白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
道徳編の第一部は、道徳の一般原則です。そこで、人間的な行為についてご紹介したいと思います。道徳とは「人間的な行為あるいは人が行動することを律する実践的な学問」です。したがって、最初に人間的な行為というのは一体どういったものなのかを考えてみましょう。
人が行動するということとは一体何でしょうか。
人間的な行為とは、「人間としての人間により発する行為」ということです。言い換えると「(人間の本性を成す)知性と意志により発する行為」です。一言で要約してみると、人間的な行為は、思考した行為であり、故意の行為です。万物の被創造物の中で、人間を特徴づけるのは「知性と意志」が備わっているということです。意志といった時、「自由」も含まれます。人間的な行為というのは、「人間の本性全体をもって、ある人が成す行為」です。言い換えると「知性をもって、意志をもって」の行為です。
つまり、人間的な行為は「思考してやった行為」であって、「知りつつやった行為」、「考えてやった行為」、「故意の行為」で、「完全な意志をもって成し遂げられた行為」です。人間的な行為は、以上のような行為です。
そこで、人間が行為するに当たって、行為に対する完全な認識が欠如している場合、或いは行為に対する完全な意志が欠如している場合、その個別の行為は厳密に言うと完全に人間たる行為ではありません。というのも、「意志と知性」から発しない行為なので、完全な人間たる行為とはなりえないからです。この場合「不完全な行為」といいます。または(人間的な行為ではなく)「人間の行動」とも呼ばれます。
たとえば、夜中に不本意に歩きだす夢遊病の者は「自分が何をやっているか、何の行動をするかを完全に認識していない」状態です。従って、夢遊病の者が眠りながら行う行動は「人間的な行為」ではありません。いわゆる単なる「人の行動」です。便宜上に「人の行動」とは、当然ながら「人が行う行為」を指しながら、人間を特徴づける本性、つまり「意志と知性」をもって成し遂げられた行為ではない、という意味を持つ表現です。人間の行う「行動」に過ぎません。
「人間的な行為」とは道徳の対象となる行為のことです。つまり、ある人が自分の動きで、完全に成す行為です。また、自由に、いわゆる「意識して」成す行為です。完全な意志をもっての「人間的な行為」です。要約すると、「知性と意志」より発生するのが「人間的な行為」です。
以上の定義を見ますと、完全に人間的な行為、あるいは「完全に道徳上の行為」になる為に何が邪魔になるかが見えてくるでしょう。
例えば、先ほど、行為に対して知性が欠けた夢遊病の例を取り上げました。その他、知性が障害される別の可能性もあります。そういった場合、知性の欠如が、完全な意志をもって行うということを邪魔する場合です。
~~
以上は人間的な行為の定義でした。
次に、「人間的な行為」あるいは「意志的な行為」の幾つかの種類を区別してみましょう。なぜ「意志的な行為」という表現を使うかというと、「意志をもって行為を行う」には、通常ならば、「知性」が暗に前提になっているからです。
というのも、人間において「知性」とは、「光」を持つ能力であって、「真理を把握することができる」能力です。知性をもって、知性に照らして、人間が行為を決めるために、知性は意志を知性の光で照らします。
従って、「人間的な行為」というのは「意志的な行為」です。というのも、最終的に「意志によって行われる」からです。知性は物事を知り、意識して真偽を分別し、そして意志を照らし、意志を動かしますが、意志は行為を勧め、行為するように全体を動かすのです。従って、人間的な行為は必ず「意志的な行為」です。
続いて、「人間的な行為」について語る時に、幾つかの方法で区別することがあります。
例えば、ある「人間的な行為」に対して「誘発的」であるか「命令的」であるかといった形容を使ったりします。「誘発的」な行為の場合、直接に、仲介なく、意志により生じる行為です。意志の自発的な行為であって、意志だけから来る特有の行為です。例えば「愛すること」あるいは「憎むこと」はなどはそういった行為です。
他方「命令的」な行為の場合、別の能力へと意志が命じて発生するものです。といっても勿論意志を通じて成し遂げられる行為です。例えば、「歩く」というのは、意志が幾つかの別の能力に命じて、行為が発します。
別の区別もあります。行為は「外面的」であるか、「内面的」であるかという区別です。この区別は大事です。というのも、「人間的な行為」というのは必ずしも「身体をもって行われる」行為ではないからです。
「行為」とは、大体の場合、「行動する」ということが頭に浮かんで、「外面的な行為だ」と思いがちです。しかしながら、そうとは限りません。注意しましょう。内面的な行為も「人間的な行為」として成り立つのです。というのも、内面的な行為も「意志により発生する」行為ですから。例えば「何かについて考える」という行為は条件が揃えば、意志的な行為になりうるのです。つまり「これについて考えることを決めて、意図的に「これ」について考えている」といったような場合は、意志的な行為です。こういった場合は、外面的にみると何もわからないままです。完全に内面的な行為でありながら、やはり「人間的な行為」です。「知性と意志によって発する」思考ですから。
次に、人間的な行為に対して、別の区別もあります。「善い行為」、「悪い行為」、「中立な(善悪関係ない)行為」という区別です。
善い行為というのは道徳の法に適った行為です。
悪い行為というのは道徳の法に反する行為です。
中立な行為というのは「その行為自体は、道徳の法と無関係だ」という場合です。例えば、「歩く」という行為自体は道徳の法と関係はありません。善悪と無関係です。例えば、「休む」という行為実体は善悪と無関係であって、道徳の法と無関係です。
また、人間的な行為に対して、別の区別もあります。「自然(本性)な行為」あるいは「超自然な行為」という区別です。
人間の本性に織り込まれている能力と習慣とによってだけ生じる行為の場合、「自然な行為」と言います。
他方、超自然な能力によって発生する場合、例えば愛徳によって生じる行為の場合、「超自然な行為」と言います。例えば、人に施しを与える、貧乏人に金を与えるというのは、「慈悲」をもってだけの気持ちで成す行為の場合、「自然な行為」に留まります。自然な能力より生じる行為だからです。
しかしながら、天主の栄光のために、天主の愛に動かされて成された行為の場合、超自然な行為です。なぜかというと、超自然なる聖徳によって発生する行為だからです。
以上のように、人間的な行為を区別する幾つかの方法をご紹介しました。
~~
人間的な行為、あるいは「意志的な行為」は、多少邪魔されることや、多少軽減されることがあります。つまり、幾つかの理由、幾つかの原因のせいで、ある行為は「人間的な行為」でありながらも、完全な行為ではなく、多少「人間性」を失うというか、ある程度「意志的な力を失った」がしかし「人間的な行為」ということです。
逆に言うと、理由・原因次第で、ある「人間的な行為」はよりその「人間性」を増やし、より意志的な行為となることもあります。言い換えると、人間的な行為には、その行為をより「道徳的に強く」する理由、あるいは「道徳的に弱く」する理由がある、ということです。
手短にご紹介する必要があるのは、どういった要素が、ある「行為」の意志的な程度を邪魔する、あるいは軽減するかという点です。
第一に、知性においてどういった要素が意志的な程度を邪魔するでしょうか。完全に意志的な行為となるのを邪魔する要素は何でしょうか?
「無知」です。「無知」といっても、種類はいくつかあります。
主に「無知」には二つの種類があります。「克服できない無知」と「克服できる無知」との二つです。
「無知」とは何なのでしょうか。「知識の欠陥」です。ただし、「持つべき」知識の欠陥としての「無知」です。道徳論上の用語でいうと、持つべき知識の欠陥としての「無知」と、持たなくても良い知識の欠陥としての「不知」という言葉で区別します。
「不知」というのは、「何かを知らない」ことですが、道徳上に知らなくても良いことを指します。
他方、道徳上の「無知」というのは、確かに「知らないこと」ですが、本来ならば知っているべきことです。
そこで、「無知」に対して、更に二つの無知を区別します。「克服できない無知」と「克服できる無知」です。つまり、本来ならば知っているべきでありながら、どうしてもそれを知ることが不可能だった場合、「克服できない無知」と言います。
他方で、本来ならば知っているべきで、ちょっとすれば知ることが可能だった「克服できる無知」です。
前者の無知、本来ならば知るべきでありながら、どうしても置かれたその個別の状況でそれを知るすべがなかった、それを知ることが不可能だった場合の「克服できない無知」で、これは行為の「意志的な程度」を軽減する要素です。
時には、克服できない無知によって、ある行為の道徳性が消滅することもあります。
他方、「克服できる無知」は、つまり、ちょっと努力して無知を解けたはずで、つまり弁護できない無知をもって遂げられた行為は、その意志的な程度を軽減することはないどころか、時にはその行為を罪深くします。
「ある悪い行為」をなしたが、「(悪いことだと)知ることができたはずなのに知らなかった」と言いながら、その悪しき行為をなした人は悪いわけです。例えば、試験を受ける生徒が授業を復習していないから答えが分からないといった場合、この生徒は悪いのです。
逆に言うと、試験のある質問の答えを知らなかったが、授業で教わらなかった課題だったからその答えを知らなかったという場合、その生徒は悪いわけではありませんね。許せる「無知」です。「克服できない無知」です。
以上のような要素は、行為の「意志の程度」を軽減し、消滅し、邪魔する第一の要素・原因です。
他の要素は意志において見つかります。三つあります。
「意志的な程度」を軽減する第一の要素は「情念」です。
ここでいう「情念」は「罪の根源」という意味ではなく、「感覚上の欲望」を指します。
人間なら皆「感覚上の欲望」が備わっています。そして、「感覚上の欲望」により生じる行為は「情念的な行為」と呼ばれています。つまり、ここで言うと「情念」は「感覚上の欲望の動き」を指し、その動きのせいで「意志的な行為」の程度を軽減することがあります。
特に、激情が、意志に先立つ場合がそうです。例えば、抑え切れない「愛情の動き」あるいは「嫌悪の動き」がある場合、あるいは「激怒の熱情」がいきなり、不本意に情念から生じる場合、または、その時に激情のせいで意志が邪魔されて、暗くされる場合です。意志が「激情の動きによって引っ張られる」かのような場合です。つまり、激情があまりに激しく、意志がその激情を抑えようとしても抑えきれないという場合です。そういった場合に限って、激情という要素が、行為の意志の程度を軽減します。
勿論、その意志の程度が消滅することはありませんが、それを軽減するのです。というのも、激情が意志を「奪い取る」かのようなことがあるからです。それでも、激情によっても意志は消滅されていないのです。この意味に限って、激情はある行為の意志的な程度を軽減することがあります。
「意志的な程度」を軽減する第二の要素は「恐れ」です。「恐れ」というのは「現在また未来にある危険によって精神上に生じる不安」です。「深刻な恐れ」だと、つまり例えば、外から強いられた「死ぬ危険」から生じる「恐れ」の場合、罪の言い訳になることがあります。
外から強いられたというのは、地震のような自然な原因もあれば、「拳銃が私に向けられている」というような人間的な原因も含める「外から」強いられた「深刻な恐れ」です。その場合、罪の言い訳になることがあります。
しかしながら、だからといって、本質的に悪い行為の言い訳になることは完全に不可能です。言い換えると、「恐れの影響に置かれて」成された幾つかの行為が本質的に悪い行為でもない場合、罪になっても弁護されることはありますが、恐れがあるからといって、本質的に悪い行為の場合、その罪が許されることはそもそもありません。例えば、「天主を否認する」という行為は場合を問わず必ずいつも「悪い行為」です。外から強いられて深刻な恐れを被っても、天主の否認の言い訳にはなりえないのです。深刻な恐れがあっても、天主を否認することは許可される場合がありません。本質的に悪い行為だった場合、絶対に許可され得ない行為です。他方、場合によって、「恐れ」によって行為の意志的な程度を軽減することがあります。
最後に、「意志的な程度」を軽減する第三の要素は「暴力」です。暴力というのは、「外から強いられた〈自由の拘束〉であって、ある人を強制すること」です。従って、ある人が暴力の下に成された行為は「強制的にやらせられた行為」です。恐れだけはなく、暴力がありますので、外にある「原因」が無理矢理に自分を動かすというのです。その分、自分が成す外面的な行為を強制することになります。しかし、だからといって、自分の内面的な意志が同意するとは限りません。それは暴力を受ける場合です。
もちろん、暴力を受けても、その人は自分を守る為に戦うべきですし、一切同意してはならないという前提でありますが、その場合に暴力を受けながら強制された行為は弁護されることがあります。自分の意志に反して不本意に強制された行為だからです。
以上「意志的な程度」を軽減する四つの場合をご紹介しました。
そして、道徳的な行為、つまり意志的な行為による「帰結」は二つあります。
一、行為自体から見た帰結、そして、
二、行為をした人から見た帰結です。
行為自体から見ると、意志的な行為は行為を成した人に帰すべき行為です。言い換えると、意志的な行為というのは、その行為を成した人の「持ち物」であって、彼がその責任を負うということです。あえていえば、その行為は「その行為を成した人」の「結果」です。例えて言うと、「暑さあるいは光が太陽による結果」であると同じように、意志的な行為は「ある人に帰すべき」だということであって、ある結果がある原因に帰すると同じように、意志的な行為は意志のある特定に人に帰すべきです。
つまり、行為から見ると、その行為は誰かに「帰しうる」ということです。
他方、行為を成す人から見ると、「その人はその行為に対して責任を負う」ということです。そして、責任を負うのなら、その責任を取るべきだという意味をしています。「責任」があるということは、その行為の責任を取るべきだということです。
要約すると、次のことだけを覚えておきましょう。本物の「人間的な行為」というのは、「考えておこなわれた行為であって、意識して行われた行為であって、意志をもって行われた行為」だということです。
言い換えると、「知性と意志」より生じる行為だということです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第七十三講 道徳の一般原則・人間の行為について
道徳編の第一部は、道徳の一般原則です。そこで、人間的な行為についてご紹介したいと思います。道徳とは「人間的な行為あるいは人が行動することを律する実践的な学問」です。したがって、最初に人間的な行為というのは一体どういったものなのかを考えてみましょう。
人が行動するということとは一体何でしょうか。
人間的な行為とは、「人間としての人間により発する行為」ということです。言い換えると「(人間の本性を成す)知性と意志により発する行為」です。一言で要約してみると、人間的な行為は、思考した行為であり、故意の行為です。万物の被創造物の中で、人間を特徴づけるのは「知性と意志」が備わっているということです。意志といった時、「自由」も含まれます。人間的な行為というのは、「人間の本性全体をもって、ある人が成す行為」です。言い換えると「知性をもって、意志をもって」の行為です。
つまり、人間的な行為は「思考してやった行為」であって、「知りつつやった行為」、「考えてやった行為」、「故意の行為」で、「完全な意志をもって成し遂げられた行為」です。人間的な行為は、以上のような行為です。
そこで、人間が行為するに当たって、行為に対する完全な認識が欠如している場合、或いは行為に対する完全な意志が欠如している場合、その個別の行為は厳密に言うと完全に人間たる行為ではありません。というのも、「意志と知性」から発しない行為なので、完全な人間たる行為とはなりえないからです。この場合「不完全な行為」といいます。または(人間的な行為ではなく)「人間の行動」とも呼ばれます。
たとえば、夜中に不本意に歩きだす夢遊病の者は「自分が何をやっているか、何の行動をするかを完全に認識していない」状態です。従って、夢遊病の者が眠りながら行う行動は「人間的な行為」ではありません。いわゆる単なる「人の行動」です。便宜上に「人の行動」とは、当然ながら「人が行う行為」を指しながら、人間を特徴づける本性、つまり「意志と知性」をもって成し遂げられた行為ではない、という意味を持つ表現です。人間の行う「行動」に過ぎません。
「人間的な行為」とは道徳の対象となる行為のことです。つまり、ある人が自分の動きで、完全に成す行為です。また、自由に、いわゆる「意識して」成す行為です。完全な意志をもっての「人間的な行為」です。要約すると、「知性と意志」より発生するのが「人間的な行為」です。
以上の定義を見ますと、完全に人間的な行為、あるいは「完全に道徳上の行為」になる為に何が邪魔になるかが見えてくるでしょう。
例えば、先ほど、行為に対して知性が欠けた夢遊病の例を取り上げました。その他、知性が障害される別の可能性もあります。そういった場合、知性の欠如が、完全な意志をもって行うということを邪魔する場合です。
~~
以上は人間的な行為の定義でした。
次に、「人間的な行為」あるいは「意志的な行為」の幾つかの種類を区別してみましょう。なぜ「意志的な行為」という表現を使うかというと、「意志をもって行為を行う」には、通常ならば、「知性」が暗に前提になっているからです。
というのも、人間において「知性」とは、「光」を持つ能力であって、「真理を把握することができる」能力です。知性をもって、知性に照らして、人間が行為を決めるために、知性は意志を知性の光で照らします。
従って、「人間的な行為」というのは「意志的な行為」です。というのも、最終的に「意志によって行われる」からです。知性は物事を知り、意識して真偽を分別し、そして意志を照らし、意志を動かしますが、意志は行為を勧め、行為するように全体を動かすのです。従って、人間的な行為は必ず「意志的な行為」です。
続いて、「人間的な行為」について語る時に、幾つかの方法で区別することがあります。
例えば、ある「人間的な行為」に対して「誘発的」であるか「命令的」であるかといった形容を使ったりします。「誘発的」な行為の場合、直接に、仲介なく、意志により生じる行為です。意志の自発的な行為であって、意志だけから来る特有の行為です。例えば「愛すること」あるいは「憎むこと」はなどはそういった行為です。
他方「命令的」な行為の場合、別の能力へと意志が命じて発生するものです。といっても勿論意志を通じて成し遂げられる行為です。例えば、「歩く」というのは、意志が幾つかの別の能力に命じて、行為が発します。
別の区別もあります。行為は「外面的」であるか、「内面的」であるかという区別です。この区別は大事です。というのも、「人間的な行為」というのは必ずしも「身体をもって行われる」行為ではないからです。
「行為」とは、大体の場合、「行動する」ということが頭に浮かんで、「外面的な行為だ」と思いがちです。しかしながら、そうとは限りません。注意しましょう。内面的な行為も「人間的な行為」として成り立つのです。というのも、内面的な行為も「意志により発生する」行為ですから。例えば「何かについて考える」という行為は条件が揃えば、意志的な行為になりうるのです。つまり「これについて考えることを決めて、意図的に「これ」について考えている」といったような場合は、意志的な行為です。こういった場合は、外面的にみると何もわからないままです。完全に内面的な行為でありながら、やはり「人間的な行為」です。「知性と意志によって発する」思考ですから。
次に、人間的な行為に対して、別の区別もあります。「善い行為」、「悪い行為」、「中立な(善悪関係ない)行為」という区別です。
善い行為というのは道徳の法に適った行為です。
悪い行為というのは道徳の法に反する行為です。
中立な行為というのは「その行為自体は、道徳の法と無関係だ」という場合です。例えば、「歩く」という行為自体は道徳の法と関係はありません。善悪と無関係です。例えば、「休む」という行為実体は善悪と無関係であって、道徳の法と無関係です。
また、人間的な行為に対して、別の区別もあります。「自然(本性)な行為」あるいは「超自然な行為」という区別です。
人間の本性に織り込まれている能力と習慣とによってだけ生じる行為の場合、「自然な行為」と言います。
他方、超自然な能力によって発生する場合、例えば愛徳によって生じる行為の場合、「超自然な行為」と言います。例えば、人に施しを与える、貧乏人に金を与えるというのは、「慈悲」をもってだけの気持ちで成す行為の場合、「自然な行為」に留まります。自然な能力より生じる行為だからです。
しかしながら、天主の栄光のために、天主の愛に動かされて成された行為の場合、超自然な行為です。なぜかというと、超自然なる聖徳によって発生する行為だからです。
以上のように、人間的な行為を区別する幾つかの方法をご紹介しました。
~~
人間的な行為、あるいは「意志的な行為」は、多少邪魔されることや、多少軽減されることがあります。つまり、幾つかの理由、幾つかの原因のせいで、ある行為は「人間的な行為」でありながらも、完全な行為ではなく、多少「人間性」を失うというか、ある程度「意志的な力を失った」がしかし「人間的な行為」ということです。
逆に言うと、理由・原因次第で、ある「人間的な行為」はよりその「人間性」を増やし、より意志的な行為となることもあります。言い換えると、人間的な行為には、その行為をより「道徳的に強く」する理由、あるいは「道徳的に弱く」する理由がある、ということです。
手短にご紹介する必要があるのは、どういった要素が、ある「行為」の意志的な程度を邪魔する、あるいは軽減するかという点です。
第一に、知性においてどういった要素が意志的な程度を邪魔するでしょうか。完全に意志的な行為となるのを邪魔する要素は何でしょうか?
「無知」です。「無知」といっても、種類はいくつかあります。
主に「無知」には二つの種類があります。「克服できない無知」と「克服できる無知」との二つです。
「無知」とは何なのでしょうか。「知識の欠陥」です。ただし、「持つべき」知識の欠陥としての「無知」です。道徳論上の用語でいうと、持つべき知識の欠陥としての「無知」と、持たなくても良い知識の欠陥としての「不知」という言葉で区別します。
「不知」というのは、「何かを知らない」ことですが、道徳上に知らなくても良いことを指します。
他方、道徳上の「無知」というのは、確かに「知らないこと」ですが、本来ならば知っているべきことです。
そこで、「無知」に対して、更に二つの無知を区別します。「克服できない無知」と「克服できる無知」です。つまり、本来ならば知っているべきでありながら、どうしてもそれを知ることが不可能だった場合、「克服できない無知」と言います。
他方で、本来ならば知っているべきで、ちょっとすれば知ることが可能だった「克服できる無知」です。
前者の無知、本来ならば知るべきでありながら、どうしても置かれたその個別の状況でそれを知るすべがなかった、それを知ることが不可能だった場合の「克服できない無知」で、これは行為の「意志的な程度」を軽減する要素です。
時には、克服できない無知によって、ある行為の道徳性が消滅することもあります。
他方、「克服できる無知」は、つまり、ちょっと努力して無知を解けたはずで、つまり弁護できない無知をもって遂げられた行為は、その意志的な程度を軽減することはないどころか、時にはその行為を罪深くします。
「ある悪い行為」をなしたが、「(悪いことだと)知ることができたはずなのに知らなかった」と言いながら、その悪しき行為をなした人は悪いわけです。例えば、試験を受ける生徒が授業を復習していないから答えが分からないといった場合、この生徒は悪いのです。
逆に言うと、試験のある質問の答えを知らなかったが、授業で教わらなかった課題だったからその答えを知らなかったという場合、その生徒は悪いわけではありませんね。許せる「無知」です。「克服できない無知」です。
以上のような要素は、行為の「意志の程度」を軽減し、消滅し、邪魔する第一の要素・原因です。
他の要素は意志において見つかります。三つあります。
「意志的な程度」を軽減する第一の要素は「情念」です。
ここでいう「情念」は「罪の根源」という意味ではなく、「感覚上の欲望」を指します。
人間なら皆「感覚上の欲望」が備わっています。そして、「感覚上の欲望」により生じる行為は「情念的な行為」と呼ばれています。つまり、ここで言うと「情念」は「感覚上の欲望の動き」を指し、その動きのせいで「意志的な行為」の程度を軽減することがあります。
特に、激情が、意志に先立つ場合がそうです。例えば、抑え切れない「愛情の動き」あるいは「嫌悪の動き」がある場合、あるいは「激怒の熱情」がいきなり、不本意に情念から生じる場合、または、その時に激情のせいで意志が邪魔されて、暗くされる場合です。意志が「激情の動きによって引っ張られる」かのような場合です。つまり、激情があまりに激しく、意志がその激情を抑えようとしても抑えきれないという場合です。そういった場合に限って、激情という要素が、行為の意志の程度を軽減します。
勿論、その意志の程度が消滅することはありませんが、それを軽減するのです。というのも、激情が意志を「奪い取る」かのようなことがあるからです。それでも、激情によっても意志は消滅されていないのです。この意味に限って、激情はある行為の意志的な程度を軽減することがあります。
「意志的な程度」を軽減する第二の要素は「恐れ」です。「恐れ」というのは「現在また未来にある危険によって精神上に生じる不安」です。「深刻な恐れ」だと、つまり例えば、外から強いられた「死ぬ危険」から生じる「恐れ」の場合、罪の言い訳になることがあります。
外から強いられたというのは、地震のような自然な原因もあれば、「拳銃が私に向けられている」というような人間的な原因も含める「外から」強いられた「深刻な恐れ」です。その場合、罪の言い訳になることがあります。
しかしながら、だからといって、本質的に悪い行為の言い訳になることは完全に不可能です。言い換えると、「恐れの影響に置かれて」成された幾つかの行為が本質的に悪い行為でもない場合、罪になっても弁護されることはありますが、恐れがあるからといって、本質的に悪い行為の場合、その罪が許されることはそもそもありません。例えば、「天主を否認する」という行為は場合を問わず必ずいつも「悪い行為」です。外から強いられて深刻な恐れを被っても、天主の否認の言い訳にはなりえないのです。深刻な恐れがあっても、天主を否認することは許可される場合がありません。本質的に悪い行為だった場合、絶対に許可され得ない行為です。他方、場合によって、「恐れ」によって行為の意志的な程度を軽減することがあります。
最後に、「意志的な程度」を軽減する第三の要素は「暴力」です。暴力というのは、「外から強いられた〈自由の拘束〉であって、ある人を強制すること」です。従って、ある人が暴力の下に成された行為は「強制的にやらせられた行為」です。恐れだけはなく、暴力がありますので、外にある「原因」が無理矢理に自分を動かすというのです。その分、自分が成す外面的な行為を強制することになります。しかし、だからといって、自分の内面的な意志が同意するとは限りません。それは暴力を受ける場合です。
もちろん、暴力を受けても、その人は自分を守る為に戦うべきですし、一切同意してはならないという前提でありますが、その場合に暴力を受けながら強制された行為は弁護されることがあります。自分の意志に反して不本意に強制された行為だからです。
以上「意志的な程度」を軽減する四つの場合をご紹介しました。
そして、道徳的な行為、つまり意志的な行為による「帰結」は二つあります。
一、行為自体から見た帰結、そして、
二、行為をした人から見た帰結です。
行為自体から見ると、意志的な行為は行為を成した人に帰すべき行為です。言い換えると、意志的な行為というのは、その行為を成した人の「持ち物」であって、彼がその責任を負うということです。あえていえば、その行為は「その行為を成した人」の「結果」です。例えて言うと、「暑さあるいは光が太陽による結果」であると同じように、意志的な行為は「ある人に帰すべき」だということであって、ある結果がある原因に帰すると同じように、意志的な行為は意志のある特定に人に帰すべきです。
つまり、行為から見ると、その行為は誰かに「帰しうる」ということです。
他方、行為を成す人から見ると、「その人はその行為に対して責任を負う」ということです。そして、責任を負うのなら、その責任を取るべきだという意味をしています。「責任」があるということは、その行為の責任を取るべきだということです。
要約すると、次のことだけを覚えておきましょう。本物の「人間的な行為」というのは、「考えておこなわれた行為であって、意識して行われた行為であって、意志をもって行われた行為」だということです。
言い換えると、「知性と意志」より生じる行為だということです。