幸福実現党言論チャンネルを久しぶりにご紹介します
私はこの自民党の女性局のフランス視察の投稿がなぜ炎上しているのか?その理由を定かには知りません
まあ、あまりにも能天気な投稿だったのかどうかは知りませんが、この動画を見て感じるところがありましたので、一言書いておきます
最近私は、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー(民主主義)」を読んだ感想をよく書いていますが
トクヴィルは、今から100年以上前の、当時のアメリカの民主主義の現状を見て
今の現代人でも見抜けないような、非常に深い洞察をしていることに、いまさらながらに驚かされます
彼は中世ヨーロッパの貴族社会と、フランス革命以降の民主主義、そしてアメリカの民主主義を比較しながら
アメリカ型の民主主義の、いったい何がいけないのか?それを本当に良く見抜いておりました
彼は、民主主義こそ専制国家に相応しい、うってつけの制度だと言います
民主主義は一見すると、専制国家のように、一人の国民が圧倒的な権力を持つことを不可能にする制度なのですが
その実、民主主義国家の国民が「平等」ということを実現するためには、「誰かに飼いならされることを甘んじて受け入れるようになる傾向を持つ」
と指摘します
つまり、政治(行政)が「平等」を謳い文句にすれば、大抵のことは我慢するようになる、というのです
民主国家と反対の貴族政国家の国民は、個人個人の結びつきが強く、民主国家でよく言われる「ヒューマン(人類)」という概念が希薄で
「国民全体が平等でなければいけない」という意識が非常に希薄でした
例えば、貴族政国家の国民のうち、上流階級の貴族たちはとても同族意識が強く、自分たちの権利を守ろうという意識は強かった反面
下層階級者への平等意識、つまり人類全体が平等でなければならない。。。という意識はほとんどなかったわけです
だから、自分たちの権利主張をしっかりする反面、下層階級の市民たちには、彼らが分を超えない限り、その権利をしっかり認めていました
つまり、貴族階級が下層階級の市民たちに無理難題を押し付け「専制政治を行う」、などという事はあり得なかったのです
貴族階級も、要は分を心得ていて、下層階級の市民たちが反乱を起こすような無理をすることを望まなかったわけです
ところが、です
民主主義国家の市民たちは、自由を欲するのと同時に、政治に「平等」を求めるようになりました
民主主義国家の市民は、「全員が平等でなければならない」という意識もまた強かったという事です
特にフランスのように革命によって「自由」を得た国と違って、アメリカはそもそも最初から「国民は自由」な状態でした
だから逆に、「国が国家権力によって国民を縛る」ということに、多少無頓着でもあったわけです
要は、「国民の平等」を保障することこそが国家の役割、のような一面が生まれてきたわけです
これは今のアメリカ社会には思い当たることが沢山あります
BLM(ブラック・ライブズ・マター)など、まさに平等意識の強すぎによる弊害、と言っていいでしょう
「黒人は虐げられてきた、差別されてきたから、白人よりも優遇されなければならない」
こういう意識が、BLMを助長させるアメリカ社会の、歪んでいびつな精神構造をあらわしているように思います
要するに、BLMのような歪んだ思想であっても、「人類の平等」を謳われては、誰も反論できないわけです
ここで上記の動画の問題に戻るわけですが
要は、日本においても、「国民への平等な補助制度」を謳うあまり、国の権力が強くなりすぎているのです
「国は豊かな者からお金を税金として取り上げて、貧しいものに分け与えるのが仕事」
みたいな方向に行っている、ということです
「誰であっても、貧しいものはすべて国の補助の対象」
みたいなことになってしまっては、いったいどれだけ税金を投入することになるのでしょう?
それが、フランスに見られるように、「高い税負担」となって、国民の勤労意欲を削いでいるのではないでしょうか?
里村氏の言うように、異次元の子育て支援を国がやり始めたとしても
それで日本の少子化が改善されるとは、私には到底思えません。。。それは、考え方が逆だと思います
要は自主自立の意識の強い国民が沢山いてこそ、国は活力が生まれ、少子化は改善されるのではないでしょうか
今日はそうしたことを考えました。。。また次回
私はこの自民党の女性局のフランス視察の投稿がなぜ炎上しているのか?その理由を定かには知りません
まあ、あまりにも能天気な投稿だったのかどうかは知りませんが、この動画を見て感じるところがありましたので、一言書いておきます
最近私は、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー(民主主義)」を読んだ感想をよく書いていますが
トクヴィルは、今から100年以上前の、当時のアメリカの民主主義の現状を見て
今の現代人でも見抜けないような、非常に深い洞察をしていることに、いまさらながらに驚かされます
彼は中世ヨーロッパの貴族社会と、フランス革命以降の民主主義、そしてアメリカの民主主義を比較しながら
アメリカ型の民主主義の、いったい何がいけないのか?それを本当に良く見抜いておりました
彼は、民主主義こそ専制国家に相応しい、うってつけの制度だと言います
民主主義は一見すると、専制国家のように、一人の国民が圧倒的な権力を持つことを不可能にする制度なのですが
その実、民主主義国家の国民が「平等」ということを実現するためには、「誰かに飼いならされることを甘んじて受け入れるようになる傾向を持つ」
と指摘します
つまり、政治(行政)が「平等」を謳い文句にすれば、大抵のことは我慢するようになる、というのです
民主国家と反対の貴族政国家の国民は、個人個人の結びつきが強く、民主国家でよく言われる「ヒューマン(人類)」という概念が希薄で
「国民全体が平等でなければいけない」という意識が非常に希薄でした
例えば、貴族政国家の国民のうち、上流階級の貴族たちはとても同族意識が強く、自分たちの権利を守ろうという意識は強かった反面
下層階級者への平等意識、つまり人類全体が平等でなければならない。。。という意識はほとんどなかったわけです
だから、自分たちの権利主張をしっかりする反面、下層階級の市民たちには、彼らが分を超えない限り、その権利をしっかり認めていました
つまり、貴族階級が下層階級の市民たちに無理難題を押し付け「専制政治を行う」、などという事はあり得なかったのです
貴族階級も、要は分を心得ていて、下層階級の市民たちが反乱を起こすような無理をすることを望まなかったわけです
ところが、です
民主主義国家の市民たちは、自由を欲するのと同時に、政治に「平等」を求めるようになりました
民主主義国家の市民は、「全員が平等でなければならない」という意識もまた強かったという事です
特にフランスのように革命によって「自由」を得た国と違って、アメリカはそもそも最初から「国民は自由」な状態でした
だから逆に、「国が国家権力によって国民を縛る」ということに、多少無頓着でもあったわけです
要は、「国民の平等」を保障することこそが国家の役割、のような一面が生まれてきたわけです
これは今のアメリカ社会には思い当たることが沢山あります
BLM(ブラック・ライブズ・マター)など、まさに平等意識の強すぎによる弊害、と言っていいでしょう
「黒人は虐げられてきた、差別されてきたから、白人よりも優遇されなければならない」
こういう意識が、BLMを助長させるアメリカ社会の、歪んでいびつな精神構造をあらわしているように思います
要するに、BLMのような歪んだ思想であっても、「人類の平等」を謳われては、誰も反論できないわけです
ここで上記の動画の問題に戻るわけですが
要は、日本においても、「国民への平等な補助制度」を謳うあまり、国の権力が強くなりすぎているのです
「国は豊かな者からお金を税金として取り上げて、貧しいものに分け与えるのが仕事」
みたいな方向に行っている、ということです
「誰であっても、貧しいものはすべて国の補助の対象」
みたいなことになってしまっては、いったいどれだけ税金を投入することになるのでしょう?
それが、フランスに見られるように、「高い税負担」となって、国民の勤労意欲を削いでいるのではないでしょうか?
里村氏の言うように、異次元の子育て支援を国がやり始めたとしても
それで日本の少子化が改善されるとは、私には到底思えません。。。それは、考え方が逆だと思います
要は自主自立の意識の強い国民が沢山いてこそ、国は活力が生まれ、少子化は改善されるのではないでしょうか
今日はそうしたことを考えました。。。また次回
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