天主が存在しないという前提に立って判断し、決定して、行為する悪習が深く身についています。すべての分野においてです。哲学なり、道徳なり、政治なり、宗教なり、天主を抜きにして考えて判断していくというのが現代です。
例えば、良心の自由、あるいは表現の自由、思想の自由と言ったようなうぬぼれなどはまさにそうでしょう。考える自由という綺麗な言葉は結局、天啓を拒否しなければならないということを意味します。天主の御言に従ってはいけないという意味になります。ルシファーの叫び声に他なりません。
最後に、天主の否定は天主による秩序、天主が創られた秩序を拒否する精神においても現れます。「Non Serviam」と叫んだサタンは、天主が敷きたもうた自然秩序をも超自然秩序をも否定します。現代社会もまさにまったくこの精神にしたがっているのではないでしょうか?具体的には、現代フランスではどうしても人間による人為的な秩序、フランスなら共和政の秩序を最高にさせて、天主の秩序よりも上に置くのではないでしょうか?
旧大統領、故シラクは「共和政の法律の上に宗教的な法が存在することはだめだ」と言ったことがありますが、これは政治界におけるルシファーの「Non Serviam」を代弁するものではないでしょうか?
以上のことは驚くべきことではありません。筋の通った帰結です。天主を見ないことにしたのなら、当事者が意識するしないにはかかわらず、天主によって判断することも、天主によって実践することもなくなって、天主が敷いた秩序に適おうとすることもなくなって、個人単位にしても家庭にしても国家にしても本来の秩序への反逆を意味するわけです。
皆様はあれかと思うかもしれません。なにか、聖ピオ十世学院に関する話であるはずなのに、まだまだ一言も触れていなくて、ちょっと変わった紹介だろうと。あれ?発表の趣旨を忘れているのではないかと。
ご安心ください。忘れていません。確かに、今年は聖ピオ十世学院に関して、他の大学と変わらない部分については触れないことにしました。いわゆる、授業、試験、教師、大学生たちについては具体的に触れないことにしました。どことも同じように、学生の内に勤勉の生徒もいたら、果たすべきことをよく果たす生徒もいたら、残念ながら疲れない程度に頑張っている生徒もいます。どこも変わらないのですね。あるいはいわゆる、卒業してからの入社率などをはじめ、このようなどこの大学もやっていること、またコロナ時代やデジタル化によって大学が掲げる新しい問題についても話せますがあえてそうしないことにして、天主の王とこの世の王との間の巨大な戦いにおける聖ピオ十世学院のささやかな貢献について話すことにしました。
というのも、サタンに続いて近代が天主の真理を否定する世界において、カトリック大学の第一の使命は天主の真理を何よりも上に置くべきではないかと考えるからです。近代は勝手に善悪を決められると自称する世界のなかで、あえて善悪が何であるか人間が決めるものではなく、天主が決めたもので、また正しく間違わないで判断するように、カトリック大学は大学生に教える義務があるのではないでしょうか?
つまり、近代は自然秩序や超自然秩序をともに破壊しようとしている中で、我々は我らの守護聖人、聖ピオ十世のモットー「Omnia instaure in Christ」をもう一度踏まえるべきでないでしょうか。キリストを基盤にすべてを復興させるという意味ですが、言いかえると、分野を問わず、イエズス・キリストをその立場である頭としておいで、その頭に従って、それらの原理原則に基づいてすべてを復興させるという意味です。
そうするために、第一に、知性を真理に向かわせることです。この精神は大事であって、カトリック教育の根本にあります。つまり、それぞれの学問において、奥深く知ろうとして、一番高度な原理原則を見つけて現実をみていくことです。
それについて卒業生の感想が浮かびます。それは彼らは他の大学あるいはクラス・プレパラトオアールなどに通った経験もありまして、聖ピオ十世学院との違いについての感想です。
卒業生の感想はこうでした。「聖ピオ十世学院では、先生たちなどは優秀でありますが、他のところにも優秀な先生もいますし、優れている教養人もいるので、これは聖ピオ十世学院の特徴ではないのですと。しかしながら、聖ピオ十世学院の大きな違いは他にあります。先生たちは知識だけでなくて、奥深く、我々生徒が考えるように、ながめていくように教えています。つまり、他の大学よりも奥深くまで考究し、表面的分析にとどまらないのです」
これは驚くべきではないことです。なぜなら、聖ピオ十世学院の先生たちはキリスト教の真理によって、より上にある原理原則によって深く考察するように教育されているので、より高みから学問を見ることもできれば、より奥深く広く論じることができるといっても驚くべきことではありません。
また、自分の理性を真理に従おうとすること、現に存在する現実という意味での真理に従おうとすることは、それぞれの個別の真理、つまりそれぞれの学問にある限られた真理のすべてはみんな、唯一なる真理である天主から来るということに気づき、自覚することでもあります。つまり、学問にある多くの真理は永遠の真理の単なる影に過ぎないということを知ることでもあります。
また、自分の理性を真理に従おうとすることによって、もう一つ分かります。つまり、学問を志すということは、あるいは単に真理を知ろうとすることは、真理を利用するためにあるのではなく、真理に従うために、真理に奉仕するためにあるということである、ということを自覚できるということです。つまり、真理に対しては、我々人間が主人ではなく、慎み深く、真理を受け入れる立場にあることに気づきます。
ある話が思い浮かびます。ドミニコ修道会の修道女はミッション系の学校の教師でしたが、ある生徒について「彼女は真理に対してまだまだ相応しい態度にはなっていない」といった話を聞きました。言いかえると、真理に対して 慎しむ心、奉仕する心はまだまだだったという意味です。とても素敵なコメントだったと思います。「真理に対してまだまだ相応しい態度にはなっていない」。
つまり、我々の理性は真理を作るために、真理・表象を表現するために、真理を形作るために、学問としてあるのではなく、真理をありのままに認識して受け入れるためにあるということに気づくことが大事です。
ですから、このような志で学問に挑んだら、単に学位をとるような、就活するようなことよりも高尚になっていきます。もちろん、学位などもいいですが、それがあってもいいことですが、学位のために学問があるわけではなく、真理のために学問があるわけです。ですから、学院などに留まらないで、その先にある真理、そして真理に対する相応しい態度までいかなければなりません。
言いかえると、叡智を得ることが学問の目的でもあります。つまり、正しい原理原則に照らして物事を評価し、物事を正しく知ることにあります。叡智を得ることは単に知識を蓄積するだけではなく、また研究方法論を発展するだけでもありません。知識も方法論ももちろん、欠かせないことで大事ですが、それ以上に正しい判断力を、正しく評価する能力を身につけていくということがもっと大事です。たとえば、哲学なら、哲学者の判断力、文学なら文学者の判断力、歴史学なら歴史家の判断力などいろいろありますが、基本的により上から見て、距離をとって、より高い所からより根本的な原理原則に基づいて、結論を出していくというのが本当の叡智です。
より具体的にいうと、信仰の光に照らして物事に対して正しく評価できて、判断できるような。つまり、いつも信仰による光が背景にずっと照らしているように。
Gustave Thibonによると、「Henri Massisは、近代思想の中にある一つ一つの要素を排除することではなくて、近代思想においてある無秩序、混沌、誤解や混同」などを指摘して排除して、不動の本質に基づく原理原則という垂直の秩序にしたがって、改めてそれらの要素を相応しく置くだけ」ということです。
このThibonの言葉はかなり当たっています。つまり、本物の叡智、本物の学問はすべての個別の知識が統合されるときにはじめて得られます。そして、これらの個別の知識を統合するためには、より上にある原理によってのみ統合されうるわけですが、これらの原理を考慮しないかぎり、できませんので、叡智にはなりえません。
当然と言ったら当然ですが、信仰の照らしはすべての学問において同じように働いているわけでもなければ、それぞれの学問の特徴もあって、信仰の照らしの程度も多少があります。しかしながら、歴史学、哲学、文学を信仰の照らしから関係なく考慮することは相応しいことであり得るでしょうか?つまり、天啓はこれらの学問においてどういった役割を持つのかという問題です。
たとえば、文学通の学者が二人いて、一人がカトリックであって、もう一人は不可知論者でもあるとしたら、或る文学作品の構造を研究する時にその研究の成果は変わらないのは当然です。しかしながら、そういった表面的な研究(必要な研究ですが)より一歩踏み出して、より全体的に捉えようとして、どういった意味、どういった本質、どういったことであるかになると、全然変わります。
たとえば、文学だと、人間の心の在り方、人間性のありさまを表すとしての文学、あるいは人生の意味、人生の目的、約束の意味、死、愛、人間に関する意味などになると、信仰の照らしのお陰で、カトリックの学者はより高度な視点を持てて、深い観点を出せて、広く真に当たる結論を出せて、桁が違ってきます。
つまり、信仰に基づく判断力はそれぞれの学問の方法論を変えることはないのです。ですから、単なる知識レベルの具体的な作業なら、何も変わらないのですが、それらの知識を正しく整理整頓することにおいて、その全体的な秩序における意味付けにおいて、ぜんぜん変わります。でより奥が深くなって、意味も深くなって、貴重な結論や成果をだせるのです。
シャルル・モーラスは次のように言いました。「天主における統合性を抜きにして、そして、天主の統一性により帰結、つまり教義における統一性と知性における健全な秩序と掟を抜きにして、思考の統一性も道徳の統一性も政治の統一性もその瞬間に消える。失われた統一性を取り戻すために根本にある統一性(創造なる唯一の神から来る統一性)をその本来の位置におくしかない。
天主を抜きに、真も誤も、善悪も成り立たなくなる。天主を抜きにしてどれほどしっかりとした厳格な論理に沿ったとしても、最高に道理に適ったことは一番狂った思想と変わらなくなる。なぜなら、天主を抜きにして(つまり、学問の要石である天主を抜きにして)検討という原理のみ残るが、検討によって何でも排除できるが、何も基礎を築くことができない。」からであると。
そして、学問の最後の要素について語りましょう。知識だけではなく、真理に従った叡智を得ることは学問の目的ですが、その上、叡智に従って、つまり判明した正しい原理原則に従って我々の人生を歩み、実践していくことです。ですから、大学の本来の目的は学位だけではなく、就活だけではなく、他の学位あるいは資格習得のためだけではなく、よりよく生きる為です。
※参考画像=アメリカのセントメアリーアカデミー
聖ピオ十世学院の教育方針はキリスト教の叡智を学生たちに与えることによって、学生たちはこの英知を踏まえ、より善い人生を歩んでいけるように、よりよく自分の人生を生きられるようにしております。つまり、卒業したら、卒業生の判断力はなるべく成熟して、より善い相応しい正しい決定やよい実践を選べるように。人間としても共同体の一員としてもカトリック信徒としても、より立派に実践してもらえるように聖ピオ十世学院の学部における教育を整えております。
Henri Massisの言葉にかなり的を射た言葉があります。「二十歳の時に起きる重要な成熟によって、そのあとのすべての人生はきまる」ということなので、よい成熟になるように、多くの善い実りを結ぶ大人が卒業するように望んでなりません。
愛する兄弟の皆さま、結びに代えて、以上のようにご紹介した学問の基本的な在り方を悪魔は否定していると強調しましょう。
つまり、一番上にある原理原則に立って学問に臨むこと。秩序にそった正しい判断力の養成。こういった叡智に従って人生における実践。聖ピオ十世学院はこの三つの目的を果たすべく学問を学生に教えていきます。すべてにおいて、最初の原理を見て、それらの原理に照らして研究を進めて判断、結論を出して、これらの結論に従って、自然秩序と超自然秩序にしたって実践していくように。
そうするためには簡単なことではないのです。努力も要ります。辛抱強い忍耐力も要ります。反省も要ります。また物質的な基盤も必要です。
ちなみに、ある日、記憶がただしかったらニューヨークの大司教だったとおもいますが、名前は今思い出せないのですが、その大司教はルフェーブル大司教につぎのように言っていたという話があります。「猊下、聖寵とドルさえあれば何でもできる」と。
皆様、言いたいことが分かったと思います。聖寵というのは、皆様の祈りを我々は必要としています。またお金もですね。両方において皆様の貢献があれば聖ピオ十世学院は何でもできます。毎年毎年、聖ピオ十世学院のための献金を皆様に頼んでいることなので、昔からの皆様の強い支えをいつも受け続けてきたことを心から誠に感謝しております。
これから試験の時期ですが、試験が終わったら、学生たちと一緒にPontmainへ巡礼に行きます。その時、Pontmainの聖母マリアに、貢献者の皆様のために、また皆様の祈祷をも特別にお祈りを捧げます。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン