白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
前回まで、信経を各条にてご紹介してきました。信経というのは、救われるために信じるべき真理です。
今回から公教要理の第二部へ移りたいと思います。思い出しましょう。公教要理には三部があります。信じるべき真理。これは信経です。イエズスは「私は真理である」と仰せになりました。
救われるために実践すべき行為は、第二部で説明されます。道徳です。イエズスは「私は道である」と仰せになりました。そしてその道の実践の模範を自らの一生において与え給うたのです。
第三部は、救われるために、実践すべき行為を実際に行うための方法(秘跡)です。イエズスは「私は命である」と仰せになりました。
公教要理の第二部は、天国に入るために実践すべき行為についてです。道徳と呼ばれます。
というのも、救われるために、信じるだけでは足りないからです。信じて、信仰を実践する必要があります。我々の行為において、信仰を具現化し、表すべきだということです。
我々人間は、知性と意志が一致する存在です。知る、働く、この両方です。だから、我々が習った真理、また知っている信仰を、我々の人生において実践し具現化すべきです。これがまさに道徳です。
例えてみると、ピアノを弾く者が「私はピアニストです」といっただけでは、ピアニストになりません。ピアニストである証拠は実際に「ピアノを弾く」ことです。そうしてはじめて彼がピアニストであることが分かります。言うことはかまいませんが、それと行動・行為とは別です。「真実」であるために、言葉と行為が合うために、ピアニストはピアノを実際に弾かなければなりません。つまり、本物のピアニストは「実際にピアノを弾く者」です。
同じように、キリスト教徒という者は天国に入るために必要となる真理を知りながら、啓示された真理を信経において知り、これらの真理の内に実際に生き、踏襲し、実践してはじめて本物のキリスト教徒です。この実践が道徳と呼ばれる分野です。
聖ヤコボは次のようにおっしゃいます。「霊のない体が死んでいるように、善業のない信仰も死んでいる」 と。
また、聖マテオの福音において、私たちの主は次のように仰せになりました。「私に向かって<主よ、主よ>と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」 と。
要するに「主よ」というだけでは足りないのであって、父のみ旨を果たすことが必要です。
「私を遣わされたお方のみ旨を行い、その御業を果たすことが私の食べ物である。」 と私たちの主は仰せになりました。
~~
このようにして、公教要理の第二部は、「道徳」と呼ばれる分野となります。キリスト教徒が実践すべき道、果たすべき業、取るべき行為・行動についてです。
道徳とは一体何なのでしょうか。定義はこうです。「道徳とは実践的な学である。」
実践的とは、働き・行為を対象にするからです。「実践的な学問である」とは、「行動を律する学問である」ということです。ここでいう「律する」というのは、「指導する」というニュアンスがあります。規則の語源は「定規」という意味ですが、一線を真っすぐ書くための道具という意味であって、「一線を規する」ということですね。
道徳上の規則は行為を導くものです。どういった「定規」かというと、我々の究極的な目的地である「至福直観」に入るために啓示に織り込まれている原理に基づく「諸規則」です。
言い換えると、啓示とは、信じるべき真理を我々に教えます。つまり、どこへ向かったらよいか、どこに行けばよいかを教えるのです。そして、さらに啓示は我々が何を実践すべきかをも教えます。信じる真理との一貫性の内に生き、目的地を知るだけではなく、実際に目的地まで辿り着くためにどうすべきか、です。その辿り着く目的地は「至福直観」です。
従って、道徳とは、キリスト教の道徳しかありません。言い換えると、「至福直観」あるいは永遠の命あるいは我々の究極的な目的地まで辿り着く「道」だけがあって、唯一の道です。これがカトリック道徳、またはキリスト教の道徳です。
カトリックの道徳は「自然道徳」よりも優位な地位に立つものです。当然、カトリック道徳は「自然道徳」を破壊することはありません。その逆です。カトリック道徳は「自然道徳」を基礎にしています。「自然道徳」とは、人間の「自然あるいは本性」に織り込まれている道徳を指します。また、我々が常に実践する自然な行為を対象にしている道徳です。
カトリックの道徳は自然道徳を受け入れ、さらに何かを付け加えます。自然法あるいは自然道徳を完全化させるのが、カトリックの道徳です。
カトリックの道徳は自然道徳より完璧ですが、それはなぜでしょうか。
【第一】、原理においてより完璧です。自然道徳は、理性と知性によってだけ律せられます。他方、カトリックの道徳は、信仰あるい啓示によって律せられます。理性よる智慧を含め、理性によって手に入らない智慧も付け加わるのです。
【第二】、対象においてもカトリックの道徳はより完璧です。なぜかというと、また後述しますが人間の本性に織り込まれている掟を実践する(自然道徳)際に、カトリックの道徳は天主ご自身が「行え」と命令された掟をも実践するからです。
【第三】に、目的においても、カトリックの道徳はより完璧です。なぜなら、自然道徳は自然な目的へ導きます(例えば社会の平和とか)が、他方、カトリックの道徳は超自然な目的へ導くからです。というのも、天主は自然な次元を超えて、人間を超自然な次元まで高めようとなさっているからです。公教要理において「永遠の命」という信条がありますが、まさにそれです。天主ご自身の生命を人間と分かち合うことを望まれ、我々に注ぎ給う「超自然の聖寵」があります。
つまり、カトリックの道徳は人間の行動・行為を律する掟・原理であって、そして、その道をしっかりと歩むなら、ほぼ間違いなく「永遠の命」あるいは「至福直観」という目的地まで辿り着くでしょう。
~~
カトリックの道徳について、諸誤謬があります。というのは、何かカトリックの道徳から独立した「道徳」があるかのように言われたりするからです。いわゆる「市民道徳」といったようなことですね。あえて言えば、「世俗上の道徳」とも呼ばれるものです。
しかしながら、こういった宗教なき「世俗上の道徳」は考慮する価値がありません。宗教を無視する故に、虚しい道徳です。「世俗上の道徳」は、カトリックの道徳はもちろん、自然法をすら無視しています。
この「市民道徳」の唯一の基礎は「個人の良心」にある、つまり「人間」にあるとされています。しかしながら、こうなると、もう道徳であるとは言えません。なぜかというと、道徳の原則が個人の良心になってしまったら、一人一人が違う「道徳」を持つようになるからです。こうなると、普遍的な道徳はなくなり、ある種の無秩序主義になるに過ぎないからです。
市民の道徳、あるいは世俗上の道徳、あるいは独立・自律した道徳といった類のものは、人間を原則にして、人間を目的にする挙句、無秩序を生むのです。なぜかというと、結局、人々は何も普遍的な原則を認めなくなるので、自分の「流儀」で何でも片付けるからです。そして、皆自分を守る為に何とかするのです。
以上の道徳を行うと、正に、ホッブスが『レヴィアタン』という本において言った「万人は万人に対して狼」という状態になってしまいます。確かに、市民道徳、あるいは世俗化された道徳、あるいは独立した道徳を採用すると、「万人は万人に対して狼」になるしかありません。こういった道徳の一番悲劇的なところは、結局一番弱き者、不正にあう者たちが、正義を求めようがなくなる状態となることです。彼らが犠牲になるのです。
要するに、独立した道徳というのは、意味のないことです。
逆に、どう見てもキリスト教の道徳が、一番優秀です。
第一、その道徳の基礎は天主であり、またその道徳の作成者は天主です。その上、その道徳の目的は、また天主です。そして、天主は至上の善ですから、我々人間には、皆、どうしても善を取得したいという渇望・本能があります。できるだけ完璧な善を取得したいとみんな思っています。ところで天主は「至上の善」なので、カトリックの道徳は、天主をその基礎、かつその目的にしているので、至上完全な道徳になるのです。この道徳の中身も一番完璧です。
カトリックの道徳は完全完璧です。なぜかというと、イエズス・キリストは、我々の本性を受け入れ、さらに、我々の本性を高め、追加の何か(超自然)を我々の本性に付け加えたので、最初になかったことを付け加えて「完全化」したからです。だから、カトリックの道徳は自然道徳よりも完全であって完璧だといえます。
そして最後に、天主が不変であり、普遍的であると同じように、カトリックの道徳も不変であり、普遍的です。だから、カトリックの道徳はすべての完全性を持っています。
この道徳こそを実践すべきです。
これから、この道徳をご紹介していきたいと思います。四部に分かれます。
第一部では、道徳の全般原理をご紹介します。主に、「人間的な行為」についての話です。というのも、道徳とは「行為を行う」ことについてなので、「人間的な行為」とはなんであるか、どういったことで成り立つかをご紹介します。
第二部では、「聖徳と罪」を説明していきたいと思います。その時に詳しく説明しますが、一言で言うと、「善き行為と悪き行為」です。
第三部では、「掟」について説明していきます。掟とは、天主が決めて命令した掟・戒めです。善悪の基準でもあります。
最後に第四部で、手短にしますが、天主が「十戒」に付き加えた、三つの「福音的な勧告」についてご紹介します。また「福音的な至福」も含まれています。
以上が、道徳の部の四つの部分です。
第一部は「人間的行為」と「道徳生活の全般の原理」です。
第二部は「聖徳と罪」です。
第三部は「十戒」です。
第四部は「福音的な勧告と至福」です。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第七十二講 道徳について
前回まで、信経を各条にてご紹介してきました。信経というのは、救われるために信じるべき真理です。
今回から公教要理の第二部へ移りたいと思います。思い出しましょう。公教要理には三部があります。信じるべき真理。これは信経です。イエズスは「私は真理である」と仰せになりました。
救われるために実践すべき行為は、第二部で説明されます。道徳です。イエズスは「私は道である」と仰せになりました。そしてその道の実践の模範を自らの一生において与え給うたのです。
第三部は、救われるために、実践すべき行為を実際に行うための方法(秘跡)です。イエズスは「私は命である」と仰せになりました。
公教要理の第二部は、天国に入るために実践すべき行為についてです。道徳と呼ばれます。
というのも、救われるために、信じるだけでは足りないからです。信じて、信仰を実践する必要があります。我々の行為において、信仰を具現化し、表すべきだということです。
我々人間は、知性と意志が一致する存在です。知る、働く、この両方です。だから、我々が習った真理、また知っている信仰を、我々の人生において実践し具現化すべきです。これがまさに道徳です。
例えてみると、ピアノを弾く者が「私はピアニストです」といっただけでは、ピアニストになりません。ピアニストである証拠は実際に「ピアノを弾く」ことです。そうしてはじめて彼がピアニストであることが分かります。言うことはかまいませんが、それと行動・行為とは別です。「真実」であるために、言葉と行為が合うために、ピアニストはピアノを実際に弾かなければなりません。つまり、本物のピアニストは「実際にピアノを弾く者」です。
同じように、キリスト教徒という者は天国に入るために必要となる真理を知りながら、啓示された真理を信経において知り、これらの真理の内に実際に生き、踏襲し、実践してはじめて本物のキリスト教徒です。この実践が道徳と呼ばれる分野です。
聖ヤコボは次のようにおっしゃいます。「霊のない体が死んでいるように、善業のない信仰も死んでいる」 と。
また、聖マテオの福音において、私たちの主は次のように仰せになりました。「私に向かって<主よ、主よ>と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」 と。
要するに「主よ」というだけでは足りないのであって、父のみ旨を果たすことが必要です。
「私を遣わされたお方のみ旨を行い、その御業を果たすことが私の食べ物である。」 と私たちの主は仰せになりました。
~~
このようにして、公教要理の第二部は、「道徳」と呼ばれる分野となります。キリスト教徒が実践すべき道、果たすべき業、取るべき行為・行動についてです。
道徳とは一体何なのでしょうか。定義はこうです。「道徳とは実践的な学である。」
実践的とは、働き・行為を対象にするからです。「実践的な学問である」とは、「行動を律する学問である」ということです。ここでいう「律する」というのは、「指導する」というニュアンスがあります。規則の語源は「定規」という意味ですが、一線を真っすぐ書くための道具という意味であって、「一線を規する」ということですね。
道徳上の規則は行為を導くものです。どういった「定規」かというと、我々の究極的な目的地である「至福直観」に入るために啓示に織り込まれている原理に基づく「諸規則」です。
言い換えると、啓示とは、信じるべき真理を我々に教えます。つまり、どこへ向かったらよいか、どこに行けばよいかを教えるのです。そして、さらに啓示は我々が何を実践すべきかをも教えます。信じる真理との一貫性の内に生き、目的地を知るだけではなく、実際に目的地まで辿り着くためにどうすべきか、です。その辿り着く目的地は「至福直観」です。
従って、道徳とは、キリスト教の道徳しかありません。言い換えると、「至福直観」あるいは永遠の命あるいは我々の究極的な目的地まで辿り着く「道」だけがあって、唯一の道です。これがカトリック道徳、またはキリスト教の道徳です。
カトリックの道徳は「自然道徳」よりも優位な地位に立つものです。当然、カトリック道徳は「自然道徳」を破壊することはありません。その逆です。カトリック道徳は「自然道徳」を基礎にしています。「自然道徳」とは、人間の「自然あるいは本性」に織り込まれている道徳を指します。また、我々が常に実践する自然な行為を対象にしている道徳です。
カトリックの道徳は自然道徳を受け入れ、さらに何かを付け加えます。自然法あるいは自然道徳を完全化させるのが、カトリックの道徳です。
カトリックの道徳は自然道徳より完璧ですが、それはなぜでしょうか。
【第一】、原理においてより完璧です。自然道徳は、理性と知性によってだけ律せられます。他方、カトリックの道徳は、信仰あるい啓示によって律せられます。理性よる智慧を含め、理性によって手に入らない智慧も付け加わるのです。
【第二】、対象においてもカトリックの道徳はより完璧です。なぜかというと、また後述しますが人間の本性に織り込まれている掟を実践する(自然道徳)際に、カトリックの道徳は天主ご自身が「行え」と命令された掟をも実践するからです。
【第三】に、目的においても、カトリックの道徳はより完璧です。なぜなら、自然道徳は自然な目的へ導きます(例えば社会の平和とか)が、他方、カトリックの道徳は超自然な目的へ導くからです。というのも、天主は自然な次元を超えて、人間を超自然な次元まで高めようとなさっているからです。公教要理において「永遠の命」という信条がありますが、まさにそれです。天主ご自身の生命を人間と分かち合うことを望まれ、我々に注ぎ給う「超自然の聖寵」があります。
つまり、カトリックの道徳は人間の行動・行為を律する掟・原理であって、そして、その道をしっかりと歩むなら、ほぼ間違いなく「永遠の命」あるいは「至福直観」という目的地まで辿り着くでしょう。
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カトリックの道徳について、諸誤謬があります。というのは、何かカトリックの道徳から独立した「道徳」があるかのように言われたりするからです。いわゆる「市民道徳」といったようなことですね。あえて言えば、「世俗上の道徳」とも呼ばれるものです。
しかしながら、こういった宗教なき「世俗上の道徳」は考慮する価値がありません。宗教を無視する故に、虚しい道徳です。「世俗上の道徳」は、カトリックの道徳はもちろん、自然法をすら無視しています。
この「市民道徳」の唯一の基礎は「個人の良心」にある、つまり「人間」にあるとされています。しかしながら、こうなると、もう道徳であるとは言えません。なぜかというと、道徳の原則が個人の良心になってしまったら、一人一人が違う「道徳」を持つようになるからです。こうなると、普遍的な道徳はなくなり、ある種の無秩序主義になるに過ぎないからです。
市民の道徳、あるいは世俗上の道徳、あるいは独立・自律した道徳といった類のものは、人間を原則にして、人間を目的にする挙句、無秩序を生むのです。なぜかというと、結局、人々は何も普遍的な原則を認めなくなるので、自分の「流儀」で何でも片付けるからです。そして、皆自分を守る為に何とかするのです。
以上の道徳を行うと、正に、ホッブスが『レヴィアタン』という本において言った「万人は万人に対して狼」という状態になってしまいます。確かに、市民道徳、あるいは世俗化された道徳、あるいは独立した道徳を採用すると、「万人は万人に対して狼」になるしかありません。こういった道徳の一番悲劇的なところは、結局一番弱き者、不正にあう者たちが、正義を求めようがなくなる状態となることです。彼らが犠牲になるのです。
要するに、独立した道徳というのは、意味のないことです。
逆に、どう見てもキリスト教の道徳が、一番優秀です。
第一、その道徳の基礎は天主であり、またその道徳の作成者は天主です。その上、その道徳の目的は、また天主です。そして、天主は至上の善ですから、我々人間には、皆、どうしても善を取得したいという渇望・本能があります。できるだけ完璧な善を取得したいとみんな思っています。ところで天主は「至上の善」なので、カトリックの道徳は、天主をその基礎、かつその目的にしているので、至上完全な道徳になるのです。この道徳の中身も一番完璧です。
カトリックの道徳は完全完璧です。なぜかというと、イエズス・キリストは、我々の本性を受け入れ、さらに、我々の本性を高め、追加の何か(超自然)を我々の本性に付け加えたので、最初になかったことを付け加えて「完全化」したからです。だから、カトリックの道徳は自然道徳よりも完全であって完璧だといえます。
そして最後に、天主が不変であり、普遍的であると同じように、カトリックの道徳も不変であり、普遍的です。だから、カトリックの道徳はすべての完全性を持っています。
この道徳こそを実践すべきです。
これから、この道徳をご紹介していきたいと思います。四部に分かれます。
第一部では、道徳の全般原理をご紹介します。主に、「人間的な行為」についての話です。というのも、道徳とは「行為を行う」ことについてなので、「人間的な行為」とはなんであるか、どういったことで成り立つかをご紹介します。
第二部では、「聖徳と罪」を説明していきたいと思います。その時に詳しく説明しますが、一言で言うと、「善き行為と悪き行為」です。
第三部では、「掟」について説明していきます。掟とは、天主が決めて命令した掟・戒めです。善悪の基準でもあります。
最後に第四部で、手短にしますが、天主が「十戒」に付き加えた、三つの「福音的な勧告」についてご紹介します。また「福音的な至福」も含まれています。
以上が、道徳の部の四つの部分です。
第一部は「人間的行為」と「道徳生活の全般の原理」です。
第二部は「聖徳と罪」です。
第三部は「十戒」です。
第四部は「福音的な勧告と至福」です。