白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
前回、天主とは何かを説明しました。また、天主の存在は何であるかを考えてみることによって、天主とは何かをご紹介しました。つまり、「アセイタス・自立存在性」といった、自分自身によってだけ存在しているのは、天主であると紹介しました。
今回、天主をより深く把握するために、天主をよく見つめるために、天主の属性をご紹介したいと思います。たとえてみたら、ダイヤモンドを手に取って、回しながら、これの様々な面をよく見つめた結果、これを描写する試みと言った感じになります。
当然ながら、私たちを遥かに超越する天主であるから、天主は何であるかを説明することは、簡単ではありません。実は、人間にとって、天主を語るために、また、天主の属性を見つけるために、二つの方法があります。
第一の方法は、天主から、すべての欠陥を除いてみるという方法です。更に、天主は完全であります。天主は第一の存在です。天主という存在こそ、他のすべての存在の源泉であります。したがって、天主はすべての完全性を持ちます。
しかしながら、把握しがたい存在なので、天主を考えるには、先ず、欠陥を除く方法を採用します。
~(動画に表記される文字)
天主の諸属性
1. 何でないか(否定性)
i. 単一性
ii. 不変性
iii. 永遠性
iv. 無量性(普遍性)
2. 最高度にどのようであるか(最高肯定性)
i. 智慧
ii. 意志
~
この方法で見つかる属性は「否定性」と呼ばれています。言い換えると、天主について語りますが、否定性とはある欠陥を持たないという属性です。
第二の方法は、私たちの周りに確認できる天主の完全性を語りますが、天主の完全性ですから、完璧な完全性として語るわけです。言い換えると、私たちの周りに、確認できる完全性を、天主に相応しく、超越した完全性をもって、天主の属性になるという方法です。「最高肯定性」と呼ばれている属性です。
~
1. 否定性
i.単一性
ii.不変性
iii.永遠性
iv.無量性(普遍性)
~
さて、否定性からですね。まず、天主は何からも複合されていないという完全性があります。複合されるということは、欠陥なので、天主の属性として除きます。
i.単一性
前回に見たとおりに、天主には体がありません。私たちと違って、天主は何からも複合されていません。
天主は腐敗できません。これを言葉で表すために、天主は単一だと説明します。天主には、部分はありません。物体と違って、天主には、天主から分け得る部分はありません。天主は純粋な霊だからこそ、単一です。さらにいうと、天主は限りなく単一でありますので、これから天主の様々な面を描写したところに、究極的に、そのすべてが一緒です。天主において、天主のすべては同じ天主ですから。
天主をよりよく理解するために、人間は分解して分析しようとせざるをえません。天主に関して、当然ながら、かかる分解などは存在しません。天主においては、天主のすべては同一です。
天主は絶対に完全です。限りなく完全です。
つまり、天主は絶対に単一です。天主においては、僅かな複合の一つもありません。
それに対して、どの被創造物であっても、究極的に言うと、少なくとも、存在(ある)と本質との複合から成っています。言い換えると、私を規定する私の本質があることと、その本質が「ある」こととの複合が被創造の特徴です。存在と本質からなります。私は本質(何であるか)を持ち、そして、この本質が存在して(有って)はじめて、私となります。
天主には、この複合はありません。なぜかというと、天主においては、天主の存在理由は、天主の本質(何であるか)は、完全に天主の存在(有る)と一致しているからです。
あえて言ってみると、天主の本質は、存在するということにこそあるのです。ですから、本質と存在との基礎なる複合でさえ、天主にはありません。確かに、底知れぬ玄義です。私たちを限りなく超える玄義です。でも、驚くべきことでしょうか。勿論、驚くことではありません。天主は、宇宙を超えてまします。ですから、宇宙を超えてましましたら、私たちを超越するのは、当たり前です。
天主を、人間が理解できる存在にしたり、被創造物にしたりしたところに、もう、その途端に、天主の話でなくなります。
それは、当然のことで、天主を完全に理解でき、説明できたら、人間を天主の主(あるじ)にしてしまうことだからです。
つまり、もう天主でなくなります。だからこそ、人間を越えて、不可解な存在であることは、驚くべきではありません。
天主を完全に理解しようとする人々は、結局、第一、天主が何か全く分からなくなるは勿論、それより、第二、彼らが天主だと思い込んでいるモノ(自分の考えによる神とか理想)に対して、自分自身をこのモノの「天主」としてしまいます。その物の上に、自分を主と置くからです。
しかしながら、前述したように、無理なことです。私たちの存在には、理由があり、私たちを越える理由なのです。その理由は天主です。天主は単一です。
ii.不変性
天主の第二の属性は、不変性と呼ばれている属性です。
天主には、変化はありません。天主には、変わりはありません。なぜでしょうか。変化とは、新しい完全性を取得することを意味するからです。天主が、変化できるとしたら、天主が何かの新しい完全性を取得するということになりますね。つまり、改善可能となってしまいます。
というのは、天主でなくなるか、また天主ではなかったかどちらかですね。でも、天主が改善可能だとしたら、一体どうやって創造できたでしょうか。また、すべての完全性を持たないままに、持たない完全性を与えることはできません。したがって、天主は不変です。言い換えると、天主には、何の変化もありません。
聖書には天主曰く、「エゴ・デウス・エト・ノン・ムトル」。「我は、天主なり、我は変化せず」と天主がおっしゃっています。それで、変化とは欠陥ですから、どの変化をも天主の属性から取り除きます。
iii.永遠性
天主の第三の否定性なる属性は、永遠性です。天主は永遠です。
人間なりに、永遠を理解するために、おそらく一番分かりやすくいってみると、永遠というのは、始まりもなかったし、終わりもいつもまでないということです。とは言ったところで、具体的に言うとなんであるか、よく分かりませんね。まさに、否定形でいうしかないのです。
始まりも終わりもないとは永遠ということを描写します。
より正確にいってみると、天主においては、如何なる連続・継起もありません。こういうふうに言ってみると、より分かりやすいでしょう。
なぜ連続が起きるかと言ったら、動きがあるときです。時間があるところに、動きもあります。
私たちも良く感じている現象ですけど、体を休めるときに、時間が止まることを感じることもありますね。
こういった経験を通じて、運動に対して、時間の相対性と不安定性を、諸感覚を通じて、ある意味で、感じ得ますね。
さらに、時間を測定するというときも典型的です。惑星の運行に基づくに他ならないからです。
例えば、太陽を回る地球の運行にほかなりません。また、地球の周りを動く月の運行によっても測定します。
さらに言うと、時間の源泉には、何があるでしょうか。動きですね。
動きといったら、連続が起きて、それで時間も出来ています。
しかしながら、天主において、動きも運行もありません。動きは欠陥なので、また、天主は完全ですから、天主の属性として、それを除きました。
つまり、天主において、動きはないということは、天主が、自分自身を完全に動かないという意味です。
これこそが、永遠と呼びます。
完全に全体的に動かないので、僅かな変化もなくましますので、まさに、不動の今に常にまします。
如何なる「次」もない永遠の今にましますのです。
天主は部分がなくましまし、全部である所以であります。これが永遠というものです。
完全性であり、完全なる不動であるけれども、人間から見ると、連続がない事、始まりも終わりもない事という意味になります。
天主は、天主の全部であり、古くから常に天主の全部だったし、また世々に至るまで、天主の全部であり、それ以外ではないということです。ですから、天主は永遠であると言います。
iv.無量性(普遍性)
続いて、天主の属性として、第四の否定性は、無量性(普遍性)という属性があります。
天主は無限です。天主には体がありませんから、広さとしての無量ではありません。
というのも、天主において、測定できる量などは、そもそもありません。天主は無限だというのは、天主の本質と天主の御力によって、どこにもまします、つまり普遍である、という意味です。
ところで、広さをもって、ある所にあるといった物体のような存在ではありません。
あらゆるところに物体的にましますというのなら、汎神論になります。
しかしながら、天主は物体ではありません。天主はどこもましますが、というのは、霊が存在する様式のように、天主がましますわけです。
というのも、働きによってこそ、霊は存在します。それで、天主は、あらゆる物事へ働きかけ給う存在だからこそ、
あらゆる物事にましますということです。
また今度説明しますけど、現在において、すべての物事が今、存在しているという事実が、天主がすべての物事に常にましますお陰で、すべての物事をあらしめ続けているからです。
あるモノが存在する時に、そのモノに天主が働きになって有らしめるからこそ、存在し得るのです。
天主の本質と御力によって、そのモノが有るのです。
これも、人間を超える玄義です。
聖アウグスティヌス曰く、「私が、私において常に居るけれど、それより遥かに親密に天主が私において常にましまし給う」。
私たちの主も、天主の属性を明白に語ります。「天主こそ心の奥底と腸を究めるもの」という言葉があります。
言い換えると、天主は私より私を知っているという意味です。天主は、天主自分自身において完全にましますからです。
とはいっても、天主は私たちではありません。同じく、私たちも天主ではありません。
人間は変わるし、時間の中に生きているし、動いているし、複合物であるからです。私たちは天主でありません。
それでも、天主が、私たちにおいて、私たちの存在を私たちに与え続けるために、常にまします。
無量(普遍)なる存在です。
それから、最高肯定性という属性をみておきましょう。今日、二つだけを簡単にあげておきましょう。
天主は、第一に、至上の智慧であります。第二に、至上の意志であります。
i. 智慧
天主は智慧そのものです。自分によってのみ、自分を知っている存在です。
これは、アリストテレスが天主について説明していたところです。自分によってだけ、自分を知っている存在。
というのも、この認識だけで、完全なる幸せを得るに足りるからです。天主は天主を完全に知っています。
天主は無比の智慧であるから、すべての真理がそこにあります。
したがって、天下にある地上のすべての真理は、第一の真理に依存していると言えます。
前述したように、天下にあるすべての存在が、完全なる存在に依存しているように、また同じく、すべての智慧、すべての真理は、天主と呼ばれている至上かつ唯一の真理に依存しています。
だからこそ、私たちの天主である主が、「我は真理なり」というのです。
「我は真理なり」と主が言うときに、「私は至上の智慧である」という意味です。
天主にとって、真理と智慧は一致していることを理解しなければなりません。
人間なら、違いますね。人間は智慧をもってこそ、真理を取得するわけですから。
人間には、区別されるものが三つありますね。
第一、人間の外にある真理。
第二、人間の中にある智慧。能力とも才能とも呼ばれるものです。
そして、第三に、人間が真理を智慧によって取得する働きもあります。
「知っている」こと。「ある真理を知っている」、つまり、真理を取得します。
要するに、人間には、智慧という能力、目の前にある知りたい真理、そして、真理を取得する働きがあります。
天主には、一つしかありません。智慧だけです。
この智慧は、そのまま、同時に、自分の真理でもあり、自分の真理を取得する働きでもあります。
天主において、能力と真理と知る働きとは一致して、その区別はありません。
天主は、自分自身の存在だからこそ、完全に不動だからこそ、天主にとって、何かを知ることも、自己を知ることも、全く一つです。
さらに言うと、天主は自己を新たに知ることはできないわけで、実際にもう完全に自己を知っているのです。
天主には、自己を完全に知らないことは不可能です。それで、天主は自己を完全に知っています。
そのことから、すべてのモノを完全に知っていることになります。
どの真理も、天主という真理に依存している限りにおいて、真理だといいますから。
したがって、すべての真理は、天主にあります。至上の智慧です。
また、たとえてみると、数理には「数理による諸結論が既にその数理にある」というのと似たような感じです。
同じく、至上の真理なる天主も、すべての真理が天主にあります。
ii. 意志
また同じく、天主は至上の意志です。
人間なら、区別されますね。求めるという能力と、求められる何かと、求める何かに一致する働きと、これら三つの区別をします。
ちなみに、この働きは、常に「愛」という働きです。「愛する」というのは、ある善を欲求して求めるという意味ですから。
要するに、人間なら、三つに区別されます。何かを望む主体。そして、その何かを求めて手に入れようとされる対象。
その何かを愛して、これと一致したいという働き。要するに、能力があります。意志です。
求めている対象があります。その対象を取得して、それと一致する働きがあります。
愛と呼ばれる働きです。
天主なら、智慧と同じく、かかる区別はありません。
天主は、天主を求めています。天主の対象は天主自身です。
天主は完全であるので、求めること自体、それが、愛なる働きでもあります。意志と一緒です。
聖ヨハネ曰く「天主は愛なり」。これほど良い天主の定義はありません。天主は至上の愛であることを示すからです。
しかも、地上のすべての愛、つまりどの意志の働きは、至上の愛に依存しています。
繰り返しますが、意志の働きは愛とよばれるからです。
天主は至上の意志であります。つまり、天主は至上の愛であります。
言い換えると、天主は至上の一致と至上の交りであります。これも玄義ですが、天主の陽性なる属性です。
智慧と意志。
公教要理-第四講 天主の完全性
前回、天主とは何かを説明しました。また、天主の存在は何であるかを考えてみることによって、天主とは何かをご紹介しました。つまり、「アセイタス・自立存在性」といった、自分自身によってだけ存在しているのは、天主であると紹介しました。
今回、天主をより深く把握するために、天主をよく見つめるために、天主の属性をご紹介したいと思います。たとえてみたら、ダイヤモンドを手に取って、回しながら、これの様々な面をよく見つめた結果、これを描写する試みと言った感じになります。
当然ながら、私たちを遥かに超越する天主であるから、天主は何であるかを説明することは、簡単ではありません。実は、人間にとって、天主を語るために、また、天主の属性を見つけるために、二つの方法があります。
第一の方法は、天主から、すべての欠陥を除いてみるという方法です。更に、天主は完全であります。天主は第一の存在です。天主という存在こそ、他のすべての存在の源泉であります。したがって、天主はすべての完全性を持ちます。
しかしながら、把握しがたい存在なので、天主を考えるには、先ず、欠陥を除く方法を採用します。
~(動画に表記される文字)
天主の諸属性
1. 何でないか(否定性)
i. 単一性
ii. 不変性
iii. 永遠性
iv. 無量性(普遍性)
2. 最高度にどのようであるか(最高肯定性)
i. 智慧
ii. 意志
~
この方法で見つかる属性は「否定性」と呼ばれています。言い換えると、天主について語りますが、否定性とはある欠陥を持たないという属性です。
第二の方法は、私たちの周りに確認できる天主の完全性を語りますが、天主の完全性ですから、完璧な完全性として語るわけです。言い換えると、私たちの周りに、確認できる完全性を、天主に相応しく、超越した完全性をもって、天主の属性になるという方法です。「最高肯定性」と呼ばれている属性です。
~
1. 否定性
i.単一性
ii.不変性
iii.永遠性
iv.無量性(普遍性)
~
さて、否定性からですね。まず、天主は何からも複合されていないという完全性があります。複合されるということは、欠陥なので、天主の属性として除きます。
i.単一性
前回に見たとおりに、天主には体がありません。私たちと違って、天主は何からも複合されていません。
天主は腐敗できません。これを言葉で表すために、天主は単一だと説明します。天主には、部分はありません。物体と違って、天主には、天主から分け得る部分はありません。天主は純粋な霊だからこそ、単一です。さらにいうと、天主は限りなく単一でありますので、これから天主の様々な面を描写したところに、究極的に、そのすべてが一緒です。天主において、天主のすべては同じ天主ですから。
天主をよりよく理解するために、人間は分解して分析しようとせざるをえません。天主に関して、当然ながら、かかる分解などは存在しません。天主においては、天主のすべては同一です。
天主は絶対に完全です。限りなく完全です。
つまり、天主は絶対に単一です。天主においては、僅かな複合の一つもありません。
それに対して、どの被創造物であっても、究極的に言うと、少なくとも、存在(ある)と本質との複合から成っています。言い換えると、私を規定する私の本質があることと、その本質が「ある」こととの複合が被創造の特徴です。存在と本質からなります。私は本質(何であるか)を持ち、そして、この本質が存在して(有って)はじめて、私となります。
天主には、この複合はありません。なぜかというと、天主においては、天主の存在理由は、天主の本質(何であるか)は、完全に天主の存在(有る)と一致しているからです。
あえて言ってみると、天主の本質は、存在するということにこそあるのです。ですから、本質と存在との基礎なる複合でさえ、天主にはありません。確かに、底知れぬ玄義です。私たちを限りなく超える玄義です。でも、驚くべきことでしょうか。勿論、驚くことではありません。天主は、宇宙を超えてまします。ですから、宇宙を超えてましましたら、私たちを超越するのは、当たり前です。
天主を、人間が理解できる存在にしたり、被創造物にしたりしたところに、もう、その途端に、天主の話でなくなります。
それは、当然のことで、天主を完全に理解でき、説明できたら、人間を天主の主(あるじ)にしてしまうことだからです。
つまり、もう天主でなくなります。だからこそ、人間を越えて、不可解な存在であることは、驚くべきではありません。
天主を完全に理解しようとする人々は、結局、第一、天主が何か全く分からなくなるは勿論、それより、第二、彼らが天主だと思い込んでいるモノ(自分の考えによる神とか理想)に対して、自分自身をこのモノの「天主」としてしまいます。その物の上に、自分を主と置くからです。
しかしながら、前述したように、無理なことです。私たちの存在には、理由があり、私たちを越える理由なのです。その理由は天主です。天主は単一です。
ii.不変性
天主の第二の属性は、不変性と呼ばれている属性です。
天主には、変化はありません。天主には、変わりはありません。なぜでしょうか。変化とは、新しい完全性を取得することを意味するからです。天主が、変化できるとしたら、天主が何かの新しい完全性を取得するということになりますね。つまり、改善可能となってしまいます。
というのは、天主でなくなるか、また天主ではなかったかどちらかですね。でも、天主が改善可能だとしたら、一体どうやって創造できたでしょうか。また、すべての完全性を持たないままに、持たない完全性を与えることはできません。したがって、天主は不変です。言い換えると、天主には、何の変化もありません。
聖書には天主曰く、「エゴ・デウス・エト・ノン・ムトル」。「我は、天主なり、我は変化せず」と天主がおっしゃっています。それで、変化とは欠陥ですから、どの変化をも天主の属性から取り除きます。
iii.永遠性
天主の第三の否定性なる属性は、永遠性です。天主は永遠です。
人間なりに、永遠を理解するために、おそらく一番分かりやすくいってみると、永遠というのは、始まりもなかったし、終わりもいつもまでないということです。とは言ったところで、具体的に言うとなんであるか、よく分かりませんね。まさに、否定形でいうしかないのです。
始まりも終わりもないとは永遠ということを描写します。
より正確にいってみると、天主においては、如何なる連続・継起もありません。こういうふうに言ってみると、より分かりやすいでしょう。
なぜ連続が起きるかと言ったら、動きがあるときです。時間があるところに、動きもあります。
私たちも良く感じている現象ですけど、体を休めるときに、時間が止まることを感じることもありますね。
こういった経験を通じて、運動に対して、時間の相対性と不安定性を、諸感覚を通じて、ある意味で、感じ得ますね。
さらに、時間を測定するというときも典型的です。惑星の運行に基づくに他ならないからです。
例えば、太陽を回る地球の運行にほかなりません。また、地球の周りを動く月の運行によっても測定します。
さらに言うと、時間の源泉には、何があるでしょうか。動きですね。
動きといったら、連続が起きて、それで時間も出来ています。
しかしながら、天主において、動きも運行もありません。動きは欠陥なので、また、天主は完全ですから、天主の属性として、それを除きました。
つまり、天主において、動きはないということは、天主が、自分自身を完全に動かないという意味です。
これこそが、永遠と呼びます。
完全に全体的に動かないので、僅かな変化もなくましますので、まさに、不動の今に常にまします。
如何なる「次」もない永遠の今にましますのです。
天主は部分がなくましまし、全部である所以であります。これが永遠というものです。
完全性であり、完全なる不動であるけれども、人間から見ると、連続がない事、始まりも終わりもない事という意味になります。
天主は、天主の全部であり、古くから常に天主の全部だったし、また世々に至るまで、天主の全部であり、それ以外ではないということです。ですから、天主は永遠であると言います。
iv.無量性(普遍性)
続いて、天主の属性として、第四の否定性は、無量性(普遍性)という属性があります。
天主は無限です。天主には体がありませんから、広さとしての無量ではありません。
というのも、天主において、測定できる量などは、そもそもありません。天主は無限だというのは、天主の本質と天主の御力によって、どこにもまします、つまり普遍である、という意味です。
ところで、広さをもって、ある所にあるといった物体のような存在ではありません。
あらゆるところに物体的にましますというのなら、汎神論になります。
しかしながら、天主は物体ではありません。天主はどこもましますが、というのは、霊が存在する様式のように、天主がましますわけです。
というのも、働きによってこそ、霊は存在します。それで、天主は、あらゆる物事へ働きかけ給う存在だからこそ、
あらゆる物事にましますということです。
また今度説明しますけど、現在において、すべての物事が今、存在しているという事実が、天主がすべての物事に常にましますお陰で、すべての物事をあらしめ続けているからです。
あるモノが存在する時に、そのモノに天主が働きになって有らしめるからこそ、存在し得るのです。
天主の本質と御力によって、そのモノが有るのです。
これも、人間を超える玄義です。
聖アウグスティヌス曰く、「私が、私において常に居るけれど、それより遥かに親密に天主が私において常にましまし給う」。
私たちの主も、天主の属性を明白に語ります。「天主こそ心の奥底と腸を究めるもの」という言葉があります。
言い換えると、天主は私より私を知っているという意味です。天主は、天主自分自身において完全にましますからです。
とはいっても、天主は私たちではありません。同じく、私たちも天主ではありません。
人間は変わるし、時間の中に生きているし、動いているし、複合物であるからです。私たちは天主でありません。
それでも、天主が、私たちにおいて、私たちの存在を私たちに与え続けるために、常にまします。
無量(普遍)なる存在です。
それから、最高肯定性という属性をみておきましょう。今日、二つだけを簡単にあげておきましょう。
天主は、第一に、至上の智慧であります。第二に、至上の意志であります。
i. 智慧
天主は智慧そのものです。自分によってのみ、自分を知っている存在です。
これは、アリストテレスが天主について説明していたところです。自分によってだけ、自分を知っている存在。
というのも、この認識だけで、完全なる幸せを得るに足りるからです。天主は天主を完全に知っています。
天主は無比の智慧であるから、すべての真理がそこにあります。
したがって、天下にある地上のすべての真理は、第一の真理に依存していると言えます。
前述したように、天下にあるすべての存在が、完全なる存在に依存しているように、また同じく、すべての智慧、すべての真理は、天主と呼ばれている至上かつ唯一の真理に依存しています。
だからこそ、私たちの天主である主が、「我は真理なり」というのです。
「我は真理なり」と主が言うときに、「私は至上の智慧である」という意味です。
天主にとって、真理と智慧は一致していることを理解しなければなりません。
人間なら、違いますね。人間は智慧をもってこそ、真理を取得するわけですから。
人間には、区別されるものが三つありますね。
第一、人間の外にある真理。
第二、人間の中にある智慧。能力とも才能とも呼ばれるものです。
そして、第三に、人間が真理を智慧によって取得する働きもあります。
「知っている」こと。「ある真理を知っている」、つまり、真理を取得します。
要するに、人間には、智慧という能力、目の前にある知りたい真理、そして、真理を取得する働きがあります。
天主には、一つしかありません。智慧だけです。
この智慧は、そのまま、同時に、自分の真理でもあり、自分の真理を取得する働きでもあります。
天主において、能力と真理と知る働きとは一致して、その区別はありません。
天主は、自分自身の存在だからこそ、完全に不動だからこそ、天主にとって、何かを知ることも、自己を知ることも、全く一つです。
さらに言うと、天主は自己を新たに知ることはできないわけで、実際にもう完全に自己を知っているのです。
天主には、自己を完全に知らないことは不可能です。それで、天主は自己を完全に知っています。
そのことから、すべてのモノを完全に知っていることになります。
どの真理も、天主という真理に依存している限りにおいて、真理だといいますから。
したがって、すべての真理は、天主にあります。至上の智慧です。
また、たとえてみると、数理には「数理による諸結論が既にその数理にある」というのと似たような感じです。
同じく、至上の真理なる天主も、すべての真理が天主にあります。
ii. 意志
また同じく、天主は至上の意志です。
人間なら、区別されますね。求めるという能力と、求められる何かと、求める何かに一致する働きと、これら三つの区別をします。
ちなみに、この働きは、常に「愛」という働きです。「愛する」というのは、ある善を欲求して求めるという意味ですから。
要するに、人間なら、三つに区別されます。何かを望む主体。そして、その何かを求めて手に入れようとされる対象。
その何かを愛して、これと一致したいという働き。要するに、能力があります。意志です。
求めている対象があります。その対象を取得して、それと一致する働きがあります。
愛と呼ばれる働きです。
天主なら、智慧と同じく、かかる区別はありません。
天主は、天主を求めています。天主の対象は天主自身です。
天主は完全であるので、求めること自体、それが、愛なる働きでもあります。意志と一緒です。
聖ヨハネ曰く「天主は愛なり」。これほど良い天主の定義はありません。天主は至上の愛であることを示すからです。
しかも、地上のすべての愛、つまりどの意志の働きは、至上の愛に依存しています。
繰り返しますが、意志の働きは愛とよばれるからです。
天主は至上の意志であります。つまり、天主は至上の愛であります。
言い換えると、天主は至上の一致と至上の交りであります。これも玄義ですが、天主の陽性なる属性です。
智慧と意志。