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告解に行くための手引き

2021年04月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 百二十二講 告解に行くための手引き



告解に行くための手引き
Gabriel Billecocq神父

前回は、改悛の秘跡をご紹介しました。今回は改悛の秘跡において、告解に行く者が行うべきことをご紹介したいと思います。
前回見たように、改悛の秘跡の遠因の質料は、洗礼を受けてから犯された罪、とりわけ大罪ということになります。
それに加えて、改悛の秘跡の遠因の質料は悔い改める者の三つの行いからなります。言いかえると、改悛者はそれらの三つの行いを実践して初めて、改悛の秘跡は効果があることになります。

その内の一つは内面的な行為であり、残りの二つは主に外的な行為となります。
具体的には、改悛するための三つの行為は次のようになっています。
第一、痛悔、あるいは遷善の決心です。
第二、告白です。
第三、償いです。
あえて言えば、告解前、告解中と告解後という区別で、殆どこの三つの行為と捉えて良いかもしれません。殆どですけど。

最初に痛悔という行為があります。この行為こそが一番大切です。内面的な行為でありますが、改悛の秘跡の基盤となるのがこの痛悔です。そして、痛悔はずっと続くようにすべきであり、本来ならば告解の前中後だけではなく、人生においてずっと痛悔の心を持つべきです。というのは、痛悔というのは改悛する、悔い改めるという徳となるからです。

では、痛悔あるいは遷善の決心とは何でしょうか?痛悔とは自分が罪を犯したことに対する内面的な痛み、またもう二度と罪を犯さないという断固たる決心をして、これらの罪を忌み嫌うということです。

第一、痛悔は内面的な痛みです。つまり天主を侮辱したことから来る痛みです。天主の良さに背き、その善さを見捨てたことから来る痛みです。罪を犯したことによって天主に背を向けたことから来る痛みです。罪とは天主から背を向けるという意味だからです。

痛悔とは内面的な痛みなのです。つまり、涙を流しても物足りないものです。こういった外面的な痛みだけではありません。内面的に深く悲しむことを意味します。そういった痛悔に至るためには、「告白の祈り(Confiteor)」を捧げるのがよいです。また、告解に行くまえに、詩編の第50、「Miserere」を読むのも良いでしょう。この詩編はダヴィド王が三重の罪といってもよい罪を犯した後にダヴィドが唱えたのです。

ダヴィド王はまず、視線において罪を犯しました。つまり自分の妻ではない女を欲しがったという罪を犯しました。それから第二の罪、ダヴィド王はその女と不倫関係となって、その間に子供がうまれました。で、不倫の結果に生まれた子供を見て、ダヴィド王が女の夫を殺させました。第三の罪です。



そのあと、ナタンという預言者はダヴィド王を厳しく戒めに来ました。天主はダヴィド王とその民を厳しく罰しました。その結果、ダヴィド王は深く悔い改めましたが、その時、詩編第50という美しい祈りを作りました。「天主よ、慈悲によって私を憐み、深い憐憫によって、私のとがを消し給え(Miserere mei, Deus, secundum magnam misericordiam tuam)」
この詩編をよむことをお勧めします。本当に美しくて、そしてこれを読むと内面的な痛悔をするための大きな助けとなります。要するに、天主を侮辱した後悔と悲しみという念を起こさせる詩編なのです。

痛悔には、罪を忌み嫌うことも含んでいます。これは、罪は天主の正反対であり、深く天主を悲しませて傷つけることであるということを理解しているからこそ忌み嫌うということです。また、天主を自分の霊魂から追い出す罪なので、罪を忌み嫌うということです。そして、痛悔の結果、罪を忌み嫌う結果、もうこんど二度と罪を犯さないという決心をして、遷善の決心ということも痛悔において含んでいます。
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Miserere mei
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告解という裁判所に出ても、痛悔を持たない者は赦しを頂けないことになります。いったい、痛悔していない罪を本当の意味で、赦すのは無理です。というのも、赦しを頂くためには、赦しを乞う前提がありますが、赦しを乞うためには痛悔する必要があります。いわゆる心を持って内面的に赦しを乞うために、犯した罪を痛悔して、忌み嫌って、もう侵さないように決心する必要があります。

「痛悔していない」というものが現れたら、赦しを乞うていないということになるので、当然、その場合、天主は赦しを与えることはできません。また、「回心しない。行動を改めない。同じ罪を犯すことにしている」というような態度で来たら、これは赦しを乞う態度ではないのです。というのも、もう、これから罪を侵さない決心をしないということは、罪を忌み嫌っていないということを意味します。

そして、罪を忌み嫌っていないということは、罪を愛着しているという意味です。従って、赦しを本格的に頂こうと思わないことになります。痛悔の心がない状態です。ですから、天主は赦しを与えようとしても、与えられるためには、赦しを乞うという前提がありますので、赦しを乞わなければ与えられません。それは悲劇的なことです。本当に。

ですから、痛悔の心になり、痛悔するように努力しましょう。告解に行くときはもちろんですが、告解の時だけではなく、常に痛悔するように努力しましょう。そうすると、告解に行くのも簡単になるし、赦しを頂くことも簡単になるし、またその効果も増えます。

というのも、思い出しましょう。改悛の秘跡によって永劫の罰は免れるとしても、限りある罰は残っています。で、罪を犯した分の限りある罰の多寡(たか=多い少ない)は痛悔の程度に依存しています。痛悔は磨けば磨くほど、限りある罰も減刑されます。ですから、毎日、寝る前に「糾明」して、反省して、自分の明かした罪を見つけて悔い改めるのです。



厳密に言うと、痛悔という時、二つの痛悔があるとされています。完全なる痛悔と不完全な痛悔です。

実際、完全なる痛悔を持っているかどうかを知るのは難しいです。それはともかく、不完全な痛悔というのは、いわゆる、罰と地獄を恐れているから、罪を忌み嫌うというような痛悔なのです。叱られることを恐れて、いたずらを後悔する子供と似ています。要は、父の罰がくるから、やったいたずらを後悔するという感じです。この後悔は正直です。本物の後悔です。本当に、罰してほしくないから、やったことを悔い改めています。しかしながら、完全なる後悔ではないということです。

痛悔も以上のような子供の気持ちと一緒です。しかしながら、不完全な痛悔だけでも、赦されるということです。天主は不完全な痛悔だけでも赦し給います。つまり、地獄を恐れているから痛悔しているというのが不完全な痛悔です。でも、改悛の秘跡が効くためには十分です。ご存じのように、我らの主は公生活の間、三年間、多くのお言葉を残しましたが、その内、「地獄」という言葉は非常に頻繁にお使いになっています。地獄に落ちるという罰、永劫の罰をおっしゃられ、イエズス・キリストは何度も我々を警告されたのです。

そして、それは良いことです。というのも、このような警告のお陰で、善き道から外れないとすれば我々は助かりますので、それは良いことです。親にとってはよくわかることだと思います。時に、悪をやるのならこの結果になるよということで、子供に警告してあげるおかげで、悪い方向へ行かないための助けとなります。

善き天主は我々をお創りになっただけに、我々の心理を深く理解してくださるので、その意味で、我々人間の性質に合わせておられます。ですから、地獄と永劫の実際に存在する罰を振りかざすことによっても、多くの霊魂は救われます。そういえば、地獄と永劫は実際に存在しますので、脅かすというよりも、警鐘を鳴らしてくださるようなもので、まさに警告してくださるのです。そうすることによっても、罪を悔い改めない場合、どういった目に合わされるかということ、つまり地獄と永劫の罰を見せることによって、我々の不完全な痛悔に誘ってくださるのです。

それはそれで、素晴らしいことで、救われるためには十分です。地獄に陥りたくないという不完全な痛悔をもつだけでも、告解に行って赦しを頂くのです。地獄を恐れることは非常に良い気持ちです。永劫の罰を免れたいという恐れの念は良いことです。聖書では、恐れの念は知恵に達するための第一歩だと記されている通りです。

それでは、完全なる痛悔とはなんでしょうか?完全なる痛悔とは霊魂が深く悲しんで、痛悔して、後悔していますが、今回は地獄を恐れているから悲しむのではなく、天主を侮辱したから、天主の言うことを聞いていなかったから、天主を悲しませたから、悲しくなるというようなことです。
要するに、天主を愛している気持ちから生じる痛悔です。

そういえば、相手を愛すれば愛するほど、相手を侮辱した時、その分、深く悲しみます。また、その分、深く後悔して、もう一度、愛する人が悲しまないように努力するということです。経験にてらしても、人間同士の赦しにおいてもこのようなことはわかることです。つまり、人が本当に痛悔しているのなら、いわゆる罰されるとかというよりも、やはり、悪いことをしたことを深く悲しんで気の滅入りという姿を見たら、「彼は本当に後悔している」ことがわかりますね。

たとえば、母を愛している息子が、母が悲しんでいる姿を見たら、耐えられないはずです。ですから、息子が母の悲しみの原因だったら、なおさら耐えられないことで、絶対に悲しませないように努力するはずです。というのも、母を愛しているのならそういう気持ちになります。天主に対しても同じです。

天主を愛すればするほど、天主の悲しみを見て、自分も悲しむようになります。そして、自分は天主の悲しみの原因であることがわかって、なおさら耐えられないことになって、もう天主を愛しているから、私はもう、天主を悲しませる罪を犯さないように全力を尽くすのです。このような痛悔は完全なる痛悔だと呼ばれています。

実際、このような完全なる痛悔に達するのは難しくて、本当に達しているかどうかはだれも言えないことです。しかしながら、達成さえしていれば、この完全なる痛悔はすでに赦しを得られるためには十分な条件ですが、その場合でも、告解に行く必要があります。
以上は、悔い改める者の第一の行いでした。痛悔でした。

改悛において、一番重要な行為は痛悔となります。痛悔はやはり、告解の時だけではなく、できるだけ、常に痛悔するように努力する必要があります。罪を犯さないためにも必要となります。改悛の徳の一環である痛悔だと言えます。ベネディクト修道士らは「悔恨」の徳と呼んでいます。

カトリック信徒は常に痛悔の徳を常に実践しているからといって、いわゆる悲しい人にならないわけですよ。ただ、罪の重さを知り、罪を犯すことによる弊害を知り、その分、罪を憎んで、侮ろうと常に努力します。それは悲しみとは別のことです。むしろ、カトリック信徒は赦されていることを知り、常に非常に喜んでいるのです。
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Miserere mei
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さて、悔い改める者の第二の行為は何でしょうか?告解そのもの実体です。つまり告白ですね。厳密に言うと、赦しの言葉を頂くため、自分が犯した罪を司祭に明かして咎めることです。罪の告白は司祭に言い表す必要があります。

具体的にいうと、改悛者は司祭のところに行きます。そして、跪きます。一般的に、信徒はこういいます。「神父様、多くの罪を犯したから、私を祝福してください。」あるいは、「神父様、私が犯した罪をよく告白するように、私を祝福してください。」

で、神父は祝福を与えます。この祝福は改悛者がよい告白ができるように聖寵が与えられています。

そのあと、並んでいる人々が少ない場合、改悛者は告白の祈りを唱えるのです。

そして、そのあと、罪を告白します。告白を準備するために、糾明するための善くできた栞(日本では公教会祈禱書)がありますので、それを参照するのがよいです。罪の種類などはリストされていて、良い糾明をするため、自分の罪を見つけるために助かります。なるべく、告白をよく準備しましょう。

大事なのは、改悛者は少なくともすべての大罪を告白すべきです。すべての大罪です。秘跡の質料なので、必要不可欠なのです。あと、告白の仕方ですが、罪を明かす時、簡素に明かしましょう。自分の罪だけを明かすので、他人の罪を言わないようにしましょう。また、事実通りに、正直に、慎みをもって明かしましょう。なるべく、大罪に関して、罪の数をも言いましょう。例えば、貞操の徳に背く行為をやった場合、その数あるいは頻繁さを明かすべきです。

たとえば、ミサに意図的に与らないことにした改悛者は何回、ミサに行かなかったことを明かすべきです。人を殺した者は何人を殺したか明かすべきです。大罪、つまり深刻な罪になると、その数をも明かすべきです。

もちろん、小罪を明かしてもいいですし、大罪がなくとも、小罪を明かすために告解にいくのが良いことです。ただ、罪を明かす時、必要な事情だけを言い表しましょう。いらない事情や細かいことは言わなくてもいいです。事情の説明は足りない場合、司祭は質問しますので、ご安心ください。



告白は無駄話ではありませんので、冗長になることは避けましょう。簡素で、手短にしながら、正確ではっきりとした言い方、すべての必要のことを言いましょう。つまり、すべての罪を明かしますが、罪だけを明かして、それ以上に言う必要はありません。いわゆる、罪と直接に関係ないその周りのすべての事情を言わなくてもいいですし、他人のことを問題にしなくてもよいです。言い訳もいりません。そうするために、例えば、次のような形で罪を明かすのがよいでしょう。

「神父様」。というのも、天主の代理人である神父に罪を言い表すから、「神父様」で始めるのがよいです。
「神父様、私が明かします。○○という罪を犯しましたので、私が私を咎めます」というような言い方でいいでしょう。簡素な形で、無駄話にならないようにかなり効果的だと思われます。ただ、言い訳しないようにしておきましょう。言い訳ではなくて、自分を咎めるということです。

もしも、大罪などはない場合、洗礼を受けてからの過去の大罪(つまり、すでに赦された大罪)を明かすのもよいです。
大事なのは、すべての大罪を明かすということです。もしも、やはり言いづらい罪がある時、どうしてもなんか言い出せない罪がある時、それは誰にもありますので、問題ではありません。ただ、その時、簡単に司祭に言いましょう。「神父様、罪を犯しましたが、どうしても言えなくて」、あるいは「明かしたいが、言いづらくて」

そして、司祭は穏やかに優しくて、質問したりすることによって、言えるようになるべく助けてくれますので、ご安心ください。またご遠慮なく、その助けを求めてください。大事なのは最終的に明かせるようになることです。こういった言いづらい罪を告白した暁には、どれほど、ほっとするか言い表せないことがありますので、本当にご遠慮なく、司祭の助けを。

逆にいえば、意図的に大罪を隠すことは、冒涜を犯す危険があります。言いかえると、告解の効果を失う危険に晒すという意味です。

そして、これはカトリック教会の素晴らしい点ですが、告解の際、告白されたすべてのことは厳格な秘密の義務が司祭にあります。この秘密の義務は絶対です。司祭の命が危険にさらされても、告解の秘密を守るべきです。司祭は告解の秘密を破るよりも死ぬべきです。(たとえば、殺人者がその罪を明かしても、司祭は裁判で証言してはいけません)

告解の時の司祭はあくまでも天主の代理人なのです。ですから、告解で聞いた物事について、天主だったかのように聞いたので、人間的な扱いはしてはいけません。言いかえると、告解で聞いたことに基づいて、告解の外に何かを判断するあるいは行動するのは絶対に禁止されています。
これらの保証はカトリック教会が設けたものですが、どれほどありがたいでしょうか!

あえていえば、改悛の秘跡においての司祭は本物のごみ箱です。ただ、罪を預かっているごみ箱ではなく、罪を潰して破壊するごみ箱なのです。言いかえると、底のないゴミ箱となるので、そこに罪を投げたら、罪は消えていきます。

ですから、自分の罪を明かすのは誰にとっても嫌なことですし、司祭を相手に罪を告白することも恥ずかしいし、年配の方が若い司祭を相手にしてでも、そういった不愉快な気持ちになることもあるのは普通なことですが、その時、こういった保証をおもい出しましょう。このような人間的な妨げを忘れましょう。司祭は司祭なので、誰であるかはどうでもいいことで、告解の時、司祭は底のないゴミ箱であり、罪を消していくための道具になります。天主が司祭という道具を通じて、罪を赦すのです。

要約しましょう。改悛者は告白します。罪を明かして、その重さ、種類、頻繁さなどを告白します。
そして、罪の告白が終わった時、次のような言葉で告白を締めるのがよいです。
「以上の罪を犯したことを明かして咎めて、また覚えていない罪や過去の罪をも咎めます。また、これらの罪の赦しを天主に希って、また、私はそれに値すると判断したら、神父様にその分の償いと赦しのお言葉を頂くように願います。」

そういえば、過去の罪、つまりすでに赦された罪を明かすのも可能ですし、いいですし、いわゆる、これらの罪への痛悔をより高めるために時によいことです。

そのあと、神父は一旦、改悛者にちょっと話します。激励なり、助言なり、慰めの言葉なり、警戒なり、時には痛悔はあるかどうかを確認するための質問なり。また、赦しを与えるために条件を付けることもあります。例えば、盗みだったら、盗まれた物を返す条件とか。あるいは、いわゆる罪の状態だった場合、もはやこの状態は続いていないことを確かめるようなこともあります。例えば、内縁関係にあったという罪だった場合、もはや同棲しないことを、内縁関係は終わっていることを確かめる必要があります。

そして、そのあと、司祭は贖罪のために、償いを改悛者に与えます。罪を犯したとき、必ず罪を償う必要があります。贖罪のためですね。
このように司祭は償いを与えます。もし、与えられた償いを果たすことは無理である場合、改悛者はその時、言うべきです。大丈夫の場合、そのままに受け入れます。

普通は、司祭が償いを与えてから、短い間を与えて、例えば「○○祈りを償いとしてやりなさい」あるいは「その日、ミサに与りなさい」といってから、改悛者はできない場合、例えば、その日に出張でとか不在のせいで、ミサに行けないのなら、簡単に正直に司祭に言いましょう。果たせない償いであることを知りながら、告解室を去るのはやはりだめです。

結局、償いを果たすことを拒む改悛者は罪を悔い改めないことを意味するからです。しかしながら、いわゆる、与えられた償いを果たすことは事情があって無理である場合は、話が変わります。その場合、司祭は別の償いにしてくれるから、正直に言いましょう。大事なのは与えられた償いを果たすことですから、事情があることもあるので。

そして、告白の最後は司祭がお赦しの言葉を与えます。同時に、改悛者は痛悔の祈りを言います(あるいは心の中に)。というのも、御赦しを頂くその瞬間、できるだけ痛悔であるようにするために、痛悔の祈りを唱えます。

「平和の内に行きなさい」と神父が言って告白は終わります。

告解のあと、償いはなるべく早く果たすべきです。できる場合、告解のすぐ後で果たしましょう。なるべくはやく「quam primum」と道徳者が言っている通りです。

償いは祈りの場合、やりやすくて、どこでもできますね。もうちょっと重い償いになると、それほど早く済めない償いもあるでしょうが、何か疑問があった場合、ご遠慮なく、司祭に聞いてください。償いは非常にありがたいです。償いを果たすと、心は軽くなって、そして限りある罰を消すためにも助けとなります。

以上は改悛の秘跡のために改悛者が行うべき三つの行為を紹介しました。
痛悔、告白、償い。


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