コーダ あいのうた(2021年製作の映画) CODA 上映日:2022年01月21日製作国:アメリカフランスカナダ上映時間:112分
監督 シアン・ヘダー
脚本 シアン・ヘダー
出演者 エミリア・ジョーンズ フェルディア・ウォルシュ=ピーロ マーリー・マトリン トロイ・コッツァー ダニエル・デュラン ダニエル・デュラント ジョン・フィオーレ
監督 シアン・ヘダー
脚本 シアン・ヘダー
出演者 エミリア・ジョーンズ フェルディア・ウォルシュ=ピーロ マーリー・マトリン トロイ・コッツァー ダニエル・デュラン ダニエル・デュラント ジョン・フィオーレ
目次
- 字幕では毎回「聾唖者」になってた
- Wikiの〝聾唖について〟の「2」がまさにそうだと思う。↓
- 「ろう文化」や「オーディズム( 聴能至上主義)」などの言葉から感じられる自由さと力強さ
- ヤングケアラーについてもちゃんと問題だというスタンスで描かれていたと思います。
- まず、ろうの俳優さん3名。
- 兄が囚われるマチズモ(男性優位主義)
- ラストネタバレは以下に。
字幕では毎回「聾唖者」になってた
映画自体は良かったけれど、
Deafは「耳が聞こえない」という意味なのに、
字幕では毎回「聾唖者」になってたのはずっっとひっかかりながら観た。。
Deafは「耳が聞こえない」という意味なのに、
字幕では毎回「聾唖者」になってたのはずっっとひっかかりながら観た。。
■「聾(ろう)」は、耳が聞こえない人のこと(医学的な基準では両耳の聴力100dB以上の最重度聴覚障害のことを言うよう)。
■「唖(あ)」は、発声や聴覚の器官の障害によって、言葉を発することができないこと。 音声による話ができないこと。
Deafは唖かどうかを問わない単語のはずなのに、この映画字幕では全編に渡って「Deaf=聾唖者」になっていたのは、どう言う意図なのか。
理由があるなら本当に知りたい。
理由があるなら本当に知りたい。
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Wikiの〝聾唖について〟の「2」がまさにそうだと思う。↓
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ろう者に声を出せる人は多い。
この映画でもろうの男性キャラクターは発話してましたよね。
その時点で「唖」ではないじゃん。
なので聾と唖を必ずセットにして「聾唖」と呼んでしまうことは、とても雑。
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また、
聴者のレベルでしゃべることのみを「しゃべる」と呼び、
そのレベルに達していないことを「しゃべれない」として障がい者認定するのであれば、
ろう者が聴者レベル音声発話ができるような教育環境・社会環境にまずすべきだと思う。
また、
聴者のレベルでしゃべることのみを「しゃべる」と呼び、
そのレベルに達していないことを「しゃべれない」として障がい者認定するのであれば、
ろう者が聴者レベル音声発話ができるような教育環境・社会環境にまずすべきだと思う。
少なくとも、聴者が音声発話を獲得する教育・社会環境と同じくらいのレベルに整えてから初めて聴者レベルでしゃべることをろう者に求めるべき。
(というか求めるべきことではないはず)
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(というか求めるべきことではないはず)
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そもそも手話は言語の一つなので(手話言語条例)、
その言語が使えている時点である意味「しゃべれている」。
「しゃべれてない(発話が聴者レベルではない)」ことを問題視すること自体どうなのだ、という考え方もあるし、理解できる。
「耳が聞こえない=障害者」と言うイメージもろう者の中では違和感を感じる人が多いとのこと。
「耳が聞こえることが正しい」という聴者の価値観で判断されたくない、という気持ちもわかる。
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「ろう文化」や「オーディズム( 聴能至上主義)」などの言葉から感じられる自由さと力強さ
確かに昔は、耳が聞こえない人のことを聾唖者と呼んでいました。
僕はそう習っていました。
聾は耳が聞こえないって意味で、
唖はしゃべれないって意味で、
ああそうか聞こえない人はしゃべれないもんな、と理解しちゃってました。
唖はしゃべれないって意味で、
ああそうか聞こえない人はしゃべれないもんな、と理解しちゃってました。
それが現在では「ろう者」という言葉が多く使われるようになっています。
また、「ろう文化」や「オーディズム( 聴能至上主義)」などの言葉から感じられるのは自由さと力強さです。
また、「ろう文化」や「オーディズム( 聴能至上主義)」などの言葉から感じられるのは自由さと力強さです。
ろうにはろうの世界があり、それは聴者の世界と対等だし、そもそも根本的に分けられていない、という力強いメッセージがろう文化から発信され始めてきていると思います。
そんな中またこの映画(の字幕)によって「聞こえない人のことを聾唖者と呼ぶことを初めて知りました」と、、、、古い認識が広がってしまう〝としたら〟大変残念。。
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ヤングケアラーについてもちゃんと問題だというスタンスで描かれていたと思います。
(もっと明確に問題として扱うべき!という人がいてもおかしくないとも思います)
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さてさてさて、映画の話。
字幕問題(Deafを全部「聾唖者」にしてた問題)以外は、とても良かったと思います。
まず、ろうの俳優さん3名。
さすがですよね。
聞こえないということ以前の大きな個性を発しているこの3名。
演技もすげーし存在感も、そして人間として愛せる豊かさが尋常ではない。
ろうの俳優が活躍する場がすでにあったから、こうしてバーンと出るときに力のある俳優が3人も出てこれるんですね。
さすがですよ、ほんとに。
マイノリティの俳優にもちゃんと役が回ってきて現場を多く踏んで、脚光を浴びてこれたからこそのこの3名の輝き!!!
特に父親役のトロイ・コッツァーは助演賞を受賞したり、候補になっていたりします。
特に父親役のトロイ・コッツァーは助演賞を受賞したり、候補になっていたりします。
マーリー・マトリン
トロイ・コッツァー
Daniel Durant - Wikipediaen.wikipedia.org
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兄が囚われるマチズモ(男性優位主義)
耳が聞こえない3人と聞こえる1人が家族で一緒に暮らしている、ということでの摩擦がこの映画の肝ですけど、
個々のキャラクターの個性はそれだけに留まっていない。
それに縛られていない。
個々のキャラクターの個性はそれだけに留まっていない。
それに縛られていない。
父も母も普通にヘンな人だし、
兄もかなり複雑な感情を妹に持っている人。
兄もかなり複雑な感情を妹に持っている人。
聞こえる聞こえない関係なくあんな父親が実際いたら毎日イラっとするし(僕はね)、
母親も明るさもありつつも割と毒親感もあるというなかなか怖いキャラ。
母親も明るさもありつつも割と毒親感もあるというなかなか怖いキャラ。
お兄さんは、「長男である俺がこの家を支えるべき(なのに聴者である妹に頼るしかない…)」というマチズモに囚われている男。あの筋肉はその象徴に見える。
母親はついに娘から「ママが酷い母親なのは聞こえないからじゃない」と言われる始末。
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障がい者は大人しく健気な人物像で描かれることが多いけど、3人ともそこそこヤバイってのがとても面白い。
さらに、なのに3人ともとても愛せる人物として描かれているところが素晴らしい。
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後半大体泣いてました。
ええ、泣きましたとも。
泣くよね、そりゃ。
父親の「GO!」なんか泣かずにいられるわけないじゃんね。
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ただ、、、僕の好みとしてはあと8分早く終わって欲しかった。。(「GO!」のシーンなくなっちゃうけど。。)
ラストネタバレは以下に。
オーディションの歌のまま終わって欲しかった。
あの歌のままエンドロールに入って良かったと思う。
あの歌のままエンドロールに入って良かったと思う。
音楽大学に受かるかどうかはどっちでも良くね?
ていうかなんで受かったの??
あれで受かるものなの??
ていうかなんで受かったの??
あれで受かるものなの??
「あぁ受かるパターンなんだ…」と思っちゃった。
ハリウッドっぽいなぁと思いましたよ。
ハリウッドっぽいなぁと思いましたよ。
音楽大学以外にも歌の道はあるわけだから、落ちても良かったし、落ちさせるのが嫌だったのならやっぱオーディションの歌でそのまま終わりが、余韻もあって良かったかな〜。
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ラスト。
娘が居なくなったあと、母も父も長男も外部とうまくコミュニケーションが取れるようになった様子で終わったけれども、、ちょっと都合の良い良すぎない??
「娘がいなくなったら困る」という問題は解決されてないはずなのに。
両親と兄が「壁を作らずに聴者の世界に飛び込もうと気持ちを新たにして飛び込んだ結果聴者ともスムーズにコミュニケーションが取れるようになった良かった」ってことなんだと思うけど、
何のトライ&エラーもなくいきなりそれが実現しちゃうってなかなかのパラダイス描写じゃない??
しかも兄はもともと漁師仲間と飲み行ったりしてて聴者とコミュニケーション取ろうと頑張ってたじゃん。
それまではうまくいかなかったのに、いきなりラストは成功しちゃう。
せめて、ろう者と聴者のコミュニケーションのトライ&エラーがありつつも希望が持てるラスト、なら良かったかなと。
聴者側の反省がなかったのもどうかと思うね。
漁師仲間たちが少しくらい手話覚えててもいいじゃん。
「お前はクソだな」って手話で話してくる漁師仲間に怒りつつもちょっと嬉しい長男の表情とかあってもよかったよね。