今、うちの職場のおじさんたちの間で流行っているもの。
それは、「数字パズル」。
1~9までの数字を、81個の升目に埋めていく・・・というあれである。
お昼ごはんもソコソコに、一心におじさんが4~5人頭を抱えているのは
なかなか傍で見ていて微笑ましい。
その姿を見ていて、昔読んだ江戸時代の和算の話を思い出した。
明治以後日本の数学は、欧米の数式による数学へと変わったが、
江戸時代に数学は無かったわけではなく、「和算」と呼ばれる
学問があった。
有名な先生は、「関孝和」である。
彼は、300年ほど前の人であるが、中国からの数学ではなく独自の
関流なる数学の学問をうちたてた。
この「和算」によって、円周率を求めたり、明治前には微・積分まで
解けるような発見をしていた。
私も昔、和算の教科書を見たことがあるが、見事に
縦書きでおまけに漢字の羅列で、何を証明している問題なのか
さっぱりわからなかった。(笑)
ところがである、素質のある者には機会が与えら得ていた日本は
山また山の中で暮らしている「きこり」や「マタギ」などがこの問題に
山での生活の手慰みというか、退屈しのぎというかで、
解いたりすることもあったのだ。
かなりの難問もあったらしい。
で、問題をパズル感覚で、時間を見つけて解いていたようだ。
その解けた問題は、地元の天神さんに解けました!!として奉納をする。
すると、よくしたもので、その地方を回って勉強を教えてくれる
僧侶や学者がその当時はおり、天神さんに奉納されている絵馬を見て、
これは!!と、思う人を尋ねて、その人から数学の問題の解き方を
教えてもらったり、別の解き方があると教えたりして、一週間ほど
滞在して、その間「きこり」たちに、和算を教えていた。
同じようなことが、和歌や俳句にもいえる。
藩のパスポートがいった時代だが、人の往来は活発だった日本では、
各地に寺小屋を終わってからも、勉強が好きな人を救い上げる制度が
自然に出来たらしい。
場合によっては、藩の学問所に入れることもあったらしいから、
身分制は硬直していた・・・というより、流動的だったのだろう。
最終的には、養子という手があるし・・・・。
寺子屋には、所謂、被差別の子供も通っていたので、生活上の差別はあったのだろうが、基本的な読み書きそろばんの学力をつけようとしたらしい。
確かにこの地域からの生徒が少ない統計を見れば、生活苦から学問を
させることが難しかったことも事実のようだ。
ただ、少なくても、そんな人がいたからの運動が早くから
起こっていたともいえる。
江戸には、今で言う大学のような学問所があったが、これは
確かに、武士中心ではあったが、町人でも学力と本人の希望と名主の身元保証で
通うことは出来た。
この時は、黒の紋付袴で登校することが求められていた。
なので、お金がないと通えなさそうだが、そういった子供に、
お金で支援するお大尽さんもいたようだ。
こういった形で、天文学問所に入ったのは町人の伊能忠敬である。
彼は、40歳まで、婿養子先の商売を大きくし、地元の治水まで
するほどの大店にして、隠居して、次にゆずり自分は
学問の道へと進んだのだ。
当時は、40になって隠居して、毎日花見や書や俳句・三味線・芝居見物
お伊勢参り等など忙しく芸事や遊び事をするのが粋な隠居とされていた。
働くのは、野暮とされていたのだ。
その中で、大学というか、国家機関で勉強を始めた彼はかなり異色だが
日本らしい文化の一つかもしれない。
いまは、人生80の時代。
60からは、お金をかけずに毎日江戸時代の江戸の人のように
隠居になりたい私。
それは、「数字パズル」。
1~9までの数字を、81個の升目に埋めていく・・・というあれである。
お昼ごはんもソコソコに、一心におじさんが4~5人頭を抱えているのは
なかなか傍で見ていて微笑ましい。
その姿を見ていて、昔読んだ江戸時代の和算の話を思い出した。
明治以後日本の数学は、欧米の数式による数学へと変わったが、
江戸時代に数学は無かったわけではなく、「和算」と呼ばれる
学問があった。
有名な先生は、「関孝和」である。
彼は、300年ほど前の人であるが、中国からの数学ではなく独自の
関流なる数学の学問をうちたてた。
この「和算」によって、円周率を求めたり、明治前には微・積分まで
解けるような発見をしていた。
私も昔、和算の教科書を見たことがあるが、見事に
縦書きでおまけに漢字の羅列で、何を証明している問題なのか
さっぱりわからなかった。(笑)
ところがである、素質のある者には機会が与えら得ていた日本は
山また山の中で暮らしている「きこり」や「マタギ」などがこの問題に
山での生活の手慰みというか、退屈しのぎというかで、
解いたりすることもあったのだ。
かなりの難問もあったらしい。
で、問題をパズル感覚で、時間を見つけて解いていたようだ。
その解けた問題は、地元の天神さんに解けました!!として奉納をする。
すると、よくしたもので、その地方を回って勉強を教えてくれる
僧侶や学者がその当時はおり、天神さんに奉納されている絵馬を見て、
これは!!と、思う人を尋ねて、その人から数学の問題の解き方を
教えてもらったり、別の解き方があると教えたりして、一週間ほど
滞在して、その間「きこり」たちに、和算を教えていた。
同じようなことが、和歌や俳句にもいえる。
藩のパスポートがいった時代だが、人の往来は活発だった日本では、
各地に寺小屋を終わってからも、勉強が好きな人を救い上げる制度が
自然に出来たらしい。
場合によっては、藩の学問所に入れることもあったらしいから、
身分制は硬直していた・・・というより、流動的だったのだろう。
最終的には、養子という手があるし・・・・。
寺子屋には、所謂、被差別の子供も通っていたので、生活上の差別はあったのだろうが、基本的な読み書きそろばんの学力をつけようとしたらしい。
確かにこの地域からの生徒が少ない統計を見れば、生活苦から学問を
させることが難しかったことも事実のようだ。
ただ、少なくても、そんな人がいたからの運動が早くから
起こっていたともいえる。
江戸には、今で言う大学のような学問所があったが、これは
確かに、武士中心ではあったが、町人でも学力と本人の希望と名主の身元保証で
通うことは出来た。
この時は、黒の紋付袴で登校することが求められていた。
なので、お金がないと通えなさそうだが、そういった子供に、
お金で支援するお大尽さんもいたようだ。
こういった形で、天文学問所に入ったのは町人の伊能忠敬である。
彼は、40歳まで、婿養子先の商売を大きくし、地元の治水まで
するほどの大店にして、隠居して、次にゆずり自分は
学問の道へと進んだのだ。
当時は、40になって隠居して、毎日花見や書や俳句・三味線・芝居見物
お伊勢参り等など忙しく芸事や遊び事をするのが粋な隠居とされていた。
働くのは、野暮とされていたのだ。
その中で、大学というか、国家機関で勉強を始めた彼はかなり異色だが
日本らしい文化の一つかもしれない。
いまは、人生80の時代。
60からは、お金をかけずに毎日江戸時代の江戸の人のように
隠居になりたい私。