トクヴィルという人は、実際に読んでみると、現代でも十分通用する政治思想家であると、本当に思います
「アメリカのデモクラシー」という書籍は、そこそこ分量のある大著なので、全部読むのは大変なのですが
アメリカに最初に移住した清教徒たちの話から始まり、アメリカという国がいかに成立し、世界一の大国になったのか?
その理由が、読み進めるうちに理解できるようになり、国の成立を垣間見る事ができます
この本をしっかり読み込むと、「国を強くするためには何が必要なのか?」が、少し理解できるようになってくると思います
アメリカは、最初に「国」があったわけではなく、小さな町(タウン)が成立し
その小さなタウンが個別の役職、つまり、各行政官や警察官、司法官などを交代で務め、場合によっては選挙で選出し
自ら自身が行政にたずさわることを義務としてタウンを運営し
タウンがいくつか集まって代表者を出し、郡(カウンティ)を運営し
タウンの構成員がカウンティや州(ステイツ)の行政官や司法官、警察官などを選挙で選出して、行政に参加する
つまり、最初に町(タウン)あり、そのタウンが、郡(カウンティ)や州(ステイツ)に代表者を送り込むことで
より大きな行政区であるステイツなどが、自分たちに不利な運営をしないように見張り、自分たちの利益を代表させていた
という国の成立の流れがあるわけです
つまり、アメリカには、日本で言うところの「お上(かみ)」というものが存在したことがなく
もともと、町も、郡も、州も、国家も、自分たちが行政参加することを(民主主義上の)義務として
自分たちが、行政権力の暴走を防ぎつつ、自分たちの利益を行政に反映させるように努めてきたわけです
ということで、アメリカ人は元々誰かに統治を受けていた人々ではなく、最初から自分たちが国を運益してきた
そういう国であったわけです
私には、こういう説明しかできませんが、このことは大変勉強になりました
なぜなら、ここに「小さな政府」の原点があるからです
もちろん、アメリカに移住した人々は、出身国も言語も様々で、ある種人種のカオス状態でした
しかも、大くくりにすれば、ほとんどの人がキリスト教ではあったものの、様々な宗派の方が混在していました
ですから、おそらくは一番困ったのが、生活習慣や習俗の違いによる「価値観」の相違です
アメリカに最初にできたのは「ニューイングランド」という町で、ここはイギリスから渡ってきた清教徒たちが開いた街です
ですから、最初の移民たちは、善悪の判断をどうやって決めたのかというと、それはキリスト教の価値観に基づいていました
これは、文教が伝来し、奈良時代に大衆布教がすすみ、仏教による倫理観が形成されていったり
江戸時代に儒教が取り入れられ、秩序文化が形成されていったことなどと同じく
国として国民をまとめるためには共通の善悪の価値観を形成する「宗教」が必要であったことと、共通するものです
トクヴィルも、キリスト教系の古典派の思想家たちも、ともに共通しているのは
「民主主義が成立するために必要な前提条件は宗教的な価値観だった」という点です
これが、現代の日本の人々にあまり理解されていない事なのです
よく日本の保守の方が、「日本人は勤勉な民族だから」という言い方をします
それは確かにそうなのですが、それは「人種」が優れているからなのでしょうか?
そのことを疑問に思った方はいらっしゃられないでしょうか?
私は違うと思います。。。その日本人の真面目で勤勉な気質は、営々と受け継がれてきた仏教や儒教などの
優れた宗教思想があったればこそであり、宗教的な慣習が国民性を形成してきたのだと思います
であれば。。。。です
これまでの日本人は真面目で勤勉だったとは思いますが、これからの日本人もまた、勤勉で真面目なのでしょうか?
私はそれも違うと思います
今の日本には、アメリカとまったく同じことが起こっています
アメリカの衰退は、キリスト教精神の衰退と連動して起きています
日本の衰退もまた、本当は宗教性の喪失による勤勉の精神の衰退と連動しているのではないでしょうか?
今、アメリカのトランプ大統領が大統領に返り咲こうとしていますが
これは大きな流れで言いますと、アメリカの復興運動なのだと思います
トランプ大統領はその政策「アジェンダ47」において、過激な左翼・マルクス主義・無神論教育の排除を約束しています
そして本来のアメリカの伝統を取り戻す、としています
では、アメリカの伝統的な考え方、「小さな政府」とはいかなるものでしょうか?
これはトクヴィルがこのように述べています
「アメリカは、国家の政治は集約させるが、国家の行政は集約させない」
日本語訳が悪いのかもしれませんが、このように書かれています
少し説明すると、「政治を集約する」というのは、つまり、大統領が政治に方向性与え、国家目標を定めて邁進する
という意味で、その意味で国家の方向性をリーダーが決めることは許す。。。ということです
いま、トランプ大統領はアジェンダ47にて、いくつかの国家目標を明らかにしてます
その中には、「アメリカをエネルギー大国にする」とか、「偉大な軍事力を取り戻す」とか「国家ミサイル防衛システムを構築する」
など、さまざまな国家戦略を掲げていますが、こういうのが「政治の集約」に相当します
そして「行政は集約しない」という意味は、一つ一つ個別の役所仕事は、個人に大きな権力を持たせない
「役人は放っておけば様々な規制をかけて人々の自由を制限しようとする、この行政権の乱用から国民を守る」
というのが大まかな意味で、これこそが「小さな政府」なのです
アメリカはタウンから始まり、カウンティもステイツもネイション(国家)も、すべては国民の代表が行うものであり
政府には国民の自由を奪わせず、政府の国家目標は国民の意思に適うものにする、というのがアメリカの伝統的な政治形態なのです
三橋貴明さんがマリアナ・マッツカートの「国家の逆襲」において、「国も立派な価値の創造者だ」
と主張していますが。。。だから「大きな政府が正しい」ということではなくて
国家は、国民の自由を制限してはならないが、国を偉大にしていくための方向性を決めるのは許される
というのが、小さな政府の本当の解釈です
そのために政府の力が必要なときには、政府が必要な資金を供給して国家戦略を実現する
というのは、基本的にアメリカの保守の伝統的な考え方なのです
最後に、もう一度、今の日本において大事なことを述べたいと思います
「大きな政府が正しい」と主張する人々よ、大きな政府の行く末は、社会主義・共産主義だという事に気づいていますか?
社会主義・共産主義は、政治家が強制してできるものではありません
国民の思想の退廃、考え方の退廃が、そういう社会を作ります
三橋貴明氏よ、山本太郎氏の思想のおかしな点を指摘できないあなたに、本当に国が救えるのですか?
オカシオ-コルテスやバーニー・サンダースの経済政策の顧問に、ステファニー・ケルトンがなっていること
この意味が分かりますか?
唯物論的に金融理論をぶったところで、国民の民度が上がるわけでも、勤勉さが上がるわけでもありません
金を刷って、配って、どれだけ国民に与えても、国民の心は荒廃するだけです
今日の日記はこれまでです
ではまた
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