白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
なんと真理に溢れている信条でしょう。独特な被造物である天使を前回に観たので、これから、人間について時間をかけて紹介したいと思います。他の被造物については、割愛せざるを得ません。
人間を中心に説明する理由は、後述するように、単純にいうと、天主が人間となったからです。
人間は、創造の中心に位置付けられていると言えます。なぜかというと、人間は創造されたすべてのものの要約のような存在だからです。
肉体において、鉱物と類似し、栄養作用と生殖力という生命的営みにおいて、植物と類似し、外面の五感において、動物と類似します。
ところが、知性と意志において、天使と類似しています。それから、天主とも。天主に象って(かたどって)造られたのが人間ですから。
したがって、人間という存在は、天主の創造したすべての凝縮版、その要約だと言えます。
哲学上、人間の定義は、「理性的な動物」とされています。「動物」という時に、人間には肉体を持つ被造物のすべてが備わっているということを意味します。「理性的」という時に、純粋に霊的な被造物に相応しい要素も備わっているということを意味します。
人間は、ラテン語で言うと、「カルド」です。創造においての基軸(きじく)・蝶番(ちょうつがい)のような、枢要な存在です。
「人間は理性的な動物」、どのような意味でしょうか。
それは人間に肉体と霊魂が備わっている事を意味します。人間は、体だけを持つのではありません。
それなら、屍に過ぎないことになります。経験においても、確認できるところですけど、死後に何か残っているというと、肉体です。ところが、生命のない死体です。「生命のない」とはラテン語で「イン・アニマ」から見る通りに、霊魂はもうない、生命がないという意味です。
つまり、人間には肉体の上に、霊魂も備わっています。人間において、霊魂は、生命を流す息吹のようなことです。生命の根源に他なりません。
ところが、人間の霊魂は独特で、知性と意志が備わっている魂だということです。動物なら、違います。動物には、人間の持っている知性はありません。動物には、物事を知る能力も、得た知識で他のことを推論する能力も備わっていません。その上に、動物には、人間と違って、人間独特の意志と自由もありません。
要するには、私たちは肉体と霊魂という複合からなっています。ところが、私たちは、同時に、一体不可分のままです。体と霊魂は、複合にして、人間を成しているとはいっても、ある程度の一体性においてだけの複合になります。自分ことを指して、「私」と言います。しいていえば権威者が「われわれ」とも言うかもしれませんが、自分のことを指しています。生きている複数人ではありません。人格分離症ではない限りは。
要するに、一人称を使う理由は、人間なら皆、肉体と霊魂が一体していることを知っているからです。体で行動する時に、自分がやるということです。霊魂をもって行動するといっても、自分全体で行動するしかありません。それを証明付けるのは、長い頭脳労働をするときに、必ず体に疲労をかけてしまうという現象が挙げられます。肉体と霊魂の間に存在する一体性と関係性を良く表している現象です。
要するに、人間は肉体と霊魂という複合からなっていて、一体を成します。人間は「肉体と一体化している理性のある動物」です。
さて、霊魂はどうでしょうか。他の動物と区別できる、私たちを特徴づける霊魂です。創造においての他の動物と同類とすることのできない要素、他の動物と違う霊魂を人間が持っているからこそです。
人間の霊魂は、あえて言えば、感覚的部分と理性的部分からなっています。言い換えると、人間の霊魂は、動物にもできる作用と共通している感覚的な作用をしながら、動物との区別できる理性的な作用もしています。
人間は、感覚的に行動する限り、他の動物と異なるところはありません。しかし、感覚に基づきながらも、その上に、知性と意志をもって行動して初めて、動物と違ってくるのは勿論、さらに、動物より優位になります。というのも、人間の優位性を決定するのは、知性と意志に他ならないからです。
つまり、人間は動物と共通している感覚を持ち、感覚を通じてのみ知ることができます。良く知られている外面の五感を通じてです。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚です。
ちなみにいうと、その上に、内面的四感も備わっています。体の外面或いは表面に装置されているのではなくて、体内に備わっています。共通感覚 、想像力、評定力 、記憶力です。
要するに、これらの感覚上の把握力が人間には備わっています。その上に、動物と同じように、感覚上の欲望も備わっています。この欲望力で引き付ける物に向かおうとするのです。また、この欲望力で、嫌悪感を起こす物から、離れようとするのです。
それで、この欲望は、人間において、11つの感情を起こします。要するに、ある善、あるいは悪に対して、霊魂の11つの反発力、霊魂の11つの反応を起こします。みんな経験している感情です。愛情、欲情、快楽感、嫌悪感、回避感、悲哀感、希望感、絶望感、畏怖感、興奮感、最後に、憤怒感です。これらの要素において、動物と同類です。
しかしながら、感覚能力或いは感覚作用の上に、人間は動物と別類にする理性的な作用もします。知性があります。
人間は、知性によって、目の前に表す物事をそのまま感知するのみならず、そのモノの本性を見極める能力が備わっています。言い換えると、私が、誰かに出逢ったら、その個別の一人を勿論見てはいますけれども、目の前にいる一太郎、二太郎、三太郎、四太郎でも、だれでも見ていますが、その個人を通じて、彼の「本性」も垣間見ます。
共通の本性で、彼を「人間」だと言う所以です。これが言えるのは、知性の作用のおかげです。目の前にいる一人が内の心像に留まらないで、人間の本性についても、概念を得ることはできます。知性のおかげです。
それから、概念を基に、判断と理論を築いたりします。そのお陰で、諸真理を確立することができ、理論で真理から真理へと推論して、結論まで至ることができます。
人間は、知性と共に、意志も備わっています。意志のおかげで、個別の善を求めることに留まらない、つまり、あれこれが欲しいという欲望、具体的な何かへの欲望に留まらない、ということです。
それで、その上に、意志をもって、普遍的な善も志します。つまり多くの個別の善を越えたところの善をも求めています。例えば、正義がそうです。人間という存在は、普遍なる正義を求めることができます。また、平和も同様です。この点においてこそ、動物と一線を画します。
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前述したとおりに、人間の本性の要素である意志の上に、ある意味で意志に付け加えた形で、自由というものもあります。というのは、先ほどの「善を求めている意志」は究極的の善を求めるものですが、自由というのは手段としての善を求める能力で、自由選択能力つまり自由と呼ばれています。自由は、意志の一環で、ある善を求める能力です。いわゆるある目的に達するために、良い手段を選べる意志を、自由といいます。「自由」。人間には、自由意志が備わっています。
以上、人間を特徴づける諸要素を観てきました。ところで、意志と知性は、普遍的なことに向いているということです。つまり、知性は普遍的に真理を求めているわけです。しかも、真理に向かって、知性は成長し続けます。。無限に、真理に向かって成長していけます。同じく、意志も、普遍的に善を求めています。
それで、普遍なることへ向かうという意志の特徴は、意志を不死にするのです。要するに、時空を越えて、意志は存続できることになります。したがって、人間の霊魂は、不滅です。知性と意志があるからこそ不滅です。本質的に、人間の霊魂は不滅です。
このように、人間の本性を観ました。本当に素晴らしき被造物で、被造物のすべての凝縮版で、天主によって創造されたすべてを要約する存在だと言えます。
公教要理-第十四講 人間の本性について
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
なんと真理に溢れている信条でしょう。独特な被造物である天使を前回に観たので、これから、人間について時間をかけて紹介したいと思います。他の被造物については、割愛せざるを得ません。
人間を中心に説明する理由は、後述するように、単純にいうと、天主が人間となったからです。
人間は、創造の中心に位置付けられていると言えます。なぜかというと、人間は創造されたすべてのものの要約のような存在だからです。
肉体において、鉱物と類似し、栄養作用と生殖力という生命的営みにおいて、植物と類似し、外面の五感において、動物と類似します。
ところが、知性と意志において、天使と類似しています。それから、天主とも。天主に象って(かたどって)造られたのが人間ですから。
したがって、人間という存在は、天主の創造したすべての凝縮版、その要約だと言えます。
哲学上、人間の定義は、「理性的な動物」とされています。「動物」という時に、人間には肉体を持つ被造物のすべてが備わっているということを意味します。「理性的」という時に、純粋に霊的な被造物に相応しい要素も備わっているということを意味します。
人間は、ラテン語で言うと、「カルド」です。創造においての基軸(きじく)・蝶番(ちょうつがい)のような、枢要な存在です。
「人間は理性的な動物」、どのような意味でしょうか。
それは人間に肉体と霊魂が備わっている事を意味します。人間は、体だけを持つのではありません。
それなら、屍に過ぎないことになります。経験においても、確認できるところですけど、死後に何か残っているというと、肉体です。ところが、生命のない死体です。「生命のない」とはラテン語で「イン・アニマ」から見る通りに、霊魂はもうない、生命がないという意味です。
つまり、人間には肉体の上に、霊魂も備わっています。人間において、霊魂は、生命を流す息吹のようなことです。生命の根源に他なりません。
ところが、人間の霊魂は独特で、知性と意志が備わっている魂だということです。動物なら、違います。動物には、人間の持っている知性はありません。動物には、物事を知る能力も、得た知識で他のことを推論する能力も備わっていません。その上に、動物には、人間と違って、人間独特の意志と自由もありません。
要するには、私たちは肉体と霊魂という複合からなっています。ところが、私たちは、同時に、一体不可分のままです。体と霊魂は、複合にして、人間を成しているとはいっても、ある程度の一体性においてだけの複合になります。自分ことを指して、「私」と言います。しいていえば権威者が「われわれ」とも言うかもしれませんが、自分のことを指しています。生きている複数人ではありません。人格分離症ではない限りは。
要するに、一人称を使う理由は、人間なら皆、肉体と霊魂が一体していることを知っているからです。体で行動する時に、自分がやるということです。霊魂をもって行動するといっても、自分全体で行動するしかありません。それを証明付けるのは、長い頭脳労働をするときに、必ず体に疲労をかけてしまうという現象が挙げられます。肉体と霊魂の間に存在する一体性と関係性を良く表している現象です。
要するに、人間は肉体と霊魂という複合からなっていて、一体を成します。人間は「肉体と一体化している理性のある動物」です。
さて、霊魂はどうでしょうか。他の動物と区別できる、私たちを特徴づける霊魂です。創造においての他の動物と同類とすることのできない要素、他の動物と違う霊魂を人間が持っているからこそです。
人間の霊魂は、あえて言えば、感覚的部分と理性的部分からなっています。言い換えると、人間の霊魂は、動物にもできる作用と共通している感覚的な作用をしながら、動物との区別できる理性的な作用もしています。
人間は、感覚的に行動する限り、他の動物と異なるところはありません。しかし、感覚に基づきながらも、その上に、知性と意志をもって行動して初めて、動物と違ってくるのは勿論、さらに、動物より優位になります。というのも、人間の優位性を決定するのは、知性と意志に他ならないからです。
つまり、人間は動物と共通している感覚を持ち、感覚を通じてのみ知ることができます。良く知られている外面の五感を通じてです。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚です。
ちなみにいうと、その上に、内面的四感も備わっています。体の外面或いは表面に装置されているのではなくて、体内に備わっています。共通感覚 、想像力、評定力 、記憶力です。
要するに、これらの感覚上の把握力が人間には備わっています。その上に、動物と同じように、感覚上の欲望も備わっています。この欲望力で引き付ける物に向かおうとするのです。また、この欲望力で、嫌悪感を起こす物から、離れようとするのです。
それで、この欲望は、人間において、11つの感情を起こします。要するに、ある善、あるいは悪に対して、霊魂の11つの反発力、霊魂の11つの反応を起こします。みんな経験している感情です。愛情、欲情、快楽感、嫌悪感、回避感、悲哀感、希望感、絶望感、畏怖感、興奮感、最後に、憤怒感です。これらの要素において、動物と同類です。
しかしながら、感覚能力或いは感覚作用の上に、人間は動物と別類にする理性的な作用もします。知性があります。
人間は、知性によって、目の前に表す物事をそのまま感知するのみならず、そのモノの本性を見極める能力が備わっています。言い換えると、私が、誰かに出逢ったら、その個別の一人を勿論見てはいますけれども、目の前にいる一太郎、二太郎、三太郎、四太郎でも、だれでも見ていますが、その個人を通じて、彼の「本性」も垣間見ます。
共通の本性で、彼を「人間」だと言う所以です。これが言えるのは、知性の作用のおかげです。目の前にいる一人が内の心像に留まらないで、人間の本性についても、概念を得ることはできます。知性のおかげです。
それから、概念を基に、判断と理論を築いたりします。そのお陰で、諸真理を確立することができ、理論で真理から真理へと推論して、結論まで至ることができます。
人間は、知性と共に、意志も備わっています。意志のおかげで、個別の善を求めることに留まらない、つまり、あれこれが欲しいという欲望、具体的な何かへの欲望に留まらない、ということです。
それで、その上に、意志をもって、普遍的な善も志します。つまり多くの個別の善を越えたところの善をも求めています。例えば、正義がそうです。人間という存在は、普遍なる正義を求めることができます。また、平和も同様です。この点においてこそ、動物と一線を画します。
~~
前述したとおりに、人間の本性の要素である意志の上に、ある意味で意志に付け加えた形で、自由というものもあります。というのは、先ほどの「善を求めている意志」は究極的の善を求めるものですが、自由というのは手段としての善を求める能力で、自由選択能力つまり自由と呼ばれています。自由は、意志の一環で、ある善を求める能力です。いわゆるある目的に達するために、良い手段を選べる意志を、自由といいます。「自由」。人間には、自由意志が備わっています。
以上、人間を特徴づける諸要素を観てきました。ところで、意志と知性は、普遍的なことに向いているということです。つまり、知性は普遍的に真理を求めているわけです。しかも、真理に向かって、知性は成長し続けます。。無限に、真理に向かって成長していけます。同じく、意志も、普遍的に善を求めています。
それで、普遍なることへ向かうという意志の特徴は、意志を不死にするのです。要するに、時空を越えて、意志は存続できることになります。したがって、人間の霊魂は、不滅です。知性と意志があるからこそ不滅です。本質的に、人間の霊魂は不滅です。
このように、人間の本性を観ました。本当に素晴らしき被造物で、被造物のすべての凝縮版で、天主によって創造されたすべてを要約する存在だと言えます。