殺人事件の報道に触れない日が無い。昔はこんなにも殺人事件が多くは無かったという感じもするのだが、以前読んだ記事に拠ると、20年程前と殺人事件数自体はさほど変わっていないという事だった。人を殺すという行為が残忍である事には変わりはないが、昔と比べて格段に残忍さや理不尽さを覚えてしまう事件の増加が、実数以上に殺人事件が起こっている印象を持たせてしまうのかもしれない。
それにしても、ここ数年目立つのは、殺害した遺体を隠そうともせずに無造作に捨て去る事の多さ。奈良の事件の様に、捻じ曲がった自己顕示欲の発露とは、又異なる無造作さを感じる。
犯罪心理学には疎い自分なので、何が背景に在るのかは想像に頼るのみ。犯罪検挙率が著しく低下した事で、「死体を遺棄しても自分は捕まる事はないだろう。」という思いが犯人側には在るのだろうか?それよりも、自分は”死に対する感覚の希薄さ”(裏返せば”生に対する感覚の希薄さ”とも言えるが。)が一般化して来ている為ではないかという気がする。
”生きる事”や”生かされる事”に崇高の念を持ち、それを不条理に断絶させる行為、即ち”殺人”行為を忌むべきものとして捉える。忌むべき行為を成したからこそ、その禍々しきモノから逃避したいという思いが、死体を隠すという行為に走らせるのではないか。
死体遺棄の報道に触れる度に、”死に対する感覚の希薄さ”が蔓延していっている様な気がしてならない。
それにしても、ここ数年目立つのは、殺害した遺体を隠そうともせずに無造作に捨て去る事の多さ。奈良の事件の様に、捻じ曲がった自己顕示欲の発露とは、又異なる無造作さを感じる。
犯罪心理学には疎い自分なので、何が背景に在るのかは想像に頼るのみ。犯罪検挙率が著しく低下した事で、「死体を遺棄しても自分は捕まる事はないだろう。」という思いが犯人側には在るのだろうか?それよりも、自分は”死に対する感覚の希薄さ”(裏返せば”生に対する感覚の希薄さ”とも言えるが。)が一般化して来ている為ではないかという気がする。
”生きる事”や”生かされる事”に崇高の念を持ち、それを不条理に断絶させる行為、即ち”殺人”行為を忌むべきものとして捉える。忌むべき行為を成したからこそ、その禍々しきモノから逃避したいという思いが、死体を隠すという行為に走らせるのではないか。
死体遺棄の報道に触れる度に、”死に対する感覚の希薄さ”が蔓延していっている様な気がしてならない。
歩いて数分の場所です。
うちにも小学生の娘がいるので、震え上がってしまいました。
犯人が被害者のお母さんに、あの忌まわしいメールを送った(殺人も許されませんが、もっと許せないのはこの行為です。これだけでも死刑に値します)とされる場所は交番がすぐそばにあるのです。
ですが、交番はなぜかビルとビルを結ぶ歩道橋の上にあり、機能していません。
常々検挙率の向上は交番機能の充実が一番だと考えています。
犯人は新聞配達員なのであの交番の存在は知っていたはずです。
この無神経さは何なんでしょう。
犯人が無神経なのか警察が情けないのか・・・・・
この無神経さは死体の扱いの無造作さにつながっていいるのではないでしょうか。
それと、新聞やTVが手錠にモザイクをかけるのはやめてもらいたいです。
こんなしょうもない人権思想が邪魔をして、本当の人権思想が育たないのです。
長々と失礼しました。