寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

交通事故処理

2011年07月27日 23時24分48秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者は過日、国道と県道の交差点で右折しようとして中央部手前で停車した。そこへ前方からミニカーが当方へ寄ってきた。筆者は警笛を鳴らし合図をしたが、そのまま筆者の車へ衝突した。相手の運転手は、衝突したとき左へハンドルを切った。そのために歩道にある鉄柵の柱に左前面を突っ込んだ。車は、左前輪が歩道の縁石を越え、横断歩道にほぼ45度の角度で停車した。当方の車は、前輪の車軸が破損し、ドアも開かず自走が困難になった。筆者は衝突時、緊張の姿勢をとったので、そのときは身体の異常を感じなかった。降車して直ぐ警察に電話した。相手の車の状態を見て、相手側のことを心配した。相手車の運転手と同乗者が降車してきたので。一応大丈夫と筆者は判断した。筆者の後続車の運転手が、お前が病院へ行く必要があると大きな声で怒鳴っていた。パトカーが数分で現場に来て、事情聴取を始めた。筆者は事故位置や被害の状況を写真に撮り保存していたので、警官に写真を見せながら衝突時の様子などを説明した。幸運なことに筆者の車を買ったデーラーが200メートルほどの所にあったので、直ぐ連絡した。

 ここで、通りすがりの方々の親切に感謝したい。バイクに乗った若い方や、他の車の運転手、中型トラックの方、ご近所の方々が、交差点内に止まっていた筆者の車の移動を手伝ってくれた。本当に有り難うございました。また、事故車を避けて通過していった沢山の車の運転手の方々ご迷惑をかけました。筆者に責任がないとはいえ、お詫びを申し上げる。

 ところで、事故の原因について考えると、相手の運転手は、地方で2日間仕事?をした帰りで、体調が悪く薬を服用していたので、頭がぼーっとしていたと語った。一般的にそのようなときには、車の運転をしないこととなっていると教習所で教えたと思うし、風邪薬などの説明書にはこの薬を服用すると眠気を起こすことがあり、自動車の運転には注意するようにと書いてあるはずだ。どんな薬を服用したか不明であるが、そのために多くの人に迷惑をかけたことを自覚してほしい。

ところで話が全く変わるが、ついでに書いておこうと思う。7月23日の朝、ヒグラシ(蝉)が今年初めて当地で鳴いた。26日には、クマゼミが初鳴きした。遅い初鳴きだ。今年は気候不順で、蝉にも時期を判断できなかったのかもしれない。


その日から 余談

2011年07月25日 11時44分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者は先日、葛飾区の住吉小学校を訪ねる散歩を計画して実行した。

 エスコートして下さる方(Aさんという)と10時30分頃京成線上野駅前で会い、京成電車に乗った。昭和20年3月の時とは比べることは出来ないほど変わっていたが、何故か懐かしく思い出すことがあった。日暮里駅までのトンネルをでると高架線路を走って、荒川放水路、隅田川、中川を越えると、高砂駅に着いた。その間世界一の高さになったスカイツリーが垣間見えた。

 高砂駅で降車して改札口をでた。空は薄曇りで、気温はほどほどで歩くにはよい日和であった。まず駅前の道を柴又方向へ歩き出した、Aさんはとても感じの良い方で、後期高齢者の私をとても気を遣って下さった。ありがたいことである。高砂駅前の道は、両側に商店が並び落ち着いた雰囲気であった。住吉小学校は、駅から1km弱の所にあり、ゆっくり歩いて10分間で行き着いた。筆者が通学していたのは木造建築であったが、現在は鉄筋コンクリと造りであった。校舎の南側に、一周200メートルの走路がとれるほどの広さの校庭があった。校舎の中を見学させてもらおうと思ったが、出入り口はどこも閉まっていて案内をこうことが出来なかった。

 体育館の方へ行ってみると、何かの集まりが丁度終わったらしく、4,5十代のご婦人10数名が出てきた。その方達に住吉小学校のことや周辺の様子などをお伺いした。皆さんとても親切に筆者の質問に答えて下さった。住吉小学校の裏手の畑に日本の戦闘機が墜落した話は何方もご存じではなかった。何しろ筆者より1周りか2周り若い方のようだったから、それは致し方ないことである。それから柴又の方へ歩き出した。66年前(1945年)は、この辺一体は、農耕地が続いており、家は点在する程度しかなかった。

 柴又は筆者が短い間ではあったが、激動の時期を過ごした想い出が沢山あった。柴又駅近くにあった八幡神社は面影は変わっていたが現存していた。しかし境内には人の姿が全く見えなかった。神社から西へ100メートルほどの所に、当時半年間ほど国民学校3年生の筆者が住んでいた家があるはずで、その家を探した。その 家は、Nさんという方が住んでいたが米軍の空襲が激しくなったので疎開して空き家になったのを筆者の父が拝借した。平屋作りの部屋が沢山ある家であった。家の前には広い庭があり、父はそこを畑として耕しコウリャンなどを作っていた。隣の家(Fさん)は、広い敷地に大きな池が有り食用カエル釣りなど教えていただいた。そこのおばさん(当時すでに高齢であったと思う)には大変お世話になった。

 付近のラーメン屋さんや理髪店でで聞いたりして、ようやくNさんのお宅を探し当てた。皆さんとても親切に教えて下さった。ようやくNさん宅を探し当て、呼び出しベルを押すと女性の声で在宅の変事があった。筆者は訪問の趣旨を説明すると、ご主人様が玄関のドアを開けて下さった。

 Nさんは、快く筆者達を招き入れて下さり、お話を伺うことが出来た。奥様は突然お訪ねした初対面の筆者らを招き入れ、冷たい麦茶とお菓子でもてなして下さった。

 Nさんは、終戦後の周辺の変化についてよく覚えていて、いろんなことを話して下さった。何筋かあった川はどこにも見当たらなかったのでお聞きしたところ、市街化が進むと同時に暗渠になってその上を道路にしたと言うことであった。

 筆者は懐かしいお話を聞いているうちに、Nさん宅に2時間もいることに気がついて失礼させていただいた。

 筆者のお世話になったFさんのおばさん(年齢からすると、その方の母親かもしれないが)は、現在104歳になり施設に入っているが健在であると言うことだった。お会いしたいと思ったが、施設の名前と場所は教えてもらえなかった。

 その後、江戸川を見に行った。筆者の知っている江戸川とは堤防が高くなったこと、河川敷の様子や矢切の渡しの乗船場の位置、川水の流れがゆったりしていることなどが変わっていた。

 この日の散歩は、とても気分良くできた。町のしっとりした感じ、住んでいる人たちの優しさなど

また川甚での食事、とらやのかき氷なども想い出に残る楽しさであった。

 エスコートしてくれたAさんの気遣いも、とても嬉しかった。また次の機会もAさんにお願いしたいと思う。


男の手料理(といえるかな?) (4)

2011年07月18日 18時47分43秒 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、妻が息子の看病で疲れ気味なので、ほとんど毎日毎食筆者が調理をしている。中で好評だったのが、ハンバーグであった。ハンバーグなんて誰でも作れると思っていたが、挽肉以外に野菜を多量に入れることにしたら、なかなか挽肉がまとまらない。タマネギをほぼミジン切りにし、にんじんも同じようにしたが、手の間からこぼれてしまう。それでほんの少し小麦粉を入れてみた。ついでにコショウと塩も入れた。そこでアメリカはサンフランシスコの小さなハンバーグ屋へ入ったときのことを思い出した。料理人が目の前でソフトボールくらいの大きさのハンバーグ用に野菜などを混ぜ合わせた塊を、ピッチャーがグラブにボールをたたきつける要領で手でもう一方に手へぶつけていた。筆者もそれを真似て手でぶつけるようにしてみたところ、ハンバーグの素は見事に粘りが出てきた。アメリカのハンバーグ屋の料理人は、木炭が赤々と熾きているアミノ上で焼いていたが、筆者の家にはそんなものはないので、平形のフライパンに少量の油を引いて焼いた。初めはフタをして長めに焼いた。しばらくしてひっくり返してみたところ、焼け焦げがほどよくついていた。再びフタをして初めの時間より少々短めの時間がたってから、ふたを取り、水分を蒸発させた。これは中身を見ながら行う。肉の焼ける匂いがし出したら火を落としフタをして蒸らした。

できあがったハンバーグは、ほどよく焦げ色がつきふっくらと盛り上がったものになった。ナイフを入れて切ろうとすると肉汁がにじみ出てきた。中心の方まで火が通っており香りも良くできあがった。

次に付け合わせであるが、よく洗って表面の泥をとった中くらいのジャガイモを二つ切りにしたものと、一本のニンジンの皮をむいたものを大ぶりに切り(両方でで約200グラム)を深皿に入れラップを掛け、ラップに少し小さな穴を空けて電子レンジで6分間温めた。これにモヤシと冷凍インゲンとタマネギの細切りを少量の油で炒めたものを作った。

スープはカボチャをおろし金ですり下ろしだしを入れて煮立てて作った。味付けは塩コショウでウス味にした。これがまた非常に好評であった。もちろん家族にである。

というようにある日の筆者の家の夕食が出来た。写真を撮ってなかったのが残念でした。