コーダとは、聞こえない親をもつ子どもたち。「ろう文化」と「聴文化」のハイブリッドである彼らの日常は、驚きに満ちている。親が振り向いてから泣く赤ちゃん? 目をじっと見すぎて誤解されてしまう若い女性?――コーダの日常を生き生きと描き“異文化交流”の核心に迫る、刮目のコミュニケーション論!
コーダを手話通訳士として使うのは聴者
映画『コーダ あいのうた』ではろうの両親がコーダである娘を手話通訳者として頼ることでコーダが疲弊する、というシーンが強調されていました。
この本を読んだり、YOUTUBEやSNSでのコーダを持つろうの親御さんの言葉を聞くと、
「子供を手話通訳士として育てたいわけじゃない。プレッシャーを与えたくない」と考えている方が多いよう。
「子供を手話通訳士として育てたいわけじゃない。プレッシャーを与えたくない」と考えている方が多いよう。
それでも実際のところコーダが手話通訳士として活躍する場面は多くなってしまうと予想しますが、それは決して親が望んだ状況とは言えないということですね。
むしろ聴者の方がコーダを便利な手話通訳士として使う場面の方が多い、と。
確かに言われてみれば容易に想像できます。
確かに言われてみれば容易に想像できます。
聾者との会話は、筆談もできるしゆっくり噛み砕いて説明すれば通じるし、手話通訳士を呼ぶなどの制度もあるんだけど、
その場に手話ができるコーダがいるときに「ちょっと訳してよ」とコーダを使ってしまう。
その場に手話ができるコーダがいるときに「ちょっと訳してよ」とコーダを使ってしまう。
聴者は「その方が早いから」「めんどくさくないから」とコーダを手話通訳士として気軽に使ってしまう。
確かにそういう場面は多そう。自分はそうしないように気をつけないとなと思いました。
CODA」という言葉は『コーダ あいのうた』で初めて知りました
東京国際ろう映画祭 に行ったこともあるし今年は配信で少しだけど見たし、国内外問わず〝ろう映画〟を見てきてるつもりだったんだけど、「CODA」という言葉は『コーダ あいのうた』で初めて知りました。
CODA = Children of Deaf Adult/s の頭文字。きこえない・きこえにくい親をもつきこえる子どものことを指す。両親ともきこえなくても、どちらか一方の親だけがきこえなくても、また親がろう者でも難聴者でも、きこえる子どもはコーダとされる。
さまざまなコーダ。コーダの共通点。
コーダと言ってもさまざまで、手話が苦手なコーダもいるし、手話が第一言語で手話が十分に使えるコーダもいるとのこと。
コーダが大人になって親と離れて暮らすようになるとろう文化から離れる人もいるし、ろう文化と共に暮らす人もいる。
本当にさまざまだけど、やはりコーダ同士が集まるとコーダには共通点があると自覚することが多いらしいです。
きこえない親との意思の疎通の難しさや、手話通訳士としての役割の重さや、親が社会から弱者扱いされることに傷ついたり、ろう文化と聴者の文化の違和から起きる摩擦に苦しんだり。
負の側面ばかりではなく、デフボイスと呼ばれるろう者独特の発声(自分の声が聞こえないろう者の発声)に懐かしい愛しさを感じたり、手話でのコミュニケーションに心を落ち着かせたり。
コーダはこうだ(ごめんなさい)と決めつけられないけど、それでも似た環境で育った人たち共通の感覚が、
この「コーダの世界 手話の文化と声の文化」で多くのろう者のインタビューや調査から紹介されています。
そもそも、ろう文化
コーダはろう文化と聴者の文化の間にいる、とのことなんだけど、そもそもろう文化というものを僕は知らない。。
この本にはもちろんその辺りにもページを割かれていますので、なるほど!そうなのか!とびっくりしながらろう文化を知ることができます。
ろうの若者がカラオケでチャゲアスを熱唱するシーンとか、「マジか!」とびっくりして一回本を閉じました。
ろう者の生活はきっとこうだろう、こういうことに困るだろう、こうして欲しいのだろう、これは楽しめないのだろう、というだろう運転みたいな勝手な推測はことごとく破壊されていきました。
自分の思い込みが壊されていくことは痛快です。
その衝撃が多すぎてなかなかページが進まないくらいでした。。
「あ…そうなんだ…」っつって本を閉じてその部分を頭の中で反芻しつつ読むので、何日もかかりました。
映画『コーダ あいのうた』から
この映画がコーダやろう文化に今よりももっと光を当てる機会になることは間違いありません。
映像作品の中での手話の扱いや、ろう役を聴者の俳優が演じることの問題も残っておりますので、
マイノリティを「美味しいコンテンツ」として消費するだけでは終わらないように、今後もより誠実なコンテンツ作りがなされることを願っています。