筆者は料理屋とくに小さい料理屋で食事をするとき、調理場が見える席があるとそこに座るようにしている。何故かというと調理師の包丁さばきを見たいためである。調理師の包丁さばきは調理人の個性が表れるという。筆者の興味は特に刺身を切るときの包丁さばきである。刺身を切る刃物は、さばく相手によって使用する刃物も変わってくる。調理人の中にはやなぎ刃という細身の少し長い包丁を使用する人がかなりの割合でいるようだ。包丁に水をかけ柄本をとんとたたくと水がスーと刃もとから落ちる。そして刃元の方から魚に入れる。刃を引きながら切り終わったら右に持って行き、右の方に並べていく。リズムをもってさばいているようで、芸術性を感じる。
筆者が、大学で調理学実習という授業を受けたとき、履修者は20人ほどいた。そのうち女性は一人しかいなかった。残りの男性の学部別割合では、理学部が17人、残りは工学部の学生であった。ちなみに文系学部の者は一人もいなかった。女子学生が一人ということに、教員も驚いていた。それで、何故この授業を受ける気になったのかと聞かれた。運動部の学生が多くいたが、筆者も含めて ‘合宿時に食事当番になったときに役に立つ‘とか、‘就職して一人住まいをするようになったときに何か簡単なものでも食事の用意が出来ればいいかなあ思っている‘ ということが答えだったと記憶している。
*[高齢者は昔のことをよく思い出すことがある、しかし正確でないこともあることを承知していただきたい]。 教員にいい心がけだといわれた。ここでこの授業の担当教員について一言述べておきたいと思う。
教員の姓は蜂谷リンという定年近い女性助教授であった。この先生は、明治時代若い頃ヨーロッパを周遊したという。ヨーロッパの各地でレストランに入り、そこの料理が美味しいと調理場へ行き材料や調理法を聞くというほど熱心に調理の勉強をしてきたという。また日本においても、有名料亭は言うに及ばず、美味しいといわれる店があるとどんなに小さい店にでも行き、自分で味を体験してきたという。蜂谷先生は授業の合間にいろんな料理の特色や、味について体験談を語ってくれた。それについては機会を作って別に書くことにする。
調理学実習の授業では実習の前に、調理器具の種類や使用法についての説明、材料についての説明、そして調理の順序については調理をする前と、実習している最中に適宜指示してくれた。
材料を下拵えするときに、何はどの刃物を使い、切り方はこのようになどと懇切に教えてくれた。この授業を履修したのは昭和33年頃のことであった。その頃は、刺身は刺身包丁というのを使った。これはもうご承知のことと思うが、細身の角形で片刃のものであった。蜂谷先生は、刃物は出来るだけ良いものを手に入れましょうといっていた。それは、魚のようなきわめて柔らかい肉質はよく切れるものを使わないと切り口がぎざぎざになり見た目にも美味しく見えない。肉などを切るときは、現在の筆者はヘンケルの肉用の歯形がノコギリ状の刃物を使っている。ヘンケルの刃物は20年来研がずに使っているが、非常に良く切れる。切り口もきれいである。また、刺身用には刺身包丁はほとんど使用しないで、もっぱらやなぎ刃包丁を使っている。それとカツオなど中型の魚をさばくときには堺の○○鍛冶という方の鍛造した出刃包丁を使っている。
蜂谷先生のいっていた、調理のはじめは材料を切ることから始まる。そのためには質の良い包丁を揃えると料理することが楽しくなるといっていたのは、筆者の素人経験ではあるが事実であった。