シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)
ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007
英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007
フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008
この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。
1. カベソにおける祈りと犠牲
私の叔母は、自分の子供たちに話をしたいと求めて来た人々を喜ばせるために、子供たちを家に呼び戻すために誰かを続けて送らなければならないことに疲れ切っていました。そこで、叔母は羊の群れの世話を自分の別の息子ジョアン [注15] に委ねました。
この決定は、ジャシンタにとって二つの理由で非常に苦痛でした。第一に、ジャシンタを探しに来た全ての人々に話をしなければならなかったから、第二に、ジャシンタはもう私と一緒に一日中過ごすことができなくなったから、です。ジャシンタはあきらめなければなりませんでした。しかし、この招かれない訪問者たちから逃れるために、ジャシンタとフランシスコは、私たちの小さな家に向いている丘の上にある岩に開いた洞窟 [注16] によく行って隠れました。丘の上には、風車小屋がありました。東に向いた坂にあったので、この隠れ場は雨からも焼くような太陽からも彼らを守ってくれる理想的なところにありました。特に、これは多くの樫の木とオリーブの木とによって保護されていました。ジャシンタはそこで私たちの愛する主にどれほど多くの祈りと犠牲とを捧げたことでしょうか!
斜面にはどこかしこに数え切れないほどの種類の花々が育ちました。それらの中には多くのアヤメがあり、ジャシンタは特にこれを愛しました。毎晩、ジャシンタは私が家に帰るのを道で待っており、私のために摘んだアヤメや、もしもアヤメが見つからないときにはその他の花を手にしていました。ジャシンタにとって、花びらを一枚一枚摘まんで私に吹きかけるのが本当に喜びでした。
[注15] ジョアン・マルト、ジャシンタの兄弟、2000年4月28日没
[注16] この丘はカベソと呼ばれ、この坂にある洞窟は「カベソの場所」Loca do Cabeço と言われる。
私の母は、私がどこで羊を牧するかを毎日決定することを、しばらくは満足していました。何故なら、私を探しているときに私がどこにいるか知っていたからです。場所が近いときには、私はジャシンタたちにそれを言い、私のところにすぐにやって来ました。ジャシンタは私を見つけるまで走ることを止めませんでした。私を見いだすと、疲れて座り込んで私を呼び続け、私がそれに答えてジャシンタに会いに走って行くまで止めませんでした。
2. 迷惑な質問攻め
ついに私の母は、私の姉妹が私を呼びに来きて私の代わりに羊の番をして時間を無駄にしているのを見るのに疲れ、土地を売ることを決断しました。母は、そこのことを叔母と話をし、二人とも私たちを学校に通わせることに同意しました。休憩時間にはジャシンタは御聖体訪問をよくするのを愛していました。
ジャシンタはこう言いました。
「あの人々はきっと分かっているのよ。私たちが教会に入るやいなや、人々の群れが私たちに質問をしにやって来るのだから!一人っきりでずっと、隠れたイエズス様と一緒にいてイエズス様とお話ししたかったのになぁ。でもそうさせてくれない。
その通りでした。単純な田舎の人々は私たちを決して一人にはさせてくれませんでした。全くの単純さで、彼らは私たちに彼らの必要や彼らの問題を教えてくれるのです。ジャシンタは極めて大きな同情を示しました。それが罪人に関する時は特にそうでした。
「私たちは私たちの主に祈り犠牲を捧げなければならないわ。この人が回心して地獄に行かないように!かわいそうな人!」
このことに関して、ここである出来事をお話しするのが良いかと思います。これはジャシンタが自分を探しに来た人々からどれほど逃げようとしていたかを示しています。
私たちはある日ファチマへと行くところでした。 [注17]主要道路に近づくと馬車から淑女と紳士のグループが降りてくるのに私たちは気がつきました。私たちには、全くの疑いもなく、彼らが私たちを探しに来ていたことを知りました。逃げることは不可能でした。何故なら、彼らは私たちを見いだすからです。私たちはそのまま道を歩き続け、私たちが誰かと知られずにそのまま通り過ぎることを期待しました。婦人たちは私たちに近づいてきて、聖母がお現れになった幼い牧童たちを私たちが知っているか尋ねました。私たちは「はい」と答えました。
「その子たちがどこにすんでいるか知ってる?」
私たちはご婦人たちに正確な行き方を教え、走ってそこから離れて、畑の中に隠れました。ジャシンタはこの作戦の結果にとても嬉しそうで、こう叫びました。
「人々が私たちの顔を知らない時は、いつもこうしなくっちゃ。」
[注17]このことは1918年から1919年の間に、御出現の一年後に起こった。
(続く)
ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007
英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007
フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008
この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。
第一の手記
II. 御出現の後
1. カベソにおける祈りと犠牲
私の叔母は、自分の子供たちに話をしたいと求めて来た人々を喜ばせるために、子供たちを家に呼び戻すために誰かを続けて送らなければならないことに疲れ切っていました。そこで、叔母は羊の群れの世話を自分の別の息子ジョアン [注15] に委ねました。
この決定は、ジャシンタにとって二つの理由で非常に苦痛でした。第一に、ジャシンタを探しに来た全ての人々に話をしなければならなかったから、第二に、ジャシンタはもう私と一緒に一日中過ごすことができなくなったから、です。ジャシンタはあきらめなければなりませんでした。しかし、この招かれない訪問者たちから逃れるために、ジャシンタとフランシスコは、私たちの小さな家に向いている丘の上にある岩に開いた洞窟 [注16] によく行って隠れました。丘の上には、風車小屋がありました。東に向いた坂にあったので、この隠れ場は雨からも焼くような太陽からも彼らを守ってくれる理想的なところにありました。特に、これは多くの樫の木とオリーブの木とによって保護されていました。ジャシンタはそこで私たちの愛する主にどれほど多くの祈りと犠牲とを捧げたことでしょうか!
斜面にはどこかしこに数え切れないほどの種類の花々が育ちました。それらの中には多くのアヤメがあり、ジャシンタは特にこれを愛しました。毎晩、ジャシンタは私が家に帰るのを道で待っており、私のために摘んだアヤメや、もしもアヤメが見つからないときにはその他の花を手にしていました。ジャシンタにとって、花びらを一枚一枚摘まんで私に吹きかけるのが本当に喜びでした。
[注15] ジョアン・マルト、ジャシンタの兄弟、2000年4月28日没
[注16] この丘はカベソと呼ばれ、この坂にある洞窟は「カベソの場所」Loca do Cabeço と言われる。
私の母は、私がどこで羊を牧するかを毎日決定することを、しばらくは満足していました。何故なら、私を探しているときに私がどこにいるか知っていたからです。場所が近いときには、私はジャシンタたちにそれを言い、私のところにすぐにやって来ました。ジャシンタは私を見つけるまで走ることを止めませんでした。私を見いだすと、疲れて座り込んで私を呼び続け、私がそれに答えてジャシンタに会いに走って行くまで止めませんでした。
2. 迷惑な質問攻め
ついに私の母は、私の姉妹が私を呼びに来きて私の代わりに羊の番をして時間を無駄にしているのを見るのに疲れ、土地を売ることを決断しました。母は、そこのことを叔母と話をし、二人とも私たちを学校に通わせることに同意しました。休憩時間にはジャシンタは御聖体訪問をよくするのを愛していました。
ジャシンタはこう言いました。
「あの人々はきっと分かっているのよ。私たちが教会に入るやいなや、人々の群れが私たちに質問をしにやって来るのだから!一人っきりでずっと、隠れたイエズス様と一緒にいてイエズス様とお話ししたかったのになぁ。でもそうさせてくれない。
その通りでした。単純な田舎の人々は私たちを決して一人にはさせてくれませんでした。全くの単純さで、彼らは私たちに彼らの必要や彼らの問題を教えてくれるのです。ジャシンタは極めて大きな同情を示しました。それが罪人に関する時は特にそうでした。
「私たちは私たちの主に祈り犠牲を捧げなければならないわ。この人が回心して地獄に行かないように!かわいそうな人!」
このことに関して、ここである出来事をお話しするのが良いかと思います。これはジャシンタが自分を探しに来た人々からどれほど逃げようとしていたかを示しています。
私たちはある日ファチマへと行くところでした。 [注17]主要道路に近づくと馬車から淑女と紳士のグループが降りてくるのに私たちは気がつきました。私たちには、全くの疑いもなく、彼らが私たちを探しに来ていたことを知りました。逃げることは不可能でした。何故なら、彼らは私たちを見いだすからです。私たちはそのまま道を歩き続け、私たちが誰かと知られずにそのまま通り過ぎることを期待しました。婦人たちは私たちに近づいてきて、聖母がお現れになった幼い牧童たちを私たちが知っているか尋ねました。私たちは「はい」と答えました。
「その子たちがどこにすんでいるか知ってる?」
私たちはご婦人たちに正確な行き方を教え、走ってそこから離れて、畑の中に隠れました。ジャシンタはこの作戦の結果にとても嬉しそうで、こう叫びました。
「人々が私たちの顔を知らない時は、いつもこうしなくっちゃ。」
[注17]このことは1918年から1919年の間に、御出現の一年後に起こった。
(続く)