後期高齢者になると
もうすぐ後期高齢者になる筆者は、最近いろいろなことを経験することになった。まず、後期高齢者という言葉であるが、何となく差別されるようでいやな言葉であることに気がついた。この命名に関してはいろんな意見があって最終的にこの名前が付けられた。
そもそも高齢者に対して特に区別するような名前を付けること自体が人権問題につながるような気がしてならない。元を糺せば、高齢者の医療費負担が、増大して健康保険組合が赤字になるからという。そしてその赤字分を若い人たちが負担する。その負担分が高額になるという。それを軽減するために高齢者の医療費を増やそうと考えることにある。
年齢を重ねるごとにいろいろな体調不良を訴えるようになるのは当然のことである。どんなに鍛え上げた身体をもっていても、70年も使ってくればいろんな所がほころんでくるのはごく普通のことである。その分社会にもそれなりに貢献してきた。そのような高齢者が快適にとはいえないけれども、それなりの生活をするために必要な医療機関を受診するのはある程度必要なことではないだろうか。
また、日本の人口構成を考えると、いわゆる団塊世代これはつまり太平洋戦争の中から復興へ向かう原動力として働いてきた人たちがその役割を終え、休息の時代を迎えることななったということである。この人達の世代人口が全人口に対して高比率を占めるのは歴史的に見ても事実である。これにはいろいろな原因が考えられるが、個人の責任ではない。このような背景をもった人たちが高齢者になった。
そして、医療にかかる経費の面であるが、医療技術が発達して、高度技術の結晶のような診断装置が普及し、病気の診断にそのような装置を使用する。また、医薬品も長い年月と多大な経費をつぎ込んで研究して開発されたものを投与する。したがって、医療にかかる費用は高額になる。その医療・施薬費用が高額になるのは誰が考えても当たり前であろう。そして世代人口が大きいと来ている。これらを総合すると患者の一部負担金を除いた分を、健康保険組合が支払うことになる。その金額が膨大になるのは前から予測されたことである。それがその時期になって、あたふたとして医療機関を受診する高齢者の負担額を増やそうと考える。その裏には言外に負担額が増えれば受診率が減少し、その結果、健康保険組合の支出額は減少する。これでめでたしめでたしとなるのだろうか。
このことは年金についても同じようなことがいえる。筆者は幸か不幸か共済組合に加入してきたので年金問題で問題を抱えることはない。しかし、制度がはっきり確定しない状態で発足した国民年金制度は、複雑な問題を抱えることになった。国民年金はいろいろな面で受給者に不公平感があるようだ。これも膨大な保険料を、保養施設建設などに湯水の如くつぎ込んで経営が悪化しても継続し、いよいよ破綻すると二束三文で売り払う。このような経済法則を無視するような方法で将来展望を考えることなど出来るはずがないし、その結果破綻するのは当然である。その埋め合わせとしてその他(共済組合など)の年金組合を取り込んで財源がある所に不足分を負担をさせる。これもおかしなことである。といっても年金制度を一本化することに依存があるわけではない。
もう1件。それは高齢者の自動車運転免許更新(取得)に関することである。70歳になると、高齢者講習というのを受けてその修了証をもって更新するようにという通知書が送られて来る。その費用は数千円から七千円程かかる。講習時間は、約4時間に及び、その中には自動車教習所内で実技講習もあった。さらに75歳以後の更新は、いわゆるボケ検査らしきものもある。そして優良運転者(ゴールド)制度はなくなり3年ごとの更新になる。
確かに、高齢者の運転は不安定な要素がある。そのための予防措置として高齢者講習というのも必要なこととして納得することが出来る。しかし、収入の少なくなった者にとってこの出費は生活に影響することがあるかもしれない。
それが問題なのである。
さて、今の日本は、何十年も、子供を育て、社会を支え、日本の国のことを考えて努力してきた高齢者を邪魔者扱いする制度や政策をとることが当たり前になっているように感じる。これは筆者のような高齢者のひがみであろうか。こんなことを感じさせる社会を何とかしなければならない。