わが町の季節の移り変わりは自然を見ているとよく分かる。昨日は久しぶりに三鳴き四鳴きツクツクボウシが鳴いていた。今日が今年最後かと思うと鳴いたりする。しかし、季節の移ろいは少しずつ進んでいる。これからは夜の星空を見上げることが多くなる。何とか流星群などというものを毎年何回も見上げるが雨のようにフルというのを見たことがない。
在職中にいろんな島で研究していた頃の話です。最も印象の深かった島の一つに鹿児島県の南端にある島、与論島という小さな島があります。今日はその島の想い出話を書くことにしました。
初めて与論島へ行ったのはもう45年ほども前になるでしょうか。鹿児島港から300トンほどの小さな船に夕方乗ると翌日の午後3時頃に与論島に着きました。途中薩南諸島の島々を見ながらの船旅は何とも優雅でした。しかし海は波が高く船は相当揺れました。港を降りると身体が揺れていました。数分間歩くと直ぐ市街地というほどのものではないが家々が並んでいるところへ着いた。与論島で一軒しかない「朝日館」という旅館へ靴を脱いだ。旅館の玄関の脇で山羊が鳴いていた。その日は身体の揺れを直すために2時間ほど島内の南東部を散歩をした。茶屋町の西方にサトウキビから砂糖を絞り出す製糖工場があり、その先に飛行場があった。夜、布団の上に身を横たえると身体が揺れて寝付けなかった。船中の揺れが何時までも残っているのだった。
左の地図はgoogoleマップからコピーさせて貰ったものである。
与論島には大きな2つの断層がある。琴平神社を中心にして南北に延びる高低差60メートル以上の断層、もう一つは与論中学の東にある東西に延びる断層である。南北に延びる断層の上に小さな洞窟があり、そこにこの島の風習であった風葬にされた人骨がたくさんあった。島の北東部に黒花海岸があり、そこの珊瑚礁は小さいものではあるが類を見ないほど美しい。
百合の浜海岸は礁嶺まで1キロメートル以上もある裾礁がある。足下には所々穴が空いており、時には牙の鋭い怖い顔の魚がいた。満ち潮になると海水の満る早さを実感できます。泳げない人は早めに砂浜に戻りましょう。
私が初めて行った頃は、観光客はほとんどいなかったので海岸にあるサンドロック(ビーチロック)と珊瑚礁の調査を誰にも気兼ねなく出来ました。
夜は白い砂浜に寝転んで星々を眺めました。そよ風がほおを優しくなでていき日常生活のゴツゴツしたことを忘れさせてくれた。流星が幾つも右から左へあるいは上から下へそして逆方向へと飛んでいた。そして当時は珍しかった宇宙船が南北に光跡を引いていった。
旅館は、調査が終わり明日は帰京する日の夕食にすき焼きを出してくれた。4人では食べきれないほどの肉の量に驚いた。ブーゲンビリアの赤い花を眺めながら満腹するまで食べました。その夜はさすがにぐっすり寝てしまった。
朝起きて旅館前の道路に出て港へ行ってみた。漁から帰ってきた漁師が捕ってきた魚を刺身にして食べていた。きれいな魚だったので名を訪ねたら××というのだといった。魚の表面だけを見ていると食べるのを躊躇したが、刺身になった切れ身は半透明で美味しかった。
旅館へ帰って玄関の脇をフト見ると山羊の皮を板に貼り付けて干してあった。そのときは気がつかなかったが、後で昨夜食べた肉の残骸だと気がついた。与論島では東京から大学の先生が四人も調査にきたというので最大のもてなしをしてくれたのだろう。初日の山羊の姿が目に浮かんできた。合掌。
与論島を出航する船は15時頃ということで断層の下の方を見に行った。崩れた岩石が滞積していた。手に取ってみるとサンゴの化石がたくさん入っていた。ということは与論島は隆起珊瑚礁から出来た島なのだろうか。また調査にこようと話し合った。この後与論島には10回ほど学生を連れて調査に行った。行くたびに町の様子が少しずつ変わっていくのをこれが世の中の流れなのかと感慨深く見てきた。
海は往路よりも荒れていた。油の臭いが充満している船室から出て操舵室へ見学に行った。船は船首が空中に持ち上がると落ちてきて海面を船底がバシャンと叩きつける大きな音が聞こえた。船長がここは一番揺れるところだけど大丈夫かと船酔いを心配してくれた。しかし波頭から飛び魚が頭を出し波が底に向かうと飛び出して滑空していくのが面白くしばらく見ていた。暮色が濃くなる頃、船は徳之島を過ぎて瀬戸内に入る。すると嘘のように波がなくなり船は滑るように島々の間を進み奄美大島に着いた。港の周りは明かりがついていたが人影はこの船に乗る人と港の職員しか見えなかった。夜の船中はやることが無いので直ぐ寝てしまった。
船が揺れないなと思って甲板に出ると北の方に桜島が煙を噴き上げていた。