寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

木曽御嶽山(2)救助隊の皆さんご苦労様です(20140930)

2014年09月30日 18時55分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

 御嶽山が噴火して4日が過ぎようとしている。救助隊の皆様方のご苦労に感謝の意を伝えたい。噴火を続けている直ぐ近くで救助作業をするのは大変なことだろうと思います。2次災害だけは避けて欲しいと願っています。

 4日目になってTVを見ていると噴火予知通報が適切でなかったと非難する報道が増えてきたように思います。報道を担当する皆さんにお願いがあります。責任者をあぶり出して吊し上げるようなことだけは止めて下さい。また団体や研究者の間で責任逃れの発表は絶対に避けて下さるようお願いします。それは進歩発展を遅らせるだけですから。それよりも相互に協力し合ってより正確な情報を提供できるようにして欲しいと願っています。  

 自然現象のうち地下で起こっていることを正確に判断することは現在の科学では不可能でしょう。蓄積されてきた過去のデータをもとにいろんな議論をし、そこから導き出された結論が必ず正解となるとは限らないからです。それ程目に見えないことを予測するのは困難だと言うことです。

 もし今回も微振動が少し大きくなってきたので入山禁止にしたとしよう。そして冬が来るまで何事も起きなかったならば報道関係者は過剰な発表で地元の観光収入減につながったと予報者を非難するだろう。それでは報道関係者あるいは一般の方はどうすればよかったのか自分の意見を述べて欲しい。

 多くの科学者は自分の責任を理解しています。したがって単なる予想はどんなことがあっても口に出来ないのです。つまりデータに基づかない予報は出来ないのです。そう天気予報が余り当たらなかった時代を思い出して欲しい。晴れたり曇ったりところによっては小雨が降るでしょう。という予報が多かった。つまりどんな状況になっても当たりだしあるいは外れだと言うことです。しかし今は大量のデータが蓄積され超高速のコンピュータを最大限に使用してかなり正確な情報が得られるようになった。しかしそれでも確率という表現で多くの判断を視聴者に任せています。

 自然現象を人間がコントロール出来るようになれば正確な情報提供が可能になることでしょう。太平洋戦争敗戦後”横井福次郎”という人の書いた、「ふしぎな国のプッチャー」というSF漫画にそんな場面が出ていたのを思い出した。

 将来はそういう時代が来るかもしれない。


思い出話とともに、ほのかに甘い香りが....(20140929)

2014年09月29日 17時52分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 町中を歩いているとどこからかそよ風に乗って甘い香りが漂ってきました。

 香りの強くなる方へ歩いて行くと、そこにはやはり金木犀の木がありました。可愛らしいオレンジ色の花が枝の節々に小さな顔をのぞかせて咲いていました。金木犀の花はあまり長持ちしないようですが次々に咲いていくので5日くらいは香りをまき散らしてくれます。

 ここで思い出したことがあります。昭和40年頃研究室の先生方と南陸奥を旅行したことがあります。当時は新幹線がなかったので普通列車に乗っての旅行でした。上野駅から夜行列車に乗って早朝福島駅につきました。朝食をとってバスにのり吾妻小富士で下車、吾妻小富士の火口底までおりて膝ほどまである草の上を歩くと何故か弾むような感じがしました。再びバスに乗り五色沼まで行って太陽の光の影響で沼の色が様々に変化するのを見ながら一周し、三度バスに乗って左の車窓から檜原湖を眺めながら白根高湯中屋に到着しました。そこでの夕食は土地のキノコ尽くしでした。キノコが苦手の私でしたが、各種のキノコを違った調理法で作ったものはとても美味しかったのを思い出しました。温泉風呂は太い湯の滝が滔々と流れ落ちてたいました。翌朝雄鳥の一刀彫りを買って米沢駅へ行き列車で上の山まで行き下車しました。そこからバスで蔵王山へ行きました。蔵王山の周辺にはコマクサなど高山植物がたくさん咲いていました。その日は青根温泉不忘閣に宿泊しました。ここの温泉は25メートルプールほどもある浴槽と西屋の温泉滝の数倍の湯滝がありました。その下へ入るとドンと押しつぶされました。ケガをしないでよかったです。ちなみに出入り口は男女別ですが中は仕切りがありませんでした。そして翌朝バスで大河原駅へ行きましたが列車の時刻まで少し余裕があったので大河原の町中を散歩しました。すると町中が甘い香りに満ちていました。それは私が初めて嗅いだ金木犀の花の香りだったのです。町中の諸処に10メートル以上もあるような大きな金木犀の木があり、満開の花盛りだったのです。

 旅行はその後仙台から松島へ行き、瑞巌寺を見学したり松島湾内を遊覧船で島巡りをしました。そして仙台へ戻り市内を自由行動で名所を見て回り、夜行列車で帰京しました。高齢の先生方二人を含めて8人の旅は往復両夜行列車、旅館2泊の強行軍でしたが皆さんよい想い出が出来たと喜んでくれました。今はその先生方3人は別世界へ行ってしまいましたが、私も当時の先生方の年齢を遙かに超えてしまいました。

 


木曽御嶽山(1)噴火(20140928)

2014年09月28日 07時35分26秒 | 日記・エッセイ・コラム

 長野県と岐阜県県境にある御嶽山が噴火したと報道が伝えている。数百人が登山していたという。28日7時現在行方不明者が十人前後いる様子である。あの広い山頂の三カ所から噴煙を上げている映像が繰り返し放送されている。

 秋の紅葉シーズンでもあり、また御岳経の信仰の山でもあり山頂小屋で一夜を過ごした方が多数いる。さぞ恐ろしかっただろうと拝察する。

 報道によると9月初め頃から微動が続いていたという。関係役所ではちゅういほうを出していたものと思うが。登山者はなかなか耳を傾けないことがある。こんな時に強い規制をして何もないと過剰報道だと言うし、緩いと何故もっと強く規制しなかったのかという。もっと専門家の話に耳を貸そうではないですか。

 「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とはいうが、注意しすぎてもそれ程の影響がないのなら災害に対してはほどほどの警戒は被害を大きくすることがあると明記しましょう。


また小児を殺害?死体遺棄事件発生(20140926)

2014年09月26日 00時20分52秒 | 日記・エッセイ・コラム

 小学校低学年の女の子を複数のポリ袋に入れて自宅の直ぐ近くの森に捨てたという事件が発生した。被害者の冥福をお祈りし、被害者のご家族にお悔やみを申し上げます。

 最近、交通事故死者数が減少してきたと言われているが、殺人事件が多発しているように思えるがどうだろうか。その被害者になるのは弱者が多い。対象は高齢者だったり、女性だったり、乳幼児だったりする。何故このような弱者を対象にするのだろうか。そこに加害者の精神の鬱屈が感じられる。といって強者を襲えと言うことでは決して無い。このような事件を無くすことが必要だと言うことである。

 生き物の命はゲームのようにリセットすれば再生するものではないことをゲームメーカはゲーム販売時の説明書に明記して欲しいと思う。効果のほどは不明であるが少しは良くなるのではないだろうか。

 ある人は殺し合をするようなゲームを制作販売提供禁止にすれば良いと過激な発言をする。こんな発言が公になったら、ゲームに責任はないとか、表現の自由だとか何とかの自由だとかの侵害になると言って猛攻撃を食らうことは目に見えている。しかし、ゲームの世界と現実の世界との区別が出来なくなる人がいることも事実だろう。また正常な人でもストレスに押されて薬物に依存するようになり、異常感覚になる人もいるだろう。最近いわゆる脱法薬物の取り締まりが強化されるようになった。これで少しは世の中が良くなるのかもしれないと思ったら、覚醒剤より脱法薬物の方が恐ろしいと紙上に書く新聞社が出てきたのには驚いた。その後に続く言葉は“だから覚醒剤を認めろ”となるかもしれない。困ったものである。

 国を滅ばすにはアヘンがよいとアヘンを目的の国に大量に持ち込んで侵略しようとした事例が過去にあった。日本は将来このままでいくと精神を不安定にする薬物によって内部崩壊するのではないかと心配する人もいる。まさかと思うがSF小説の題材になるかもしれない。「狂気への過程そして亡国」などというSF小説が出てきたら、それは現代社会に対する風刺だと思わなければならないだろう。

 いずれにしても死刑廃止論を再考する必要があるかもしれない。これも大変な議論を呼ぶ問題である。

 

 


思い出話「与論島の夜」20140922)

2014年09月22日 11時08分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 わが町の季節の移り変わりは自然を見ているとよく分かる。昨日は久しぶりに三鳴き四鳴きツクツクボウシが鳴いていた。今日が今年最後かと思うと鳴いたりする。しかし、季節の移ろいは少しずつ進んでいる。これからは夜の星空を見上げることが多くなる。何とか流星群などというものを毎年何回も見上げるが雨のようにフルというのを見たことがない。

 在職中にいろんな島で研究していた頃の話です。最も印象の深かった島の一つに鹿児島県の南端にある島、与論島という小さな島があります。今日はその島の想い出話を書くことにしました。

 初めて与論島へ行ったのはもう45年ほども前になるでしょうか。鹿児島港から300トンほどの小さな船に夕方乗ると翌日の午後3時頃に与論島に着きました。途中薩南諸島の島々を見ながらの船旅は何とも優雅でした。しかし海は波が高く船は相当揺れました。港を降りると身体が揺れていました。数分間歩くと直ぐ市街地というほどのものではないが家々が並んでいるところへ着いた。与論島で一軒しかない「朝日館」という旅館へ靴を脱いだ。旅館の玄関の脇で山羊が鳴いていた。その日は身体の揺れを直すために2時間ほど島内の南東部を散歩をした。茶屋町の西方にサトウキビから砂糖を絞り出す製糖工場があり、その先に飛行場があった。夜、布団の上に身を横たえると身体が揺れて寝付けなかった。船中の揺れが何時までも残っているのだった。

Google 左の地図はgoogoleマップからコピーさせて貰ったものである。

 与論島には大きな2つの断層がある。琴平神社を中心にして南北に延びる高低差60メートル以上の断層、もう一つは与論中学の東にある東西に延びる断層である。南北に延びる断層の上に小さな洞窟があり、そこにこの島の風習であった風葬にされた人骨がたくさんあった。島の北東部に黒花海岸があり、そこの珊瑚礁は小さいものではあるが類を見ないほど美しい。

 百合の浜海岸は礁嶺まで1キロメートル以上もある裾礁がある。足下には所々穴が空いており、時には牙の鋭い怖い顔の魚がいた。満ち潮になると海水の満る早さを実感できます。泳げない人は早めに砂浜に戻りましょう。

 私が初めて行った頃は、観光客はほとんどいなかったので海岸にあるサンドロック(ビーチロック)と珊瑚礁の調査を誰にも気兼ねなく出来ました。

 夜は白い砂浜に寝転んで星々を眺めました。そよ風がほおを優しくなでていき日常生活のゴツゴツしたことを忘れさせてくれた。流星が幾つも右から左へあるいは上から下へそして逆方向へと飛んでいた。そして当時は珍しかった宇宙船が南北に光跡を引いていった。

 旅館は、調査が終わり明日は帰京する日の夕食にすき焼きを出してくれた。4人では食べきれないほどの肉の量に驚いた。ブーゲンビリアの赤い花を眺めながら満腹するまで食べました。その夜はさすがにぐっすり寝てしまった。

 朝起きて旅館前の道路に出て港へ行ってみた。漁から帰ってきた漁師が捕ってきた魚を刺身にして食べていた。きれいな魚だったので名を訪ねたら××というのだといった。魚の表面だけを見ていると食べるのを躊躇したが、刺身になった切れ身は半透明で美味しかった。

 旅館へ帰って玄関の脇をフト見ると山羊の皮を板に貼り付けて干してあった。そのときは気がつかなかったが、後で昨夜食べた肉の残骸だと気がついた。与論島では東京から大学の先生が四人も調査にきたというので最大のもてなしをしてくれたのだろう。初日の山羊の姿が目に浮かんできた。合掌。

 与論島を出航する船は15時頃ということで断層の下の方を見に行った。崩れた岩石が滞積していた。手に取ってみるとサンゴの化石がたくさん入っていた。ということは与論島は隆起珊瑚礁から出来た島なのだろうか。また調査にこようと話し合った。この後与論島には10回ほど学生を連れて調査に行った。行くたびに町の様子が少しずつ変わっていくのをこれが世の中の流れなのかと感慨深く見てきた。

 海は往路よりも荒れていた。油の臭いが充満している船室から出て操舵室へ見学に行った。船は船首が空中に持ち上がると落ちてきて海面を船底がバシャンと叩きつける大きな音が聞こえた。船長がここは一番揺れるところだけど大丈夫かと船酔いを心配してくれた。しかし波頭から飛び魚が頭を出し波が底に向かうと飛び出して滑空していくのが面白くしばらく見ていた。暮色が濃くなる頃、船は徳之島を過ぎて瀬戸内に入る。すると嘘のように波がなくなり船は滑るように島々の間を進み奄美大島に着いた。港の周りは明かりがついていたが人影はこの船に乗る人と港の職員しか見えなかった。夜の船中はやることが無いので直ぐ寝てしまった。

 船が揺れないなと思って甲板に出ると北の方に桜島が煙を噴き上げていた。

 

 

 


スコットランド独立可否投票以後の懸念(20140921)

2014年09月21日 07時49分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 スコットランドの独立を可とするか不可とするかの投票が行われた。その結果ほぼ10%の差で不可派が多数を占め独立国とはならないことが決定された。しかし、アイルランドの例にあるように流血問題に発展しなければ良いがと懸念する。アイルランドは1921年に自由国として独立したが自由国を喜ぶ南部地域とそうでない北部地域とで分断されることになった。両地域の間では今もいろいろな問題が続いているという。

 民主主義の原則からいえば、投票でスコットランドを独立国とするか否かを決めることを決めたのであれば投票の結果に従うのが当然であろう。しかし独立国派は納得しないということのようだ。それなら投票で決めた意味が無いと思う。困ったことである。

 幸い今の日本ではそのようなことは起きないと思うのだが、スコットランドが流血騒ぎにならないうちに話し合いで収める欲しいと願うのは私一人ではないだろう。


フィクションとノンフィクションの間(20140918)

2014年09月18日 22時41分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私の小説「その日から 子供の戦争・戦後体験記」が自費出版文化賞入選作品に選ばれ、10月に表彰されることになりました。ありがとうございました。

 この小説を読んで下さった方々から「あなたは子どの頃、大変なご苦労をされたのですね」といわれることがある。あの時代を生きてきた人はみんな同じ経験をしていると思うし、小説の中の子供が私自身のことだと思ってしまった結果であろう。小説は仮想世界の話である。もちろんプロの作家が書く小説の中には自伝的なものもたくさんあるという。それでも読者は初めはフィクションだと思って読んでいる。しかしその小説の主人公に傾倒する結果、自分があたかも小説に登場する人物(主人公とは限らないが)になってしまうことがある。これは映像の世界でも同じ事がいえるし、コンサートの場合でも演奏者と一体化してしまうlことがあるだろう。クラシックの場合だと自分が指揮者になって手振りよく指揮している気分になったり、得意の楽器を演奏している感覚になり手足を動かしていることもある。

 読者が作品に書かれていることと同じような体験をしていると作中人物と一体化してしまうのかもしれない。作者としてはこんなに嬉しいことはないだろう。読者にそれ程強い印象を与えることが出来たのだから。

 作家の筆力は読者をいかに小説の中に引き込むかだと思う。私の小説はそんな力を持っているとは全く思っていないが、お世辞でも褒めて頂くのは嬉しいことです。

 さて、フィクションとノンフィクションとの間にはどのくらいの距離があるのだろうか。冒頭に書いた私の小説は私の経験を元にしているが、経験したことをすべて事細かに再現しているものではないし創作の部分も随所にある。そういう意味でフィクションとノンフィクションの間ということが出来るかもしれない。

 

 

 


わが家の周囲の生き物(20140916)

2014年09月16日 23時58分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

 わが家の周囲にはいろんな小動物がいる。中でもクモが沢山いる。多くは女郎クモである。最近観察して解ったことがある。大きな巣を張った大きな女郎クモの近くに小さな巣を張った小さな同種のクモがいるのを見つけた。若しかしたら大きい方は雌で小さいのは雄クモではないかと考えた。野生動物の多くはメスの方が大きいのが一般的であるという。

 しばらく見ていると小さいクモは大きいクモの近くへ行くが決して接触することがない。自分の小さい巣から離れない。そのうち自分の巣の中心で巣を揺する行動をしているが大きいクモはぴくりとも動かない。

 またしばらくすると、大きいクモの巣に近づき巣に足を掛ける。しかし大きな巣には移動しない。巣を揺するが大きいクモはまだ動かない。そのうち大きいクモは小さいクモに後ろを向ける。すると小さいクモは素早く移動して大きいクモに背中に飛び移った。大きいクモは少しの間静かにしていたがサッと動いて小さいクモを捕まえてしまった。その瞬間は早くて見えなかった。小さいクモは恐らく大きいクモに食われてしまうのだろう。時間が無く最後の場面を見ないでその場を離れた。自然界は厳しいものである。

 話は変わるが、我が家の窓付近には数匹のヤモリがいる。夜になると明かりの当たる窓の枠に取りついてジーッとしている。時々サッと動くことがある。その行動は恐らく虫を捕まえた瞬間だと思う。たまにケケケと鳴くことがある。家族はその鳴き声を気味悪いというが、私は父島の宿舎や与論島の民宿でしばしば聞いていたのでそれ程気味悪いとは思わない。ヤモリもまた我が家にとって害虫を捕ってくれる大切な生き物である。ヤモリを捕まえて色の濃いところに置くと灰白色の身体が濃い灰色に変わる。こんな変化を孫たちに見せたいと思うが機会が無い。


鰯雲 サンマとともに やってきた(20140915)  

2014年09月15日 14時29分33秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は「敬老の日」。空を見上げると鰯雲が頭上を覆っていた。気温は27℃だが体感は少しヒンヤリする。子供の頃からこの季節が大好きであった。何と言っても自然が恵んでくれるいろいろな食べ物がたくさんあるからだ。山へ行けば家族全員のリックサックに入りきれないほど栗が取れたし、アケビの実を食べ飽きるほど食べることが出来た。下を見ればいろんな種類のキノコが山ほど採れた。中でもハツタケや松茸は美味しかった。そして最も嬉しかったのはサンマを毎日食べることが出来たことだ。 こんがり焼いた40cmほどもある大きなサンマを1本頭から尾まで骨も内臓も残すところ無く食べたものだ。いつもは川で釣ってきたハヤ、ウグイ、まれに鮎それからドジョウしか食べたことがないので何とも言えない味だった。

 秋の訪れを告げる鰯雲は何故あのように鱗状に出来るのだろうかと不思議に思ったものだ。今ではその理由が明らかになっているが当時は不思議でしょうがなかった。1900年に流体の対流についてベナールが研究・観察した結果を発表し、高校の物理の教科書でも簡単に説明している。これから冬に向かってカルマン渦とともに雲の動きを見るときれいな模様を観ることが出来る。

 私たちもたまには空を見上げて自然の創り出す美しさを観察したいと思う。


朝日新聞の編集思想迷走す(20140912)

2014年09月12日 13時15分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 個人に関する噂話でも噂された者に極めて不愉快な思いをさせ、その被害はひどい場合には失職しその結果生命にも及ぶことがある。無責任な噂話を流すことは絶対にいけないことである。

 昨日のTVニュースや12日付けの新聞で、「朝日新聞木村伊量社長が記者会見の場で「東電撤退」報道に関して誤報であったと謝罪し、さらに「「慰安婦問題」報道に関しては一部の内容を取り消しながらも謝罪しなかったことについて、謙虚であるべきだった。反省している」と述べた。とつたえている。

 原発事故時の「東電撤退」報道に関しては未曾有の事故に対応していた東電社員および実務を担当していた下請け会社(下請け会社という表現が適切でなかったらお詫びする)の社員をどれほど傷つけたことか。TVドラマでは報道でもニュースの裏付けをきちんと取っている。裏付けのない身勝手な報道は犯罪に相当するのではないかと思う。

 さらに「慰安婦問題」では、マスコミの誤報が国にこんなに甚大な被害を及ぼすのかということを朝日新聞が実証した。「慰安婦問題」に関する一連の記事は吉田清治氏の証言に基づいて報道したという。その場合でも裏付けとなる証拠を確認しなかったらしいことは重大な落ち度と言うほか無いだろう。一連の記事によって国際問題にも発展し、関係国の市民に間違った排日運動の格好の材料とされ更に外交関係にも利用されることとなった。これも噂話と同じように尾ひれが次々について広がってしまい、収集するのに莫大な経済的負担と長い時間が必要になる。その間の精神的負担も莫大なものとなるだろう。

 これは社長と編集担当取締役が謝罪しただけでは済まされない問題である。

 私が学生だった頃、朝日ジャーナルという雑誌が学生の間で流行していた。この雑誌を読まないと革新的な学生になれないといわれるほどだった。すべてがとは言わないが共産主義を崇拝するような記事が多かったと思う。その頃の編集思想が未だに続いているのだろうか。私は大学卒業後就職した職場で、共産党員と称する組合幹部と大激論をしたことを思い出した。そのことについてはいつか記事にすることがあるかもしれない。