寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

今年も大晦を無事迎えることが出来ました(20131231)

2013年12月31日 22時53分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 世の中はいろいろな変化がありましたが、今年1年間無事に過ごすことが出来ましたことを感謝します。この年になると世の中がいつの間にか変わっていることに気がつかなかったと思うことが多々あります。この時刻にはNHKの放送で紅白歌合戦という番組を放送している。出演者の顔ぶれを見ると、音の数人しか知っている顔を見ることが出来ない。いつの間にかこんなに顔ぶれが変わってしまった。
 しかし変わっていないこともある。その代表的なことは日本の総理大臣が靖国神社へ参拝したときの中国と韓国の反応である。

 かなり前のことであるが、「落日燃ゆ」(城山三郎著)と言う小説を読んだことを思い出す。この小説は太平洋戦争の責任を東京裁判で問われ、東条英機を初めとするA級戦犯の一人として処刑された広田弘毅(首相、外相を歴任した)氏の伝記的な小説である。途中は省略するが、A級戦犯の遺体は荼毘に付され、その骨灰は誰のものかわからないように混ぜ合わせてとある場所に捨てられたという。広田弘毅氏を除いた被処刑者の遺族はその骨灰を分け合って持ち帰り密かに埋葬したと言われている。しかし広田弘毅氏の家族は、あんなに戦争を避ける努力をした夫(父)が処刑されたことに抗議するために(一部私的解釈)骨灰の分収を拒否したと言われている。家に持ち帰った人たちの骨灰が集められて靖国神社に納められているかどうか不明であるが、靖国神社にはA級戦犯の被処刑者以外の沢山の方達の遺骨・遺品等が納められている。そこへ不戦を誓い、平和を願って慰霊することがそんなに気に触ることなのだろうか。もちろんこれは日本人の一人としての意見であるかも知れないが。
 前記両国が過剰と思えるほどの反応を示すのは、特別な意図があるのかも知れないがなどと考えるのは間違っているのだろうか。何故かはわからないが太平洋戦争直前の情勢に近ずいているようで心配である。
 話は変わるが、今年は喪中のお知らせがいつもの年に比べて多かった。世の中は知らずのうちに世代交代が進んでいる証拠かも知れない。私は前にも書いたが、身辺整理を始めているが、その一環として平成26年元旦、つまり明日下さった年賀状の返事に永年のご厚誼を感謝し以後の賀詞交換を遠慮する旨をお伝えすることにしている。私の消息が気になる方はブログで生存を確認していただければ幸いである。ブログへの投稿が途絶えたら何か異変が生じたと思っていただきたい。
 いよいよ後70分で平成25年が終わり新しい年を迎えることになった。
 来年も良い年をお迎え下さい。そして世界が平和でありますように!


会話の成立? (20131230)

2013年12月30日 23時53分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ワインの試飲会をやっている近所の酒屋さんの女性主人は私とウマが合うというのか話に花が咲き始めるといろんな話に発展する。しかし他人の噂話になることはほとんど無い。これは商売をする人の基本なのかも知れない。
 私の経験談を話す。電話で会話する時の話であるが、電話をかけた相手の聴覚が少々不自由である場合に面白いことが出現する。これは決して笑い話では無いのだが。通常の電話での話と思って話を始めると、相手が聞こえにくいので大きな声で返事をする。こちらは声が大きすぎたかと思って少し声を小さくする。すると相手はますます大きな声を出す。こちらはそれに合わせて声を小さくする。ということになる。この場合には初めに声が小さく聞きにくいと相手に言えばよいことである。
 話が変わるが、私の妻が妹と話しているのを聞いているとあれで会話が成立しているのだろうかと思うことがある。というのはお互いに別の話をしているのである。後で妻に聞いてみると話が通じているというのであるが、私には少々疑問である。
 またこんなことがあった。元同僚の女性が話の輪に加わると他の人たちはサッと緊張してしまう。この方は、自分の話したいことが頭の中いっぱいに広がっていて話の途切れるのをいらいらしながら待っている。したがって話の筋道を全く聞いていないので、今どんなことが話されているかわからないでいる。少し話が途切れると今までの話の流れには全く関係ないことをつまり自分の話したかったことをしゃべり出す。そうすると他の人たちは何の話か理解出来ずに途方に暮れてしまう。挙げ句の果てに私の話は難しかったかしらとのたまう。それでまたみんなはエッとなってしまう。
 国会での質疑応答の様子をTVを通じて見ていると。話のかみ合わない議論(?)をしばしば見かける。国会とは限らない。先日の都議会議員による猪瀬元都知事への疑惑質問に対する元都知事の応答はしどろもどろで会話になっていなかった。今になってみると選挙で400万票を超える支持を集めたのはあの現金がものを言ったのかなと言う人まで出てくる始末である。他方ボランテアでお手伝いをした人たちに日当を支払ったという領収書が出てきた。ボランテアの方達は日当などもらっていないし領収書も書いてないという。これも会話が成立していない証拠になるかも知れない。もし候補者側が領収書通りに日当を支払い、当事者がもらっていないとするとこれはいったいどういうことになるのだろうか。もしかしたら横領行為があったのかも知れないなどと思うのはゲスの勘ぐりだろうか。それに選挙違反にもつながる可能性があるかも知れない。日常生活の中での会話のズレは利害が関わらなければ大きな問題に発展することは無いのが普通である。しかし、政治や行政などでは会話の食い違いはとんでもないことになるかも知れない。
 昔のことで恐縮であるが、中学の国語の教科書に「言いにくい言葉」と言う文章がのっていたのを思い出した。ナマムギナマゴメ・・・と言うのが言いにくい言葉の代表のようなものであるが、その文章の中で言っていることは、「はい」と言う言葉が最も言いにくい言葉だと書いてあったと思う。途中にワシントン(大統領)の子供の頃の話が例として出ていたと思う。つまり事実をはっきり受け止めて返事をすることの難しさを書いたものだろうか。
 かくいう私も妻に「はい」といえないことが多々あったような気がする。ごめんな。


4176 これは何の数字でしょうか(20131230)

2013年12月30日 09時39分32秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今朝の読売新聞朝刊を見ると、第1面頭に表記の数字が目に飛び込んできた。

 日本国では乳幼児の検診が一定期間ごとに行われている。それは乳幼児がすくすくと育ってくれることを見守る非常に良い制度であると私は信じている。そして親も安心して子供の成長を楽しみに出来る。

 かって私は某女子大学で生命環境論という授業を担当していたことがある。その中で遺伝子診断による胎児の出産について学生に毎年問うてきた。それは遺伝子に異常が発見された場合の子供そして親のリスクについて考えてもらうことが主旨であった。20年ほど前の当時は、遺伝子診断を産科学会で否定的な考えが主流であったと思うが、妊婦やその夫の係累に遺伝子病を患っている人が存在した場合に限って密かに遺伝子診断を行っていたという情報があった。

 そして出産された新生児は、親にいかなる事情があっても当然行政を含む周辺の援助を受けて健全に育っていくものだと信じていた。しかし、表記の数字は出生後乳幼児検診を受けていない子供の数であると書かれている。その子供たちの所在確認を各自治体に徹底的に調査するよう国が求めたにもかかわらず、かなりの自治体は電話や郵便での確認をしたにとどまり、実情が把握されていなかったという。把握されなかった事情はいろいろ考えられるが人権問題に発展しないうちに、私権侵害が発生しないように再調査されることをお願いしたい。そして私権に関わるような事情があれば行政として適切な方法で対応していただきたい。

 ふと思い出したのは、ストーカー被害者に対する警察の対応の拙速さである。人手が不足しているからと言う事情で人命に関わることをお座なりにして欲しくないと多くの人たちは思っているのでは無いだろうか。そのためには我々高齢者も何かの役に立ちたいと思っている人たちが沢山いるのではないかと思う。

 高齢者はその様なことを手伝うことによって社会とのつながりが出來、また健康増進にもつながるのではないかと思う次第である。


世界の子供の幸せを(20131225)

2013年12月25日 19時55分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

 20年前世界中で5才未満の子供が年間1200万人も死んでいたという。それでユニセフはその子供たちを救うためにマンスリーサポートプログラムを作り一般人から賛同者を募集した。

 私は月々僅かな金額で子供たちを救済するお手伝いを出来るならと早速参加した。それから20年がたちその間に世界中でいろんな紛争が発生し、その度に子供たちが犠牲になった。しかし、5才未満の病気・飢え等が原因で死亡する子供の数は着実に減少し、今では660万人に減少したという。それはこのプログラムが何らかの形で役にたったのだという。

 私はプログラム開始当初からサポートをしてきたと言うことで写真のような"パーソナルカレンダー"を頂くことになった。何とも晴れがましいことである。このことを紹介してサポーターが増えるといいなと思う。

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想い出話 「ミュンヘンで(4)ドイツ博物館 」

2013年12月15日 23時22分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

  ミュンヘン国際学会の期間中5日間の間に4回の宴会が行われた。その中でドイツ博物館で行われた宴会は軽食と飲み物が中心であった。ドイツ博物館はミュンヘン中心部から南東方向のイザール川の中州にある。会議は放射性物質に関わるものだったので  ドイツ博物館での懇親会は興味深いものであった。  ドイツ博物館はオスカー・フォン・ミラーが提唱し、1925年から一般に開館された。農業、鉱業、航空工学、鉄道、機械、(宇宙)に至るまで、ドイツの科学技術を次の世代へ引き継ぎ、学習させるための博物館である。展示品目は約1万7千点以上あると言われている。
 博物館の建物に入ると、飲み物を渡され全館自由に見学しても良いと言われた。もちろん写真撮影も自由であった。ちなみに、私の行ったヨーロッパの博物判、美術館などは発光体を使用しなければ大方写真撮影が可能であった。
 私は、ドイツの科学技術については非常に興味があったのでわくわくして出かけた。第2次大戦中に開発された、映画でしか見たことがないあこがれのメッサーシュミット戦闘機が展示されていた。この戦闘機の開発者が女性であり,ジェットエンジンの原型と言われていた。さらに一説にはこの戦闘機がもう1年早く開発されていたら戦争の行方が変わったかも知れないと言われるほどのものであった。
 さらに原子核分裂現象を発見し、1944年にノーベル化学賞を受賞したオットー・ハーンの実験設備が展示されていた。現今の実験装置と比べると原始的なものであったが、まだ放射線が人体に危険であることが認識されていない時代だったのでオープン状態で実験していた。このことはキュリー夫人も同様であった。キュリー夫人は晩年放射線障害で苦しみながら実験を続けていたという。その他にもドイツの科学技術の粋が収集展示されていた。
 ドイツ人の科学技術に関する自負の思いは大変なものがあると言われている。こんな話がある。昭和の初め頃にドイツから日本の技術を調査するために調査団が来た。日本のN光学機械メーカーの技術者が調査団員を宮城県と山形県の県境にある蔵王山に連れて行った。その日は珍しいほどの快晴であった。蔵王山の頂上からは太平洋と日本海が見える。日本人技術者が自社製の双眼鏡を示し、東と西方向を見るように言った。
 ドイツ人調査団員は,太平洋と日本海がくっきりと見えることを認めて、やはり我が国(ドイツ)の技術はすばらしいと言ったという。日本人技術者はそれは我が社で製作したものであるというと、こんなによく見えるのは我が社のものであると強調した。しかし、このときドイツ人の調査団員の頭の中では日本の技術を恐れたという。
ドイツも日本と同様に第1次産業が中心の国であった。したがって、資源を輸入してそれに付加価値を付けて輸出して国のいろいろなものをまかなうと言う経済政策を実行しなければならない。 
 何故かそんなところに日本人とドイツ人の共通性があるように感じた。


想い出話 「ミュンヘンで (3)食べ物」 (20131212)

2013年12月11日 23時16分01秒 | 日記・エッセイ・コラム

 外国旅行をして食べ物が美味しくないとそんをした感じになる

のは私だけだろうか。ロンドンのレストランで食べた安くもない

料理はなんと酷い味だったろう。
 このヨーロッパ旅行で美味しいと思ったのはスイスのユング

フラウを見上げることが出来たホテルのマスの塩焼きであっ

た。これはホテルの女性主人が日本贔屓で私がホテルに着

くと日本人かと聞いてきた。そうだとこたえると直ぐに出入り

口の屋根に日の丸の国旗が立てられた。これには感動した。

女性主人は日本語を習っているとかで練習のために日本語

を使って応対してくれと行ってきた。私にとっては外国語にウ

ンザリしてきた頃合いだったので願ってもないことであり何で

も日本語で話しかけた。ホテルで一夜を過ごした翌日、朝食

をとっていると彼女がやってきて今日は15時頃まで天気が

よいのでユングフラウへいきなさいと切符を買ってきてくれ

た。早速登山電車とロープウェイとエレベータでユングフラ

ウヘ着いた。エレベータを降りてトンネルを明るく日の差して

いる方へ歩き出したら、ガンと頭がなって呼吸困難になって

しまった。そこへ登山者の格好をした人が来て「ルフト、ルフ

ト」と言って深呼吸をするように教えてくれた。私は生まれて

初めて高山病に見舞われたことを知った。彼のお陰で回復

し,店でコーヒーを飲んだが生ぬるくて大変まずかった。こ

こで写した写真をお見せしようとおもったが、スライドにカビ

が生えてしまったので残念である。ここで1つ恥ずかしかっ

たのは,氷河をくりぬいてスケートリンクがあったがその氷

壁に傘マークの下に日本語で名前を書いた例の落書きが

あちこちに見つかったことである。

 さてミュンヘンで食べた料理で最も印象に残ったのは、

ソフトボールほどもある白いもちっとしたボールがトマトソ

ースに入れてあるものであった。これはジャガイモを原料

にしたもので名前をXX?と言うものであった。ナイフで小

さく切ってトマトソースを絡めて食べる。同じようなもので

フランクフルトソーセージのお化けのようなものがやはり

トマトソースに浸してあるものがあった。これにも閉口し

た。日本から来た多くの人たちは、ウィナーシュニッツエ

ルと言う焼き肉を毎日食べていた。どれもあまり口に合

わないものが多かった中で,ザワークラウト(キャベツの

雑切りを酢漬けにしたもの)、アイスバインなどは美味し

いものの中に入るだろう。学会のバンクエットででていた

子豚の丸焼きをナイフで削いで食べたのも美味しかった。

ドイツではビールに関する飲酒制限がないようで子供も

飲んでいるのをしばしば見かけた。ミュンヘンは札幌と

ほぼ同緯度にあり、そのためかビールは何ともいえな

かった。
 ミュンヘンで気がついたのは食品の種類がそれほど多

く食料品店に並んでないことだった。これは日照時間が

5月半ばから9月初めまでしか得られないので野菜類は

ほとんどイタリアから輸入しなければならないことに原因

があるようだ。その中でジャガイモはドイツの主食ともい

えるほど消費されており、その理由は寒冷にあると言わ

れている。その昔飢饉になったとき貴族もこぞってジャガ

イモを主食として食べたことが今に引き継がれているの

だという。以上の話は現在から半世紀ほども前の話であ

り、10年ほど前に行ったときも同様だったのであまり変

化していないと思う。


想い出話「ミュンヘンで(2)ドイツ人の気質」(20131211)

2013年12月11日 14時32分41秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ミュンヘンの街中で出会った年配者は日本人びいきであることは前回書いた。ミュンヘンで年配者の親切を受けたことは何回もある。例えばK氏が知人の家を翌日訪ねるために地図を見ながら市街電車の停留所で行き先と時刻表を見ていたとき電車から降りてきた老婦人が近寄ってきて何をしているのかと問うた。K氏が住所を書いた紙を見せてここへ行きたいというと、その夫人は地図を書いて何番の電車でY停留所まで行きそこで別の電車に乗り換えてU停留所で降りるとすぐだと教えてくれた。
 ダンケ・シェーンといって別れた。夫人は停留所から歩道の方へ歩き出した。私たちが停留所から離れると,夫人が慌てて戻ってきてこの停留所から電車の乗るのだと念を押した。そしてさらに電車の切符を買ってくれた。
 K氏は明日行く約束なのでこの切符はそのときに使わせていただきますと行って乗車券をいただいた。
 おかげで翌日私も同行してほしいというK氏の申し出でお付き合いした。
 しかしそんなによいことばかりではない。ある日街中を散歩していた。小さな公園に出たら10人ほどの人たちが何かわいわいやっていた。少し離れたところから見ていると、その中の1人が近づいてきた。そしてタバコをくれと言った。私はタバコを吸わないというと近くの売店で買ってきてくれと言う。私が困っているとボス風の男が寄ってきて初めの男に何か言って連れて行った。よく見ると,道路に線を引き、1つが50cmほどもあるチェスの駒を使って勝負をしていた。私は写真を撮らせてもらってその場を離れた。一寸危険を感じたのはそれ1回であったが、”君子?危うきに近寄らず”という言葉を思い出した。この人達はドイツ語で話していなかったので外国から出稼ぎに来ている人たちだったのかも知れない。 
 Uバーンという地下鉄が市の中心部からいろんな方向の郊外へ走っている。各駅の改札口は全て?無人で例の3本の棒が突き出た改札機を通ってホームに出るようになっている。改札口の近くの壁に券売機があってその横に注意書きがあった。乗車券を持たずに乗車し無賃乗車が発見されたとき3倍の追加料金を請求すると書いてあった。駅員がいないのにどうやって発見するのかと思った。Uバーンの車両はかなり頑丈に出来ておりさすがドイツと思った。これはドイツ人の質実剛健を表現しているのかも知れない。そう言えば、第2次世界大戦前ヒトラーはオートバーンという高速道路を国内に張り巡らした。そのコンクリートの厚さは1メートル以上もあるという。そしていざというときには戦車が高速で走ってもびくともしないし、必要に応じて飛行機の滑走路にもなるように設計したという。自動車はそのほとんどが軍用車に転用可能にしてあるという。
 またドイツ人の歩き方は、何か軍隊の行進に似ているような気がしたのは私だけであろうか。ハンガリーの知人はドイツ人の歩き方を私と同じように感じたと言っていた。
 わが家にドイツが戦時下インフレになったときの100000マルクの紙幣があった。色は紫色の紙幣だった。今は行方不明になってしまった。
 次回はドイツの食べのもについて書く予定です。


想い出話「ミュンヘンで(1)ビールと戦争の傷跡」(20131210)

2013年12月10日 16時25分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ドイツのミュンヘンは私の好きな都市の一つです。ミュンヘンに着いた日は土曜日でしたので20時には店がほとんど閉まっている状態で夕食をどうするか困ってしまいました。ホテル近くのコンビニストアーのような店でスナック食品と飲料を買い求め1人寂しくミュンヘンでの初めての夜を過ごした。
 翌日、ウィーンのIAEAの方に依頼されたK氏への品を渡すためにK氏を探しに行くことにした。顔も身体特徴も知らない人を探すのは海岸の砂浜で特別な砂を探すに等しいと感じられた。ただ絵を描くのを趣味にしているというので,ノイエ・ピナコテーク(近代美術館?)へ行ってみることにした。美術館について入り口を入るとすぐに壁が白く長い階段を上るようになっていた。その階段を上り始めると上からベレー帽を被った男性が降りてきた。
 その方とすれ違うときに、
「大変失礼ですが、日本の方ですか」
「はい、そうですが。あなたは?」
「私はT大学のMと言います。もしかしてK大学のK教授ではありませんか」。
「そうですが。何で私の名前を知っているのですか」。
「ウィーンのIAEAのO氏から預かってきたものがあります。」
「それはそれは。それを今お持ちなのですか」
「はい持参しております。失礼ですが、何かK教授であることを証明するものがありましたら念のために拝見したいのですが」
「もちろんですとも。これが私のパスポートです。どうぞご覧下さい」
「拝見します。ありがとうございました。これがO氏からお預かりしたものです」
と言って私は預かってきたものを渡すことが出来た。初めての土地で顔も知らない人にいきなり会うことが出来たのは何という偶然だろう。そしてなんとすばらしい感なのだろうかと思った。
 こうしてK教授と知り合いになり、前回の投稿のような仕儀になった。
 ミュンヘンではいろいろな体験をした。ヒトラーが新党結成して旗揚げをしたホッホ・ブロイハウスと言うビヤホールは、大きなところで中央にリフトがあり、一定時間ごとに2階で演奏していた楽団がそのリフトに乗って降りてきて下で演奏をする。数曲演奏するとまた上の階にあがっていく。

 ビールは1リットルジョッキを左手の甲に乗せて腕を持ち上げてグイッと飲む。この豪快さに私は感動した。料理はアイスバイン(牛のすね肉を蒸した?もの)やソーセージ、ラデッシュ(K教授が大根おろしと思って大量に口に入れて、その辛さにびっくりした)やハム・ソーセージも美味かった。
 ホッホ・ブロイハウスの隣に宮殿がありそこでも食事をした。またその隣に公園があり、公園として復活しないで戦争の傷跡を残してあった。そこを見ていると、老夫婦が寄ってきてお前さん達は日本人かと問い、これはアメリカ空軍の爆撃で被災したところを記念として残してあるんだと教えてくれた。
 ミュンヘンに住んでいるドイツ人はかなり日本に理解があるように感じた。


想い出話 「勘違い」(20131207)

2013年12月07日 11時02分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 初めてヨーロッパに出張したときの話です。かれこれ40年近く前のことで恐縮ですが、ふと思い出したので書き留めておこうと思い書き始めました。
 今時の若い方は時間があると直ぐに海外へ行くことが出来るようですが、私の若い頃はちっとやそっとでは海外へ行くことが出来ませんでした。それは毎月の給料の何倍ものお金が必要でしたから海外旅行などとてもいけませんでした。
 その年、研究していたことの関連学会がドイツのミュンヘンで開かれることになり、胸がどきどきするなか、経済援助をして下さる学会があり研究発表することを決心しました。
 出来るだけ安くいこうと思って、当時世に出ていた「1日5(あるいは10)ドルの旅 ヨーロッパ編」と言うのを買い求め、日程やコースなどを検討していよいよ出かけることが出来ました。旅行の途中や学会のことなどは後日想い出話として書きますが、私が経験した勘違いの話を書くことにします。
 旅は何かを発見したり新しい方々と知り合えたりと期待に胸が膨らみます。しかしその一方で言葉が上手く通じないことでいろんな不安もあります。
 この旅では、モスクワ経由でロンドンへ行き、数日滞在してドーバー海峡を船で渡りフランスはパリへ向かいました。パリにも数日滞在しパスツール研究所やルーブル美術館、ベルサイユ宮殿などを見て、スイスのインターラーケンからユングフロウヘ登り、ウィーン経由でミュンヘンにつきました。
  ミュンヘンでK国立大学のK教授(以下K氏)と出会いました。この方は放射能関係の専門書を出していたのでお名前は知っていました。何故か初対面なのにすっかり意気投合?してしまい、宿は別でしたが,学会期間中からインスブルックでお別れするまで食事やビヤホールなどいつも一緒に出かけました。
 K氏とは食事などは別のものを注文して半分ずつ分け合って食べていましたが、お陰でいろんなものを食べることが出来ました。
 学会も無事終了し、ミッテンバルト経由でインスブルックへ着きました。インスブルックではスキーのジャンプ台やK氏がチロルハットを買うというので一緒に帽子屋を探したり、ギリシャ美人のような方(実は京都の方でした)と知り合って、一緒に食事をしたりして数日を過ごしました。
 いよいよお別れする日になって、インスブルックの駅まで行き、K氏はウィーンへ,私はパリへと向かうことになりました。駅の小さな立ち食い店で最後の食事をしました。ここでもK氏は食事を半分ずつ分け合って食べようと言いましたが、私はさすがに抵抗を感じました。それでも別のものを注文し、食事が出てくると早速半分に分けて交換することになったときのことです。店主はしたり顔をして頷きながら私たちにウィンクをしてきたのです。私は店主が何かおもしろがっていると思いましたが後になって考えると、店主は食事を分け合って食べる私たち二人は何か特別な関係にあるんだなと勘違いしたのだと思いました。汗顔の至りですが、これは私の勘違いで、実はそうやっていろんなものを食べるのは賢いねと思ったのかも知れません。
 勘違いというのは、自分の思い込みによっても起こるようです。よく言われるのが、よく行く店の女性店員が愛想笑いをしてくれると、この人は自分に好意を持ってくれていると思ってしまうことがあるようですね。そうするとますますその店へ通うことになっていきます。思い込みが激しくなると今はストーカー行為と見られることがあります。注意しましょう。
 私の現役時代に、他の大学の女子学生(Aさん)が私のグループに参加して小笠原諸島父島の農業形態の調査に同行したことがあります。
 Aさんは卒業してある旅行会社に就職し頑張っていました。Aさんは毎日お弁当を作って出勤しました。ある日上司に美味しそうだなといわれたことがキッカケで上司の分のお弁当を毎日作って持って行ったそうです。
 ある日上司が豪華な食事に誘ってくれて自分と付き合って欲しいと言われたと相談に来たことがあります。Aさん曰く上司は何か勘違いをしているのではないかと思うというのですと。しかし、何でもないのに毎日お弁当を持って行くことは特別な感情を持っていたと思われても仕方がないのじゃないかといいますと、そんなつもりでは無かったといいます。ここでも2人の一つのことに対する勘違いがあったのかも知れません。結局Aさんはその上司の方とメデタク結婚しましたので勘違いではなかったのかも知れません。こんな勘違いなら世の中に幾つあってもいいですね。