寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

ワイン試飲会余聞

2012年09月29日 15時53分13秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日(201009)午後、近所の酒屋さんで楽しい催しがあった。気の置けない10人程の人が集まってフランスワインの試飲会が催された。初めに店の若奥さんのフランスワインの産地と特徴やボルドー地方のワインの貯蔵法などが説明された。興味深いお話であった。その後で、6種類のボルドー産ワインと店の方の心づくしの食べ物と集まった人たちとのお話、一時間30分の予定が3時間にも及んでしまった。参加者の一人86歳の方は、昔話を語りながら試飲のワインを次々に胃の中に入れていた。秋雨がさらさら降るなかはじめに2種類の白ワイン、そして4種類の赤ワイン。この日まで、私はドイツのモーゼルワインを好んで飲んでいた。それというのも何回かいったフランスで美味しいワインに出会わなかったからだ。今日試飲させていただいた6種類の中で、白ワイン(シャトー・ド・ベッサンヌ)、赤ワイン(シャトー・ラ・メゾネット)は、特に美味しかった。これからはフランスワインも飲むようにしよう。試飲会の終了間近、問屋さんの方がオーストラリア産の貴腐ワインを提供してくれた。恥ずかしながら貴腐ワインを初めて飲んだ。色は琥珀色で甘みが強くとろりとした舌触り、印象深い香りがえもいわれぬ感じであった。和やかな中、ワイン試飲会はお開きになった。今日集まった人たちとまたお話をしたい。そとは小降りの雨が降っていた。

 ”ワインには、食前に飲むものと、パーテイで飲むものがあります”、とか”食事の主菜が肉か魚によって白ワインにするか赤ワインにするかを決める”などという知ったかぶりをするつもりはありません。

 筆者は何故か、ドイツへ行く機会が多かったためにドイツワインが好きになってしまった。主菜が肉であっても、魚であっても常に白ワインを好んで飲んできた。気候帯域からすると、ドイツはワイン栽培の北限に相当する。白赤の栽培率は80%ほどが白ワインだという。アウスレーゼという極甘の白ワインはパーテイ用として好まれる。筆者はこの種のワインが好みであるが、トロッケンという辛口のものも好きである。

 まあ、ワインに限らず、飲食物でも人それぞれに好みがあるということであろう。


想い出話 島根県は、日御碕 出雲大社で縁結び シジミを食べて 夕日眺める

2012年09月28日 12時33分47秒 | 日記・エッセイ・コラム

 随分昔の話で恐縮ですが、ふと思い出したので書き留めておこうと思いました。

島根県へ旅したのは昭和39年頃だったと思います。調べれば明確な年代が判りますが敢えてそうしないことにしました。京都で会合がありそのついでに島根県の小泉八雲記念館や宍道湖を見てみたいと思いました。同じ勤め先の仲間2人と京都駅から列車に乗りました。筆者は旅行で目的地へ着くまでは昼間列車に乗ることにしています。途中の駅に着くと必ず駅弁を買って食べるのが大きな楽しみでした。この旅でも鳥取駅の鳥めし駅弁を買い求めみんなで食べました。鶏そぼろがご飯の上に一面に広がり、一部に炒り卵とデンブが彩りを添えていました。僅かに甘くとても美味しかったのを思い出しました。あの駅弁は今もあるのでしょうか。

 そうこうしているうちに列車は、松江駅に着きました。何しろ若かったので宿屋を予約することなんてしないで来てしまいました。それでも運良く眺めの良さそうなホテルに入ることが出来ました。ホテルの窓から宍道湖が見えるいい部屋を案内してもらいました。その日は小泉八雲の記念館を見てから松江城(跡)を散策してゆっくり過ごしました。夕暮れ時の宍道湖は夕焼けを写して幻想的な美しさを見せてくれました。宍道湖を二つに分ける橋もその美しさを際立たせるものでした。夜は電灯を消してテラスへ出ると星が降るように近くに見えました。宍道湖の方を見ると、漁り火でしょうか湖面に明かりを映していました。美しい夜景を見ながら、将来の夢を語り合いました。 翌日の朝は、宍道湖でとれたしじみ汁を添えた朝食を食べて出雲神社へ向かいました。バスに乗ってしばらく行きますと出雲大社駅に着きました。バスで駅に?と思いましたが、そこは一畑電鉄(イチバタデンテツ)という宍道湖の北岸を走る鉄道の駅でした。

 出雲大社は荘厳なとはいえませんでしたが、しっとりとした社と境内の広い神社でした。ここは神無月に、日本中の八百万(ヤオヨロズ)の神様が集まって日本中の婚姻を取り仕切る神社だそうで、若い二人連れがたくさんいました。私たちの中には、一人だけ独身者がいたので神様によくお願いしなさいといいましたが、彼はお参りをしませんでした。そのためかもしれませんが、とうとう後期高齢者になるも結婚しませんでした。

 その後、日御碕という所へ行きました。ここは、灯台があり、玄武岩のような岩石が屹立した断崖でした。断崖の先端に立って周辺を見渡すと断崖の中に洞窟のようなものも見えました。のんびりと散策をして、その日は日御碕の国民宿舎へ止まることにしました。この国民宿舎は、大社作りの各部屋が広いすてきな宿舎でした。夜は周辺に明かりが無く、満天の星が見えました。

 次の朝、私たちは出雲大社駅に行き、一畑電鉄で松江に向かうことにしました。小ぶりな車両は、東急車輌製であることが明記されていました。私は座ることはなかったのですが、特別席(今のグリーン席)の切符を買いました。これも想い出の一つですね。電車は宍道湖の北岸を一生懸命?走りました。どこかで乗り換えたように記憶しているのですが、今となっては不明です。かなり時間がかかって終点につきました。帰りは松江駅から京都へ向かい、京都から夜行列車で東京へ戻りました。

 余談ですが、同行者の一人が朝食の生卵を食べられないというので、まかないの方に焼いてほしいとお願いしました。彼はなかなか観察眼の鋭い人でした。彼が朝食時に観察したところ、どうやら宿泊料金によって生卵と卵焼きとの違いがあるようだという話でした。当今のホテルなどでは、朝食は大体バイキングになっているので上記のようなことは無いと思いますが、一つの思い出話としておもしろいと思いました。

 このときは未だ新幹線がありませんでしたので、旅はゆっくりしたものでした。


喜寿祝賀同期会(中学卒業)

2012年09月19日 23時00分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

 8月末に中学時代の同期会があり出席してきた。いくつか驚いたことを発見したので書いておこうと思う。

 はじめて東北新幹線に乗った。東京駅発青森行き「はやて」に乗った。東京駅を発車すると、すぐ上野駅に停車し、次が大宮駅に停車した。少し文庫本でも読もうかと思って何気なく外を見ていたら、1時間少しして仙台についてしまったので、文庫本を読むことができなかった。なんと、我が家をでて、町の駅から東京駅に着くまでの時間と同じくらいで仙台についてしまった。そこから仙石線に乗って、松島海岸駅へは約1時間かかった。何とも仙台も近くになったものだと思った。

 松島の津波被害はどうだったのだろうかと思って、海岸沿いの店できてみた。なんと、ここでは2メートル弱の波で海岸付近が被害を受けたという話であった。湾内に浮かぶたくさんの島々が波を沈める効果を発揮したようだ。

 同期会は、360人ほどいた卒業生も、喜寿までにはいろんなことがあり、出席者数は50数名になってしまった。さすがに寂しく、年齢を感じる出席者数であった。中には昨年の津波で亡くなった方も数人いたということである。公式?に開く同期会は今回で終了という世話人の話であったが、何とか有志会という形でも続けていきたいと思うのは出席者多数の意見であった。

 翌日、作並温泉の湯ノ原ホテルで二次会を有志でおこなった。このホテルは、ごく緩やかな斜面に沿って、建て増しを重ねてきたらしく数カ所に段差があった。平地の狭小なところでは普通のことであるが、階段ではなくスロープでつないでいるのが変わっていた。

 余談であるが、ホテルの家族の子で2歳になる女児が、じいじ、じいじといってまとわりついてくるのが可愛かった。筆者の孫と同じ年頃だったのでなおさらであった。

 翌早朝、地震が発生した。筆者のいた室では、せいぜい震度3くらいだと思った。ところが朝食の世話をしてくれた従業員の方の話では、非常に大きかったという話だった。従業員宿舎は、ホテル東側の地盤の軟らかいところに建っているので揺れが激しかったらしい。

 地盤の軟弱によって揺れの大きさがそれほど変わるということらしい。 こうしていろんなことを知ることができた同期会は終了した。

 しかし、残念なことがいくつかあった。

 第1は、同期会といえども、金銭が関わることに関しては会計報告が必要なのは当然のことであった。が、これまで会計報告は一切なかった。それはお互いの信頼関係が不要と思い込んでいたのであろうと思う。しかし、中には信頼を傘にして報告をしないのは不正行為があったと見なす人もいるようである。

 会費は、おそらく少し余るような金額を集金することであろうと思う。そして残った会費は次回の連絡費、事務費や会議費などに使用するのでいいだろうと判断したことと思われる。

 ところで、中学同期会の東京支部のようなものがある。ここでもこれまで一度も会計報告が無かった。この会の少し悪質なところは、宿泊代飲食代の50%増ほども集金する。それで二次会の費用を捻出しているような話であった。しかし会計報告が無いので、どれほど余り、どう使用したかは不明である。しかし、金額がどんなに少なくとも、それを働いて得なければならない人にとっては、非常に貴重なものであることは疑いの余地が無い。従って、金銭を徴収して、何かの会を催したら、会計報告をきちんとやる必要があるだろう。

 こんなことが原因になって、これまで一所懸命世話人をやってくださった方が、精神的に困憊し、病院に入院してしまったという。なぜ、いままでご苦労様でした、といって感謝の言葉を贈り、これからは交代してやりますという労りの心が持てなかったのだろうか。そうすれば、入院することも無かったかも知れないし、その方の老後が豊かなものになったのでは無いだろうか。残念でならない。