寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

目に見えない変化(20140124)

2014年01月24日 11時55分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

 買い物に行くと売り場が変わっていることがある。いつも置いてあるものが無い。それで店員に聞くと売り場が変わりましたという。しかし売り場が変わったという案内はどこにも書いてない。店の言い分はいつも来ているお客さんは直ぐ解っていただけるという。それは客に対して少々不親切なのではないだろうかと思う。こんな店ではもう金輪際買わないと短気に感じる方もいるらしいが他に店が無いので仕方なしにこの店を利用する。それが店の対応に表れているのだろうか。
 それにしても物価はいつの間にか上昇傾向にある。例えば牡蠣フライは1個50円で売っていたのは昨年の夏前までであった。牡蠣のシーズンが終わり、秋の新しいシーズンに入ると1個60円になっていた。すると19時頃でも売れ残っていることが多くなった。それで店では4個パックにして220円という価格にした。つまり20%の値上げを10%の値上げにしたと言うことになる。値上げは内容量で実施する場合と価格で行う場合がある、そんなチマチマしたことを言うなという方がいると思うが合計すると毎月数千円になることがあります。チマチマした話ではありませんよ。公共料金が次々に値上げされ、それに伴いいろんな物品が値上げを控えている。さらに消費税が4月から3%増加する。それに年金は減額される時勢ですから。
 さて前置きはこのくらいにして本題に入ることにしよう。昨年中に打った私の囲碁の成績は惨憺たるものでした。今年も先日の町長杯囲碁大会でも酷い碁を打ってしまいました。途中で幻視が現れ切れていると思って打った石を見て慄然としました。相手の石は全部繋がっていて私の打った石が何の意味もないものでした。この対戦はかろうじて持碁で白番の私の勝ちになりましたが、無意味の石が敗着になったかも知れませんでした。
 別の対戦ではシチョウで取れる石をシチョウ当たりを打たれてその方の対策をしているうちにシチョウを逃げられてしまう。その結果私の石が死んでしまい大差で負けてしまうと言う有様でした。このようなことが最近目立つようになってきました。どうやら全体を見ながら局所を打つという基本を忘れがちになっているようです。これはおそらく惚けの始まりなのでは無いかと感じています。囲碁をやるのは惚け防止のはずでしたが、その囲碁の中に惚けの兆候を見るのは何ともいえない感情です。

  


430億円、これは何の数字?(20140121)

2014年01月21日 15時57分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

 この数字は国の福祉予算の数字ではありません。平成25年1年間のいわゆるオレオレ詐欺の被害に遭った金額です。その被害者の多くは高年齢の方だと聞きます。このお金は高齢者の方々が一生懸命働いて自らの老後のためや子供たちの将来のために貯蓄してきた貴重なお金だったでしょう。それをいろんな手口でだまし取られてしまったのです。
 警察や金融機関であれほど注意を喚起しているのに子供をまねた口調で窮状を訴えられると親としては慌ててしまい大切なお金を渡してしまうのでしょう。その前にチョットどういうことになっているのかを確認すれば被害を被らずに済むはずです。それをさせないように予め電話を変えたので番号が変わったと言っておく。高齢者の盲点を突く手口をいろいろ工夫してくるのでツイ騙されてしまうことがあるのですね。被害に遭った人たちは今後どのように生活をしていくのでしょうか。不幸な選択をされないように祈るしかありません。1日も早くこのような犯罪が発生しないよう社会を築いていかなければなりませんね。そして私たちも連絡し合って被害に遭わないようにしなければなりません。取り締まり担当者の方々そして金融機関の方々全力でさらなる被害予防対抗策を推進していただきたいと思います。

 

想い出話 「ミュンヘンで(6) 囲碁対戦あれこれ(20140116)」

2014年01月16日 12時17分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 囲碁というものを知ったのは大学3年生のときであった。当時私はインフルエンザ香港A型に罹患しそれをこじらせて1年留年してしまった。そのお陰というのも変だけれども付き合いの幅が広くなった。当時入っていたクラブ(囲碁クラブでは無い)活動の仲間の他学部の人たちとの付き合いが増えた。工学部、人文学部、法経学部の人たちであった。自分の所属している学部学科の人たちとはいやでも生涯付き合っていくことになるので、出来るだけ他学部の人たちとの付き合いを大事にした。その中の1人に黒田某と言う男がいた。彼とはどんな縁で付き合うようになったのか忘れてしまったが中々面白い人だった。ダジャレが好きで付き合っているうちに囲碁を教えてやると言うことになり初めて碁石に触ることになった。彼もそれほど強くなく、私は直ぐに彼と同等に戦えるようになった。それがどのくらいの棋力か解らないが、とにかくこんなに面白いゲームがあったことを発見した思いだった。 
 そういえば高校2年の時に隣町から同じ高校へ通学していた遠藤 久君というのが用務員室で面白いことをやっているので見に来ないかと誘われたことがあった。用務員室へ行ってみると先生方や学生が縦横50cmほどの罫線を引いてある板の上に白と黒の丸い石を並べていた。板の上の隙間が無くなるとゲームは終わりのようで隙間の×点の数を数えて勝ったとか負けたとか言っていた。遠藤君は君もやってみるかと行ったが、その頃の私には遊ぶ時間をほとんど持てない状態だったので断ってしまった。それが囲碁だったことを後になって思い出した。
  私の囲碁歴は大学3年生の頃からだが就職して仕事が忙しくなってほとんど石を持たなかったので実質10年くらいだろうか。その間もたまに打ったりした程度なので上達はおぼつかなかった。それでも強いときには出張先の碁会所で5段とか言って打ったこともあった。札幌市の碁会所でそこの亭主と対戦して快勝したときには私ももしかすると実力5段以上かなと夢を見たこともあった。
 想い出に残る対戦は、ミュンヘンオリンピック競技場の選手控え室にあったミュンヘン囲碁クラブへ行ったときの打ち碁である。対戦相手はミュンヘン工科大学の大学院生でかなり強かった。相手は初段と言うことで3子置いてもらって始めた。激しい責め合いの碁になり私の一路のミスを突いた彼に僅少差で負けてしまった。その後彼とはしばらく付き合っていたがお互いに忙しくなり疎遠になってしまった。
 囲碁の話としての想い出は、東京都立大学元学長の沼田稲次郎先生の話である。沼田先生は囲碁はかなり強く当時6段くらいは打っていたと思う。沼田先生は、渋谷の東急会館脇にあった碁会所に行ってたまに囲碁を楽しんだという。その碁会所に一人の小学生がいて、彼は非常に強く沼田先生もたじたじの状態だったそうである。ある日その小学生と2回ほど打って連敗してしまったとき、小学生は“おじさん2子か3子置きなよ”と言いだしたという。先生は俺を何様だと思っているかと言いそうになってぐっと堪えたという。勝負の世界はこんなに厳しいことを知った瞬間だったと沼田先生が話された。大学教職員と囲碁部OB会との親善囲碁会の後の宴会での話であった。


想い出話 「ミュンヘンで(5) 差別」(20140115)

2014年01月16日 00時03分14秒 | インポート

 外国へ行ったとき一番不愉快なことはふとしたことで差別されることである。初めてヨーロッパへ行ったとき、ロンドン空港へ夜中に到着した。たまたま機内で臨席にいた若い方が、京都R大学仏教学科の大学院生であった。彼も初めての外国旅行だった。大学の生協で旅行の手続きをしてきたとかで運良く同じホテルに宿泊することになっていた。彼は事細かにいろんなことを調べてきたメモ用紙を持っていた。それのお陰で彼を迎えに来ていたリムジーンという自動車に初めて乗ることが出来た。そしてホテルに到着することが出来た。宿泊手続きをして翌朝一緒に朝食を食べに行く約束をしてそれぞれの部屋に入った。
 そして翌朝、2人で食堂へ行った。さすがに立派な食堂だと思って感心していたところ、ウェイターがつかつかと寄ってきて”ルームキーを見せろ”というので鍵を見せた。するとウェイターはお前さん達の行く食堂へここではなくこの通路を行ったところだと言って暗いローカを示した。今見た食堂は背広をきちんと着たりドレスを着た紳士淑女が静かに食事をしながら小さな声で話をしていた。
 仕方が無いので我々はウェイターに指示したローカを歩いて行った。そこはなんだか薄暗い食堂だった。そこにいる人たちはそれと解る有色人種だけであった。私は何故か納得してしまった。イギリスはもっと自由の国だと思ったがとんでもない話だと言うことを知った瞬間だった。
 私は初日のホテルを予約していただけなので次の日から泊まるところを探さなければならなかった。ホテルのフロントで聞いて3カ所ばかり探してもらった初めのホテルへ行った。ピカデリーサーカスと言うところにあったそのホテルはありふれたビジネスホテルのようで気さくなおばさんが受付にいて快く宿泊させてくれることになった。そこで5日ほど滞在した。ただ閉口したのは数え切れないほどの数のネコがいることだった。初めてヨーロッパへ着いた翌日に人種差別にあい気分を害したのは事実であった。
 数回ヨーロッパへ行った経験からフロントマンの話を良く聞いておかなければならないということを肝に銘じてミュンヘンへ行った。ミュンヘン駅の直ぐ脇にあるユーロスターズグランドセントラルというホテルを予約しておいた。宿泊手続きをしたときに朝食は6階のレストランでとるように言われた。翌朝、6階のレストランで食事をしようと食堂へ入った。非常に明るく静かな雰囲気の食堂であった。すると東洋人と思われるボーイが急いでやって来て「お前さんが入る食堂は7階の食堂だ」という。私は昨日チェックインの時に6階だと確認してあるというと、少し待ってくれと言ってルームキーをもってフロントへ行った。少時してフロントマンと2人でやってきた件のボーイは申し訳ないことを言ってしまった。許してほしいとフロントマンの前で謝った。ちなみに7階の食堂は東洋系の人たちでごった返すように騒々しかった。そのとき、はからずもロンドンでのことを思い出してしまった。
 ボーイの頭の中には何か自ら差別するあるいはされる習慣があり、それに従ってしまったのかも知れない。こうして私は世界の国には未だに平然と差別が日常的に行われている現実を見た。
 最近の報道によると、ある宗教に属する人たちは厳格な身分制度に縛られていて、下の身分の人との結婚は大変困難であるらしい。身分違いの結婚相手が行方不明になってしまうことがしばしば起こるという。科学技術の発達した世の中で身分の低い階層の人たちも収入が増加して収入に見合った生活(上層階級の人と同じかそれ以上の生活)をしているというのに、結婚というのは別の考えをもった年配者に多くいるようである。過去の習慣を乗り越えられる日はいつ来るのだろうか。
 私は与論島の海岸で夜空に輝く無数の星を見ながら学生に人間の世界から戦争を無くすことができるかと問うたことがある。これを読んだ皆さんはどうだろうか?
 世界に本当の平和が来るのはいつの日だろうか。若い人たちの希望を叶えてあげたい。


想い出話 「見落とし」(20140110)

2014年01月10日 19時24分04秒 | 日記・エッセイ・コラム

 若い頃、四国の南側を巡る旅をした。徳島から列車とバスを乗り継いで室戸岬へ行き岬近くの民宿に泊まった。民宿の周辺を散歩した。海岸へ出て太平洋を見ると水平線が見えた。しばらくぼーっと海を見ていると世の中が変わってくるようだった。民宿の部屋は全体がそれと解るほど海側へ傾斜していた。食卓の足を見ると片側が少し切って短くしてあった。夕食が済んで布団に入ると、少し大げさだが頭を海に向けると頭に血が上ってきたのを覚えている。翌日はまたバスに乗り高知市まで行った。市からさほど遠くない所に国指定史跡天然記念物になっている龍河洞と言う鍾乳洞があると言うことで行って見た。1934年に国の史跡に指定されたと言うことで内部はかなり煤で汚れていた。昔は照明設備がないので松明やローソクの火を明かりとして洞窟内を探検したからその煤で薄黒くなったしまったのであろう。
 その後、高知焼きの窯元を探し当て焼き物を買って高知市へ戻った。ちなみに高知県は焼き物生産があまり盛んでは無いそうである。夜は高知名物のカツオタタキ、鯨の尾の身の刺身をたべ、高知流の酒の飲み方を体験した。土佐の猪口はそこがとがっていておけないようになっている。したがって猪口を手に持っているとまだのめると言うことで次々に酒を注がれてしまう。

 翌朝は高知城脇の堀端で朝市をやっているというので見に行った。おばあさんにこれをのむと私のようにいつまでも元気でいられると言われて黄色い枸杞(くこ)の粉を買わされてしまった。
  高知市内を見物して1日を過ごし、翌日は土佐清水市へ行き鰹節工場を見せてもらった。そして足摺岬ヘ足を伸ばした。旅館に入ると数人のお遍路さんがちょうど宿へ着いたところだった。その人達は部屋に通されると直ぐにお経を読み始めた。私は夕食に特別にカツオの刺身を頼んで足摺岬へ出かけた。ここは崖になっておりその先に太平洋が広がっていた。水平線近くの雲が夕日に染まっていた。これで以前に本で読んで一度いってみたかった高知の2つの岬を観ることが出来た。
 カツオの刺身はすばらしく美味しかった。土佐作りよりもやはり生の方が私は好きである。
 翌日、海岸伝いにバスで西へ向かった。特に予定があるわけではなかったのでゆっくり宿毛市まで足を伸ばしすことにした。途中山道をバスがゆっくり進んだ。海中水族館があるというのでバスを下車して見に行った。海中に建てられたガラス張りのホールから沢山の魚を観ることが出来た。水族館を出て、他に面白いところがないかと尋ねると”見残し海岸”というところがあるという。指を指して南東の方角にあるという。行ってみたいというと今からでは時間的に無理だと言うことで、その名の通り見残してしまった。最近はネットで写真などを見ることが出来るので見てみると、やはり無理をしてもいって見るべきだったと思う。
 前置きが長くなったが、最近身体の屈折が不十分になってきたためと整理が行き届いていないために、机の下に入ってしまったものや何かの陰になっているものを探すのが困難になってきた。これは見残しと言うよりも見落としと言うべきかも知れないが、そのために家の中でも見落とすことが多くなったというつまらない話でした。


お久しぶりです①(20140103)

2014年01月04日 00時12分01秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今年いただいた年賀状は100通に満たなかった。と言っても当方から暮れのうちに出すのを控えるようにしたからでもあるが、年相応になってきたのだろうか。

 最近、手の指の関節が異常を来し始めて、ボールペンを持つのが苦痛になってきた。それもあって、来年からは書面での賀詞交換を遠慮する旨のお願いを本年賀状をいただいた差出人へ差し上げた。ご容赦いただけると嬉しいのだが、ご理解いただくのに数年は必要かも知れない。
 過去20年ほどの期間、自分の身体の様子を観察してきたり、兄の臨終に立ち合ったりしたことをみると身体の終焉は少しずつ反応が遅速していくのがわかった。私自身、内蔵機能の変化が始まり、少しずつ全身にいろいろな影響が出始めたのがよくわかる。一般的に影響の出る部位によっていわゆる寿命の長短が顕れるのだと思う。それまで生きてきた間に酷使された部分に初めに影響が出始めるのも事実のようである。
 寿命の研究をしてきた研究者達のいろいろな研究報告を見ると心臓の総拍動回数は平均どのくらいという不確定ながら限界があるようだ。報告によると小動物の脈拍は早く短命だという。いろいろな動物の毎分の脈拍数とその平均寿命の相関を見るとその関係は明らかなように見える。
 人の場合は、ある程度調子が悪くなると医師の診察を受けて対応することが普通であるためにその相関はあまり当てにならないと私は判断するが、専門家はどう考えるのだろうか。
 昔から人の身体の悪くなる順番は、歯、眼、腹と言われている。必ずしも当たっているとは思わないが、あながち外れているとも思えない。
 糖尿病の専門医に聞くと、歯を良く磨いて同時に口腔内を清潔にしておきましょうと言う。この話は昔の言うことと無関係ではないようである。こんな話を書き出すと先が見えなくなるので一時ここまでにする。
 今日は嬉しいことがあったのでそのことを書いておこうと思う。20数年前、私の研究が役立って一人の新生児の生命を取り止めたことがある。その後、紆余曲折しながら成長を続け、現在は医療関係の仕事をしているという。この方は生後2日目に小腸異常という重症の身体状態に見舞われた。そのために小腸摘出手術を受け短腸症候群という身体状態になった。したがって経口的に食物をとることが出来ず他の方法で栄養補給をしてきた。その間の事情はここでは関係ないので省略する。その方が数年前から経口的に栄養補給をし始めて現在に至っているという。このようなケースは世界的にも初めてのことなので、担当医師は近々学会で報告することを考えているという。このままの状態が継続すれば当人にとってはこの上ない幸運なことになるでしょう。
 近いうちに担当医師と乾杯をすることになった。嬉しいことである。


平成26年元旦を迎えて(20140101)

2014年01月01日 23時19分26秒 | 日記・エッセイ・コラム

 穏やかな元日を迎えることが出来ました。12月の25日頃から毎朝快晴の日が続きました。庭の落ち葉を掃き集めていたら庭木の葉陰になっている部分に土の見えるところがあった。そこに熊手を入れると黒い土のしたから霜柱が2cmほど成長しているのがみえました。私の就寝時刻が遅いこともあって、起床時刻は大体朝日が出てからつまり7時頃になります。その頃には外の気温は大体4℃前後になっています。霜柱が出来ていたと言うことは、太陽が出る直前までは0℃くらいになっているのかも知れません。太陽の力は偉大であることがわかりますね。
 今日も朝のうちは快晴でした。正午過ぎ頃から突然強い北風が吹いてきて、北の空に雲が広がりました。当地は海に近い故か、日中は暖かく暖房を入れる必要はほとんどありません。夜も昨晩までは電気毛布を使用しなくとも寒さを感じませんでした。
 その様な穏やかな気候の当地は長寿の里と呼ばれています。
 今月の11日から役場の西側に登り口のある吾妻山の菜の花祭りが実施されます。この祭りはTVや新聞などでも紹介されるのでご存じの方も多いことでしょう。吾妻山の頂上からの展望は360度に及び箱根その先に富士山が、そして北方には丹沢山塊が、南方を眺めれば陽光がきらめく湘南の海が眩しい。
 吾妻山の行事は菜の花祭りの後、梅見、桜花の乱れ咲き、ツツジ、その後もいろいろな花が咲き続ける。是非一度足を向けていただきたい。天気が良ければ決して失望しないと思います。  元旦の初投稿は当地の自慢話になりました。今年は世界情勢が平和に近づけますように努力しましょう。