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プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【まとめ】

2018年12月17日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様にレジュメ(まとめ)をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)

●プロテスタントの教えが信仰に反する”異端”であることについて
1- 知識上の誤謬である。
2- 信仰上の誤謬である。
3- 思弁的な教義にすぎない。
 *誤謬による帰結の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということである。
 *過ちは真理の全体の一部しか強調しない挙句に、真理に反する。

●この講話における二つの質問
1- プロテスタントの教えと政治との間に関係はあるのか。
   もしもあるのなら、こういった関係は具体的にどういうものか。
2- 実際に、政治におけるプロテスタントの教えの結果とは何か。

●結論として言えること
1- プロテスタントの教えと政治の間にはっきりした強い関係がある
2- 今現在、私たちの経験しているこの世は、プロテスタントの教えから来る必然的な結果である。
3- 近代的政治理論のすべてはプロテスタントの諸原理に基づく。中世期と近代以前の政治理論と反対する。

●前編の講話で話したプロテスタントの教えの要約
1- 当時のカトリック教会内での乱れという空気の中で、このプロテスタントが生まれたのは確か。
  これらの乱れを回復すべきだったものの、ルターによる運動は直すのではなく、壊す行為だった。
 (また、この乱れというのは、人間が持つ原罪によって傷つけられている本性の故であるので、驚くことでもなく憤慨すべきことでもない。
この乱れは、キリストへの回心秘跡の授与教義の再確認戒律の厳格な実行を再認識することによってしか解決できない。
しかしルターはそれらの立て直しの手段を壊した。)

2- ルター個人の思考と性質における問題点(ルネサンス期が覆われた誤謬めいた知識空気の影響)
  A- 理性への根本的な軽蔑と悲観主義(養成時に”唯名論”という誤謬の影響を受けた)
  B- 人間の本性への根本的な悲観主義(及び アウグスティヌス主義という誤謬の影響を受けた)
  C- 深い傲慢心(当時の教皇使節からの説得を拒絶して権威に逆らった。真理を求めたのではなく、傲慢で動いていた)

3- プロテスタントの教えの問題点
  A- 義化の問題
   天主の恩寵の作用を否定して、霊魂の清めを受けられないと主張する。
   カトリックは「義化」という。プロテスタントは「義認」と言う。
   恩寵は霊魂に注がれて清められて聖寵の状態となる 
   たとえると、ボロボロの壁(霊魂)に天主がピカピカの紙を張り付ける(義認)と理解するのがプロテスタント主義。
   ボロボロの壁(霊魂)を直接にきれいにする(義化)と主張するのがカトリック。
  B- 自由解釈の問題
   教会の解釈・権威・聖伝を否定して 個人の自由な解釈を重んじる

4- 信仰の問題
  A- カトリックにおける信仰は、啓示された天主と真理への積極的同意であり、客観的な真理への理性と知性による同意である。  
  B- ルターにとって 信仰は内面的で個人的な信頼で、客観的な真理と切り離された主観的な行為に過ぎないいわゆる「感傷的な」「感覚主義」にもつながる。


(ここまでは 前回の要約)以降は、「神学上の誤謬が、どうやって政治の誤謬へ展開していくか」検討します。
 ある理論の種が(ルターの場合は悪い種が)必ず発展して、善し悪しが実ってくるのです。

●プロテスタントの教えから導かれる、独立精神とそれから由来する「主観主義」に関すること
1- 独立精神(自由解釈から来る)とは、カトリック教会、聖伝の諸権威への拒絶
  (聖書の解釈・教父たちの言ったことへの軽蔑・カトリック教会の言っていることへの軽蔑・教皇の言っていることへの軽蔑・・)
   権威を徹底的に拒絶すること。宗教上のすべての権威を拒絶すること。宗教上のすべての権威を拒絶すること。

2- ルターが意図せずともルターの理論から展開して発展した結果が政治的にもこの世界を変えた。
   誤謬が誤謬で、何れかその結果がでてくる。

●プロテスタントの教えがどうやって浸透していったか、その具体的な検証
1- ホッブス  1551年 『レヴァイアサン』「万人は万人に対して狼」、人間個人は基本的に悪く、対立して戦い合う。
         人間の本性への悲観主義
2- ロック    1667年 『寛容論』何が真理であるか知り得ないとし、真理のもつ優位性を認めない。
         さまざまな意見と誤謬の共存を計る理論。
3- ルソー   人間は自然のままのほうが善だったが、社会が人間を悪しき者したと主張する。結局、人間は悪い。
4- 雄蕊(おしべ)のように花粉を飛び散らすように、どんどん新しい流派を生んでいった。

●歴史から見るプロテスタントの教えの社会への影響
1- 宗教が政治的権威に依存するようになった。特に北欧では、平和的な手段ではなく、武力で無理やり
   人々に押しつけて広げていった。プロテスタントは戦争を好んだ。

2- 中世には、争いとかあったが、無視されたとしても侮辱されたとしても権威は権威としてずっと認められていた。
   しかしプロテスタント主義は、権威を権威として否定する。

●理論的なプロテスタントの教えのもたらす結果の分析。共通善に反する理論
1- 権威を否定し、統一の崩壊が生じる。(政治生活の根本には統一が必要。一致は根本的な共通善)
2- 自由解釈のせいで、不和の種を潜在的に含み持つ。分離と対立をもたらす。
3- 社会の一致を破壊した。(社会の共通善に反する。平和に反する。社会の目的に反する)。

●プロテスタントの教えが、自由解釈を訴えることで、個人主義をもたらしたこと
1- 近代的な「自由」という価値観を普及させた。
2- 知性の真理を知ることによる完成を否定した挙句に、客観的な真理を求めなくなって、絶対な自由という価値観に逃避した。
3- この自由には中身がなく、純粋な個人主義をもたらした。
4- この個人主義・絶対的自由を訴えることで、社会の共通善は破壊され始めた

●さらに実存主義・実存哲学・無神論へと向かう
1- ルターの教えはルネッサンス期の諸哲学理論の人間中心主義と深く関係している。
  これは無神論に繋がっている。(悲惨なのは、天主が存在することに変わりがないということ)
2- サルトル(近代の人間はこの絶対的自由という結論へと向かっていった。)
3- へーゲル、シェリング、フィヒテなど。 
4- フランス革命「自由・平等・博愛」(教皇ピオ6世の言葉「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」)
5- 人格主義(ペルソナ主義) 共通善の代わりに人格の尊厳が置かれるという理論。
   エマネル・ムニエ。その後継者はジャック・マリタン。

●政治上におけるすべての権威を拒絶して、民主主義が生まれること
1- 個人主義や主観主義の挙句に、社会はバラバラになって戦争状況になる。権威を否定してしまった結果に過ぎない。
   しかしながら、人間は秩序と統一と平和という共通善を必要としているので、必然的に権威をも求めだす。
   ただし、プロテスタント主義が原理において、権威を拒絶するので、権威とは「必要悪」である。
   政府は、専制主義・全体主義によって社会の乱れを鎮める。が、しかし、権威とは不正なものなので、対立構造が終わらない。

2- 統一の不在と権威の拒絶の中、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するために
  ある種の権威として自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしようとする。
  これが、民主主義という制度になった。

●プロテスタントの教えと資本主義と唯物論は密接なつながりがあることについて
1- 天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含む。その理由は、プロテスタントの教えにおける誤った救済予定説
   *カトリックの救済予定説によると、人間はすべて救いに招かれている。
   イエズス・キリストが自分の死をもって、霊魂の救済のために出来る
   すべてのことをなさった。従って、救われるために、イエズス・キリストに適うかどうかということで、私たちの協力次第。
   *ところが、プロテスタント主義の救済予定説によると、生まれつき救われない人が定められている。
   が、誰が救われないのか、誰も分からない。しかし、人間に確信が要るので、物質 的な富において自分が救済されるだろうという
   確信を求めようとする。資本主義・物質主義に繋がる。また、道徳相対化の原因になる(何をやっても救われるかどうか決まっているから)。
   また、死者に対しても、生きる者に対しても祈りの必要性を無くす(救済はすでに決まっているので)。カトリックの真逆となる。

2- 元修道士だったルターは、修道生活の三つの誓願(貞潔・清貧・従順の三つ。福音的勧告と呼ばれる)を否定した。
   早い段階で、ルターが祈りの生活を送れなくなる。(自分で明かすところ)

3- ルターは、修道生活・霊的生活・観想生活を否定し、活動的生活と唯物論となった。また、秘跡を否定
   超自然生活を否定聖職生活を否定

4- 「アメリカ主義」とは、活動的生活・目に見える結果を重視することにより、
   「消極的な徳」(謙遜・従順・貞潔・清貧・柔和・忍耐など)目立たない聖徳を否定する。
   レオ十三世は、この活動主義を破門した。祈りを忘れた現代人の忙しい落ち着かない生活の背景には、この「活動主義」がある。

5- このプロテスタントの教えの影響下、労働と生産が人間の人生にとって中心になった。

6- プロテスタントの教えは、救いの確証を「物質的な豊かさ」に求めた。
   物質的豊かさと財産の保有は、生きる上での絶対的な目的となってしまう。
   霊的生活を否定して、仕事を絶対な自己実現にしてしまった。(上の1も参照)

7- 資本主義政治へと導かれる。 

8- 新しいミサの典礼には「労働の実りであるこのパンを捧げる」という祈りがある。
  (新しいミサ とプロテスタント主義の関係)


●カトリック教会へのプロテスタントの教えの影響と侵入
1- カトリック教会の聖職者と言えども社会生活のなかでは社会に蔓延したこのプロテスタントの思想や政治経済などに触れざるを得なかった。

2- 第二バチカン公会議において招待した大勢のプロテスタントの代表者の意見と考えが、
   私的な会話や歓談や茶飲み話や個人的会話などを通して
   大きく影響を与えた。非公式な集まりが多くあり、最も大事な「ミサの改定」にもプロテスタントの代表者が関わる
   ということが起きてしまった。

3- (神学者や高位聖職者・教皇でさえ、その学生時代にプロテスタントの教えの影響を受けた思想を学んでしまっているという
   教育環境により)、カトリック聖職者の思考の中にプロテスタントの教えが少しずつ染みてくるようになった。

4- 君主制なるカトリック教会が、ある種の権威を廃止した団体主義という誤謬によって壊されてしまった。
   それにより民主主義の誤謬や平等という概念と共にカトリック教会の定義が侵されるようになった。
   宗教の自由良心の尊厳人権の尊厳などの考えが内部にまではいり込んだ。
   真理の優位性を訴える力が少なくなって誤謬を断ち切る力も完全になくなっている

5- 天主に従属する秩序ある宗教ではなく、人間中心主義の宗教へと変えられた傾向がある。

●そのような影響に対する、カトリック教会がこれまでにとった対策
1- トレントの公会議で 教義において秩序を回復して、真理なる天主の優位性を再確認した。
   トレントの公会議での諸文書と公教要理によって、教会の内部への影響を食い止めた

2- 第一バチカン公会議では カトリック教会の権威を再確認した。
    「絶対なる自由」に対して、人間の独立に対して、権威と秩序を再断言した。

3- 第二バチカン公会議では、人間中心主義と全ての相対化への対策をとるための
   準備資料を用意して臨んだはずが最初の段階でそれらはゴミ箱に捨てられた
   招待していたプロテスタントの代表者による会議への関与を大幅に許してしまい、
   結果的にプロテスタントの教えが教会内に突入する道を正式に開く羽目になった。


★結論として、最初にルターが蒔いたこの種は教義上の異端であり、事実ではないものだったが
雄蕊(おしべ)のように、花粉をまき散らすようにして、どんどん社会全般・思想全般にわたり
大革命を起し、個人主義・自由主義と唯物論のみならず、専制主義、民主主義と資本主義などたくさんの新しい政治流派を生み出してしまった。

  

3 コメント

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Unknown (sabukiti1)
2018-12-20 21:31:12
今、カトリック教会で問題になっている幼児虐待は人間が持つ原罪によって傷つけられている本性の故であるので、驚くことでもなく憤慨すべきことでもないということでしょうか。
返信する
返事が遅くなり申し訳ありません。 (「ファチマの聖母の会」)
2019-01-16 23:04:41
アヴェ・マリア・インマクラータ!

sabukiti1さま こんばんは。プロテスタント主義の講話をお読みいただいてありがとうございます。

私どもの考えますに、そのような質問そのものこそ プロテスタント主義の精神から発せられるものなのでは? と思っています。

『天主はその御憐みにより 原罪を持って生まれてくる人間に救済の手立てを与えてくださった、しかしそれをルターの宗教改革・近代主義の思想・第二バチカン公会議などが否定したことによって社会全般に大きな歪みが生じてしまった、そしてますます人間を堕落に陥らせて救いの道にたどり着けなくさせてしまっている』と、ビルコック神父様はこの講話の中でお話ししているのではないだろうかと 受け止めました。

現代において、カトリック教会の中だけでなく社会全体までも人間の思考にまでも キリスト教の異端であるプロテスタント主義が侵入してしまっている、そういう現実を教えられているかのようです。

このような状況の中で救いの道を見いだし歩むことは困難なことは明らかですが ファチマの聖母の会ではマリア様に寄り縋って歩んでいます。

sabukiti1さま、この講話はとても難解で一度だけではなく何度も読んで(観て)いただきたいと思います。sabukiti1さまに天主の恩寵がありますことをお祈りしています。

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少しでも皆様のお役に立てるなら 嬉しく思います。 (白百合と菊Lys et Chrysanthème )
2019-01-21 22:28:03
アヴェ・マリア・インマクラータ!

このサイトでビルコック神父様のお話の書きおこしをアップしてくださっていることを、嬉しく思います。ありがとうございます。
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